幼女戦記(名前変換)
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8.焼野に終雪落ちる
「糞ったれ!やられた!」
「03カバーだ!27を引き摺って下がれ!!」
我が大隊が帝国有数の精鋭部隊と幾ら称揚されようとも逼迫したライン戦線の其れも最前線で友軍後退の為に果敢なる欺瞞行動を演じ続けねばならぬとは。連日満員御礼の札を掲げる帝都の某劇場ですら上演回数は日に二度と相場が決まっているというのに、共和国軍の熱烈なる歓迎の拍手は閉演時間を過ぎても尚鉄量を以って我が大隊に降り注ぎ続けている。熱狂的信者を多く抱える名俳優揃いの劇団でもこうはならないだろう。ひと月振りの同戦線への配置指令書を受領した大隊長殿は苦虫を潰したような表情で溢した言葉をケーニッヒは反芻するように思い出していた。『ライン戦線上空では誰も彼もがトップ・スターの気分だよ』、と。
「っく、曳火砲弾か!」
仲間を抱えて後退するにせよ濃密な弾幕射撃は避けて通れない。只でさえ飽和攻撃を受けて視界不良の最中、加えて近接信管の余波をまともに浴びれば魔導障壁であっても突破されかねない。───最終的な防護膜としての防殻に頼ることになれば着弾時の衝撃に耐え得るだけの魔力も体力も27には残されていない。
「各員集中!乱数回避軌道を徹底し…」
副官の通信が魔導障壁への着弾音によって掻き消され、その切れ目から女性特有のか細い悲鳴が雑音と化しそして途切れていく。
「こちら02!既に半数が脱落。もう長くは持ちません!」
副官の通信途絶から間を置かず副長の通信がノイズ混じり飛び込んでくる。損耗率から察するに各中隊とも既に一個小隊+α規模を現状維持するのが精一杯の状況であった。後退飛行を続けながら脳内で脱落者のコールサインを浮かび上がらせたケーニッヒは、其の中で特定の識別番号が上がらなかったことに人知れず安堵し、そしてすぐさま其の思考を打ち払った。
(ああ、糞。作戦行動中に私情を挟むなんてらしくない)
+++++
「…ッヴィーシャ!」
突如音声が乱れて途絶した同僚の名をコールサインをも忘れて叫ばずにはいられなかった。第二〇三航空魔導大隊に課せられた指令は同じなれども人員は散開配置で互いの姿を目視で逐一確認出来る程機動戦は生温くない。
彼女のバディはあのデグレチャフ少佐であるから撃墜された可能性は極めて低いだろうと頭では理解しているのに、今次作戦の、強行偵察による犠牲があまりにも甚大である事実に、サガの胸中は何時になく焦燥に満たされ、其の思考は冷静さを欠いてしまっていた。
(…これで何名が脱落した?後退する隊員は拠点までもつ…?)
一瞬途切れた思考を叱責するように戦況情報が津波の如く脳に押し寄せて来て眩暈がする。焦りからくる緊張と脳への酸素供給が正しく機能していないのだろう。数度浅く吸い込んだ空気を生唾とともに乾いた喉奥に押し込むと、強く噛み締めた奥歯が砂塵と擦れて不快な音を発した。
身体中の水分なんて疾うに乾き切っていた筈なのに、一体何処から捻出したのか一筋の汗が額から滴り落ちる。左目蓋を濡らし睫毛に付着した僅かな滴が灰色の空を望む視界を更に不鮮明にした。
「9時方向だ18!」
突如飛び込んできた通信と同時に左目端で捉えた対空散弾の集中砲火を魔導障壁が弾く。続けて対魔導師用に高度設定された曵火砲弾の破片と爆風が進行方向の視界を一気に閉ざす。(ツーマンセルを崩された…!)第二中隊の外端部にいることが幸いして他隊員への影響は少ないながらもその分遅れを取ってしまった。帝国が仕掛けた撒き餌に釣られているとはいえ浮いた駒をむざむざ見逃してくれる程共和国軍の視野は狭くはない。部隊への合流を最優先に魔力を視神経に集めて不透明な視界をクリアにすることに集中し、───魔力で身体能力を補正出来ることは魔導師の利点の一つであるが、其れはあくまで素の身体能力の底上げに過ぎず、個人差で生じる僅かなラグを埋めることなどは出来ない。網膜に映し出された鮮明な映像を反射的に処理しても尚、後五メートルの距離に迫っている大口径砲の直撃まで回避行動が追い付かなかった。
(四〇口径砲までなら私の魔導障壁であれば問題は…)
九七式と己の魔力量であればある程度の大口径砲の衝撃をも耐えられる。帝国軍が仕掛けた本作戦において、対応する側の共和国軍は対魔導師戦闘用に殺傷力の高い曵火砲弾を多用する傾向にあるが、魔導障壁の強度も近接信管相手であれば今のところは問題ない。通信が途絶えた同僚が受けた砲撃の種別は音声情報からしても曵火砲弾に違いなかった。
(だが、もし、そうでは無かったら?)
眼前に迫る砲撃が近接信管である確証は無い。共和国軍にとっては帝国軍魔導部隊が先鋒となり苦し紛れの突貫を仕掛けているように映りはするものの、その後ろに控えているだろう地上部隊の存在は無視出来ない筈だ。後方への牽制や魔導師への攪乱の意味で着発信管を織り交ぜる手法は十分に有効である。
残存魔力は問題ない、が魔導障壁の強度は微々たるものだが確実に弱まっている。いずれ割られてしまうならば大口径砲の着発信管の威力に備えて防殻にリソースを割いた幾らかマシだろうか。回避出来ないのならと、サガは魔導障壁と防殻それぞれの防護膜の急所箇所を重点に魔力を流して着弾の衝撃を覚悟した。
刹那、ライン戦線上空で時限信管による大きな爆発音と炸裂した金属片が周囲数十メートルに高速飛散し、灰墨色の煙幕跡から魔導師が一機、空に弾き出された。
「ぁ…」
サガは自らの判断を悔いた。着発信管の衝撃に備えていたお陰で幸い骨も内臓も損傷することは無かったけれども、爆風に押される形で大きく仰け反る無防備な体勢で煙幕の外に放り出されては其れこそ格好の的だ。(…っ焦っては駄目だ)優先すべきは変わらず部隊への合流を果たすこと。炸裂する金属片から銃床と手掌部で頭部を庇いながら身体を反転させ離脱体勢を取ると同時に合流ポイントとなる位置を目指し―――。
『ざくり』
突如、砲弾が行き交う戦場に似付かわしくない音がサガの鼓膜を震わし聴覚を支配した。
木製の俎板の上で瑞々しいレモンに果物ナイフを入れたような、果肉が弾けて果汁となり刃を滴るあの感覚───嗚呼、違う。これは、私の肉を割いた音だ。聴覚に遅れて左顔面に構え置いた短掌筋がざっくりと裂かれた様と、瞬間的に多量の血液が空に飛散していく光景が眼前を満たしていく。再び不明瞭になった視界の向こうから飛散する破片に対しては庇う動作を取る猶予すらなく己の左肩を掠めていった。
+++++
「各中隊ダメージレポート!負傷者を救護所まで連れていってやれ」
殿軍を務め上げた第二〇三航空魔導大隊、基、最終的には二個中隊規模までに損耗した我が部隊が後退拠点に帰投した時には、大隊長とて例外なく一刻の早くの手当てと休息が必要な程の損害が生じていた。
「───はっ」
飛行ユニットを外して装備を地に下ろすと、玉になった脂汗が額と蟀谷から吹き出すように流れ出て頬を伝いぽたぽたと地面に滲みを作っていく。魔力切れを起こすことなく拠点まで戻ってこれたことに緊張の糸が解かれたのか、アドレナリンの分泌が収束して身体が鉛のように重く感じる。気を抜くと崩れ落ちてしまいそうになる大腿部を拳で叱責すると、左手首から手指にかけて焼けるような熱を感じた。(…ああ、今の今まで忘れていた)負傷部位を再視認すると先程まで不備無く動かせていた左手がぎこちなく軋む。この程度の負傷で…とも思ったが以前グランツ少尉の怪我を思い出して、他人の事を言える資格ないなあ、と自嘲の嘆息が漏れた。被弾時は瞬間的に血液を失ったけれども、直ぐに止血術式を宛てたから体外に漏れた出血量は大した事無い筈だ。無意識のうちに左肘の上腕動脈を圧迫すると、患部が大きく拍動した気がした。……鎮痛術式を解いた後が怖い。
「───ベルイマン少尉」
「報告が遅れて申し訳ありませんヴァイス中尉。……どうして中尉殿がそんな表情されているのですか」
言葉を失っている上官の視線が、庇って負傷した左手に向けられていないことが分かってしまって、何だか申し訳ない気持ちになる。他人の事をどうこう言える立場では無いけれど、この方は何を考えているか表情に出てしまう時がある。
「大丈夫か」
「はい」
もうどうにもなりません、と苦々しく笑みを溢す。ここで取り繕ろうとしても今更上手く出来るとも思えなかったので、表情を作ることは早々に諦めた。
「貴官も治療を受けて来い」
「これくらいは自分で何とか出来ますので、少ししましたら救護へ合流致します」
「今日のところは無理をしない方が良い」
「…大丈夫ですよ」
ヴァイス中尉はそれ以上何も言わなかった。デグレチャフ少佐の許可と彼の裁量で好き勝手させて貰っている身分だからあまり強いことは言えないけれど、今は感傷に浸るよりも身体を動かして気を紛らわしたかった。私の残存魔力で重傷者を何人治すことが出来るだろうか。腹部を押さえているタイヤネン准尉の背を追視して無意識の内に救護所のある方角に視線を向けるけれど、意識の外に置いていた左手の熱が再び暴れだして思考力を奪う。
(…本当に莫迦だな私は)
+++++
数ある急所の内、眼球へのダメージは無意識に避けるというのが動物の本能である。特にヒトの眼窩損傷は厄介なもので、神経を傷付ければ重度の視覚障害が遺る可能性も十分に有り得た。だから目を庇おうとして咄嗟に覆った左手の損傷がこの程度で収まっていることは不幸中の幸いとポジティブに捉えるべきなのだろう。
サガは救護所から漏れ出る灯りを背にして簡易椅子に腰を下ろした。片手が使えないのは不自由極まりないけれど、背にした救護所の内情が聴覚情報として流れ込んで来るこの場所で誰かの手を借りるという選択肢は彼女の中には上がってこない。
鎮痛と止血を重ねて施した術式の文字列が革手袋で覆われた患部を中心にして帯状に伸びている。患部に充てる魔力は最小限に抑えていたから負傷時から帰投に至るまでの間も魔力を消費し続けていたが、彼女元来の魔力量を考えれば微々たる消耗に過ぎない。
裂けた革手袋の拇指側に携帯鋏の刃を入れる。少量の魔力を流して強化してはいるが、皮膚をメスで開く感覚とはまた違った抵抗を感じて、掛けた指に力が篭る。裾口まで流れて其の儘凝固した血液が肌と革を繋ぐ緩衝材のような役割を果たしていて、鋏を進めるごとに凝固膜が刃先に纏わりつく粘着音が酷く耳障りだった。其の儘示指の中手指節関節辺りまで裁ち進んだところで鋏を止める。切り込みを捲り、手甲部を裏返して漸く手袋を外す。患部が晒されると熱を持った其処が外気と反発をするように脈動したのを肉眼で捉えて、麻酔が効いていなければ今頃激痛に喘いでいたかもしれないなあ、と冷めた思考でじっと見つめた。
鋭利な角度で削がれていた手関節の直ぐ上に位置する短掌筋(…削がれているというよりも抉られていると言った方が正しいかもしれない)は、欠損した範囲は決して大きくは無いものの、肉眼でみると予想していた通り酷い有り様だった。肉は深く抉れて尺骨神経まで傷付いている。頭の中で立案した当初の治癒療法計画に神経系を組み込むと施術計画の破綻もいいところである。が、どうせ片手は塞がっているのだ。何時ものようにいかないことは承知の上。
患部を覆う局所麻酔と遅滞術式を解除するのと同時に再生術式を構築し、放物線上に伸びた文字列を幾重にも重ねていく。そして組み合わせた治癒術式の一部を負傷部位に注ぎ込んだ。
「っぁ…」
麻酔を施していない患部が痛覚を狂わせたように熱を持って組織と神経を引き千切ろうとしているような感覚に陥る。サガの額に再び脂汗が浮かんだ。
(この程度の損傷でこんなにも痛いなんて)
元来、衛生魔導は他人への行使前提の後方支援型の術式形態であって高度な自己治癒は想定していない。平時は複数の治癒術式を並行展開してより精緻で劇的な回復を実現させる。それこそ、施術者本人も魔力消費は莫大だけれどもあらゆる薬剤や治療器具を必要とせず身一つで患者を回復に至らしめることを可能とするともあらば、どの拠点でも貴重な人材であることに変わりは無かった。
ただ、今の私は負傷兵の一人であり、この傷を如何にかしなければ救護所の彼等を十分に診てやることも出来ない。
眼下では人体模型のように肉を晒した状態が長く続いている。施術計画が破綻している自覚はあるにせよ、麻酔にリソースを割かず造血と組織の回復・皮膚形成に全振りしているというのに想定以上に時間が掛かり過ぎだ。再構成されていく筋繊維を睨むように眺めていると視界の端に自身の白い髪が映り込み、意図的に排していたことに嫌でも意識を向けさせられる。
(集中出来無い理由はひとつしかない)
上官の問いに『もうどうにもなりません』と答えたのは自身に言い聞かせる意味でもあった。女性士官の頭髪規定範囲内で伸ばしていた長い髪は、曳火砲弾の破片が回避行動で大きく揺れた髪をざっくりと掠めていき、左方が抉れたように肩口で毛先を遊ばせていた。辛うじて元の長さを保っている右方の房を見つめて、一思いに手元の此の鋏で切り落としてしまいたいという衝動に駆られるも、凝固した血液が付着した其れを眺めて人知れず首を振る。こういうことは同性に頼むのが良いだろう。此の左手が治癒したらヴィーシャを探しに行かなくてはと思い、皮膚形成まで終わりつつある患部に絶え間なく魔力を注ぎ込んだ。
++++++++
久方振りに口にした紙煙草は唇に触れる安っぽい巻紙の感触を除けば雑味も余り感じられなかった。戦闘後の冷めやらぬ昂りを塗り潰していくように薄い砂糖入りの紅茶のようなフレーバーが肺を満たしていく。芳醇なものも辛口なものも苦手としている訳では決して無いが、後を引く味よりも其の時浸れるだけの手軽さを重視するとなると、ついついこういったフレーバーを好むように趣向が変化していっただけである。少々古くなった巻紙のざらざらとした感触に、前回酒保で購入したのは何時頃であったかと記憶を辿った。
大隊選抜訓練を経て煙草を断った隊員は多く居るが、今まで付き合い程度にしか嗜まずにいた煙草が無性に恋しくなるくらいにはライン戦線は過酷な状況下にあった。部隊の損耗が著しく低い我が大隊においても今作戦では負傷者が続出し、遂には離脱者を出す事態にまで陥ったのだ。(外傷ではなく食あたりで隊員を失うとは誰一人として想定していなかっただけに色々な意味で衝撃的ではあったのだが)
本日二本目の紙煙草に火を点け甘い紫煙を燻らせていると、見慣れた背丈の女性士官が救護天幕の外で大きく伸びをしている様子が視界に映る。任務後はほぼ恒例となっている負傷兵の救護要請が一区切りついたらしく、借用した白衣を洗濯婦行きの集荷台に預けていた。するりと肩を滑る白衣の下から現れた魔導士官服を見ると、彼女にとっては何方側に居る方が幸せなんだろうかと考えてしまう事が時折ある。彼女の白衣姿も随分と見慣れた光景になりつつあるが、医療班に混じる様子と白い長髪が映える濃緑の軍服の後ろ姿を相互に思い起こす度に、『───何故、』と。
過去に問うたことはない。彼女が軍衣を纏った決意を否定してしまうような気がして本人には訊けず仕舞いだ。多分、これからも。
+++++
「救護所近辺での火気は感心しませんよ」
『せめて場所をお考えになっては』と指摘するベルイマン少尉は上官の姿を見留めて不適だと注意する為に態々此方に声を掛けにきたらしい。口振りから察するに喫煙自体は咎められていないが肺への負荷を考えれば可能な限り控えて欲しいと顔に大きく書いてあるのが可笑しく思えて、彼女の希望通り咥えたばかりの二本目は口から離し靴底で火を擦り消した。
「迂闊だった。もうしない」
「でしたら今回は見なかったことにして差し上げます」
満足気に表情を緩めた少尉は一つ頷きを溢して隣に並ぶ。肩口でサラサラと揺れた白い毛先が風に煽られて顔に掛かる度に数度耳に掛け直しては少し疲れが見える表情を覗かせて息を吐いた。
其の様子を隣でぼんやりと眺めていて初めて違和を覚えたケーニッヒは、驚きの儘に出そうになった言葉を無理矢理喉奥に押し戻してごくりと喉を鳴らした。
「───ベルイマン少尉。貴官、その髪は……随分と思い切ったな」
歯切れ悪く出た言葉に彼女は気を悪くする様子も無く、自身の髪を一房摘まんでへにゃりと表情を崩した。大隊内で一番長かった彼女の髪は、今は毛先が鎖骨に付くか付かないかの長さにまで短くなっている。
「体勢を崩した時に大方持っていかれてしまいまして。ああ、でも負傷は大したことありませんよ。この通りです」
負傷した左手掌部を見せるようにひらひらと手を振った。手術痕が見受けられないことから衛生魔導で(恐らくライン配属の衛生魔導師の手を借りることなく)治療したのであろう。長さを失った髪が再び風に煽られて彼女の白い肌を発く。此の場の二人の距離であれば以前あったように俺の胸釦に引っ掛けてしまうこともあっただろうに、白い毛先は彼女の周囲でふわふわと舞い上がってそして緩やかな軌道を描いて細い肩に落ち付いた。
「黙り込まれると此方も反応に困ります」
少尉は肩を竦めて眉を下げた。
「いや、悪い。長い髪を見慣れていたからどうも違和感が、な。なんだか俺が落ち着かない」
「あはは、早く見慣れて下さい」
でも正直に申しますとなんだか首が寒い気がして小官も落ち着かないのですよ、と首筋を隠すように手を当てて首を傾げた。被弾箇所に合わせて切り揃えた際に正面も何もかも整え直したのだろう、横顔も随分と稚くなった。軍服の背を覆い隠していた白百合色の髪を再び目にする日まであとどのくらいの年月を要するのだろうか。
「流石にケンカルテも何もかも差し替えだな。本意で無いとはいえ殺気立った事務局の小言に耐える準備はしておくように」
「それは気が重くなりますね。今まで以上に中尉殿の御髪が羨ましくて仕方がありません」
「…すまない。気を悪くさせたか」
羨望を向けた言葉の裏に隠れた感情が悲観を滲ませていることに本人は気が付いて居なかった。反射的に出てしまう取り繕った笑みを指摘されて初めて表情を曇らせる。
「いえ、いいえ。願掛けの意味でも伸ばしてはおりましたが、こればかりは……もう、どうにもなりませんから」
次第に声が小さくなっていく彼女は最後まで言葉を吐いた後、息を詰まらせて押し黙る。
兵科運用に頭一つ抜きん出ている帝国ですら絶対数が限られる魔導師は、軍隊と言えども規律や待遇に関して云えばある程度の優遇措置が取られている。例に、兵科の特性上不可欠である高カロリー食の優先配給であったり、コネクションを駆使すれば技術検証を名目にした国内工廠からの武器・魔導具の提供が比較的容易に受けられるというものだ。…個人単位で融通の利く点と言えば男女問わず士官級の私物・頭髪規定が緩いくらいしか浮かんでこないが。
現に目の前の彼女は願掛け以上に自身の失った長髪に寄せた想いがあったようで、諦観を滲ませた表情が其れを物語っている。
「理由を訊いても?」
「中尉殿を呆れさせてしまうかもしれませんよ」
口振りからして特段秘密にしたい訳でも無いらしいがそれなりに言い憚られる内容なのだろう。視線は地に落ちた儘、彼女は少し逡巡した後、俺に一瞥もくれず口を開く。
「…故郷に還れるとしたら、私が私だと直ぐに分かって貰えるように、と」
遺せるものが此れしか浮かばなかったと彼女は言った。目立つという一点に関して言えば、彼女を構成する身体的特徴は他者との判別が容易であることは違いない。戦死者の遺体が故郷に戻れるなんてことは稀だ。だけれども、もし、友軍の誰かが回収してくれたのなら、と最期の想いを汲み取ってくれるのではないかと淡い期待を捨てきれなかった、と。
「思考がこの上なく後ろ向きだな」
「中尉殿も大隊長や副長と同じ反応をされるのですね。この捻くれた思考が小官の『地』なんですよ」
「恩給の帰省休暇を勝ち取るくらいの気概をみせたらどうだ。叶うかどうかも分からない死後の想いを託すよりも、…家族や恋人なら其れを望むだろうに」
彼女の内情に安易に踏み入れて良いものではないと理解していながら、男は訊かずにはいられなかった。これは上官二人には既知の内容であったことに対する嫉妬の感情からくるものではない。拠り所にしていたものが失われた時に生じた隙間を埋めることは容易ではなく、長く張り詰めている時に、何が切っ掛けでもなく、それこそひとつ息を吐いた瞬間に、呆気なく崩れ落ちてしまうことをケーニッヒは幾度も目にしてきた。軍属の身である立場上戦場に感情を持ち込むことはご法度であるが、個人の精神的支柱となるものは突き詰めれば己の感情に辿り着く。願掛け以上の想いを託すものが失われた今、彼女は多分、自身が想像する以上に揺らいでいる。
「故郷に戻るのは終戦後と決めていました。此処に来るまで色々とありましたから…私事ではあるのですが」
弄り馴れない高さにある毛先を軽く梳くと、直ぐに重力に従ってさらりと肩に落ちる。彼女は誰に向けた感情かは明かさなかった。家族かもしれないし故郷に残した恋人がいたかもしれない。その大切な何かに背を向けてまでして覚悟を決めて自ら戦場に立つことを選んでいるのだ。だから外野の俺がどうこう口を出すのは筋違いなのだろう。───だとしても。
「これから俺が言うことは只の独り言だ。だからこのまま聞き流してくれて構わない」
地に伸びた隣の影は僅かに揺れただけで沈黙を保っている。俯いた儘の影の主を目の端で捉えた後、言葉を続けた。
「貴官の覚悟は貴官自身のものだ。志も理由も他人に指図されるものではない。」
大切な人間が何者であろうと関係ない。ベルイマン少尉の覚悟に他人が入る余地が無いことを承知の上で放って置くことが出来ないのだから、彼女に抱く個人的感情は本当に厄介でどうしようもない。
「今の長さも似合わない訳では無いんだ。…ただ、長い方が少尉らしいな、と」
慎重に言葉を選ぼうとしたつもりであったが励ましてやることさえ出来ない自分にケーニッヒは辟易した。女性の哀しみを和らげる気の利いた科白のひとつやふたつ今までの自分ならば直ぐに出て来たものだが、気落ちしている彼女の前では託けた言葉すらも浮かんで来なくて、終には自身の好みを告げただけじゃないか。阿呆か。
「ええっと…」
案の定困らせた。俺が幾ら独り言と前置きを述べていようと無視出来ないのは当然だ。困惑した声色が返す言葉を懸命に探している。
「あー…何ら慰めにもならんな。悪い聞き流してくれ」
自ら悪くした場の空気に耐えられなくなって誤魔化すように後頭部をガシガシと掻く。結い上げた自身の髪が少し乱れて髪紐の位置が僅かに下方へずれた気がしたがどうでも良かった。反応が無い彼女を横目で盗み見ると視線を地に落としたまま黙り込んでいる。白の一房を摘まみ毛先を弄ぶ指先は所在なさげでいてどこか物悲しく映った。
好きだったのだ。さらりと背を滑る艶やかな毛先が、風に揺蕩う長い髪が、宵闇に染まり薄い青みを帯びる月白色が。
脳裏に残る過去の彼女の姿に想いを馳せていると、俯いていた彼女がゆっくりと此方を見上げた。緋色の瞳と視線が交わると瞬きをして微苦笑を溢す。
「きっといずれ馴れてしまうのでしょう」
右手は隠すように首筋置いている。『でも』一拍置いて再び瞬きをした後の顔色は先程よりも随分とすっきりしたように思えた。
「また伸ばしてみようかと思います」
『…やっぱり首が寒いのは落ち着かなくて』と後から取って付けた言葉を吐いた時には彼女は何時ものように眉を下げた困ったような顔をしていた。相変わらず嘘を吐くのが下手くそだ。
「俺には暑そうにみえるが」
喉奥から自然と込み上げた笑いをくつくつと押し殺しながら襟で隠れている白皙の首筋が赤く染まっていることを指摘すると、ぷくっと頬を膨らまして顔を背けて拗ねた声を上げる。
「そうでしょうか。寒くて堪らないですよ」
彼女は未だにぎこちない仕草で襟元を擦っている。
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