幼女戦記(名前変換)
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昼前に降り出した小雨が今は風を伴い時折窓硝子を強く叩いている。戦伎研究を命じられて西方待機となった第二◯三航空魔導大隊は皆、此れ迄のような前線続きの日常から一変して束の間の後方勤務を享受していた。不夜番を除けば毎日のように規則的で文化的な生活を送れていることもあって、溜まりに溜まった恩給をここで消化しようとする隊員も少なくは無かった。部隊の特性上帰省休暇等の大型連休は認められないけれど、短間隔で一日ないしは半日の余暇が与えられるというのは俄には信じ難い状況ではある。
だから天気が崩れたというだけでたった一日の予定が狂ったとしても落胆する者は少数なのだろう。窓越しに見上げた空模様に一喜一憂する必要が無くなった生活に少しの違和感を覚えながらヴィーシャはいつもよりもゆっくりと廊下を歩いた。
執務室に戻る道すがら一度自室に立ち寄ってお気に入りの茶葉と茶菓子を持ち出す。午後業務のお供にしては随分と上等な此の焼き菓子は戦場続きの日常では使う用途を見出だせ無かった賞与のほんの一部を遣って購入したものだ。前線勤務以外で西方に留まることなど稀なことであったのであれもこれもとついつい買い込んでしまい、先日の半日休暇では両手が塞がる程の戦利品を抱えて帰舎したところを同僚に目撃されて苦笑を誘ったものだ、…と、眼をぱちくりとさせて固まった彼女の表情が頭に浮かんできてヴィーシャは思い出し笑いを堪える。
込み上げた笑いが収まって顔を上げると不意に温い風がヴィーシャの頬を撫でた。其れに遅れてバタンと外で渦巻く風が扉を閉めた大きな音が鳴り響く。誰かが宿舎に戻ってきたのだろうか。吹き抜けの渡り廊下から一階を見下ろすと、エントランスにぽつんと一つ白い人影があるのが見えた。
「…サガ? 」
私服姿の同僚は宿舎内のコンクリート上で雨水を払いながら、足元にぼたぼたと大きな染みを作っている。一拍遅れて名を呼ばれた方向に顔を向けた彼女はへにゃりと表情を崩して『ヴィーシャ』、と額に張り付いた髪の向こうで眉を下げた。小さなくしゃみをしてから『雨に降られて』と分かりきったことを伝えてくる彼女の言葉を最後まで待たず急いで階下に降りる。
雨を吸って重くなったスカートを絞り、裾を摘まんでバサバサと水気を払う音が吹き抜け廊下に響く。今は人目が無いとは云え、出入りの多い場所に晒して良い格好ではとても無かった。彼女の白いブラウスからは肌着どころかその下の肌まで薄ら透けている。
「早く部屋に」
帰室を促しサガの背中を押すとブラウスのひやりとした感触が手のひらに伝わりその冷たさに少し驚いてぱっと背から手を離す。その反応に気を悪くするでもなく寧ろ申し訳そうに微苦笑を漏らしたサガは自室へ向かう歩を漸く踏み出した。朝方は降雨こそなかったものの今にも崩れそうな空模様をしていた筈で、天気予報を確認し忘れていたとしても外出の際に空一面に拡がる雨雲に気が付かなかったとは考え難い。
「……傘、忘れちゃって」
サガはそう一言口にして、その後に続く言葉は何も言わなかった。どうやら嘘は吐いていないようであったがこれが暈した表現だということも、出先で何かがあったのだと察する程度にはサガの表情を見慣れてしまっている。
「車を回して貰えば良かったのに」
「急務なら兎も角休暇中に軍用車の利用は控えたいなあ、と」
「サガらしいと言えばらしいけど」
「……ありがとう?」
「ふふ、褒めてないよ」
他愛ない会話をしながら横目でサガの表情をじっと盗み見る。……どのくらいの時間をこの状態でいたのかは分からないが、魔導行軍中なら兎も角も生身で此れだけの雨風に晒されたとなると身体は相当辛い筈だ。風邪ならまだしも肺炎にだって罹る可能性も無視出来ない。作戦の度に九十七式で高度一万フィートの制空権を取らねばならぬ状況に陥るとは考えたくもないが、航空魔導師にとって呼吸器官への負荷は極力避けるべきであるし、外科に特化した帝国の衛生魔導事情では内科的症状についてはそれこそ魔法のようにぱっと治すことなど不可能なのだ。食中毒で傷痍退役となったタイヤネン准尉の事例を思えば決して楽観視は出来ない。
『ヴィーシャったら百面相ね』と何処かで聴いたフレーズに意識を目の前へと呼び戻すと、ここ数日ですっかり見慣れた木製扉の前に立っていた。あれこれ考えている内にいつの間にかサガの部屋の前に辿り着いていたらしい。
女性士官への配慮というものなのか階段から離れた部屋を自室として宛がわれたせいで、この状態のサガが誰かと鉢合わせるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わったようでヴィーシャはほっと胸を撫で下ろした。
「今更見られて減るものでは無いと思うのだけれど」
「サガは意外とそういうところ無頓着というかなんというか…」
「そもそも大隊選抜訓練の時点で肌は晒して」
「もうっ!それは良いから早く部屋に入ろう!」
サガの言葉を遮って彼女の背中を押した。着替えついでに濡れた衣服を預かってしまおうと彼女を追って部屋に入ろうとした時、ぴたっと思わず身体が膠着する。
彼女の後ろ姿に、───正確には白い髪の隙間から覗く首筋に残された真新しい鬱血痕に目を奪われた。薄い皮膚を食い破らんとした深い噛み痕のようなものが点々、と。
一歩踏み入れた右足も廊下に残された左足もまるで床に縫い付けられたように重い。
(───嗚呼、これは気付かない振りが必要なやつ、だ)
彼女は『こういうこと』に関しては誰にも明かすことなくずっと一人で抱え込んでいた。中には勘付いている者も何人かはいるのだろうが、敢えて騒ぎ立てるような事は誰もしなかった。下手に露見すれば部隊の士気に影響を及ぼすとサガと彼の人も理解してそうしているのだから、二人の意図を汲んで触れるのを避けてきたけれど、……これでは、あんまりにも。
「…何かあったら呼んでね」
「心配掛けたならごめんね。ありがとうヴィーシャ」
そんな泣き腫らした眼で、何でもないように取り繕った笑みが余りにも痛々しくて、向けられた表情をこれ以上見なくて済むように、彼女の頭にそっとタオルを覆い被せた。
+++++
「……どうして、あんなことをしたのですか」
乱れたブラウスの釦を静かに留め終えるとサガは震える声を抑えて問うた。
「約束を違ってすまない。君が……」
思わず言葉に詰まる。何と弁明すべきなのだろう。ただ一方的に己の身勝手な想いと欲を押し付けて心身ともに傷付けた事実は変えられない。寝台の縁に腰掛ける彼女の背後からその細肩に触れると、びくっと怯えるように身体を強張らせた。何かを堪えるようにシーツを握る右手が深い皺を刻む。
「……どうやら私は思い違いをしていたようです」
「君の所為じゃない」
「軍規違反ではありますがケーニッヒ中尉殿がお相手であればそういった望みを応えてくれる娼婦もいらっしゃるでしょう」
「違う、そういうことを言いたいじゃないんだ!」
「ならどうして」
泣き腫らした眼を見せまいと俯いた顔からはぽろぽろと雫が落ちて濃紺のスカートに濃い染みを作る。堪え切れない感情が溢れ出す様子がなんとも痛ましくてそしてそれ以上になんと愛おしく感じられることか。嗚咽を堪えて小さく震える背中を強く抱き締めたい衝動に駆られるも、彼女をこんな状態にしたのは紛れもなく自分であって。代わりに寝台に置かれた右手を引き寄せて其の甲にすがるような口付けを落とす。怯える彼女に対するケーニッヒなりの精一杯の愛情表現を示しても、サガの涙を止めることは叶わなかった。
(彼女の意志を尊重したい。最期まで傍にいてやりたい。戦禍から遠避けたい。最期を看取ってなんか欲しくない)
込み上げる不安と、何れ別つ其の時を思うと胸が押し潰されそうだ。窓の外でざわめく雨風の音に感情が掻き乱されて不安を更に煽る。窓硝子に薄ら反射する己の顔は酷く歪んでいた。
「君を、失いたくない」
絞り出した声はしゃがれていて、吐露した言葉は臆病に塗れていた。
悪化の一途を辿る戦況の最中で参謀本部付きの精鋭部隊が二ヶ月の後方待機という不自然な配置転換をされている状況が酷く落ち着かない。其れが終われば今迄以上の酷使が待ち兼ねているだろうということは想像に難くなく、対連邦戦の口火も切られた今、不透明な未来を願うよりもこの不確かな可能性 に賭けた方がずっと希望が持てる。
「そういう貴方はきっと私を置いて先に逝ってしまうのでしょう」
「───そう、かもしれない」
ぽつりと小さく応えると、サガは掴まれた右手を振り払い止まらない涙を塞き止めようと子供のように目元を袖口で拭い始めた。時折何かを言い掛けて口を小さく開くも、声を詰まらせてはまた溢れ出す雫を堪え切れずに今度は手で顔を覆い隠す。
「迷惑だと、………嫌いだと言って捨てられた方がずっと良かった」
「………サガ、」
触れようと伸ばした右手は空を切りサガに届くことは無かった。結果ケーニッヒの右手を躱すように立ち上がった彼女はパンプスを爪先に突っ掛けて部屋の外へと向かい、扉の前で一度歩みを止める。顔は尚も俯いた儘で視線を通わすことを拒み続けていた。
「中尉殿の、その優しさは私にとっては残酷です」
「悪いことをしたと思っている。だが後悔はしていない」
「……っ」
返ってくる言葉は無く、サガは駆け出すように部屋を後にした。
施錠が解かれた音と扉が閉まる音がやけに大きく耳に残響する。エゴを押し付けた代償は覚悟していた。彼女を繋ぎ止めるだけの何かも、追い掛ける資格すらも持ち合わせていない自分に心底失望してくれても構わないと思った。それだけ彼女の信念も尊厳も踏みにじった行為を強要したのだから。
ありふれた幸せすら願えども叶わないならせめて彼女だけでも危険から遠避けさせたかった。誰かに傷付けられて汚されて手遅れになってしまうくらいならば、いっそのこと自分の手でどうしようも無く傷付けて恨まれたかった。深く愛しているが故の決別だとしても。
───其れを望んだ筈であったのに。
(どうしようもなく、苦しい)
だから天気が崩れたというだけでたった一日の予定が狂ったとしても落胆する者は少数なのだろう。窓越しに見上げた空模様に一喜一憂する必要が無くなった生活に少しの違和感を覚えながらヴィーシャはいつもよりもゆっくりと廊下を歩いた。
執務室に戻る道すがら一度自室に立ち寄ってお気に入りの茶葉と茶菓子を持ち出す。午後業務のお供にしては随分と上等な此の焼き菓子は戦場続きの日常では使う用途を見出だせ無かった賞与のほんの一部を遣って購入したものだ。前線勤務以外で西方に留まることなど稀なことであったのであれもこれもとついつい買い込んでしまい、先日の半日休暇では両手が塞がる程の戦利品を抱えて帰舎したところを同僚に目撃されて苦笑を誘ったものだ、…と、眼をぱちくりとさせて固まった彼女の表情が頭に浮かんできてヴィーシャは思い出し笑いを堪える。
込み上げた笑いが収まって顔を上げると不意に温い風がヴィーシャの頬を撫でた。其れに遅れてバタンと外で渦巻く風が扉を閉めた大きな音が鳴り響く。誰かが宿舎に戻ってきたのだろうか。吹き抜けの渡り廊下から一階を見下ろすと、エントランスにぽつんと一つ白い人影があるのが見えた。
「…サガ? 」
私服姿の同僚は宿舎内のコンクリート上で雨水を払いながら、足元にぼたぼたと大きな染みを作っている。一拍遅れて名を呼ばれた方向に顔を向けた彼女はへにゃりと表情を崩して『ヴィーシャ』、と額に張り付いた髪の向こうで眉を下げた。小さなくしゃみをしてから『雨に降られて』と分かりきったことを伝えてくる彼女の言葉を最後まで待たず急いで階下に降りる。
雨を吸って重くなったスカートを絞り、裾を摘まんでバサバサと水気を払う音が吹き抜け廊下に響く。今は人目が無いとは云え、出入りの多い場所に晒して良い格好ではとても無かった。彼女の白いブラウスからは肌着どころかその下の肌まで薄ら透けている。
「早く部屋に」
帰室を促しサガの背中を押すとブラウスのひやりとした感触が手のひらに伝わりその冷たさに少し驚いてぱっと背から手を離す。その反応に気を悪くするでもなく寧ろ申し訳そうに微苦笑を漏らしたサガは自室へ向かう歩を漸く踏み出した。朝方は降雨こそなかったものの今にも崩れそうな空模様をしていた筈で、天気予報を確認し忘れていたとしても外出の際に空一面に拡がる雨雲に気が付かなかったとは考え難い。
「……傘、忘れちゃって」
サガはそう一言口にして、その後に続く言葉は何も言わなかった。どうやら嘘は吐いていないようであったがこれが暈した表現だということも、出先で何かがあったのだと察する程度にはサガの表情を見慣れてしまっている。
「車を回して貰えば良かったのに」
「急務なら兎も角休暇中に軍用車の利用は控えたいなあ、と」
「サガらしいと言えばらしいけど」
「……ありがとう?」
「ふふ、褒めてないよ」
他愛ない会話をしながら横目でサガの表情をじっと盗み見る。……どのくらいの時間をこの状態でいたのかは分からないが、魔導行軍中なら兎も角も生身で此れだけの雨風に晒されたとなると身体は相当辛い筈だ。風邪ならまだしも肺炎にだって罹る可能性も無視出来ない。作戦の度に九十七式で高度一万フィートの制空権を取らねばならぬ状況に陥るとは考えたくもないが、航空魔導師にとって呼吸器官への負荷は極力避けるべきであるし、外科に特化した帝国の衛生魔導事情では内科的症状についてはそれこそ魔法のようにぱっと治すことなど不可能なのだ。食中毒で傷痍退役となったタイヤネン准尉の事例を思えば決して楽観視は出来ない。
『ヴィーシャったら百面相ね』と何処かで聴いたフレーズに意識を目の前へと呼び戻すと、ここ数日ですっかり見慣れた木製扉の前に立っていた。あれこれ考えている内にいつの間にかサガの部屋の前に辿り着いていたらしい。
女性士官への配慮というものなのか階段から離れた部屋を自室として宛がわれたせいで、この状態のサガが誰かと鉢合わせるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わったようでヴィーシャはほっと胸を撫で下ろした。
「今更見られて減るものでは無いと思うのだけれど」
「サガは意外とそういうところ無頓着というかなんというか…」
「そもそも大隊選抜訓練の時点で肌は晒して」
「もうっ!それは良いから早く部屋に入ろう!」
サガの言葉を遮って彼女の背中を押した。着替えついでに濡れた衣服を預かってしまおうと彼女を追って部屋に入ろうとした時、ぴたっと思わず身体が膠着する。
彼女の後ろ姿に、───正確には白い髪の隙間から覗く首筋に残された真新しい鬱血痕に目を奪われた。薄い皮膚を食い破らんとした深い噛み痕のようなものが点々、と。
一歩踏み入れた右足も廊下に残された左足もまるで床に縫い付けられたように重い。
(───嗚呼、これは気付かない振りが必要なやつ、だ)
彼女は『こういうこと』に関しては誰にも明かすことなくずっと一人で抱え込んでいた。中には勘付いている者も何人かはいるのだろうが、敢えて騒ぎ立てるような事は誰もしなかった。下手に露見すれば部隊の士気に影響を及ぼすとサガと彼の人も理解してそうしているのだから、二人の意図を汲んで触れるのを避けてきたけれど、……これでは、あんまりにも。
「…何かあったら呼んでね」
「心配掛けたならごめんね。ありがとうヴィーシャ」
そんな泣き腫らした眼で、何でもないように取り繕った笑みが余りにも痛々しくて、向けられた表情をこれ以上見なくて済むように、彼女の頭にそっとタオルを覆い被せた。
+++++
「……どうして、あんなことをしたのですか」
乱れたブラウスの釦を静かに留め終えるとサガは震える声を抑えて問うた。
「約束を違ってすまない。君が……」
思わず言葉に詰まる。何と弁明すべきなのだろう。ただ一方的に己の身勝手な想いと欲を押し付けて心身ともに傷付けた事実は変えられない。寝台の縁に腰掛ける彼女の背後からその細肩に触れると、びくっと怯えるように身体を強張らせた。何かを堪えるようにシーツを握る右手が深い皺を刻む。
「……どうやら私は思い違いをしていたようです」
「君の所為じゃない」
「軍規違反ではありますがケーニッヒ中尉殿がお相手であればそういった望みを応えてくれる娼婦もいらっしゃるでしょう」
「違う、そういうことを言いたいじゃないんだ!」
「ならどうして」
泣き腫らした眼を見せまいと俯いた顔からはぽろぽろと雫が落ちて濃紺のスカートに濃い染みを作る。堪え切れない感情が溢れ出す様子がなんとも痛ましくてそしてそれ以上になんと愛おしく感じられることか。嗚咽を堪えて小さく震える背中を強く抱き締めたい衝動に駆られるも、彼女をこんな状態にしたのは紛れもなく自分であって。代わりに寝台に置かれた右手を引き寄せて其の甲にすがるような口付けを落とす。怯える彼女に対するケーニッヒなりの精一杯の愛情表現を示しても、サガの涙を止めることは叶わなかった。
(彼女の意志を尊重したい。最期まで傍にいてやりたい。戦禍から遠避けたい。最期を看取ってなんか欲しくない)
込み上げる不安と、何れ別つ其の時を思うと胸が押し潰されそうだ。窓の外でざわめく雨風の音に感情が掻き乱されて不安を更に煽る。窓硝子に薄ら反射する己の顔は酷く歪んでいた。
「君を、失いたくない」
絞り出した声はしゃがれていて、吐露した言葉は臆病に塗れていた。
悪化の一途を辿る戦況の最中で参謀本部付きの精鋭部隊が二ヶ月の後方待機という不自然な配置転換をされている状況が酷く落ち着かない。其れが終われば今迄以上の酷使が待ち兼ねているだろうということは想像に難くなく、対連邦戦の口火も切られた今、不透明な未来を願うよりもこの不確かな
「そういう貴方はきっと私を置いて先に逝ってしまうのでしょう」
「───そう、かもしれない」
ぽつりと小さく応えると、サガは掴まれた右手を振り払い止まらない涙を塞き止めようと子供のように目元を袖口で拭い始めた。時折何かを言い掛けて口を小さく開くも、声を詰まらせてはまた溢れ出す雫を堪え切れずに今度は手で顔を覆い隠す。
「迷惑だと、………嫌いだと言って捨てられた方がずっと良かった」
「………サガ、」
触れようと伸ばした右手は空を切りサガに届くことは無かった。結果ケーニッヒの右手を躱すように立ち上がった彼女はパンプスを爪先に突っ掛けて部屋の外へと向かい、扉の前で一度歩みを止める。顔は尚も俯いた儘で視線を通わすことを拒み続けていた。
「中尉殿の、その優しさは私にとっては残酷です」
「悪いことをしたと思っている。だが後悔はしていない」
「……っ」
返ってくる言葉は無く、サガは駆け出すように部屋を後にした。
施錠が解かれた音と扉が閉まる音がやけに大きく耳に残響する。エゴを押し付けた代償は覚悟していた。彼女を繋ぎ止めるだけの何かも、追い掛ける資格すらも持ち合わせていない自分に心底失望してくれても構わないと思った。それだけ彼女の信念も尊厳も踏みにじった行為を強要したのだから。
ありふれた幸せすら願えども叶わないならせめて彼女だけでも危険から遠避けさせたかった。誰かに傷付けられて汚されて手遅れになってしまうくらいならば、いっそのこと自分の手でどうしようも無く傷付けて恨まれたかった。深く愛しているが故の決別だとしても。
───其れを望んだ筈であったのに。
(どうしようもなく、苦しい)
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