幼女戦記(名前変換)
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「ラインとは違った
属僚が何気無く放った言葉を聞いた隊員は皆自然と漏れ出た溜息と共に項垂れるようにして同意を示した。同じくその言葉が耳に届いていたヴァイスも態度には出さないが、彼も副長という立場でなければ部下等と同じく大きな嘆息を漏らしているところだった。
西方ライン戦線では人と兵器の大量投入によって一進一退の攻防が繰り広げられた。国境が目まぐるしく変動し、大破し放棄された大量の鉄屑、肉片そして汚物が地層を形成していく様は正にこの世の地獄であったが、ここ南方では兎にも角にも物資が足りず、やっとの思いで築いた拠点ですらもたった一夜の砂漠風に拐われてしまうかのように何もかもが心許ない。武器弾薬に水食糧、補給路の確保から保守に至るまで管理する人員の増員派遣もここ南方大陸においては期待は出来ないだろう。魔導師は他兵科に比べて何かと融通されている面は多いのだろうが、『砂漠特有の苦労』に関していえば境遇は皆同じで、この猛暑の中で残量に神経を割きながら水分摂取を余儀無くされる日々に終わりが見えないというのも将兵の士気低下の要因の一つである。
せめてなけなしの涼を感じられるようにと、多少の着衣の乱れは黙認されているのが唯一の救いで、各々が腕捲りや釦を外す等をして服の内側に篭る熱を逃がしていた。それも気休め程度にしかならないがしないよりはマシだ。
「ヴァイス大尉、点検が終わりましたので報告に上がりました」
報告の為に現れた女性士官は天幕の内に足を踏み入れるとほっと表情を緩めた。セレストブルーを落とし込んだ瞳で一つ二つ大きな瞬きをして、極端な照度差に目を馴らそうとしている。人工的に作られた大きな日陰は日中の熱を比較的溜め込まずにいられるので、炎天下で作業していた者には少なからず快適に感じられるのだろう。
「ご苦労。ベルイマン中尉並びに点検作業者は暫くはここで楽にしててくれ」
小休止ではなく休憩の指示を送るとサガの頬は綻んで歓喜の表情を浮かべた。同じ部隊に所属する軍人と一括りに言っても、代謝が活発な十代の少女にこの炎天下作業を任せたのは少々酷だったかもしれなかったな、とヴァイスは心の内で感じているのだが、事ある毎に快く動いてくれる彼女をつい頼りにしてしまいがちになっている。
「大尉はまだ暫くは此方に?」
一つ釦が外された胸元に手団扇でパタパタと風を送る手を一旦止めた彼女は、暑さで火照った顔の儘で何やら期待に満ちた瞳で此方を見上げた。一つに纏めて結い上げた長い髪を揺らしながら何やらそわそわと落ち着かない様子で予定を訊ねる其の姿はヴァイスにとっては最早見慣れた光景である。ただ一つ、彼女の目を見て話そうとすると見下ろす角度では日に焼けていない肌が意識しなくても目に付いてしまう問題を除いて。
「
「
この後の予定を伝えると腕時計を眺めたサガはがくりと肩を落として落胆の表情をみせた。大きく揺れた結い髪が白い項を露にし、同時に蟀谷から滴った雫が首筋を伝い鎖骨へ、軍服に覆い隠された胸元に流れていく。彼女は『今日もかなり暑いのでお気を付けて』と、手持ち無沙汰を誤魔化すように、汗が流れていった胸元付近の布地を指で摘み上げて笑みを浮かべた。
+++++
南方大陸派遣となってからほぼ日常的に見慣れていた筈の、サガの一つに結い上げられた髪型が大層心臓に悪いのだと自覚してから、ヴァイスはふとした拍子に平静を失ってしまうのではないかと己の自制心に疑義を抱きながら職務にあたる日々を過ごしていた。
日中は纏めていた髪が日が落ちて就寝時刻も近くになると下ろし髪に変わる光景も、今まではどちらも当たり前のように受け止めていたというのに最近はその変化に妙に落ち着かなくなる自分がいる。それもこれも先日夢に見た内容に原因があるのは明らかであるのだが、部下から向けられる好意に事ある毎に自分に都合良い解釈を含ませてしまう程度には彼女に対してある種の感情が芽生え始めている。
サガの髪が揺れ動くのを目にする度に、柔らかな毛先が肌の表面を掠めていたあの感触が身体を駆け巡って甘美な錯覚を引き起こす。つい先刻も淡いミルクティーブロンドの髪に手を伸ばしたくなる衝動に独り葛藤していたなんてこと当の彼女には悟られていないのだろうが、泳いだ視線の先が彼女の首筋から胸元に掛けて向いていたことには気が付かれていたかもしれない。それほどまでに参っているのだ、───己の内に湧いたこの感情に。
不意遭遇も接触もないこの空間は一息吐くことの出来る貴重な時間でもあり、ヴァイスは無意識に息を漏らすと、其れを不審思ったケーニッヒから視線を投げ掛けられる。彼は東部方面軍時代からも変わらず一つに纏めた結い髪をしているけれど男にしては少々奇抜な髪型をしているなと感想を抱いた程度で、今となっては気に留めない馴染んだ光景の一つであった。彼の寄越した視線にじっと見つめ返すと、日中のサガと同じような髪型をしている彼に何か思うところが湧いてくるかと思えば全くそんなことは無かったので、ヴァイスは本日二度目になる安堵の息を吐いた。
「貴官をみていると落ち着く」
「…気色悪い冗談は止めて貰えません?」
+++++
「デボラ中佐殿から、ですか?」
目の前に幾つか小分けにされた小瓶の中の液体を眺めてサガは呟く。
先程エーデルライヒ中佐が此の天幕を訪ねる姿を視認して、幹部級の情報共有もあるだろうと彼女が退出してからも暫くは入幕を遠慮していたのだが、軍服に篭る熱を逃がす為に不特定多数のいる場で肌を晒す訳にもいかず先程副長に許可頂いた休憩を取るべく足を踏み入れると、テーブルの代用にしていた木箱の上の物を神妙な面持ちで眺める大隊長と副官に、サガは事態の状況が読み込めずポカンとした表情を浮かべるしか無かった。
「『兵の士気を保つのも仕事』の一環だそうだ。現場レベルでは難しいと一度断ったのだがな。先方がどうしても、と」
「はぁ…」
サガは当人が自覚しているよりも随分と気の抜けた声で上官の言葉に応えた。
男女平等を謳う帝国軍において徴兵制度を定める魔導兵科は看護部門や洗濯婦などの従軍部隊を除く他科実働部隊と比べ女性比率が高いのが特色と言える。とは言えそれも全体を見れば誤差の範囲なのだが、司令部付きとなるとそういうことにも気を配らねばならぬのかと日頃より兄の無茶振りな作戦に応えながらも多方面に気を配るエーデルライヒ中佐に深く頭が下がる思いがした。其れはさておき、この灼熱の秋季を送る派遣軍において軍の士気を保つ方法はそこなのかとふとした疑問が沸いてきたのだが、大隊長も副官も考えていることは同じであったようで、この南方大陸に限らず匂いの問題は疾うに諦めていただけにサガ自身も今更な気がしてならなかった。香水一つで部隊の士気に変化が起きるというのなら、膠着状態が長期化したライン戦線にこそ導入すべき要素であっただろうに。
「中佐殿の好意を無下には出来ん。これ等は二人で分け合うと良い」
「大隊長殿は宜しいのですか?」
「幼女たる私が貰ったところで無用の長物だよ。本国でも貴官等と同じ年頃の女性が興味を持ち始めるものであるなら、今の私にはまだ必要のないものだということだ」
「はい、いいえ。そんなことは…」
それらしいことを言って煙に巻かれた気がしなくもないのだが、サガの瞳は木箱に置かれた小瓶の一つから既に目が離せなくなってしまっていた。ご丁寧にも選択の余地があるよう数種用意された香水の一つが、砂ばかりを目にしていた視界には眩しく思える程に涼やかなラベンダーブルー色をしていたので、彼の人の瞳と同じ色だと思ってしまい、込み上げる感情を自制出来ずに体温が急上昇していくのが分かる。
そんなサガをターニャは一瞥して、意味ありげに口角を上げた。
「別に気負う必要もなかろう。『男連中の為』というよりは此の劣悪な環境に身を置く貴官等のせめてもの慰みになるようご配慮頂いたと、そう受け取ろうじゃないか」
それでも不要ならカードの賭けにでも使うと良いと大隊長が口にすると、『それでは減るどころか増えて荷物が溢れてしまいますよ』とヴィーシャが笑った。
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今更香水を使うのも何だか照れ臭いと思う気持ちと、彼の色を纒ってみたいと思う欲求の間で揺れていたサガは、偶然にも当番が回ってきた本日の不夜番であれば周囲にとやかく言われることもないだろうと、思い至った自身の閃きに独り頬を緩ませた。
所定位置で交代を待つ第二中隊員との接触を除けば明朝まで誰にも顔を合わせずに済む。それに肩に掛けたライフル銃と毛布、そして双眼鏡を抱えたサガの出で立ちは傍目には浮わついた姿に映らない筈だ。日中との気温差が襲い掛かる砂漠の夜の底冷えの中ではそこまで強く香らないだろうという考えもあって、任に就く前に少量を胸元に吹き掛けると、足取り軽く日中番の元へ向かう。
見渡す限りの礫砂漠に点在する岩塊の一つを背に待機する隊員の影を見留めて、背後から『交代の時間ですよ~』と語尾延びして緩んだ声を掛けると、立ち上がり振り返った隊員の顔を正面から視認したサガは、身体がそう反応したと同じように心臓までも僅かに飛び上がった。
「ヴァ、ヴァイス大尉がどうしてこちらに」
サガの記憶では昼番はヴォーレン・グランツ魔導中尉であった筈で、見間違いか将又記憶違いかと思いあたふたしていると、ヴァイスはサガを見つめていた視線を外し明後日の方向を向いて口を開く。
「半刻前に体調不良を訴える通信が入ってな。今日は早目に休ませることにして、…なんというか、その、穴埋めなんだ」
彼にしては歯切れの悪い回答も、今のサガには気にならなかった。それよりも普段であれば彼と二人っきりというシチュエーションに歓喜していただろうに、どうしたことか今は間が悪い。香水を吹き掛けてくるのではなくて小瓶ごと持ってくれば良かったと思う反面、ここで彼に遭遇した時に彼の瞳色の香水を所持していることに気付かれでもしたら、余計に恥ずかしくてどうにかなってしまいそうな自分を想像して、現状の方が幾分かマシな状況だと思い込むことにした。
(香り、気付かれていないと良いな)、と胸の前で抱える毛布にぎゅっと力を込めると、何時もより大人しい反応を示すサガにヴァイスは表情を翳らせる。
「悪い。ベルイマン中尉には事前に情報連携しておくべきであったな」
彼が何に対して謝罪の言葉を口にしているのかサガには理解出来なかった。彼との想定外の接触が心臓に悪いと感じたのは自身に吹き掛けた香水の存在に感付かれたくないというもので、眉を下げて申し訳なさそうにする彼の表情にサガは慌てた。弁明をしなければと焦ったサガは口を開くけれど直ぐには適切な言葉は浮かばず、先に動いた身体で身振り手振り何かを伝えようとする。───『バサリ』。胸の前で大事に抱えていた毛布と双眼鏡は砂埃を立てて砂ばかりの地面に沈み落ちた。二人の間に数秒の沈黙が流れた後、サガは自身が生まれて始めて血の気が引いていく音を聴いた。
「ベルイマン中尉?!貴官も具合が悪いなら無理をしないでくれ」
今の彼女は何時ものような彼女でなく何やら慌てたと思えば今度は青冷めていく様子を体調不良だと勘違いしたヴァイスは、サガの左腕を掴み、逆光で良く見えない顔色を覗こうとした。刹那、日中の熱さを思わせる温風が二人に吹き注ぎ、ポマードで整えられたヴァイスの髪を少し乱してサガの長い結い髪を茜色の空に撫でつけていった。夕陽に染まるミルクティーブロンドの髪に目を奪われて一瞬時を忘れていると、目線の高さを近付けようと少し屈んでいたヴァイスをふわりと香る透明感のあるフローラルが包み込む。ヴァイオレットフィズに似た甘い香りに驚いてサガの顔を見下ろすと、日を背にした彼女の顔は夕陽に染め上げられたかのように今度は耳まで真っ赤に染まっている。
「……大尉、大丈夫ですから……っ」
漸く絞り出したサガの言葉の意味するところは全く分からなかったが、彼女の今この表情をさせているのが自分であるという客観的事実に、(───自惚れてしまって良いのだろうか)と、ヴァイスは己が感情にアンサーを求めた。
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