幼女戦記(名前変換)
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一過性の嵐のようだった天候は夕刻には雨脚も随分と弱くなり、薄暮時に街灯が点る時分にもなると近隣の食堂へと夕食に向かう隊員もちらほらと出始めている。他の者がそうするように同僚と外に食べに向かおうとしたけれども、『今日はあまり食欲が無いから』と誘いをやんわり断られてしまったヴィーシャは、そろそろ業務が一段落したであろうターニャにも声を掛けてみようと執務室へと踵を返す。
照明が落ちカーテンで締め切られて屋外よりも暗い自室から顔を覗かせた時の、帰舎した時よりも幾分かマシに見えた顔色も、其の時交わした言葉も、どこか虚勢混じりで余りにも見るに堪えなかった。お節介をするべきでは無いと理解しているけれども、
窓越しに見上げた空は依然として鈍雲の空模様で、今日明日の晴れ間は見込めなさそうだと思うと余計に気分が重くなる。
(私が何か力になれれば良いのだけれど)
恐らく当人同士の、第三者が安易に介入出来るとは思えない問題を抱えているというのであれば、この儘触れずにいた方が賢明なのだろう。二人とも関係を周囲に打ち明けていない以上噂に成り得る行動は憚られる。
俯きがちに廊下を進みながら屋外の賑わいが遠くに消えていく音に耳を傾けていると、正面玄関口の方で人が出入りする音を耳が拾う。二階から階下を見下ろせる位置まで駆け寄ると、両開きの扉がちょうど閉じたところで帰舎した人物を確認することが出来た。
(こうして誰かを迎えるのは今日は二回目だ)
ヴィーシャは不意に込み上げてきた感情に急いで蓋をした。
++++++
階上から『おかえりなさい』と何時もと変わらない声音を出すように努めて声を掛けると、顔を此方に見上げて声の主を視認した男は一瞬意外そうな顔をして会釈で返す。
「雨、大変だったようですね」
折角の休暇でしたのに、とヴィーシャは差し障りの無い言葉を続けた。男がエントランスの内側に設置された傘立てに共用の黒傘を立て掛ける様子を眺めながら階下に向かうヴィーシャの歩が踊場に差し掛かった時、ケーニッヒは漸く口を開く。
「ああ、この調子だと暫くは降り続くだろうな」
直前まで使用していたと思われる一本の黒傘は、外で払い切れずに残った雨粒が石突きに滴りタイル上に水溜まりを作った。その隣に置かれた不自然に乾き切ったもう一本の黒傘の存在にヴィーシャは思わず顔を顰める。
「…もしかしたら、此の儘止まないかもしれませんよ?」
まるで突き放すような冷たいトーンで言い放った自分の言葉にヴィーシャは然して驚かなかった。
『もし』と、投げ付けた言葉の含意に気が付かない程の鈍感を装うつもりであったのなら、然るべき部署に匿名通報でもしてやろうかと言う気持ちが沸き上がってきている。二人が公にすることを望まない以上その関係性を追及する気などないつもりであったが、隊内でも勘付いている者はこの事態にも直ぐに気が付く。二人の関係が露見することで部隊の士気に影響が出ると云うならば、いっそのこと終わりにしてしまった方が良いとさえ思えた。二人の間に起こった『何か』の原因はもしかしたらサガの方にあるのかもしれない。若しくはどちらに否があるという次元の話ではないかもしれない。ヴィーシャは自分自身が事情を把握出来る立場にないと理解していながら、それでも客観性を捨てて感情を優先してしまいそうになる程にサガのことを心から心配していた。だから、もし、ケーニッヒがサガに『何か』をして彼女をあんな状態にしたのだとしたら、到底許せる筈がない。
「───そうか。そう、かもしれないな」
ぽつり、と呟いたケーニッヒの、乾いた黒傘をじっと見つめる悲哀が滲んだ眼差しに気付いてしまい、ヴィーシャの腹底で蟠る感情は行き場を失くしてしまった。
+++++
『至急、第二小会議室へ』
演算宝珠に個人宛の秘匿通信が送られてきたのはもうじき日を跨ぐ時分のことだった。寝付くことが出来ず木椅子に腰掛けては何をするでもなく机に臥せてただ徒に時間を浪費していたところに、時間にして二秒も掛からずに一方的に切られた通信がサガの元へ入る。
人目を避けた深夜に、この声の主。
ぐしゃり、心臓が握り潰された心地がした。
+++++
「ベルイマン少尉」
一通り目を通した報告書に当人を目の前に置いて再度目を走らせたターニャは一度目の時と同じように顔を顰めた。
「貴官が行きずりの相手と、だったか」
「はい」
「医務局から直接私に報告書が上がってきたので何かと思えば、……後方勤務中であるとはいえ気の緩みというだけでは済まされんぞ」
「弁明の余地もありません」
宿舎に配慮して照明が絞られた薄明かりは、椅子に掛ける上官と呼び出しを受けた一人の部下をぼんやりと照らしている。そんな中でも上官の眼光は鋭さを損なうことなく部下を射貫き、何時もよりも幾分も音の下がったソプラノトーンで書面に記された気の重くなる内容一つ一つの事実確認にあたっていた。
「報告が事実であるのなら憲兵案件だな」
一通りの尋問の後に吐いた上官の言葉にサガの息が詰まる。
彼女の発言は最もだ。軍医が上げた報告書の記述が事実であれば然るべき機関への通報若しくは憲兵隊の介入は避けられない。報告書の通りならば軍の規律以前に、『民間人』とされる相手にも罪を追及する必要があるからだ。男女平等を謳う帝国軍所属の人間云えども女性の地位は一部例外を除き平等とは程遠い。プライベートな内容に触れる問題はある程度看過すべきなのであるが、欲の捌け口として男性軍人が娼館を利用するようなものが、女性側には施設も制度も整備されていないのが実情である。第一、身体の構造も役割も男女で異なるのだから、身体への負担を考えると軍としても大っぴらに奨励は出来ない。そこは女性側の自主性もとい自制心に頼らざるを得ないという不平等性をこの問題は浮き彫りにしているのだ。過去にも同じような事例は幾つもあったのであろうが、対応策すら講じられていないところをみると、大半は泣き寝入りする他なく、『最悪の場合』は除隊処分で処理されていると結論付けざるを得なかった。
しかし兵士の損耗を把握する医務局からの報告が部隊指揮官に直に向かったという事実は、この場合事を内密に処理すべきか当事者に意思確認を取れという意味と同義である。帝国軍の人的資源の台所事情は苦しく、殊に魔導師においては前線で使える貴重な士官を、このような事情で死に駒にさせたくないのだろう。
つまりは届を出さなければ事態の露見は回避出来る。
「小官にも非があります。……それに事を大きくしたくありません」
一か月と少し先に判明するにせよ、そこで『何も』なければそれに越した事ない。例えこの報告の一切を揉み消したとしても今まで通りとはいかないだろうが、今日この日の行動は全て無かったことになるのだから敢えて彼に事実を知らせる必要もない。そもそも彼の人を処罰して欲しいという気持ちも端から無いのだから、今この状況での憲兵の介入は何としても避けたかった。全部無かったことに出来るなら其れが今出来る最善なのだと、そう強く心に決めて聴取の場に立っている。
上官に意向を表明した後は口を開かず無言を貫いているとターニャもまた暫く口を開かずにいて、奇妙な静寂が二人に纏わり付いていた。壁掛けの時計がコチコチと秒針を鳴らす音が妙に耳に付いて、サガは自身の聴覚が過敏になっていくのと同時に、時間経過が自棄に遅く感じられて気が遠くなっていくような感覚に襲われる。
そんなサガの表情をじっと見詰めてからターニャは手元の珈琲杯を手繰り寄せて一服し、そして静かにソーサーに置いた。そして机上に置かれた薄い報告書の文字列を指の腹ですっとなぞってから軽くトントンと叩き、これ見よがしに盛大な溜息を吐いて口を開く。
「貴官は私が知らなかったと本気でそう思っているのか?」
上官の一言にサガの心臓が大きく跳ねた。どくどくと血液が体内を巡り、震えそうになる唇をきゅっと噛んで固く口を噤む。黙するサガの瞳は瞬きを忘れてただターニャを見つめることしか出来ない。
「隠し事を出来る性分ではなかろうに、そこまでして奴を庇いたいという貴官の行動は理解に苦しむ」
「…………っ」
嗚呼、これ以上虚言を重ねるの無理だ。予め用意していた筋書きはもう全て意味を成さなくなってしまった。デグレチャフ中佐はカマを掛けているのではない。彼女は私との遣り取りで『奴』と称した人物に見当を付けたのではなく、其れよりも前に私と『彼』の関係に気付いていた口振りだった。
───全て知られていたのだ、初めから。
「………申し訳ありませんでした。此度の虚偽報告については全て小官の独断によるものです。言責による処分についても小官に付随致します」
この場合、部隊の風紀を乱したこと以上にそれを隠そうとして虚偽報告を重ねた事の方が問題であった。部隊内に留まらず関係各署を捲き込んでいるとなると軽処分では済まないだろうし、連帯責任を負わす可能性も否定出来なかった。もし、重処分の連帯責任を負わされるとなれば、と考えると自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。最悪だ。避けたかった事態も回避出来ず、徒に彼に罪を重ねてしまった。私が日頃から上手く立ち回れていれば、こんな風に露見することも無かっただろうに。───わたしなんかと関わってしまったばかりに。
「同意の有無については再度確認せずとも貴官の表情で凡そ分かる。貴官はもう少しポーカーフェイスを身に付けるべきだな」
「はい。いえ、……処分については」
「貴官が望むなら今すぐにでも『奴』を呼び出しても良いが?」
ターニャの言葉にサガは再び黙さざるを得なかった。そもそも事態の露見を避けたいという
「結果が判明するまで暫し私の預かりとする。結果次第では私の裁量でこの報告は無かったことに出来なくもないが、…心配せずとも情報統制についてもどうとにでもなるさ。こういう類いの問題は軍隊に限らず珍しい話ではないのでね」
「はい。───本件についてはデグレチャフ中佐に一任致します」
「早速ではあるが明日以降暫くの間はセレブリャコーフ中尉に付いて副官業務の補佐にあたるように。日頃から副長の補助を務める貴官であれば分担する業務量は然して負担にならない筈だ」
後方勤務中であったのが幸いしたな、と言葉の端に持たせた含意の意味するところを察したサガは複雑な表情を顕にした。
「───そうだな、この際だ。机上実務に乏しいグランツ中尉にデスクワークとは何足るか其のイロハを叩き込んでやると良い。副長業務を傍らでみてきた貴官達のことだ、貴官が教え込めばグランツ中尉も順応するのは早かろう」
「…了解致しました」
「私並びに副長・副官の手を煩わせないように徹底的に、だ。貴官はどうも人に甘い節がある」
今日はもう下がって良いぞと退室を促し、部下の靴音が廊下から聴こえなくなったところでターニャは椅子から降りた。厚いカーテンで遮られた景色を見遣ってからすっかり温くなってしまった珈琲を一口啜り、今宵何度目になるか分からない溜息を大きく吐く。
(こういう類いの人事は今世でも避けようがない、…か)
大隊練成初期から育て上げた優秀な駒を一気に二つも欠くことになるといった最悪のケースは一先ず回避出来そうであるが、部隊が元の状態に戻ると展望を描くには其れは青写真が過ぎるだろう。ターニャの内に現れた根拠の無い予感は部隊の再編成草案という文字を伴って既に思考の片隅に根を下ろし始めている。
戦禍に身を置くようになってからというもの、理性を置き去りにして感情を優先させた事例は幾度もあるばかりか不幸な事にターニャの記憶にも新しい。そして次に課された使命は当事者に我が身が含まれていない事態の収拾を図るというもので、昨日までは心穏やかな後方勤務を享受出来ていた日常に不穏な影を落としていくような気がしてならなかった。ターニャの脳裏に"あの神を騙る存在X"の姿がちらついて、仮にもしこれが奴の干渉した結果というのであれば私の部下に随分と下衆な真似をさせてくれたものだなと行き場の無い憤りがふつふつと沸いてくる。
ただ一つ、その中に真実があるとすれば、当事者の二人は彼ら自身の自由意思に基づき交際を続けながらも周囲に隠すことが最良と判断する常識人であった。───つい先日までは。世界情勢から目を背くことを許されなくなり始めた祖国の現状に、せめて愛する人だけは戦禍から遠避けたいという男の思いが引き起こした事態に理解を示すことは出来るが共感は出来ない。
(互いを大事に想う気持ちに偽りは無かっただろうに)
感情の行き着く先がもう一方の意思を顧みない行動になろうとも其れを強行した男の大きな賭けは、視野狭窄か将又一時的な逃避に過ぎないのだと、ターニャは此の場に不在の男に諭すように苦言を呈した。
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