幼女戦記(名前変換)
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7.火の試練
(1)出撃前
「それはそうと…グランツは診てやらなかったのか?」
セレブリャコーフ少尉の右隣で黙々と食事を摂るベルイマン少尉に視線を送ると、彼女は咀嚼していたK-Brotを代用珈琲で流し込み、口元を拭ってから漸く口を開いた。
「…前線で慢心されて行動をなさる方にはこれくらいの手傷は丁度良い薬になるかと」
ベルイマン少尉にしては珍しく棘のある素っ気ない声色に加えて、彼女は其の赤い眼を半目にしてグランツ少尉を睨みつけた。白い前髪で隠されている眉間には恐らく皺が寄せられているのであろう。彼は其の視線から逃げるようにバツの悪そうな表情をしている。
平時であればこの程度の傷、彼女はすすんで治癒術式を施して治してやっても良い筈なのであるが、彼女もまた、ライン戦線上空でのグランツ少尉の軽率な発言と行動をしかと把握していたらしく(小隊規模でも行動を共にしていれば当然のことなのだが)、『あとで手隙の看護兵にでも処置して貰えば良いんですわ』と言い残してぷいっと顔を背けた。グランツ自身も帰投後に彼女に声を掛けることをしなかったものだから其れも余計に彼女の癪に触ったのだろう。軍務を抜きにしても普段から良好な関係を築いている部下二人がこういった気不味い空気を醸し出すのは珍しいことではある。とはいえ、先任と後任の不和と言うより、どちらかというと姉弟喧嘩にしか見えないと言ったらこの二人は怒るだろうか、それとも呆れるだろうか。
+++++++
都市殲滅戦───今次戦争の形態変化は目まぐるしいものだと最前線勤務の折自らの肌で実感していたが、今し方下された軍令をすんなりと受け入れて遂行の任にあたるには、身体の芯がぐらぐらと揺れていると錯覚する程度には平常心を失っていた。ライン戦線で銃先を向ける相手は共和国軍であり、戦線維持の為に敵国軍人を排除するのは帝国軍人の務めである。ところが本作戦はどうだ。共和国軍と民兵と非戦闘員が入り混じる都市戦闘で敵勢力のみを排除するなんてこと出来る筈が無い。命令に対する動揺が大隊内で伝播することを避ける為にヴァイス中尉には沈黙を命じられたが、口を閉ざして内に留めている方が反って毒であるかのように思えて仕方が無かった。
「お待ちになってグランツ少尉」
ざわざわと焦燥感が身体中を満たしていく感覚に陥っていく最中、背後からベルイマン少尉に声を掛けられる。此方の返事を待たずに右手に触れられたかと思うと、右手は其の儘彼女の白い両手に包み込まれていた。瞳が鮮やかな緋色に発色し、胸元の演算宝珠を中心に緩く起き上がった風の流れを頬に感じたのと同時に、じんわりとした温い感触と微かな電流のようなものが指先から右肘付近まで駆けていく。───先程まで疼いていた利き手患部の痛みはすっかりと消え失せて、今はただ革手袋越しに柔い人肌の感触に支配されていた。彼女は患部から目を離すことなく、被弾した箇所の状態確認の為、右手の革手袋と留め具を馴れた手付きで外し、するすると包帯を解いていく。
「作戦に支障があっては困りますから」
目視と触診で異常が無いか確かめた後、『問題無さそうですね』と独り言を溢して目を伏せる。再び開かれた赤い瞳と視線がかち合うと彼女は表情筋を緩めた。その表情は平時に見せるような安堵感を与える其れでは無く作戦行動前の独特の緊張感を孕んだ凛とした面持ちで、心の何処かでこの人も自分と同類では無いかと勝手に思い込んでいたグランツは軍務中と変わらぬ表情を向けられたこと反って動揺した。妙な期待を抱いていた分、突き放されたのだと脳が錯覚を引き起こして、外した右手袋を握らせてそのまま踵を返して去ろうとするベルイマン少尉の手首を思わず掴む。咄嗟に出た行動故に力加減が思う様に出来ず、ギリッと掴んだ手首から上がった悲鳴を脳が認識して初めて握り潰す勢いで掴んでしまったのだと気付かされるが、慌てて手を離そうとするも指の関節が軋んで上手く動かせない。まごつく様子を静かに眺めるベルイマン少尉は、ぎこちなく動かそうとする手の甲に、空いた右手を重ねてゆっくりとひと撫でをした。
「───ベルイマン少尉は」
「……大丈夫、いつも通りですよ」
幼子を諭すような手付きと声音に、握り込んだ指の力が自然と抜けて今度こそ手が離れていく。テキパキと自らの両手袋を装着した彼女はライフルを担ぎ直して隊列形成の輪の中に姿を消していった。
印象的な後姿を見送ってから彼女の言葉をただただ反芻する。
『自分達は軍令に従えば良い』
そう、それはいつも通りだ。
言葉の含意を読み違えてはいない、考え過ぎることは無い。
それなのに、
(引鉄を引く感覚が思う様に思い出せない)
(2)帰投後―グランツとケーニッヒ
「訓練中に昼寝とは良い度胸だな」
頭上から降って来たのは何処かで聞き覚えのある台詞と、恐らく彼の人に近付けたであろう口調。
それがあまりにも似て無くて、込み上げてきた笑いに堪えきれなくなり直ぐ様口元を覆い隠そうとしたが、終には間に合わずに上官を目の前に吹き出してしまった。
「お前……その傷は笑えないからな」
地に四肢を投げ出した間抜けな体勢から上体を起こして中尉殿を見上げた。彼は咎めているような、それでいて苦笑ともとれる何とも微妙な呆れ顔をして此方を見下ろしている。
僅かに細めた目が向けられた先のものに気が付いて、彼の放った鋒が掠めた頬をなぞるように触れた。
……出血は大したこと無い浅い傷が線を引くようにこめかみまで延びていた。此の人が咄嗟に軌道を逸らさなかったら耳まで持っていかれたかもしれない───在り得た事態を想像して思わず顔が引き攣る。
「俺との稽古で他の事に気を取られていられる程、お前は扱い慣れていないだろうに」
空を切るように矛を振り払い、付着した血を布で丁寧に拭って鞘に収めた。
ああそうか今日の訓練はこれで終いか。
「剣の扱いに関して、この大隊でケーニッヒ中尉に叶う人間なんておりませんよ」
「…わざわざ長剣なんか持ち出さなくても魔導師なら銃剣や魔導刃で事足りるからな」
褒めたつもりの発言を、中尉殿は皮肉として受け取ったらしかった。彼の素直じゃない物言いに、今度は此方が苦笑する番になる。
彼とて出撃に際し常に長剣を携帯している訳では無い。寧ろ魔導行軍中の限られる荷に加えるには不適切の得物だ。オース・フィヨルドの際には珍しく持ち出していた事は知っていたけども、敵砲台制圧という作戦の性質でいえば、武器の選択肢としては『有り』なだけで、第一、魔導師であれば近接格闘に持ち込まずとも鎮圧の手段など如何様もある。
幼年・士官学校でも体術や銃剣術など一通りの演習過程は当然組み込まれているが、航空魔導兵科においては対人格闘は重視されていないのが現実。
戦争においては砲撃こそ正義。
魔導師の軍事転用によって戦争の形態変化はあれども結局のところ重砲には叶わず、火砲並みの威力を持ち展開力の高い航空魔導師を近接戦主体で運用するのは意味が無い。それは中尉殿も承知の上で、それでも日頃から剣術の鍛練を独り続けているものだから、そんな彼に感化されるのは時間の問題だった。
「俺みたいな人間は、魔導師としては『変わり者』の部類だろうな」と彼は笑った。「そんな俺に声かけるお前も大概だからな」とも付け加えて。
ケーニッヒ中尉とは時折こうした空き時間に剣を交える。
フェンシングなら腕に覚えがあり、自分の実力に慢心しているつもりは無かったが、「是非自分をお相手に」と勇ましく申し出た割りには、あまりにも勝負にならず現状は彼に弄ばれてしまっている――彼の言葉通り稽古をつけて貰っている立場だ。
それに空き時間といっても、彼は第三中隊長という立場上、毎日のように自主鍛練に時間を割けるほど暇な人物ではない。それに先日の戦闘で負傷・離脱したヴァイス中尉に代わり、副長代理としての職務も兼任しているのだから現在は多忙を極めているはず。
だからここ最近は気を遣って自分から声を掛けることはしなかった。
「でも珍しいです。『変わり者』の中尉殿から声を掛けて下さるとは。…今までにありましたっけ?」
そう、声を掛けるのは決まって自分からだった。
彼の自主鍛錬中に割り込むように突撃し、毎度の様にこてんぱんに伸されている内に、ヴァイス中尉に「あのケーニッヒに弟子入りしたのか」と嬉しそうに話題を振られるようになるし、ノイマン中尉には「ケーニッヒの面倒を見てくれる奴が増えてくれて俺の負担も漸く減るってもんだ」とか。彼ら中隊長同士の付き合いは良く分からないけれど、ケーニッヒ中尉も取っつきにくそうな印象は受ける反面、直属の部下ではない自分が自主鍛錬中に『邪魔』しにきても邪険にすることはしない。
苦言を呈されることもあるけれど、それは技術面に関する助言を彼の言葉で婉曲的に表現しているだけで、内面とても部下想いの方だということも良く知っている。
腰を下ろし、医務から拝借してきたであろう応急キットを拡げている彼にそう問い掛けると、丁寧にサージカルテープを切っていた手がぴたりと止まった。───三秒くらいだろうか、少し間が空いた後、彼は静かに鋏を置き、今度は空いた手で滅菌ガーゼの封を乱暴に引き千切っている。眉間に皺を寄せたその表情は険しい。
(…何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか)
自分の発言後から意図的に合わない視線。彼が手ずから傷の処置の準備をしてくれているというのに、妙に居心地が悪い。
不安な表情を隠そうともせずおろおろしていると、顔を上げた中尉殿と漸く目が合った───いや、視線が合ったのはほんの一瞬のことで直ぐに顔を逸らされてしまった。彼の行動の意味が全く分からず、逸らされた顔を覗き込んでみると───目を閉じて笑いを堪えている。
「中尉殿…幾らなんでもあんまりじゃないですか」
質問には答えてくれず、不穏な空気に耐えかねている自分と視線が合った途端笑い出す彼に不満を漏らす。
くつくつと喉の奥で笑う男は一頻り笑い終えた後、何事も無かったように処置を再開した。
「いや何だ…、いざ一人で鍛練をするとなると随分と物足りないものだと思ってな。…ここ最近は必ずと言って良いほどお前が引っ付いてきたから」
確かに中尉殿について剣術の指導を受けていたのは事実だけど。
「構ってやるのはいつも俺の方だったのに、お前が来ないと味気ないと思う自分が可笑しく思えただけだよ。お前いつも犬っころみたいに後ろを付いて回るからさ」
つまり中尉殿は自分を飼い犬とでも思っていたということか。
……犬扱いされる方が余程傷付くんですけど。
如何にも『不満です』、と表情を露わにしても中尉殿は気にも留めず、患部の処置を続ける。消毒液を染み込ませたガーゼが肌に触れると、浅い傷口がじくりと痛んだ。
+++++++
「何というか───思ったよりも引き摺っていなくて安心した」
何気なく発せられた中尉殿の一言にどきりとする。
「…一体、何のことで」
慎重に言葉を紡いだつもりだったのに声が震える。
平静を装うことが出来ずにいる自分を叱責するかのように、心臓がどくどくと脈を打ち耳の奥を震わせる。
「…『あれ』から様子がおかしかっただろう」
『あれ』
心当たりは一つしか無い。
もはや共通の認識ですらある『あれ』を敢えてぼやかして言う中尉殿の言葉は、煉獄と地獄の情景と、肌に纏わりつくべたりとした感覚、人が焼き爛れていく臭気を反芻させた。
酸の液体が胃と食道を焼かんとばかりに暴れ始めている。
「…、そんなことは」
「少佐殿との遣り取りは知っているからな。俺があの場に控えていたことも覚えていないのか」
彼はわざとらしく溜息をひとつ漏らした。HQと少佐殿の通信から自分の抗命未遂まで一部始終見られていたという訳か。
それはそうだ、負傷・離脱したヴァイス中尉から次席指揮権を引き継いだケーニッヒ中尉があの場にいたのは何ら不自然な事では無い。軍人として有るまじき暴挙。そしてその行為に目を瞑り処罰を下さなかった上官等。あの行為の弁明を求められている訳ではない。かといって自分の中で消化出来ていない蟠りを上官に吐露出来る程、未だに感情の整理がついていない。
言葉を探すように視線を彷徨わせたが終には見つけることも出来ず、諦めて口を噤んだ。
黙り込んだままの自分を中尉殿は咎めようとはしなかった。
頬を叩くように新しいガーゼを抑えつけると、先程切ったサージカルテープをてきぱきと貼りつけていく。
「随分と男前になったな」
「……少し大袈裟じゃないですか、これ」
頬杖を付くように患部を覆うガーゼに触れる。頬からこめかみ近くまで伸びているとはいえ浅い傷だ。それにしてはこの大判のガーゼは大袈裟というか大雑把というか。
「ラインで慢心した挙げ句、利き手を負傷した大馬鹿者が今更何を言っているんだ」
「ああ…それもご存知だったんですね…」
本当にこの人は周りを良く見ている。今回は上官との対人訓練中の怪我。気を散らしていた自分が悪い。
再び溜息をひとつ溢した中尉殿は、バツが悪くて再び口を噤んでしまった自分を気に留める風もなく、拡げた応急キットを片付けて一足先に戻る準備をしていた。腰を上げ、軍服に付いた砂埃を手で払っている。その砂埃を追って自然と視線は地に落ちる。
「───思い悩むのは悪いことじゃない」
不意にかけられた彼の言葉にはっと顔を上げようとするが、上から伸びて来た手に頭をぐっと押さえつけられ、目線は地面に向いたままを強いられた。
「その感覚は忘れないでおけよ」
普段と何ら変わりない声色。
特に優しい言葉を掛けられた訳でも無いのに、消毒液の匂いがつんと鼻の奥を刺激して、思わず涙腺が緩んだ。
(3)帰投後―ケーニッヒとヴァイス
「ヴァイス中尉が抜けてから、色々と思うところがありましてね」
療食の下膳と入れ違い様にするりと入室した同僚は、挨拶もそこそこにベッドサイドに置かれた一脚の丸椅子に『どかり』と大きな音を立てて腰を掛けた。
彼が此の病室に来ることは珍しい事では無い。先日の戦闘で負傷した自分に代わり、次席指揮官としての職務代行に加えて、不在中の自分の部隊の近況報告も頼んでいるのだから、訪問頻度は自然と高くなる。顔見せついでに第二中隊の誰かを遣わせれば良いのだが、「基幹要員ならではの込み入った話もあるから」とケーニッヒが先んじて申し出てくれたことで、彼に更なる多忙と負担を掛けることを理解していながらも現状は其れに甘えている。
帝国内外を東奔西走するの我ら二〇三大隊もアレーヌ市の戦闘を終えて一時的に後方待機を命じられており、現在の駐屯地から然程離れていない療養施設に入るともあらば、同僚や部下が見舞いに訪れるというのも難しくは無い。其れは彼の限りある余暇の時間を潰していることにもなるのだが、ケーニッヒも彼なりにひと時の後方待機を満喫しているようで、今日のように香の匂いを微かに纏わせた儘此の部屋を訪ねることも少なく無かった。
ただ、今日に限っては妙に表情が静かというか、先程の一言を発した後、口を開くことなく、自分と向き合いながらも何処か遠いところを見つめているような視線を寄越してくる。
落ち着いているようにみえて、それでいて何処か不安定。
普段は如何なる時でも整然としていて内面を読み取り辛い彼だけれども、場に呑まれて珍しく酔い潰れた時とか、部下が不在の時であったりとか、知る限りは自分とノイマンの前でしか見せない独特の空気感というものがある。
『冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也』
この空気感をそう表現したのはノイマンだった。普段は彼が中流諸階級の出自だということを忘れがちになるのだが、ふとした時に家柄の良さを匂わせる行動や言動を取ると、その度に彼の経歴を思い出してはびくりとしてしまう。(―――彼が女性を口説く所作や方便に秀でている事実を目の当たりにしたことで、ノイマンに対する人物評価がやや偏向している影響も否定はしない)
野郎相手に随分と繊細且つ文学的な例えを持ち出したものだと酔いの所為もあってその場は笑い飛ばしてしまったのだが、今思い返してみると表面的にですらあるが言わんとしていることが理解出来たような気がした。二十四節気で言うところの立冬、雨と霧の気配を常に纏っている空気感があるという点では確かにそうなのだろう。
ケーニッヒ本人が自覚しているかどうかは分からないが、あまり他人に聞かれたくない折り入った話を切り出す時、彼はこういった空気を連れて来る。
(ケーニッヒの冷めた表情と何処か温いモノを抱えるこのちぐはぐとした空気が充満するこの部屋は、正直酷く居心地が悪い)
「すまない。特にケーニッヒには負担をかけてしまっているな」
ヴァイスは眉を下げて肩を竦めた。
「いや、良いのです。別に責めてる訳でもなし。
負傷で戦線離脱をするのは誰しも有り得ることですし今は治療のみに専念して下さい。……と、本来であれば言いたいところなんですけどね」
一呼吸置いてゆっくりと瞬きをしたケーニッヒの琥珀色の瞳は射抜くような鋭さを孕んでいる。先程まで朧げだった視線は何処かに消え失せていた。
季節はもう初夏だというのに指先が痺れたかのように冷たくなっていくのを感じる。彼の視線に怯んだ訳ではない。ただ、これから彼が紡ごうとしている言葉に、―――自分を咎めようとしていることに思い当たる節があったから、押し寄せた緊張の所為ですっと胸の芯が冷え、血液が行き届かなくなった末端が感覚を失っていっただけだった。
「…グランツのことか」
療養中、…否、後退を余儀なくされた時からずっと気懸かりだった部下の名を口にする。
グランツとはあれから殆ど言葉を交わしていない。
「あいつに限ったことではないですけどね。比較的年長者が多いうちの部隊にもおりましたよ」
第四中隊はどうだったか。───ああ、あいつの部隊は若い奴が多いですけど、ノイマンは人一倍面倒見が良いんで、そこは心配要らないでしょうよ。
自ら連れて来た重い空気に反して、ノイマンの部隊を引き合いに、ケーニッヒは思いの外さらりとした物言いで言葉を続けた。
「『あの』命令に動揺する気持ちは分かります。特にグランツは促成課程の煽りをモロに受けた世代だ。尉官の素質は十分あるにせよ、現状ではまだ自覚も、───覚悟も足りなかったんでしょう」
「…抗命未遂の件か」
戦線離脱後は其のまま副長業務をケーニッヒに移管したとはいえ、彼を通さずとも部隊の状況は耳に入って来る。少佐殿を始めとする基幹要員からは何も聞かされていないが、他の隊員から凡その内容は聞き及んでいた。幸いというか抜かりが無いというか、二人の会話は大隊内のオープン回線にも繋いでおらず、HQと少佐殿の通信からグランツの抗命未遂の仔細を把握している人間は当事者を除いてケーニッヒただ一人である。
「小官も傍らに居ながら肝を冷やしましたよ。…全く、少佐殿がお優しい方で良かったですね」
いつもの彼らしい皮肉めいた声色とは裏腹に、其の表情は固い。
「お前が居てくれて本当に助かっている。グランツのことも相変わらず気に掛けてくれているのだろう?」
ケーニッヒが一人で剣術の鍛錬をしていることはヴァイスも勿論知っていた。そこにグランツが弟子入りを志願したことも、そのグランツが毎度のように完膚なきまで彼に伸されていることも。
「今に始まったことじゃないです、あいつが後ろから付いて回るのは」
「こういうことを言うとお前は怒るだろうと思うけれど、満更でもなさそうに見えるんだが」
そうを尋ねるとケーニッヒは怒る素振りは見せず、ただ眉間に皺を寄せて大袈裟な溜息を一つ溢した。
「グランツの奴、剣の腕もまだまだだって言うのに、犬っころみたいに毎度懲りずに『構い倒せ』と見えない尻尾を振って主張してくるんですよ。アレを断る方が労力が要る。それに、暑苦しいですけど放って置くのも危なっかしいですし」
「…危なっかしいか。まぁ、そうだな」
「ええ。リードが不要になれば小官も中尉殿も大分楽になるんですけどね」
ケーニッヒは『はぁ』と大袈裟に肩を揺らして再び盛大な溜息を溢す。日中に凝り固まってしまったであろう両肩を解し、天井に向けて小さく伸びの動作を取った彼の挙動の始終をヴァイスは目を逸らさず見つめた。―――ケーニッヒの話が此れで終わる筈が無いと理由の無い確信があったからだ。冷えた指先を無意識に擦る。
ケーニッヒの視線がヴァイスの其れとかち合ったのは一瞬のことで、どういうわけか彼はそのまま視線をヴァイスの手元まで落とし、顔を直視しない儘口を開いた。
「小官が気にしているのはグランツのことじゃなくて、───ヴァイス中尉、貴方のことなんですけどね」
「ははっ、……まさかお前に心配を掛けさせてしまうとは、な」
乾いた笑いとともにヴァイスは肩を落とす。
色々と考えさせられるには時間は十分過ぎた。この療養中、暇を持て余すことすら忘れてしまう程に。
グランツの抗命未遂の原因の一端は自分にあったという自覚は当然あった。アレーヌ市出撃前のフォローは必要であったにも関わらず、其れを怠ったのは他でも無い自分だ。副長でもあり第二中隊を率いる立場の人間が、ツーマンセルの年若い少尉を残し早々に戦線を離脱。この件に関してデグレチャフ少佐は沈黙を貫いているけれど、何らかの形で処罰が下った方が幾らかマシであった。
大層な失態を晒したというのに誰にも責められないのは何故だ。副長という己の立場がそうさせるのか。目の前の同僚ならばもしかして、と心の何処かで思うところが無かった訳ではないが、其の期待は見事に裏切られた訳だ。
望む働きが出来なかった自分を直属上官ですら咎めようとはしなかった。
デグレチャフ少佐は一体何をお考えなのだ。
『帰ったら覚悟しておけ』
離脱時に掛けられた彼女の言葉の意味を未だに知らないでいる。
+++++++
「…今、中尉殿が何をお考えなのか小官にはわからないですけれど、たぶん、そういうところですよ」
悶々と思考の回廊に迷い込んだヴァイスをケーニッヒの発した一言が現実へ引き戻す。先程まで床に向いていた琥珀色の瞳は何時の間にかヴァイスの菫色の瞳を覗き込んでいて、思考の海から這い出たばかりで意表を付かれたヴァイスは一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。詰まった息を時間をかけて吐き出すのを見届けたケーニッヒはヴァイスから視線を外す。
「大方、『考え過ぎ』ていたのでしょう」
「…少佐殿にも同じようなことを言われたな」
「ほう、当たっておりましたか」
ケーニッヒは自身の狐目を弓形に曲げて笑う。酒を酌み交わす時に見せる上機嫌な其れとまではいかないが、自分も酔いが回っていない分、ケーニッヒの満足そうな表情がはっきりと視認出来る。あの時もこれ位の余裕が自分にあれば…と思うとキリが無いがそう思わずにはいられなかった。
「これは持論ですけど、小官は感情に振り回されることを悪だとは考えておりませんよ。思い悩む気持ちも理解は出来ますが」
「そうは言っても自分たちの立場と状況を弁える思考は必要だ。自制が出来なければそれは人間では無く只の獣に過ぎない」
「つまりヴァイス中尉殿とグランツは『獣』だとでも?」
「そう、なのかもしれない」
自嘲気味の乾いた笑いが口から漏れた。
英雄願望が打ち砕かれた今でも、帝国軍人として祖国に貢献を為すという意志は変らない。そもそも幼年・士官学校時代に銃殺の経験も積んできている癖に、今更人間相手に引鉄を引くことを躊躇するなんて行いは愚かにも程がある。
向き合う現実から目を背けた。戦線離脱の理由はどうであれ、アレーヌ市での自らの行いは重大な軍規違反…敵前逃亡に他ならない。少なくともヴァイス自身そう重く受け止めていた。
「───っ、たく、あんたは本当に莫迦なのか真面目なのかわからない人ですね!」
急に声を荒げたケーニッヒを見やると、乱暴な手付きで自身の額を抱え、心底『信じられない』といった表情で呆れていた。普段らしからぬ彼の態度に呆気に取られる。
「人としての理性も良識も持ち合わせているヴァイス中尉が『獣』である訳ないでしょう!第一、『獣』なんかを少佐殿が大隊副長に任命するとお思いですか?否。そんな訳が無いしょうが」
『それはヴァイス中尉が良くご存じの筈だ』と吐き捨てるように彼は言った。
ヴァイスは後頭部をショベルで殴打されたような衝撃と、『すこん』と身体の何処かで何かが抜け落ちたような音を聞いた。今の自分は己の立場を勝手に否定して、罪の意識に囚われるという感傷に浸っていたかっただけなのかもしれない。忠誠を誓い、己が全幅の信頼を寄せたデグレチャフ少佐の存在をも否定することに繋がるということにすら気付けないでいる程今の自分は蒙昧であった。
「───ぁ、ああ。…そう、そうだな」
蒙が啓かれる思いとは多分こういうことを言うのだろう。溜飲が喉元を通り過ぎたというのに、其れに反して口は上手く動かない所為で歯切れ悪い返事しか出来なかったのは彼を気を悪くさせただろうか。間の抜けた顔の儘ケーニッヒを見やると、先程此方へ向けた呆れ顔は何処へやら、彼は至って普段通り表情に戻っていて、特に気にした素振りは見せていない。
「加えて言わせて貰いますと、グランツに関しては例えあいつがヴァイス中尉の言うところの『獣』だとしても、俺は仔犬が粗相した程度にしか思っておりません。…今回の市街地戦での経験はあいつの強みになる」
「一度折られた心を立て直すにはまだ時間がかかるでしょうが、あいつの成長は愉しみでもありますよ」ケーニッヒは声量を落として独り言のように呟いた。
「今の言葉をグランツに聞かせてやれば良いと思うぞ。きっと泣いて喜ぶ」
「女性なら兎も角野郎に縋られるのは御免被りたいので、先程の囀りは聞かなかったことにして頂けませんか?」
「ははっ、まあ今日のところは忘れておくことにしようか」
「本当に頼みますよ?面倒事は避けたい性分なもので」
ケーニッヒからはいまいち信用していないと言わんばかりの不審が滲み出た目線が寄越される。再び軽く笑い飛ばしてみたら今度は眉を顰めて露骨に心底嫌そうな表情を向けられた。
「…すまない。揶揄っている訳では無いんだ。ただ、表面上は関心の無い素振りをしている癖に根は親切過ぎるものだから、その落差につい笑ってしまった。その、上手く言えないのだが、…そういうところはケーニッヒの美点だと思うんだ。そういうのが分かるから、グランツもお前に懐いているのだと思う」
飾り気無い人物評を本人を目の前に恥ずかしげも無く語るヴァイスの目はとても穏やかだった。一方で褒められるとは露にも思ってもいなかったケーニッヒは、突然のことに何時もの冷静な態度を振る舞うことが出来ずにヴァイスから顔を背ける。
「あんたのそういうところ、本っ当に敵わない……」
気恥ずかしさから首筋に手を置き平静を保とうと努めてはいるが、ヴァイスの言葉が反芻して彼の方に顔を向けられない。まさか自分が褒め殺しに遭うなんて、想定外にも程がある、そんな表情をしながら。
「………早く戻ってきて下さいよ」
やっとの思いで絞り出した声が精々嫌味たらしく聞こえれば良い。
先程から血色の良い笑みをたたえている副長の耳に届いているかは甚だ疑問ではあるが、今日は其れでも良いと思えた。
(4)帰投後―元衛生魔導師とグランツ
「あら少尉、……少し見ない間に随分と男前になられましたね」
此方を一瞥してからの第一声は意外にもあっさりしたものだった。彼女のことだから、にこやかな表情にたっぷりと嫌味を込めて小言の一つ二つでも言われる…のかと思い身構えていたのだが、そんな此方の都合を知ってか知らずか早速治療モードに切り替わった彼女は、指先でちょいちょいと擬音でも出そうな軽い手招きをして、椅子代わりにしている木箱に腰掛けるように促した。
「それ、ケーニッヒ中尉にも言われましたよ」
先程まで訓練の相手を務めて貰っていた上官の名を出すと、大きく頬を覆った白いガーゼ下の患部を透視術式で正面から眺めていた彼女はぱちぱちと瞬きをした後、少しだけ目を細め穏やかに笑った。
「何となく事情は分かりますが…負傷の原因を御伺いしても?」
医療用アルコールで清められた手が頬に触れ、ゆっくりと紙テープとガーゼが外される。凝固した血が皮膚とガーゼを接着させてしまっていて、剥がす際に引き攣るようにぴりりと痛んだ。
「えーっと、剣術の鍛練中に躱しきれなくて」
「剣術…というとやはりお相手はケーニッヒ中尉ですか。…あの方ったら加減を知らないんだから」
傷口とガーゼに付着した浸出液を交互に眺めて溜息を一つ吐いた彼女をみて思わず苦笑が漏れる。彼女も本気で腹を立てている訳では無く、ただこの場に居ない上官に小言の一つでも浴びせたいだけなのだろう。初犯ならいざ知らず、実はグランツもケーニッヒも過去に幾度も同様の前科を重ねている。
「小官が悪いのですよ。他の事に気を取られていて」
「外したとはいえ急所ですよ。浅い傷で済んだ事は流石と言いますか幸いと言いますか……」
「本当はこんな怪我で少尉のお手を煩わせるのは大変気が引けます……」
「この程度の傷なら全く問題ありませんよ。…無暗矢鱈に傷を増やされるのは勿論駄目ですけど」
現在は航空魔導師としてこの二〇三大隊に身を置く彼女ではあるが、過去に衛生魔導師として従事していたという珍しい経歴の持ち主である。その技術は折紙付きで、魔力量も平均以上の魔導師が揃うこの大隊でも群を抜く。治癒術式は魔力消費が激しく、衛生魔導師になる為にはまず化け物じみた規定魔力量をクリアーしなければならず、半強制的に徴兵される魔導適性者が安全と快適(かどうかは分からないが死の危険性が低いのは確か)を求めるには険しく狭き門である。
そんな化け物じみた魔力量を持つせいか戦闘後にも関わらず、大隊内の重傷者については彼女が治療にあたることが多い。とはいえ彼女も戦闘後ではあるので魔力切れを起こす前に自身の体力が限界を迎えて昏倒してしまうこともあるのだが。『私の場合は少し休めば大丈夫ですから』と彼女は言うけれど、それでも大したことのない怪我で彼女に治療を頼むのは気が引けた。だから軽傷の時は衛生兵に頼むか自分で処置をすることもある。
「フォロー出来る範囲であれば遠慮はしないで欲しいものです。精神的なケアは専門外で申し訳ないですが」
「…ベルイマン少尉はいつも通りだったのですね」
「私事ではありますが…未だに折り合いを付けられていないことは小官にも沢山ありますよ」
彼女は呆れたような、それでいて少し傷付いたと言わんばかりにの何とも言えない表情で眉を下げた。
「ヴァイス中尉のお見舞いに来られないのはそれが理由ですか?」
どくん、彼女の発した言葉が質量を持って圧し掛かりグランツの心臓に負荷を掛ける。
本日二度目の感覚だ。触れられたくないところに触れられて思う様に口が動かせなくなる。副長代理であるケーニッヒ中尉も、所属中隊の部隊長を欠いたベルイマン少尉も、思うところは同じであるらしく、また、部下である自分を気に掛けて下さるのは大変有り難いことなのだが、その厚意に応えられるだけの解は未だに見付けられていない。息を詰まらせている自分をみて、少尉は眉を下げて申し訳なさそうに口を開いた。
「本当は言うつもりは無かったのですが、つい。───こういうことは時間が掛かりますよね」
「…『軍人だから』の一言で片付けば何事も楽なのですが」
「軍人としての資質を疑う次元はとうに過ぎてしまいましたからね。今更落伍者の烙印を欲している訳でも無い」
「何時になく辛口ですね」
「そう思わないとやっていけない時もあったりします。これも人それぞれですよ」
目の前のベルイマン少尉も恐らく、彼女の言葉通り全てを割り切っている訳では無いらしかった。嘘を吐くことを不得手としている彼女は、上辺だけで人に寄り添う言葉を吐こうとするとすぐに表情に出てしまう。そういった自覚もあるからこそ、今の様に彼女自身が本心を吐露してしまった後、自身の言葉を有耶無耶にするようにして他人と距離を取りたがるのだ。
「ベルイマン少尉はそういうことに疎いと思っておりました」
「───少尉、その喧嘩はお幾らですか?」
「売ってはいませんけど幾らなら買って下さいます?」
「そうですね…では治療費と引き換えということで」
『治療費なんて過去にも請求したことが無いでしょう』……彼女が珍しく吐いた冗談にそう言い返そうと唇と開くと、口角が引き攣って言葉が音にならなかった。仕方無く笑って誤魔化そうとするもぎこちない笑みを作ることしか出来ない自分。
対面では取り繕うような微苦笑をたたえた表情を崩して、少し悲しげに目を伏せた彼女は、一呼吸置いて患部に手を伸ばす。直接触れるか触れないかといった距離で、じわりと人肌よりも温く、緩い空気の壁がそこにあるような抵抗を感じた。幾重かの柔らかい帯状の光の中に術式列が流れ肌の内に消えていく。
「はい、終わりましたよ」
治療時間はものの5秒と掛からなかった。
「う、わっ、ありがとうございます。」
以前も利き手の怪我を治して貰ったが、これは何度体験しても感動する。四肢欠損の大怪我までも元通りに出来るというのだから、元衛生魔導師にとってはこの程度の治療は造作も無いことなのだろう。
「戦時特化の履修課程でしたから裂傷くらいはお手の物です。…お陰様で内科系はからっきしですが」
先程一瞬覗かせた悲しげな表情はすっかり消え失せて、ベルイマン少尉いつものような気の抜けた顔でへらりと笑い、彼女につられて自身の表情筋もゆっくりと解れていく。
……先程よりも上手く笑い返せた、と思う。
(5)帰投後―ケーニッヒと元衛生魔導師
副長業務代行時、特に事務作業に関して云えばベルイマン少尉の手を借りることは自然と多くなる。ヴァイス中尉は以前から彼女を重用していて、副官に回さない部類の書面管理等の嵩張る作業を彼女に宛がっていた。
だから、という訳では決してないが、後回しにしがちな日次業務に執り掛かろうとする時分には夜もすっかり更けていることも少なくはない。そこに勝手知ったる人間が居てくれるのは大変有難いのだが、彼女にしては珍しく機嫌が悪いというか意図的に剣呑とした空気を放っているせいで、今この空間は大層居心地が悪い。ノイマンは早々に見切りをつけてそそくさと宿舎に戻っていったから今この空間にいるのは俺と彼女の二人だけだ。ノイマンからしてみれば気を遣った行動だったかもしれないが、平時はふわりと柔らかい物腰な彼女が、二人きりとなった途端に反応は何処か冷たくなったのだ。幾つかある心当たりの内、真っ先に浮かんできたのは娼館利用の件ではあるが、香の匂いは此処に来る前に落としてきているし、そもそも彼女とは色気のある間柄では無く咎められる謂れも無い。男性主体の職場における性欲処理問題について、事務手続き上か若しくは医療従事者としての観点で意見を述べる立場であり、『性病を貰ってくるようなことがあれば、状態確認の為に肛門からの前立腺触診等の検査は覚悟して下さい』と無機質な声音で忠告するくらいには割り切った対応をする人物であった。───嘘が吐けない性分である癖にこういった時だけ主観を交えずに話すものだから、彼女の恋愛変遷を推し量るのに苦労しているなんてこと、当の本人は知る由も無いのだろう。
書類仕事に目途が立ったところで漸くベルイマン少尉は口を開いた。
「…グランツ少尉の裂傷は中尉殿によるものだと伺いましたよ」
「人聞きが悪いな。手加減はしているし急所は避けてる」
「当たり前です」
ぴしゃり。食い気味に言葉を発したサガを見ると、怒っているというよりも呆れているようにみえる。
…やはりグランツのことであったか。ヴァイス中尉も目の前の彼女もグランツのことを大層気に掛けている。『ああいう』状態になったグランツについては療養に入ったヴァイス中尉の見舞いの際に彼と直接話すこともあるのだろう。部隊長を欠き、小隊規模でも行動を共にする後任将校がああいった状態に陥っているともあれば、ベルイマン少尉も気苦労が尽きない日々を過ごしているに違いなかった。
「余計な手間を掛けさせて悪かったな」
分かり易くむくれた少尉に謝意を伝えると、『小官が好きでやっていることですし、手間だと思ったことは一度もありませんよ』と余計に機嫌が悪くなったような反応を示した。
言葉選びを間違えたかと思い次の発言に慎重になっていると、其れを感じ取ったのかベルイマン少尉はふ、と表情を緩める。
「訓練とはいえ少尉に怪我を負わせたことに対しては怒っていますけど、…実は少しほっとしたんです。憑き物が落ちた、とまではいかないですけど持ち直す兆候があったように感じられましたから」
「ひねくれていない分、立ち直るのも早いだけだろう」
「…中尉殿が何かして下さったのでしょう?」
「買い被りだ。俺は何もしていない」
「そうでありますか。では、そういうことにしておきましょう」
ガタリと腰掛けていた椅子を後ろに引いて立ち上がった少尉はダブルクリップで纏め上げた書類の束を数冊を副長の自席に積み重ねた。一次精査に留まった書類の山に目を通すだけでも指揮者としては骨が折れる作業であるのだが、表紙の右下に位置する作業者欄の真下に記された監督者欄に『Matthäus Johann Weiß』と几帳面にフルネームで書き記されたサインをみてはた、と思考が止まる。
自分の視線を追ったベルイマン少尉は口元を押さえてくすりと笑った。
「ケーニッヒ中尉が多方面を気に掛けて下さっている時、ヴァイス中尉もまた、ケーニッヒ中尉をご心配して下さっていたのですよ」
企みが明るみになったことに悪びれもせず彼女はにこにこと笑みを絶やさなかった。少尉が足繁く彼の病室を訪ねていることは把握していたが、まさか病人にまで気を遣わせていたとは…。
「…っにしても、真面目過ぎるにもほどがあるだろ」
『治療に専念すれば良いのにあの堅物は…』と目の前の共犯者を傍目に片手で頭を抑えた。ヴァイス中尉もベルイマン少尉もグランツ少尉も……第二中隊の隊員は『人が良過ぎる』奴ばかりだ。利他的というかなんというか……自分自身の損得勘定の物差しが壊れていやしないか心配になる。
「第二中隊は揃いも揃って扱い辛い」
「あら、もしかしてヴァイス中尉と何かありました?」
(1)出撃前
「それはそうと…グランツは診てやらなかったのか?」
セレブリャコーフ少尉の右隣で黙々と食事を摂るベルイマン少尉に視線を送ると、彼女は咀嚼していたK-Brotを代用珈琲で流し込み、口元を拭ってから漸く口を開いた。
「…前線で慢心されて行動をなさる方にはこれくらいの手傷は丁度良い薬になるかと」
ベルイマン少尉にしては珍しく棘のある素っ気ない声色に加えて、彼女は其の赤い眼を半目にしてグランツ少尉を睨みつけた。白い前髪で隠されている眉間には恐らく皺が寄せられているのであろう。彼は其の視線から逃げるようにバツの悪そうな表情をしている。
平時であればこの程度の傷、彼女はすすんで治癒術式を施して治してやっても良い筈なのであるが、彼女もまた、ライン戦線上空でのグランツ少尉の軽率な発言と行動をしかと把握していたらしく(小隊規模でも行動を共にしていれば当然のことなのだが)、『あとで手隙の看護兵にでも処置して貰えば良いんですわ』と言い残してぷいっと顔を背けた。グランツ自身も帰投後に彼女に声を掛けることをしなかったものだから其れも余計に彼女の癪に触ったのだろう。軍務を抜きにしても普段から良好な関係を築いている部下二人がこういった気不味い空気を醸し出すのは珍しいことではある。とはいえ、先任と後任の不和と言うより、どちらかというと姉弟喧嘩にしか見えないと言ったらこの二人は怒るだろうか、それとも呆れるだろうか。
+++++++
都市殲滅戦───今次戦争の形態変化は目まぐるしいものだと最前線勤務の折自らの肌で実感していたが、今し方下された軍令をすんなりと受け入れて遂行の任にあたるには、身体の芯がぐらぐらと揺れていると錯覚する程度には平常心を失っていた。ライン戦線で銃先を向ける相手は共和国軍であり、戦線維持の為に敵国軍人を排除するのは帝国軍人の務めである。ところが本作戦はどうだ。共和国軍と民兵と非戦闘員が入り混じる都市戦闘で敵勢力のみを排除するなんてこと出来る筈が無い。命令に対する動揺が大隊内で伝播することを避ける為にヴァイス中尉には沈黙を命じられたが、口を閉ざして内に留めている方が反って毒であるかのように思えて仕方が無かった。
「お待ちになってグランツ少尉」
ざわざわと焦燥感が身体中を満たしていく感覚に陥っていく最中、背後からベルイマン少尉に声を掛けられる。此方の返事を待たずに右手に触れられたかと思うと、右手は其の儘彼女の白い両手に包み込まれていた。瞳が鮮やかな緋色に発色し、胸元の演算宝珠を中心に緩く起き上がった風の流れを頬に感じたのと同時に、じんわりとした温い感触と微かな電流のようなものが指先から右肘付近まで駆けていく。───先程まで疼いていた利き手患部の痛みはすっかりと消え失せて、今はただ革手袋越しに柔い人肌の感触に支配されていた。彼女は患部から目を離すことなく、被弾した箇所の状態確認の為、右手の革手袋と留め具を馴れた手付きで外し、するすると包帯を解いていく。
「作戦に支障があっては困りますから」
目視と触診で異常が無いか確かめた後、『問題無さそうですね』と独り言を溢して目を伏せる。再び開かれた赤い瞳と視線がかち合うと彼女は表情筋を緩めた。その表情は平時に見せるような安堵感を与える其れでは無く作戦行動前の独特の緊張感を孕んだ凛とした面持ちで、心の何処かでこの人も自分と同類では無いかと勝手に思い込んでいたグランツは軍務中と変わらぬ表情を向けられたこと反って動揺した。妙な期待を抱いていた分、突き放されたのだと脳が錯覚を引き起こして、外した右手袋を握らせてそのまま踵を返して去ろうとするベルイマン少尉の手首を思わず掴む。咄嗟に出た行動故に力加減が思う様に出来ず、ギリッと掴んだ手首から上がった悲鳴を脳が認識して初めて握り潰す勢いで掴んでしまったのだと気付かされるが、慌てて手を離そうとするも指の関節が軋んで上手く動かせない。まごつく様子を静かに眺めるベルイマン少尉は、ぎこちなく動かそうとする手の甲に、空いた右手を重ねてゆっくりとひと撫でをした。
「───ベルイマン少尉は」
「……大丈夫、いつも通りですよ」
幼子を諭すような手付きと声音に、握り込んだ指の力が自然と抜けて今度こそ手が離れていく。テキパキと自らの両手袋を装着した彼女はライフルを担ぎ直して隊列形成の輪の中に姿を消していった。
印象的な後姿を見送ってから彼女の言葉をただただ反芻する。
『自分達は軍令に従えば良い』
そう、それはいつも通りだ。
言葉の含意を読み違えてはいない、考え過ぎることは無い。
それなのに、
(引鉄を引く感覚が思う様に思い出せない)
(2)帰投後―グランツとケーニッヒ
「訓練中に昼寝とは良い度胸だな」
頭上から降って来たのは何処かで聞き覚えのある台詞と、恐らく彼の人に近付けたであろう口調。
それがあまりにも似て無くて、込み上げてきた笑いに堪えきれなくなり直ぐ様口元を覆い隠そうとしたが、終には間に合わずに上官を目の前に吹き出してしまった。
「お前……その傷は笑えないからな」
地に四肢を投げ出した間抜けな体勢から上体を起こして中尉殿を見上げた。彼は咎めているような、それでいて苦笑ともとれる何とも微妙な呆れ顔をして此方を見下ろしている。
僅かに細めた目が向けられた先のものに気が付いて、彼の放った鋒が掠めた頬をなぞるように触れた。
……出血は大したこと無い浅い傷が線を引くようにこめかみまで延びていた。此の人が咄嗟に軌道を逸らさなかったら耳まで持っていかれたかもしれない───在り得た事態を想像して思わず顔が引き攣る。
「俺との稽古で他の事に気を取られていられる程、お前は扱い慣れていないだろうに」
空を切るように矛を振り払い、付着した血を布で丁寧に拭って鞘に収めた。
ああそうか今日の訓練はこれで終いか。
「剣の扱いに関して、この大隊でケーニッヒ中尉に叶う人間なんておりませんよ」
「…わざわざ長剣なんか持ち出さなくても魔導師なら銃剣や魔導刃で事足りるからな」
褒めたつもりの発言を、中尉殿は皮肉として受け取ったらしかった。彼の素直じゃない物言いに、今度は此方が苦笑する番になる。
彼とて出撃に際し常に長剣を携帯している訳では無い。寧ろ魔導行軍中の限られる荷に加えるには不適切の得物だ。オース・フィヨルドの際には珍しく持ち出していた事は知っていたけども、敵砲台制圧という作戦の性質でいえば、武器の選択肢としては『有り』なだけで、第一、魔導師であれば近接格闘に持ち込まずとも鎮圧の手段など如何様もある。
幼年・士官学校でも体術や銃剣術など一通りの演習過程は当然組み込まれているが、航空魔導兵科においては対人格闘は重視されていないのが現実。
戦争においては砲撃こそ正義。
魔導師の軍事転用によって戦争の形態変化はあれども結局のところ重砲には叶わず、火砲並みの威力を持ち展開力の高い航空魔導師を近接戦主体で運用するのは意味が無い。それは中尉殿も承知の上で、それでも日頃から剣術の鍛練を独り続けているものだから、そんな彼に感化されるのは時間の問題だった。
「俺みたいな人間は、魔導師としては『変わり者』の部類だろうな」と彼は笑った。「そんな俺に声かけるお前も大概だからな」とも付け加えて。
ケーニッヒ中尉とは時折こうした空き時間に剣を交える。
フェンシングなら腕に覚えがあり、自分の実力に慢心しているつもりは無かったが、「是非自分をお相手に」と勇ましく申し出た割りには、あまりにも勝負にならず現状は彼に弄ばれてしまっている――彼の言葉通り稽古をつけて貰っている立場だ。
それに空き時間といっても、彼は第三中隊長という立場上、毎日のように自主鍛練に時間を割けるほど暇な人物ではない。それに先日の戦闘で負傷・離脱したヴァイス中尉に代わり、副長代理としての職務も兼任しているのだから現在は多忙を極めているはず。
だからここ最近は気を遣って自分から声を掛けることはしなかった。
「でも珍しいです。『変わり者』の中尉殿から声を掛けて下さるとは。…今までにありましたっけ?」
そう、声を掛けるのは決まって自分からだった。
彼の自主鍛錬中に割り込むように突撃し、毎度の様にこてんぱんに伸されている内に、ヴァイス中尉に「あのケーニッヒに弟子入りしたのか」と嬉しそうに話題を振られるようになるし、ノイマン中尉には「ケーニッヒの面倒を見てくれる奴が増えてくれて俺の負担も漸く減るってもんだ」とか。彼ら中隊長同士の付き合いは良く分からないけれど、ケーニッヒ中尉も取っつきにくそうな印象は受ける反面、直属の部下ではない自分が自主鍛錬中に『邪魔』しにきても邪険にすることはしない。
苦言を呈されることもあるけれど、それは技術面に関する助言を彼の言葉で婉曲的に表現しているだけで、内面とても部下想いの方だということも良く知っている。
腰を下ろし、医務から拝借してきたであろう応急キットを拡げている彼にそう問い掛けると、丁寧にサージカルテープを切っていた手がぴたりと止まった。───三秒くらいだろうか、少し間が空いた後、彼は静かに鋏を置き、今度は空いた手で滅菌ガーゼの封を乱暴に引き千切っている。眉間に皺を寄せたその表情は険しい。
(…何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか)
自分の発言後から意図的に合わない視線。彼が手ずから傷の処置の準備をしてくれているというのに、妙に居心地が悪い。
不安な表情を隠そうともせずおろおろしていると、顔を上げた中尉殿と漸く目が合った───いや、視線が合ったのはほんの一瞬のことで直ぐに顔を逸らされてしまった。彼の行動の意味が全く分からず、逸らされた顔を覗き込んでみると───目を閉じて笑いを堪えている。
「中尉殿…幾らなんでもあんまりじゃないですか」
質問には答えてくれず、不穏な空気に耐えかねている自分と視線が合った途端笑い出す彼に不満を漏らす。
くつくつと喉の奥で笑う男は一頻り笑い終えた後、何事も無かったように処置を再開した。
「いや何だ…、いざ一人で鍛練をするとなると随分と物足りないものだと思ってな。…ここ最近は必ずと言って良いほどお前が引っ付いてきたから」
確かに中尉殿について剣術の指導を受けていたのは事実だけど。
「構ってやるのはいつも俺の方だったのに、お前が来ないと味気ないと思う自分が可笑しく思えただけだよ。お前いつも犬っころみたいに後ろを付いて回るからさ」
つまり中尉殿は自分を飼い犬とでも思っていたということか。
……犬扱いされる方が余程傷付くんですけど。
如何にも『不満です』、と表情を露わにしても中尉殿は気にも留めず、患部の処置を続ける。消毒液を染み込ませたガーゼが肌に触れると、浅い傷口がじくりと痛んだ。
+++++++
「何というか───思ったよりも引き摺っていなくて安心した」
何気なく発せられた中尉殿の一言にどきりとする。
「…一体、何のことで」
慎重に言葉を紡いだつもりだったのに声が震える。
平静を装うことが出来ずにいる自分を叱責するかのように、心臓がどくどくと脈を打ち耳の奥を震わせる。
「…『あれ』から様子がおかしかっただろう」
『あれ』
心当たりは一つしか無い。
もはや共通の認識ですらある『あれ』を敢えてぼやかして言う中尉殿の言葉は、煉獄と地獄の情景と、肌に纏わりつくべたりとした感覚、人が焼き爛れていく臭気を反芻させた。
酸の液体が胃と食道を焼かんとばかりに暴れ始めている。
「…、そんなことは」
「少佐殿との遣り取りは知っているからな。俺があの場に控えていたことも覚えていないのか」
彼はわざとらしく溜息をひとつ漏らした。HQと少佐殿の通信から自分の抗命未遂まで一部始終見られていたという訳か。
それはそうだ、負傷・離脱したヴァイス中尉から次席指揮権を引き継いだケーニッヒ中尉があの場にいたのは何ら不自然な事では無い。軍人として有るまじき暴挙。そしてその行為に目を瞑り処罰を下さなかった上官等。あの行為の弁明を求められている訳ではない。かといって自分の中で消化出来ていない蟠りを上官に吐露出来る程、未だに感情の整理がついていない。
言葉を探すように視線を彷徨わせたが終には見つけることも出来ず、諦めて口を噤んだ。
黙り込んだままの自分を中尉殿は咎めようとはしなかった。
頬を叩くように新しいガーゼを抑えつけると、先程切ったサージカルテープをてきぱきと貼りつけていく。
「随分と男前になったな」
「……少し大袈裟じゃないですか、これ」
頬杖を付くように患部を覆うガーゼに触れる。頬からこめかみ近くまで伸びているとはいえ浅い傷だ。それにしてはこの大判のガーゼは大袈裟というか大雑把というか。
「ラインで慢心した挙げ句、利き手を負傷した大馬鹿者が今更何を言っているんだ」
「ああ…それもご存知だったんですね…」
本当にこの人は周りを良く見ている。今回は上官との対人訓練中の怪我。気を散らしていた自分が悪い。
再び溜息をひとつ溢した中尉殿は、バツが悪くて再び口を噤んでしまった自分を気に留める風もなく、拡げた応急キットを片付けて一足先に戻る準備をしていた。腰を上げ、軍服に付いた砂埃を手で払っている。その砂埃を追って自然と視線は地に落ちる。
「───思い悩むのは悪いことじゃない」
不意にかけられた彼の言葉にはっと顔を上げようとするが、上から伸びて来た手に頭をぐっと押さえつけられ、目線は地面に向いたままを強いられた。
「その感覚は忘れないでおけよ」
普段と何ら変わりない声色。
特に優しい言葉を掛けられた訳でも無いのに、消毒液の匂いがつんと鼻の奥を刺激して、思わず涙腺が緩んだ。
(3)帰投後―ケーニッヒとヴァイス
「ヴァイス中尉が抜けてから、色々と思うところがありましてね」
療食の下膳と入れ違い様にするりと入室した同僚は、挨拶もそこそこにベッドサイドに置かれた一脚の丸椅子に『どかり』と大きな音を立てて腰を掛けた。
彼が此の病室に来ることは珍しい事では無い。先日の戦闘で負傷した自分に代わり、次席指揮官としての職務代行に加えて、不在中の自分の部隊の近況報告も頼んでいるのだから、訪問頻度は自然と高くなる。顔見せついでに第二中隊の誰かを遣わせれば良いのだが、「基幹要員ならではの込み入った話もあるから」とケーニッヒが先んじて申し出てくれたことで、彼に更なる多忙と負担を掛けることを理解していながらも現状は其れに甘えている。
帝国内外を東奔西走するの我ら二〇三大隊もアレーヌ市の戦闘を終えて一時的に後方待機を命じられており、現在の駐屯地から然程離れていない療養施設に入るともあらば、同僚や部下が見舞いに訪れるというのも難しくは無い。其れは彼の限りある余暇の時間を潰していることにもなるのだが、ケーニッヒも彼なりにひと時の後方待機を満喫しているようで、今日のように香の匂いを微かに纏わせた儘此の部屋を訪ねることも少なく無かった。
ただ、今日に限っては妙に表情が静かというか、先程の一言を発した後、口を開くことなく、自分と向き合いながらも何処か遠いところを見つめているような視線を寄越してくる。
落ち着いているようにみえて、それでいて何処か不安定。
普段は如何なる時でも整然としていて内面を読み取り辛い彼だけれども、場に呑まれて珍しく酔い潰れた時とか、部下が不在の時であったりとか、知る限りは自分とノイマンの前でしか見せない独特の空気感というものがある。
『冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也』
この空気感をそう表現したのはノイマンだった。普段は彼が中流諸階級の出自だということを忘れがちになるのだが、ふとした時に家柄の良さを匂わせる行動や言動を取ると、その度に彼の経歴を思い出してはびくりとしてしまう。(―――彼が女性を口説く所作や方便に秀でている事実を目の当たりにしたことで、ノイマンに対する人物評価がやや偏向している影響も否定はしない)
野郎相手に随分と繊細且つ文学的な例えを持ち出したものだと酔いの所為もあってその場は笑い飛ばしてしまったのだが、今思い返してみると表面的にですらあるが言わんとしていることが理解出来たような気がした。二十四節気で言うところの立冬、雨と霧の気配を常に纏っている空気感があるという点では確かにそうなのだろう。
ケーニッヒ本人が自覚しているかどうかは分からないが、あまり他人に聞かれたくない折り入った話を切り出す時、彼はこういった空気を連れて来る。
(ケーニッヒの冷めた表情と何処か温いモノを抱えるこのちぐはぐとした空気が充満するこの部屋は、正直酷く居心地が悪い)
「すまない。特にケーニッヒには負担をかけてしまっているな」
ヴァイスは眉を下げて肩を竦めた。
「いや、良いのです。別に責めてる訳でもなし。
負傷で戦線離脱をするのは誰しも有り得ることですし今は治療のみに専念して下さい。……と、本来であれば言いたいところなんですけどね」
一呼吸置いてゆっくりと瞬きをしたケーニッヒの琥珀色の瞳は射抜くような鋭さを孕んでいる。先程まで朧げだった視線は何処かに消え失せていた。
季節はもう初夏だというのに指先が痺れたかのように冷たくなっていくのを感じる。彼の視線に怯んだ訳ではない。ただ、これから彼が紡ごうとしている言葉に、―――自分を咎めようとしていることに思い当たる節があったから、押し寄せた緊張の所為ですっと胸の芯が冷え、血液が行き届かなくなった末端が感覚を失っていっただけだった。
「…グランツのことか」
療養中、…否、後退を余儀なくされた時からずっと気懸かりだった部下の名を口にする。
グランツとはあれから殆ど言葉を交わしていない。
「あいつに限ったことではないですけどね。比較的年長者が多いうちの部隊にもおりましたよ」
第四中隊はどうだったか。───ああ、あいつの部隊は若い奴が多いですけど、ノイマンは人一倍面倒見が良いんで、そこは心配要らないでしょうよ。
自ら連れて来た重い空気に反して、ノイマンの部隊を引き合いに、ケーニッヒは思いの外さらりとした物言いで言葉を続けた。
「『あの』命令に動揺する気持ちは分かります。特にグランツは促成課程の煽りをモロに受けた世代だ。尉官の素質は十分あるにせよ、現状ではまだ自覚も、───覚悟も足りなかったんでしょう」
「…抗命未遂の件か」
戦線離脱後は其のまま副長業務をケーニッヒに移管したとはいえ、彼を通さずとも部隊の状況は耳に入って来る。少佐殿を始めとする基幹要員からは何も聞かされていないが、他の隊員から凡その内容は聞き及んでいた。幸いというか抜かりが無いというか、二人の会話は大隊内のオープン回線にも繋いでおらず、HQと少佐殿の通信からグランツの抗命未遂の仔細を把握している人間は当事者を除いてケーニッヒただ一人である。
「小官も傍らに居ながら肝を冷やしましたよ。…全く、少佐殿がお優しい方で良かったですね」
いつもの彼らしい皮肉めいた声色とは裏腹に、其の表情は固い。
「お前が居てくれて本当に助かっている。グランツのことも相変わらず気に掛けてくれているのだろう?」
ケーニッヒが一人で剣術の鍛錬をしていることはヴァイスも勿論知っていた。そこにグランツが弟子入りを志願したことも、そのグランツが毎度のように完膚なきまで彼に伸されていることも。
「今に始まったことじゃないです、あいつが後ろから付いて回るのは」
「こういうことを言うとお前は怒るだろうと思うけれど、満更でもなさそうに見えるんだが」
そうを尋ねるとケーニッヒは怒る素振りは見せず、ただ眉間に皺を寄せて大袈裟な溜息を一つ溢した。
「グランツの奴、剣の腕もまだまだだって言うのに、犬っころみたいに毎度懲りずに『構い倒せ』と見えない尻尾を振って主張してくるんですよ。アレを断る方が労力が要る。それに、暑苦しいですけど放って置くのも危なっかしいですし」
「…危なっかしいか。まぁ、そうだな」
「ええ。リードが不要になれば小官も中尉殿も大分楽になるんですけどね」
ケーニッヒは『はぁ』と大袈裟に肩を揺らして再び盛大な溜息を溢す。日中に凝り固まってしまったであろう両肩を解し、天井に向けて小さく伸びの動作を取った彼の挙動の始終をヴァイスは目を逸らさず見つめた。―――ケーニッヒの話が此れで終わる筈が無いと理由の無い確信があったからだ。冷えた指先を無意識に擦る。
ケーニッヒの視線がヴァイスの其れとかち合ったのは一瞬のことで、どういうわけか彼はそのまま視線をヴァイスの手元まで落とし、顔を直視しない儘口を開いた。
「小官が気にしているのはグランツのことじゃなくて、───ヴァイス中尉、貴方のことなんですけどね」
「ははっ、……まさかお前に心配を掛けさせてしまうとは、な」
乾いた笑いとともにヴァイスは肩を落とす。
色々と考えさせられるには時間は十分過ぎた。この療養中、暇を持て余すことすら忘れてしまう程に。
グランツの抗命未遂の原因の一端は自分にあったという自覚は当然あった。アレーヌ市出撃前のフォローは必要であったにも関わらず、其れを怠ったのは他でも無い自分だ。副長でもあり第二中隊を率いる立場の人間が、ツーマンセルの年若い少尉を残し早々に戦線を離脱。この件に関してデグレチャフ少佐は沈黙を貫いているけれど、何らかの形で処罰が下った方が幾らかマシであった。
大層な失態を晒したというのに誰にも責められないのは何故だ。副長という己の立場がそうさせるのか。目の前の同僚ならばもしかして、と心の何処かで思うところが無かった訳ではないが、其の期待は見事に裏切られた訳だ。
望む働きが出来なかった自分を直属上官ですら咎めようとはしなかった。
デグレチャフ少佐は一体何をお考えなのだ。
『帰ったら覚悟しておけ』
離脱時に掛けられた彼女の言葉の意味を未だに知らないでいる。
+++++++
「…今、中尉殿が何をお考えなのか小官にはわからないですけれど、たぶん、そういうところですよ」
悶々と思考の回廊に迷い込んだヴァイスをケーニッヒの発した一言が現実へ引き戻す。先程まで床に向いていた琥珀色の瞳は何時の間にかヴァイスの菫色の瞳を覗き込んでいて、思考の海から這い出たばかりで意表を付かれたヴァイスは一瞬だけ呼吸の仕方を忘れた。詰まった息を時間をかけて吐き出すのを見届けたケーニッヒはヴァイスから視線を外す。
「大方、『考え過ぎ』ていたのでしょう」
「…少佐殿にも同じようなことを言われたな」
「ほう、当たっておりましたか」
ケーニッヒは自身の狐目を弓形に曲げて笑う。酒を酌み交わす時に見せる上機嫌な其れとまではいかないが、自分も酔いが回っていない分、ケーニッヒの満足そうな表情がはっきりと視認出来る。あの時もこれ位の余裕が自分にあれば…と思うとキリが無いがそう思わずにはいられなかった。
「これは持論ですけど、小官は感情に振り回されることを悪だとは考えておりませんよ。思い悩む気持ちも理解は出来ますが」
「そうは言っても自分たちの立場と状況を弁える思考は必要だ。自制が出来なければそれは人間では無く只の獣に過ぎない」
「つまりヴァイス中尉殿とグランツは『獣』だとでも?」
「そう、なのかもしれない」
自嘲気味の乾いた笑いが口から漏れた。
英雄願望が打ち砕かれた今でも、帝国軍人として祖国に貢献を為すという意志は変らない。そもそも幼年・士官学校時代に銃殺の経験も積んできている癖に、今更人間相手に引鉄を引くことを躊躇するなんて行いは愚かにも程がある。
向き合う現実から目を背けた。戦線離脱の理由はどうであれ、アレーヌ市での自らの行いは重大な軍規違反…敵前逃亡に他ならない。少なくともヴァイス自身そう重く受け止めていた。
「───っ、たく、あんたは本当に莫迦なのか真面目なのかわからない人ですね!」
急に声を荒げたケーニッヒを見やると、乱暴な手付きで自身の額を抱え、心底『信じられない』といった表情で呆れていた。普段らしからぬ彼の態度に呆気に取られる。
「人としての理性も良識も持ち合わせているヴァイス中尉が『獣』である訳ないでしょう!第一、『獣』なんかを少佐殿が大隊副長に任命するとお思いですか?否。そんな訳が無いしょうが」
『それはヴァイス中尉が良くご存じの筈だ』と吐き捨てるように彼は言った。
ヴァイスは後頭部をショベルで殴打されたような衝撃と、『すこん』と身体の何処かで何かが抜け落ちたような音を聞いた。今の自分は己の立場を勝手に否定して、罪の意識に囚われるという感傷に浸っていたかっただけなのかもしれない。忠誠を誓い、己が全幅の信頼を寄せたデグレチャフ少佐の存在をも否定することに繋がるということにすら気付けないでいる程今の自分は蒙昧であった。
「───ぁ、ああ。…そう、そうだな」
蒙が啓かれる思いとは多分こういうことを言うのだろう。溜飲が喉元を通り過ぎたというのに、其れに反して口は上手く動かない所為で歯切れ悪い返事しか出来なかったのは彼を気を悪くさせただろうか。間の抜けた顔の儘ケーニッヒを見やると、先程此方へ向けた呆れ顔は何処へやら、彼は至って普段通り表情に戻っていて、特に気にした素振りは見せていない。
「加えて言わせて貰いますと、グランツに関しては例えあいつがヴァイス中尉の言うところの『獣』だとしても、俺は仔犬が粗相した程度にしか思っておりません。…今回の市街地戦での経験はあいつの強みになる」
「一度折られた心を立て直すにはまだ時間がかかるでしょうが、あいつの成長は愉しみでもありますよ」ケーニッヒは声量を落として独り言のように呟いた。
「今の言葉をグランツに聞かせてやれば良いと思うぞ。きっと泣いて喜ぶ」
「女性なら兎も角野郎に縋られるのは御免被りたいので、先程の囀りは聞かなかったことにして頂けませんか?」
「ははっ、まあ今日のところは忘れておくことにしようか」
「本当に頼みますよ?面倒事は避けたい性分なもので」
ケーニッヒからはいまいち信用していないと言わんばかりの不審が滲み出た目線が寄越される。再び軽く笑い飛ばしてみたら今度は眉を顰めて露骨に心底嫌そうな表情を向けられた。
「…すまない。揶揄っている訳では無いんだ。ただ、表面上は関心の無い素振りをしている癖に根は親切過ぎるものだから、その落差につい笑ってしまった。その、上手く言えないのだが、…そういうところはケーニッヒの美点だと思うんだ。そういうのが分かるから、グランツもお前に懐いているのだと思う」
飾り気無い人物評を本人を目の前に恥ずかしげも無く語るヴァイスの目はとても穏やかだった。一方で褒められるとは露にも思ってもいなかったケーニッヒは、突然のことに何時もの冷静な態度を振る舞うことが出来ずにヴァイスから顔を背ける。
「あんたのそういうところ、本っ当に敵わない……」
気恥ずかしさから首筋に手を置き平静を保とうと努めてはいるが、ヴァイスの言葉が反芻して彼の方に顔を向けられない。まさか自分が褒め殺しに遭うなんて、想定外にも程がある、そんな表情をしながら。
「………早く戻ってきて下さいよ」
やっとの思いで絞り出した声が精々嫌味たらしく聞こえれば良い。
先程から血色の良い笑みをたたえている副長の耳に届いているかは甚だ疑問ではあるが、今日は其れでも良いと思えた。
(4)帰投後―元衛生魔導師とグランツ
「あら少尉、……少し見ない間に随分と男前になられましたね」
此方を一瞥してからの第一声は意外にもあっさりしたものだった。彼女のことだから、にこやかな表情にたっぷりと嫌味を込めて小言の一つ二つでも言われる…のかと思い身構えていたのだが、そんな此方の都合を知ってか知らずか早速治療モードに切り替わった彼女は、指先でちょいちょいと擬音でも出そうな軽い手招きをして、椅子代わりにしている木箱に腰掛けるように促した。
「それ、ケーニッヒ中尉にも言われましたよ」
先程まで訓練の相手を務めて貰っていた上官の名を出すと、大きく頬を覆った白いガーゼ下の患部を透視術式で正面から眺めていた彼女はぱちぱちと瞬きをした後、少しだけ目を細め穏やかに笑った。
「何となく事情は分かりますが…負傷の原因を御伺いしても?」
医療用アルコールで清められた手が頬に触れ、ゆっくりと紙テープとガーゼが外される。凝固した血が皮膚とガーゼを接着させてしまっていて、剥がす際に引き攣るようにぴりりと痛んだ。
「えーっと、剣術の鍛練中に躱しきれなくて」
「剣術…というとやはりお相手はケーニッヒ中尉ですか。…あの方ったら加減を知らないんだから」
傷口とガーゼに付着した浸出液を交互に眺めて溜息を一つ吐いた彼女をみて思わず苦笑が漏れる。彼女も本気で腹を立てている訳では無く、ただこの場に居ない上官に小言の一つでも浴びせたいだけなのだろう。初犯ならいざ知らず、実はグランツもケーニッヒも過去に幾度も同様の前科を重ねている。
「小官が悪いのですよ。他の事に気を取られていて」
「外したとはいえ急所ですよ。浅い傷で済んだ事は流石と言いますか幸いと言いますか……」
「本当はこんな怪我で少尉のお手を煩わせるのは大変気が引けます……」
「この程度の傷なら全く問題ありませんよ。…無暗矢鱈に傷を増やされるのは勿論駄目ですけど」
現在は航空魔導師としてこの二〇三大隊に身を置く彼女ではあるが、過去に衛生魔導師として従事していたという珍しい経歴の持ち主である。その技術は折紙付きで、魔力量も平均以上の魔導師が揃うこの大隊でも群を抜く。治癒術式は魔力消費が激しく、衛生魔導師になる為にはまず化け物じみた規定魔力量をクリアーしなければならず、半強制的に徴兵される魔導適性者が安全と快適(かどうかは分からないが死の危険性が低いのは確か)を求めるには険しく狭き門である。
そんな化け物じみた魔力量を持つせいか戦闘後にも関わらず、大隊内の重傷者については彼女が治療にあたることが多い。とはいえ彼女も戦闘後ではあるので魔力切れを起こす前に自身の体力が限界を迎えて昏倒してしまうこともあるのだが。『私の場合は少し休めば大丈夫ですから』と彼女は言うけれど、それでも大したことのない怪我で彼女に治療を頼むのは気が引けた。だから軽傷の時は衛生兵に頼むか自分で処置をすることもある。
「フォロー出来る範囲であれば遠慮はしないで欲しいものです。精神的なケアは専門外で申し訳ないですが」
「…ベルイマン少尉はいつも通りだったのですね」
「私事ではありますが…未だに折り合いを付けられていないことは小官にも沢山ありますよ」
彼女は呆れたような、それでいて少し傷付いたと言わんばかりにの何とも言えない表情で眉を下げた。
「ヴァイス中尉のお見舞いに来られないのはそれが理由ですか?」
どくん、彼女の発した言葉が質量を持って圧し掛かりグランツの心臓に負荷を掛ける。
本日二度目の感覚だ。触れられたくないところに触れられて思う様に口が動かせなくなる。副長代理であるケーニッヒ中尉も、所属中隊の部隊長を欠いたベルイマン少尉も、思うところは同じであるらしく、また、部下である自分を気に掛けて下さるのは大変有り難いことなのだが、その厚意に応えられるだけの解は未だに見付けられていない。息を詰まらせている自分をみて、少尉は眉を下げて申し訳なさそうに口を開いた。
「本当は言うつもりは無かったのですが、つい。───こういうことは時間が掛かりますよね」
「…『軍人だから』の一言で片付けば何事も楽なのですが」
「軍人としての資質を疑う次元はとうに過ぎてしまいましたからね。今更落伍者の烙印を欲している訳でも無い」
「何時になく辛口ですね」
「そう思わないとやっていけない時もあったりします。これも人それぞれですよ」
目の前のベルイマン少尉も恐らく、彼女の言葉通り全てを割り切っている訳では無いらしかった。嘘を吐くことを不得手としている彼女は、上辺だけで人に寄り添う言葉を吐こうとするとすぐに表情に出てしまう。そういった自覚もあるからこそ、今の様に彼女自身が本心を吐露してしまった後、自身の言葉を有耶無耶にするようにして他人と距離を取りたがるのだ。
「ベルイマン少尉はそういうことに疎いと思っておりました」
「───少尉、その喧嘩はお幾らですか?」
「売ってはいませんけど幾らなら買って下さいます?」
「そうですね…では治療費と引き換えということで」
『治療費なんて過去にも請求したことが無いでしょう』……彼女が珍しく吐いた冗談にそう言い返そうと唇と開くと、口角が引き攣って言葉が音にならなかった。仕方無く笑って誤魔化そうとするもぎこちない笑みを作ることしか出来ない自分。
対面では取り繕うような微苦笑をたたえた表情を崩して、少し悲しげに目を伏せた彼女は、一呼吸置いて患部に手を伸ばす。直接触れるか触れないかといった距離で、じわりと人肌よりも温く、緩い空気の壁がそこにあるような抵抗を感じた。幾重かの柔らかい帯状の光の中に術式列が流れ肌の内に消えていく。
「はい、終わりましたよ」
治療時間はものの5秒と掛からなかった。
「う、わっ、ありがとうございます。」
以前も利き手の怪我を治して貰ったが、これは何度体験しても感動する。四肢欠損の大怪我までも元通りに出来るというのだから、元衛生魔導師にとってはこの程度の治療は造作も無いことなのだろう。
「戦時特化の履修課程でしたから裂傷くらいはお手の物です。…お陰様で内科系はからっきしですが」
先程一瞬覗かせた悲しげな表情はすっかり消え失せて、ベルイマン少尉いつものような気の抜けた顔でへらりと笑い、彼女につられて自身の表情筋もゆっくりと解れていく。
……先程よりも上手く笑い返せた、と思う。
(5)帰投後―ケーニッヒと元衛生魔導師
副長業務代行時、特に事務作業に関して云えばベルイマン少尉の手を借りることは自然と多くなる。ヴァイス中尉は以前から彼女を重用していて、副官に回さない部類の書面管理等の嵩張る作業を彼女に宛がっていた。
だから、という訳では決してないが、後回しにしがちな日次業務に執り掛かろうとする時分には夜もすっかり更けていることも少なくはない。そこに勝手知ったる人間が居てくれるのは大変有難いのだが、彼女にしては珍しく機嫌が悪いというか意図的に剣呑とした空気を放っているせいで、今この空間は大層居心地が悪い。ノイマンは早々に見切りをつけてそそくさと宿舎に戻っていったから今この空間にいるのは俺と彼女の二人だけだ。ノイマンからしてみれば気を遣った行動だったかもしれないが、平時はふわりと柔らかい物腰な彼女が、二人きりとなった途端に反応は何処か冷たくなったのだ。幾つかある心当たりの内、真っ先に浮かんできたのは娼館利用の件ではあるが、香の匂いは此処に来る前に落としてきているし、そもそも彼女とは色気のある間柄では無く咎められる謂れも無い。男性主体の職場における性欲処理問題について、事務手続き上か若しくは医療従事者としての観点で意見を述べる立場であり、『性病を貰ってくるようなことがあれば、状態確認の為に肛門からの前立腺触診等の検査は覚悟して下さい』と無機質な声音で忠告するくらいには割り切った対応をする人物であった。───嘘が吐けない性分である癖にこういった時だけ主観を交えずに話すものだから、彼女の恋愛変遷を推し量るのに苦労しているなんてこと、当の本人は知る由も無いのだろう。
書類仕事に目途が立ったところで漸くベルイマン少尉は口を開いた。
「…グランツ少尉の裂傷は中尉殿によるものだと伺いましたよ」
「人聞きが悪いな。手加減はしているし急所は避けてる」
「当たり前です」
ぴしゃり。食い気味に言葉を発したサガを見ると、怒っているというよりも呆れているようにみえる。
…やはりグランツのことであったか。ヴァイス中尉も目の前の彼女もグランツのことを大層気に掛けている。『ああいう』状態になったグランツについては療養に入ったヴァイス中尉の見舞いの際に彼と直接話すこともあるのだろう。部隊長を欠き、小隊規模でも行動を共にする後任将校がああいった状態に陥っているともあれば、ベルイマン少尉も気苦労が尽きない日々を過ごしているに違いなかった。
「余計な手間を掛けさせて悪かったな」
分かり易くむくれた少尉に謝意を伝えると、『小官が好きでやっていることですし、手間だと思ったことは一度もありませんよ』と余計に機嫌が悪くなったような反応を示した。
言葉選びを間違えたかと思い次の発言に慎重になっていると、其れを感じ取ったのかベルイマン少尉はふ、と表情を緩める。
「訓練とはいえ少尉に怪我を負わせたことに対しては怒っていますけど、…実は少しほっとしたんです。憑き物が落ちた、とまではいかないですけど持ち直す兆候があったように感じられましたから」
「ひねくれていない分、立ち直るのも早いだけだろう」
「…中尉殿が何かして下さったのでしょう?」
「買い被りだ。俺は何もしていない」
「そうでありますか。では、そういうことにしておきましょう」
ガタリと腰掛けていた椅子を後ろに引いて立ち上がった少尉はダブルクリップで纏め上げた書類の束を数冊を副長の自席に積み重ねた。一次精査に留まった書類の山に目を通すだけでも指揮者としては骨が折れる作業であるのだが、表紙の右下に位置する作業者欄の真下に記された監督者欄に『Matthäus Johann Weiß』と几帳面にフルネームで書き記されたサインをみてはた、と思考が止まる。
自分の視線を追ったベルイマン少尉は口元を押さえてくすりと笑った。
「ケーニッヒ中尉が多方面を気に掛けて下さっている時、ヴァイス中尉もまた、ケーニッヒ中尉をご心配して下さっていたのですよ」
企みが明るみになったことに悪びれもせず彼女はにこにこと笑みを絶やさなかった。少尉が足繁く彼の病室を訪ねていることは把握していたが、まさか病人にまで気を遣わせていたとは…。
「…っにしても、真面目過ぎるにもほどがあるだろ」
『治療に専念すれば良いのにあの堅物は…』と目の前の共犯者を傍目に片手で頭を抑えた。ヴァイス中尉もベルイマン少尉もグランツ少尉も……第二中隊の隊員は『人が良過ぎる』奴ばかりだ。利他的というかなんというか……自分自身の損得勘定の物差しが壊れていやしないか心配になる。
「第二中隊は揃いも揃って扱い辛い」
「あら、もしかしてヴァイス中尉と何かありました?」
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