幼女戦記(名前変換)
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1.髪が絡む話
「ベルイマン少尉」
消耗品の点検作業中背後から掛けられた上官の声に、目を通していたチェックリストから顔を上げて即座に前傾姿勢を正す。
少しばかり変わった経歴上、所属部隊内外問わず何かを頼まれるのは珍しくもないことであるので、『恐らく急ぎの用件だろう』と染み付いた思考が彼女の身体を本能的に動かした。上官に返事をするよりも先に、声がした方へくるりと身体を反転させると少し勢いがついた長い髪がふわりと靡く。
「はい。小官に何か───」
その上官は想定よりも距離を詰めてから声を掛けてくれていたようで、相手との距離間を考えないまま起こしたばかりの上体で彼の方へ向き直ろうとした───つもりであったが、
『ぎしり』
不穏な音が二人の耳に届き、両者は揃って閉口した。
───ケーニッヒ中尉の軍服にベルイマン少尉が靡かせた後ろ髪が見事に引っ掛かっている。
「……大丈夫か」
「っはい……いいえ!失礼致しました!!」
思わぬ事態に身体が硬直していた彼女に呼び掛けると、漸く状況理解が追い付いたのか解き放たれたように瞬時に顔色を青くして反射的に謝罪の言葉を繰り返し口にした。『…っやだ、ほんと私なにやって…っ』焦りから独り言が口から漏れる。そして上官の軍服に絡まった自分の髪を解こうと慌てて後頭部に指を持っていく。が、頭一つ以上身長差があるサガの背丈では、ケーニッヒの軍服に絡まった箇所を確認しようにも目線は届かないし、そもそもこの体勢に無理があるので背後の髪を解こうにも上手くいく筈が無い。
「わ、ちょっと待て!ベルイマン少尉っ、動くんじゃないっ!」
彼女自身この事態に相当慌てていることと、無理のある体勢のまま何とかしようと懸命に動く度に、引っ掛かった髪は解けるどころか余計に絡んでいく。
「二人とも、愉快なことになっているぞ」
少し離れた距離感から、『ふっ』と笑いを溢して二人に声を掛けたのは彼女が所属する第二中隊部隊長───ヴァイス中尉であった。此方に向かって歩を進めながら『どうやら取り込み中のようだったな。……邪魔したか?』と茶化すようにくつくつ笑いを堪えている。
「違うな。正しくは『たった今』取り込んでしまったところだよ」
「も、申し訳ございません!」
諦感と呆れを含む声を漏らしたばかりに、更に萎縮してしまったベルイマン少尉は弾かれたように頭を下げようとするが、この体勢ではそれも儘ならない。寧ろ状況は悪化する一方だった。
「少尉。頼むから動かないでくれ」
本日二度目の静止の言葉も届いていないのか、軍服の胸釦に後ろ髪を引っかけた彼女は自力で解く為の空間を作ろうと必死で、そして何故か頻りに俺との距離を取りたがっている。だから其の行為は逆効果になっているということを彼女は理解しているのだろうか。ケーニッヒの眼前では、先とは比にならないほどに薄銀色の髪が固い結び目を形成していく無様な様相が繰り広げられていた。
(このままでは埒が明かない)
「 落 ち 着 け 」
尚も足掻こうとする彼女の首根っこを背後から掴んで無理やり動きを制す。
あまりの突然のことに『ひ、ぁぅっ』と何とも無防備な声をあげて、少尉は身体を硬直させた。その怯んだ一瞬を見逃さず仰け反った上半身を抱え込んで身体ごと引き寄せる。
軍服越しに相手の鼓動が聴こえてきそうな───密着と言っても差し支えない体勢で接触した身体は、軍人として訓練を重ねているとはいえ、性差を無視出来ない特有の柔らさがあった。
……が、幾ら相手が女性とはいえども彼女は自分にとっては只の部下、それ以上でもそれ以下の存在でもない。そもそも女慣れしているケーニッヒが何かと柵の多いこの職場において、手を出す相手に部下を選ぶ道理も無く、前の行動には他意は微塵も含まれなかった。
……そう、他意は決して無かったのだけれども、彼女が示した反応に罪悪感を覚えなかったのかといえば嘘になる。身体を引き寄せる時に小さく漏らした吐息が妙に艶を孕んでいて、一瞬、あらぬ情景が脳を過ったことも否定しない。
しかし、紛らわしいリアクションを取った当の本人は、口元を手で抑えてはいるものの、『心底驚いた』と言わんばかりの表情をしているだけで、自身の上げた声も密着している今の体勢にも全く動じていないようだった。そんな彼女の様子をみて、先程自身が抱いた邪な思考は消え失せて頭がすっと冴えていく。
「情けない声をあげてしまってすみません。ですが、突然首を掴まれるとは……寿命が縮む思いをしたのですが」
「非難するなら自分の姿を見てからにしてくれ。………そうだ。このザマを鏡で見せてやってくれないかヴァイス中尉」
「俺が持っていると思うか?」
「でしょうね」
「っえ、……そんなに酷い状態なんですか?」
「ああ。生憎鏡は持ち合わせていないが、代わりに宝珠の映像記録に残してみることは出来るがどうする?」
「…………いいえ、結構ですわ」
上官への抗議は受け入れられず、しかも己が相当悲惨な姿であると二人して言われてしまっては彼女もこれ以上の抵抗は諦めざるを得なかった。先程まで口元に宛てていた両手は力無く、今はだらりと下方へ下ろされている。
さて、漸く彼女が大人しくなったところで、髪を首の後ろで束ねている彼女の後頭部を改めて見下ろす。
(…思った以上に苦戦を強いられそうだなこれは)
胸釦に絡まって飛び出た薄銀色の毛先を指で弄る。この長さであれば予想もしていたが、思っていた通り傷んでいる箇所が所々見受けられた。
本来であれば外見に気を遣う年頃の女性であろうに、過酷な環境下、しかも男所帯で日々を過ごしているものだから、当然女性に対する配慮も最低限、ましてや髪や肌を丹念に手入れする時間も余裕も無い日常。
しかしながら、彼女も其れを承知の上でこの部隊に身を置いている訳だから、殊に頭髪においては短髪という選択肢を取らない時点で、何かしら譲歩出来ない事情があるのだろう。
そう思うと眼下に拡がるこの薄銀色の髪を雑に扱うことなんてとても出来そうになかった。
小さく房分かれをした一つを左手で抑え、細い銀糸を右指の腹で少しずつ丁寧に擦り解していく。摩擦は最小限に、且つ引っ張ることの無いよう慎重に。黙々と作業を続けていると、沈黙に耐えられなくなったのか少尉はおずおずと口を開いた。
「あの、ケーニッヒ中尉殿?小官の髪は碌に手入れも出来ておりませんし、その………切って貰っても一向に構いませんから」
「馬鹿、そんな訳にはいかないだろう。ご婦人の髪だぞ」
「─────っ」
ベルイマン少尉は何か言いたげな様子であったが、はくはくと金魚のように動かした唇は直ぐに固く結ばれ、終には言葉すら発することなく大人しくなった。彼女の正面では一部始終を眺めるヴァイスが尚も笑いを堪えている。
「ケーニッヒ、ベルイマン少尉に伝達事項があるんだがこのままで構わないか」
「ああ、支障ないなら俺に構わず続けてくれヴァイス中尉」
副長を一瞥して、視線は直ぐに薄銀色の後頭部に戻した。こっちは少尉の髪を解くのに必死なんだ。見るからに悲惨な状況は脱したが、あとは……
「少尉」
「はい」
「君の髪紐を解いても構わないだろうか」
「あ、はい、どうぞ」
先程までの抵抗が嘘のように素直な返答をしたことに拍子抜けする。
『しゅるり』
絡まりあった髪とは異なり、髪紐の方は容易く解けた。ベルイマン少尉の銀色の髪が肩や背に拡がっていく。
(ああこれで幾分かやり易くなったな)
絡まっていない房を肩よりも前方に流し、引っ張って傷めることのないよう細心の注意を払いながら解きほぐしていく。
髪紐を解いてから2分程経過しただろうか。最後の一糸が釦から離れ落ち、漸く彼女の髪は解放された。
「あー…なんとかとれたぞ少尉」
引っ掛けた髪は所々折れるような跡がついてしまってはいるが、幸い寝癖程度に収まっているので結い直せば特に問題は無いだろう。ぼさぼさにしてしまったベルイマン少尉の髪を手櫛で撫でて直す。
(疲れた…。相当な気を遣うなこれは…)
内心この場で座り込みたい衝動を抑えて解いた髪紐を彼女に手渡した。
「生憎今は櫛を持ち合わせていないから結い直してやれないが平気か?」
ベルイマン少尉にそう問うと彼女は渡した髪紐を胸の辺りで大事そうに抱えて小さく頷く。
「お手を煩わしてしまい申し訳ありませんでした。………助かりました中尉殿」
少尉は自身の失態が招いた状況とはいえ流石に耐えかねたのか、解かれた自身の髪を押さえ、羞恥心を誤魔化すように曖昧な笑みを溢した。
(………髪の長さは俺と同じか若しくはそれより長いくらいだろうか?)
そういえば少尉の髪を解いたところをみたことがなかったなあと疲弊した頭で思考を巡らす。
彼女はセレブリャコーフ少尉のように常時下ろす髪型をしていない。宿舎で夜間を過ごす際にはいつもより緩めに結っている姿を何度か見掛けたことはあるが、初めてみる髪を下ろす姿は新鮮で、何だかいつもより幼さを感じる。軍務中にはみられない何倍もしおらしい態度も相まって、今の彼女は大分無防備に目に映った。
(…………というか、可愛い?)
いや、いやいやいや!何を考えているんだ俺は!
脳裏に過った言葉を瞬時に掻き消す。思わず口をついて出なくて良かった。本当に良かった。部下を口説くなんて冗談じゃない。こんな職場で双方の立場で男女関係なぞ匂わせてみろ。それこそ今後の作戦行動に支障来し兼ねない。咄嗟の判断が生死に直結する互いの身で、私情が破滅を招くなんてこと、戦場ではよくある話だ。否、俺と彼女が必ずしもそうなると決まった訳ではないが。
───いやだからそうではなくて!!
落ち着け。兎に角、今言えることは今の俺は冷静な判断が出来る思考ではないということだ。
「あの……中尉殿?どうかされました?」
独り逡巡していた俺をベルイマン少尉が訝しむ。
ヴァイス中尉は何時の間に連絡事項を伝え終えたのか姿を消している。…きっと居たら居たで先程以上に笑われそうなので去ってくれていたのは助かるが。
「いや本当に何でも無いんだ。それよりも少尉は髪をそのままにしておけないだろう。結い直して来たらどうだ?」
「それはおっしゃる通りなのですが。
中尉殿は小官に何か用事があって此方に来られたとばかり思っておりましたが、違いましたでしょうか」
彼女の指摘で忘れてかけていた本来の目的を思い出す。余暇の時間が確保出来たから、ライフル銃の整備点検を兼ねて長剣の手入れに使用する防錆スプレーの予備の所在を訊ねようとしていた。しかし思わぬトラブルに遭遇してしまったせいで、既に疲労困憊だった。正直、個人的な得物の整備までは気が回りそうもない。
「あー…いや、大したことでは無いんだ。というか、今日はもうどうでも良くなった」
「申し訳ありませんでした。小官の不注意に巻き込んでしまったばかりにお時間を取らさせてしまって」
「いや俺こそ悪い。………触れられるのは嫌だっただろう」
『嫌だ』という言葉を口にして、俺から距離を取ろうと必死に抵抗していた彼女の姿が脳裏に蘇る。肉体関係の有無に限らず異性にあれだけの拒絶をまともに受けたことはこれまでに無かった。『いやだ』、…『嫌』ね。
───そうか。恐らく自分でも知らない内に、あまり自己主張しない性格とも言われる彼女に、拒絶されるに十分な理由を作ってしまっていた訳か。人の機微には敏いつもりであったのだが、身近なところでこのような見落としがあったとは (その相手は異性とはいえ部下だけれども)気落ちもする。
「………?中尉殿を嫌だと感じたことは今までも一度もありませんが」
『もしかして何か勘違いをされておりませんか?』と顔の横に疑問符を浮かべて此方を覗き込んでいる。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す目蓋から覗くつるりとした緋色の瞳に釘付けになる。どうやらこの反応は嘘でも建前でも無いらしい。ベルイマン少尉は取り繕うとする時、困ったような曖昧な笑みを溢す癖がある。だからこれに関しては偽りのない素直な反応だといことが分かる。流石に、彼女の癖までは見落としたりはしない。
「───そうか、なら良いんだ。悪いな此方こそ引き留めて」
「いえ、いいえ。では小官はこちらで一旦失礼致しますね。
ご迷惑をおかけいたしました中尉殿」
謝辞を伝えてからその場で敬礼をして足早に去っていく彼女を視線で追う。
流れるように靡いた薄銀色の髪の間から覗く耳元。
それが少し赤く染まっているように映ったのは、果たして、気のせいだったのであろうか。
「ベルイマン少尉」
消耗品の点検作業中背後から掛けられた上官の声に、目を通していたチェックリストから顔を上げて即座に前傾姿勢を正す。
少しばかり変わった経歴上、所属部隊内外問わず何かを頼まれるのは珍しくもないことであるので、『恐らく急ぎの用件だろう』と染み付いた思考が彼女の身体を本能的に動かした。上官に返事をするよりも先に、声がした方へくるりと身体を反転させると少し勢いがついた長い髪がふわりと靡く。
「はい。小官に何か───」
その上官は想定よりも距離を詰めてから声を掛けてくれていたようで、相手との距離間を考えないまま起こしたばかりの上体で彼の方へ向き直ろうとした───つもりであったが、
『ぎしり』
不穏な音が二人の耳に届き、両者は揃って閉口した。
───ケーニッヒ中尉の軍服にベルイマン少尉が靡かせた後ろ髪が見事に引っ掛かっている。
「……大丈夫か」
「っはい……いいえ!失礼致しました!!」
思わぬ事態に身体が硬直していた彼女に呼び掛けると、漸く状況理解が追い付いたのか解き放たれたように瞬時に顔色を青くして反射的に謝罪の言葉を繰り返し口にした。『…っやだ、ほんと私なにやって…っ』焦りから独り言が口から漏れる。そして上官の軍服に絡まった自分の髪を解こうと慌てて後頭部に指を持っていく。が、頭一つ以上身長差があるサガの背丈では、ケーニッヒの軍服に絡まった箇所を確認しようにも目線は届かないし、そもそもこの体勢に無理があるので背後の髪を解こうにも上手くいく筈が無い。
「わ、ちょっと待て!ベルイマン少尉っ、動くんじゃないっ!」
彼女自身この事態に相当慌てていることと、無理のある体勢のまま何とかしようと懸命に動く度に、引っ掛かった髪は解けるどころか余計に絡んでいく。
「二人とも、愉快なことになっているぞ」
少し離れた距離感から、『ふっ』と笑いを溢して二人に声を掛けたのは彼女が所属する第二中隊部隊長───ヴァイス中尉であった。此方に向かって歩を進めながら『どうやら取り込み中のようだったな。……邪魔したか?』と茶化すようにくつくつ笑いを堪えている。
「違うな。正しくは『たった今』取り込んでしまったところだよ」
「も、申し訳ございません!」
諦感と呆れを含む声を漏らしたばかりに、更に萎縮してしまったベルイマン少尉は弾かれたように頭を下げようとするが、この体勢ではそれも儘ならない。寧ろ状況は悪化する一方だった。
「少尉。頼むから動かないでくれ」
本日二度目の静止の言葉も届いていないのか、軍服の胸釦に後ろ髪を引っかけた彼女は自力で解く為の空間を作ろうと必死で、そして何故か頻りに俺との距離を取りたがっている。だから其の行為は逆効果になっているということを彼女は理解しているのだろうか。ケーニッヒの眼前では、先とは比にならないほどに薄銀色の髪が固い結び目を形成していく無様な様相が繰り広げられていた。
(このままでは埒が明かない)
「 落 ち 着 け 」
尚も足掻こうとする彼女の首根っこを背後から掴んで無理やり動きを制す。
あまりの突然のことに『ひ、ぁぅっ』と何とも無防備な声をあげて、少尉は身体を硬直させた。その怯んだ一瞬を見逃さず仰け反った上半身を抱え込んで身体ごと引き寄せる。
軍服越しに相手の鼓動が聴こえてきそうな───密着と言っても差し支えない体勢で接触した身体は、軍人として訓練を重ねているとはいえ、性差を無視出来ない特有の柔らさがあった。
……が、幾ら相手が女性とはいえども彼女は自分にとっては只の部下、それ以上でもそれ以下の存在でもない。そもそも女慣れしているケーニッヒが何かと柵の多いこの職場において、手を出す相手に部下を選ぶ道理も無く、前の行動には他意は微塵も含まれなかった。
……そう、他意は決して無かったのだけれども、彼女が示した反応に罪悪感を覚えなかったのかといえば嘘になる。身体を引き寄せる時に小さく漏らした吐息が妙に艶を孕んでいて、一瞬、あらぬ情景が脳を過ったことも否定しない。
しかし、紛らわしいリアクションを取った当の本人は、口元を手で抑えてはいるものの、『心底驚いた』と言わんばかりの表情をしているだけで、自身の上げた声も密着している今の体勢にも全く動じていないようだった。そんな彼女の様子をみて、先程自身が抱いた邪な思考は消え失せて頭がすっと冴えていく。
「情けない声をあげてしまってすみません。ですが、突然首を掴まれるとは……寿命が縮む思いをしたのですが」
「非難するなら自分の姿を見てからにしてくれ。………そうだ。このザマを鏡で見せてやってくれないかヴァイス中尉」
「俺が持っていると思うか?」
「でしょうね」
「っえ、……そんなに酷い状態なんですか?」
「ああ。生憎鏡は持ち合わせていないが、代わりに宝珠の映像記録に残してみることは出来るがどうする?」
「…………いいえ、結構ですわ」
上官への抗議は受け入れられず、しかも己が相当悲惨な姿であると二人して言われてしまっては彼女もこれ以上の抵抗は諦めざるを得なかった。先程まで口元に宛てていた両手は力無く、今はだらりと下方へ下ろされている。
さて、漸く彼女が大人しくなったところで、髪を首の後ろで束ねている彼女の後頭部を改めて見下ろす。
(…思った以上に苦戦を強いられそうだなこれは)
胸釦に絡まって飛び出た薄銀色の毛先を指で弄る。この長さであれば予想もしていたが、思っていた通り傷んでいる箇所が所々見受けられた。
本来であれば外見に気を遣う年頃の女性であろうに、過酷な環境下、しかも男所帯で日々を過ごしているものだから、当然女性に対する配慮も最低限、ましてや髪や肌を丹念に手入れする時間も余裕も無い日常。
しかしながら、彼女も其れを承知の上でこの部隊に身を置いている訳だから、殊に頭髪においては短髪という選択肢を取らない時点で、何かしら譲歩出来ない事情があるのだろう。
そう思うと眼下に拡がるこの薄銀色の髪を雑に扱うことなんてとても出来そうになかった。
小さく房分かれをした一つを左手で抑え、細い銀糸を右指の腹で少しずつ丁寧に擦り解していく。摩擦は最小限に、且つ引っ張ることの無いよう慎重に。黙々と作業を続けていると、沈黙に耐えられなくなったのか少尉はおずおずと口を開いた。
「あの、ケーニッヒ中尉殿?小官の髪は碌に手入れも出来ておりませんし、その………切って貰っても一向に構いませんから」
「馬鹿、そんな訳にはいかないだろう。ご婦人の髪だぞ」
「─────っ」
ベルイマン少尉は何か言いたげな様子であったが、はくはくと金魚のように動かした唇は直ぐに固く結ばれ、終には言葉すら発することなく大人しくなった。彼女の正面では一部始終を眺めるヴァイスが尚も笑いを堪えている。
「ケーニッヒ、ベルイマン少尉に伝達事項があるんだがこのままで構わないか」
「ああ、支障ないなら俺に構わず続けてくれヴァイス中尉」
副長を一瞥して、視線は直ぐに薄銀色の後頭部に戻した。こっちは少尉の髪を解くのに必死なんだ。見るからに悲惨な状況は脱したが、あとは……
「少尉」
「はい」
「君の髪紐を解いても構わないだろうか」
「あ、はい、どうぞ」
先程までの抵抗が嘘のように素直な返答をしたことに拍子抜けする。
『しゅるり』
絡まりあった髪とは異なり、髪紐の方は容易く解けた。ベルイマン少尉の銀色の髪が肩や背に拡がっていく。
(ああこれで幾分かやり易くなったな)
絡まっていない房を肩よりも前方に流し、引っ張って傷めることのないよう細心の注意を払いながら解きほぐしていく。
髪紐を解いてから2分程経過しただろうか。最後の一糸が釦から離れ落ち、漸く彼女の髪は解放された。
「あー…なんとかとれたぞ少尉」
引っ掛けた髪は所々折れるような跡がついてしまってはいるが、幸い寝癖程度に収まっているので結い直せば特に問題は無いだろう。ぼさぼさにしてしまったベルイマン少尉の髪を手櫛で撫でて直す。
(疲れた…。相当な気を遣うなこれは…)
内心この場で座り込みたい衝動を抑えて解いた髪紐を彼女に手渡した。
「生憎今は櫛を持ち合わせていないから結い直してやれないが平気か?」
ベルイマン少尉にそう問うと彼女は渡した髪紐を胸の辺りで大事そうに抱えて小さく頷く。
「お手を煩わしてしまい申し訳ありませんでした。………助かりました中尉殿」
少尉は自身の失態が招いた状況とはいえ流石に耐えかねたのか、解かれた自身の髪を押さえ、羞恥心を誤魔化すように曖昧な笑みを溢した。
(………髪の長さは俺と同じか若しくはそれより長いくらいだろうか?)
そういえば少尉の髪を解いたところをみたことがなかったなあと疲弊した頭で思考を巡らす。
彼女はセレブリャコーフ少尉のように常時下ろす髪型をしていない。宿舎で夜間を過ごす際にはいつもより緩めに結っている姿を何度か見掛けたことはあるが、初めてみる髪を下ろす姿は新鮮で、何だかいつもより幼さを感じる。軍務中にはみられない何倍もしおらしい態度も相まって、今の彼女は大分無防備に目に映った。
(…………というか、可愛い?)
いや、いやいやいや!何を考えているんだ俺は!
脳裏に過った言葉を瞬時に掻き消す。思わず口をついて出なくて良かった。本当に良かった。部下を口説くなんて冗談じゃない。こんな職場で双方の立場で男女関係なぞ匂わせてみろ。それこそ今後の作戦行動に支障来し兼ねない。咄嗟の判断が生死に直結する互いの身で、私情が破滅を招くなんてこと、戦場ではよくある話だ。否、俺と彼女が必ずしもそうなると決まった訳ではないが。
───いやだからそうではなくて!!
落ち着け。兎に角、今言えることは今の俺は冷静な判断が出来る思考ではないということだ。
「あの……中尉殿?どうかされました?」
独り逡巡していた俺をベルイマン少尉が訝しむ。
ヴァイス中尉は何時の間に連絡事項を伝え終えたのか姿を消している。…きっと居たら居たで先程以上に笑われそうなので去ってくれていたのは助かるが。
「いや本当に何でも無いんだ。それよりも少尉は髪をそのままにしておけないだろう。結い直して来たらどうだ?」
「それはおっしゃる通りなのですが。
中尉殿は小官に何か用事があって此方に来られたとばかり思っておりましたが、違いましたでしょうか」
彼女の指摘で忘れてかけていた本来の目的を思い出す。余暇の時間が確保出来たから、ライフル銃の整備点検を兼ねて長剣の手入れに使用する防錆スプレーの予備の所在を訊ねようとしていた。しかし思わぬトラブルに遭遇してしまったせいで、既に疲労困憊だった。正直、個人的な得物の整備までは気が回りそうもない。
「あー…いや、大したことでは無いんだ。というか、今日はもうどうでも良くなった」
「申し訳ありませんでした。小官の不注意に巻き込んでしまったばかりにお時間を取らさせてしまって」
「いや俺こそ悪い。………触れられるのは嫌だっただろう」
『嫌だ』という言葉を口にして、俺から距離を取ろうと必死に抵抗していた彼女の姿が脳裏に蘇る。肉体関係の有無に限らず異性にあれだけの拒絶をまともに受けたことはこれまでに無かった。『いやだ』、…『嫌』ね。
───そうか。恐らく自分でも知らない内に、あまり自己主張しない性格とも言われる彼女に、拒絶されるに十分な理由を作ってしまっていた訳か。人の機微には敏いつもりであったのだが、身近なところでこのような見落としがあったとは (その相手は異性とはいえ部下だけれども)気落ちもする。
「………?中尉殿を嫌だと感じたことは今までも一度もありませんが」
『もしかして何か勘違いをされておりませんか?』と顔の横に疑問符を浮かべて此方を覗き込んでいる。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す目蓋から覗くつるりとした緋色の瞳に釘付けになる。どうやらこの反応は嘘でも建前でも無いらしい。ベルイマン少尉は取り繕うとする時、困ったような曖昧な笑みを溢す癖がある。だからこれに関しては偽りのない素直な反応だといことが分かる。流石に、彼女の癖までは見落としたりはしない。
「───そうか、なら良いんだ。悪いな此方こそ引き留めて」
「いえ、いいえ。では小官はこちらで一旦失礼致しますね。
ご迷惑をおかけいたしました中尉殿」
謝辞を伝えてからその場で敬礼をして足早に去っていく彼女を視線で追う。
流れるように靡いた薄銀色の髪の間から覗く耳元。
それが少し赤く染まっているように映ったのは、果たして、気のせいだったのであろうか。
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