鬼の嗤う夜
『隼人(はやと)、豆は“まく”ものであって、“投げ付ける”ものじゃないんだよ』
福豆の山を見詰めながら真剣に考えていた俺に、兄貴がそっと教えてくれたことだった。
俺は顔を上げ、きょとんと兄貴の顔を見詰める。
『何で? 退治するために用意したんでしょ?』
俺はそう、確認するように訊き返した。
兄貴はふっと笑って、そうなんだけど、と続ける。
『本当はね、退治以前に、家に入ることを防いでるんだ』
兄貴は俺に内緒話をするように、しゃがんで俺の耳元に口を近寄せる。
それは、この家――瀧崎(たきざき)家ならではの、タブーだったせいかも知れない。
鬼は小さくて沢山あるものを、つい数えてしまう性格なんだそうだ。
その性格を利用して、家の外に予め豆をまいておく。
すると家に入ろうとした鬼は、豆を見付けると、つい豆を数えだしてしまう。
そんなことをしていると、家に入って悪さをする時間がなくなっているんだそうだ。
俺は兄貴からの話を、すぐには信じられなかった。
えー、と不満気に眉をひそめて、兄貴を見ていた。
『うっそだぁ。鬼がそんな隙あることするかなぁ?』
『まぁ、一説によると、だからな。隼人の場合、何にでも豆ぶつけそうだし……』
ははは、と兄貴は笑って立ち上がる。
どうやら本音はそれ、俺に釘を刺すことが目的だったようだ。
でも、それは10年後の今でも、何故か記憶に残っている。
俺の気持ちの中にある、最後の理性のように。
「勿論、家柄としては都合悪いんで、親の口からは一切聞いたことないですけど」
俺はそう、回想を終え、最後にそう足して言った。
隣で聞いてくれていた浅海(あさみ)さんは、ほお、と答える。
うちは代々「鬼喰い」という裏稼業を受け継ぐ一族である。
表向きはもう長いこと「地主」という体を保っているけれど、その裏では、夜な夜な鬼を狩り、文字通り食して来た。
俺は親父の跡継ぎ、ということで、幼少期から家のことや鬼に関する知識を叩き込まれて来た。
あとはまぁ、鬼を狩るための戦い方とか。
そんなわけで、うちには鬼に関する資料や遺物がわんさか残っている。
多分、表立って公表出来ないようなことまで。
「俺、多分その辺の民俗学の先生よりも詳しいと思います。鬼に関しては」
ふう、と溜め息と一緒に、そんな言葉を吐き出した。
別に、好きで覚えたわけじゃないんだけどね。
ただ、俺にはそれしか、与えられてこなかっただけで。
「それ、啓人(けいと)さんも?」
俺の顔を見上げ(俺は浅海さんよりも背がでかい)、浅海さんが何気なしに訊ねて来る。
啓人、とは、俺の兄貴のことである。
そう、冒頭のあの話を教えてくれた、兄。
俺はその浅海さんの問いに、うーん、と考える。
どうなんだろう……。
正直なところ、俺はもうここ数年、兄貴とまともに顔を合わせた記憶がない。
兄貴がいるのに、家の跡継ぎは弟の俺。
この辺はいろいろ長くなるので省くけど、要するに兄貴は、「瀧崎の将来に必要のない人間」という扱いを受けている。
俺も詳しい理由は聞かされていないから何とも言えないけど、同じ家で暮らしているのに、隔離されているのだ。
それは勿論、兄貴の方を、という意味なんだけど。
俺にとっては、俺の方が、囚われの身、である。
「兄貴は……まぁ途中まではみっちり叩き込まれてたと思いますよ。俺の方が適任だと分かるまでは」
ただ、それがいつだったか、まではよく分からない。
気付いた頃には、俺は沢山の大人に囲まれて、大事にされながらも、壊されてきたように思える。
それは簡単に言うと、「ひとりの個人としての生き方は、全部奪われた」ことを指す。
俺はこの先死ぬまで、悪ければ死してなおも「瀧崎家の一当主」だっただけの存在でいなければならない。
そんな俺の言葉に、そっか、と浅海さんも何だか浮かない声で答える。
そんな兄貴が唯一頼れるのが、浅海さん、ってわけで。
浅海さんとうちは、家族ぐるみの付き合いがある。
幼少の頃はよく一緒に遊んでいた。
「……すんません、兄貴毎日のように愚痴りに行ってるみたいで」
ははは、と乾いた笑いを零しながら、俺は浅海さんを見る。
浅海さんにとっては、うちの家のことなんか、無関係なんだ。
でも、俺からも、兄貴からも、話を聞かされ、愚痴を聞かされ、で。
分かってるよ、俺も、多分兄貴も。
浅海さんにはどうこう出来る問題じゃないって。
それでも、自分の胸の中にしまっておけるほど、俺たちは強くない。
「何謝ってんの。そうでもしなきゃ啓人さんだって壊れるかも知れんだろ。俺が愚痴聞くくらい、何の差し支えもねぇって」
浅海さんはちょっと怪訝そうな目付きになって、俺を睨むように見て、そう答えた。
兄貴だって、か。
確かに、言えてる。
多分真っ先に壊れるのは、俺だろうから。
にしても、罪悪感は拭えないもんで。
「俺は……お前ももうちょっと、感情的に振る舞ってもいいと思ってるくらいだよ」
……そうしたいのは、やまやまなんだけどね。
そーっすねぇ、と曖昧に返答する俺。
浅海さんの心配してくれてる気持ちは有り難い。
その気持ちが、切実過ぎて、ちょっと警戒してしまうほどに。
「……そういやお前、友達いる?」
「はい?」
ふと、唐突に、浅海さんが訊ねて来た。
何の脈絡もなく投げ付けられたその問いに、俺はきょとんとしてしまった。
何の話だ、という顔で見ていると、浅海さんは俺を指差して続ける。
「クラスにさ、居場所あるか、って。校内で出くわすとき、いっつもお前ひとりだなーって思って」
ああ。
浅海さんの言葉を理解して、俺は返事を考える。
居場所、なんてものを、作ろうと思ったことが、正直なところないのだ。
実際、俺は本当ならば「高校」には行かないはずだったし、結局学生ではあるけれど、活動にはあれこれ制限が掛かっている。
いつ来なくなるかも分からないこんなところに、わざわざ居場所なんか確保しない。
でも、まぁ。
「いちおう……何気無く喋るくらいの相手はいますよ」
大体教室では寝てる俺。
入学して2ヶ月くらいは、確かにひとりだった。
でも、所謂変人っていうのは、40人も1ヵ所に集めれば、2人以上は出てくるもんで。
「じゃあ俺、執行部なんで」
階段に差し掛かったところで、俺は足を止めて、向きを変える。
浅海さんはそのまま教室に戻るらしい、おう、と挨拶をして、階段を上って行った。
俺は溜め息をひとつ零して、生徒会室のある通路へ歩き出す。
そんな生徒会室のドアの前に、2つの女子の姿を見付けた。
何やら、小競り合いをしているような。
「どうしてですかぁ! 教えて下さいませ!」
「だ、だから、執行部終わったら部活だってば。一緒に帰るには遅くなっちゃうでしょ」
「構いませんわ! むしろチャンスですもの!」
なんて。
ぐいぐい迫っている背の低い方が、俺のクラスメイトの赤松(あかまつ)さん。
先輩である長田(おさだ)さんにガチで恋い慕っているらしい、メルヘン系百合姫である。
そんな長田さん、っていうのが、生徒会室を目前に足止めを食っている2年生。
浅海さんが「亜紀(あき)にゃん」って呼んでいるので、俺も倣って「亜紀にゃん先輩」と呼ばせてもらっている。
そんな彼女は生徒会役員の唯一の女子であり、良識(苦労人とも言う)。
……わざわざ生徒会室のドアの前でやんなくてもよさそうなものを。
「赤松さん。その辺で諦めなよ」
ぽてぽてと俺が近付きながら話し掛ける。
先に亜紀にゃん先輩が俺に気付き、ヘルプ、と俺に訴える。
しますよ、しますけど。
赤松さんは俺を見て、むうと頬を膨らます。
「嫌ですわッ。亜紀お姉様、全然誘いに乗ってくれないんですもの~! わたくしもう待ち草臥れてますの!」
なんて、赤松さんは俺にというよりは、亜紀にゃん先輩に訴える。
亜紀にゃん先輩には、残念ながらその気はないらしいので、現在すげぇ困ってるんだそうだ。
確かに、赤松さんの日頃の猛アタックを見ていると、一瞬の隙を突いて押し倒されそうだもんなぁ。
小柄で可愛い顔してるのに、すげぇ子。
なんて冷静に分析しつつ、俺は適当に追い払う言い訳を考える。
「……ほら、あの、そろそろしないと……うちの執行部の鬼が、抑揚のない声で説教しに出てくるから」
「あっ、有り得る!」
なんて、俺の説明に、亜紀にゃん先輩ははっと気付いてそう声を上げた。
多分、あの人はもう生徒会室にいるだろうし。
そろそろ「やかましい」の一言で俺たちを刺しに出てくる、気がする。
「そう、あの人怒らすと後すっげぇ面倒だから。今日は諦めて、ね?」
「~~もうっ、明日は絶対お願い聞いてくださいませ!」
終始亜紀にゃん先輩の腕に抱き着いていた赤松さんは、そう、不本意ながらも折れて、離れる。
では、と、ひとつ頭を下げて、渋々帰る赤松さん。
福豆の山を見詰めながら真剣に考えていた俺に、兄貴がそっと教えてくれたことだった。
俺は顔を上げ、きょとんと兄貴の顔を見詰める。
『何で? 退治するために用意したんでしょ?』
俺はそう、確認するように訊き返した。
兄貴はふっと笑って、そうなんだけど、と続ける。
『本当はね、退治以前に、家に入ることを防いでるんだ』
兄貴は俺に内緒話をするように、しゃがんで俺の耳元に口を近寄せる。
それは、この家――瀧崎(たきざき)家ならではの、タブーだったせいかも知れない。
鬼は小さくて沢山あるものを、つい数えてしまう性格なんだそうだ。
その性格を利用して、家の外に予め豆をまいておく。
すると家に入ろうとした鬼は、豆を見付けると、つい豆を数えだしてしまう。
そんなことをしていると、家に入って悪さをする時間がなくなっているんだそうだ。
俺は兄貴からの話を、すぐには信じられなかった。
えー、と不満気に眉をひそめて、兄貴を見ていた。
『うっそだぁ。鬼がそんな隙あることするかなぁ?』
『まぁ、一説によると、だからな。隼人の場合、何にでも豆ぶつけそうだし……』
ははは、と兄貴は笑って立ち上がる。
どうやら本音はそれ、俺に釘を刺すことが目的だったようだ。
でも、それは10年後の今でも、何故か記憶に残っている。
俺の気持ちの中にある、最後の理性のように。
「勿論、家柄としては都合悪いんで、親の口からは一切聞いたことないですけど」
俺はそう、回想を終え、最後にそう足して言った。
隣で聞いてくれていた浅海(あさみ)さんは、ほお、と答える。
うちは代々「鬼喰い」という裏稼業を受け継ぐ一族である。
表向きはもう長いこと「地主」という体を保っているけれど、その裏では、夜な夜な鬼を狩り、文字通り食して来た。
俺は親父の跡継ぎ、ということで、幼少期から家のことや鬼に関する知識を叩き込まれて来た。
あとはまぁ、鬼を狩るための戦い方とか。
そんなわけで、うちには鬼に関する資料や遺物がわんさか残っている。
多分、表立って公表出来ないようなことまで。
「俺、多分その辺の民俗学の先生よりも詳しいと思います。鬼に関しては」
ふう、と溜め息と一緒に、そんな言葉を吐き出した。
別に、好きで覚えたわけじゃないんだけどね。
ただ、俺にはそれしか、与えられてこなかっただけで。
「それ、啓人(けいと)さんも?」
俺の顔を見上げ(俺は浅海さんよりも背がでかい)、浅海さんが何気なしに訊ねて来る。
啓人、とは、俺の兄貴のことである。
そう、冒頭のあの話を教えてくれた、兄。
俺はその浅海さんの問いに、うーん、と考える。
どうなんだろう……。
正直なところ、俺はもうここ数年、兄貴とまともに顔を合わせた記憶がない。
兄貴がいるのに、家の跡継ぎは弟の俺。
この辺はいろいろ長くなるので省くけど、要するに兄貴は、「瀧崎の将来に必要のない人間」という扱いを受けている。
俺も詳しい理由は聞かされていないから何とも言えないけど、同じ家で暮らしているのに、隔離されているのだ。
それは勿論、兄貴の方を、という意味なんだけど。
俺にとっては、俺の方が、囚われの身、である。
「兄貴は……まぁ途中まではみっちり叩き込まれてたと思いますよ。俺の方が適任だと分かるまでは」
ただ、それがいつだったか、まではよく分からない。
気付いた頃には、俺は沢山の大人に囲まれて、大事にされながらも、壊されてきたように思える。
それは簡単に言うと、「ひとりの個人としての生き方は、全部奪われた」ことを指す。
俺はこの先死ぬまで、悪ければ死してなおも「瀧崎家の一当主」だっただけの存在でいなければならない。
そんな俺の言葉に、そっか、と浅海さんも何だか浮かない声で答える。
そんな兄貴が唯一頼れるのが、浅海さん、ってわけで。
浅海さんとうちは、家族ぐるみの付き合いがある。
幼少の頃はよく一緒に遊んでいた。
「……すんません、兄貴毎日のように愚痴りに行ってるみたいで」
ははは、と乾いた笑いを零しながら、俺は浅海さんを見る。
浅海さんにとっては、うちの家のことなんか、無関係なんだ。
でも、俺からも、兄貴からも、話を聞かされ、愚痴を聞かされ、で。
分かってるよ、俺も、多分兄貴も。
浅海さんにはどうこう出来る問題じゃないって。
それでも、自分の胸の中にしまっておけるほど、俺たちは強くない。
「何謝ってんの。そうでもしなきゃ啓人さんだって壊れるかも知れんだろ。俺が愚痴聞くくらい、何の差し支えもねぇって」
浅海さんはちょっと怪訝そうな目付きになって、俺を睨むように見て、そう答えた。
兄貴だって、か。
確かに、言えてる。
多分真っ先に壊れるのは、俺だろうから。
にしても、罪悪感は拭えないもんで。
「俺は……お前ももうちょっと、感情的に振る舞ってもいいと思ってるくらいだよ」
……そうしたいのは、やまやまなんだけどね。
そーっすねぇ、と曖昧に返答する俺。
浅海さんの心配してくれてる気持ちは有り難い。
その気持ちが、切実過ぎて、ちょっと警戒してしまうほどに。
「……そういやお前、友達いる?」
「はい?」
ふと、唐突に、浅海さんが訊ねて来た。
何の脈絡もなく投げ付けられたその問いに、俺はきょとんとしてしまった。
何の話だ、という顔で見ていると、浅海さんは俺を指差して続ける。
「クラスにさ、居場所あるか、って。校内で出くわすとき、いっつもお前ひとりだなーって思って」
ああ。
浅海さんの言葉を理解して、俺は返事を考える。
居場所、なんてものを、作ろうと思ったことが、正直なところないのだ。
実際、俺は本当ならば「高校」には行かないはずだったし、結局学生ではあるけれど、活動にはあれこれ制限が掛かっている。
いつ来なくなるかも分からないこんなところに、わざわざ居場所なんか確保しない。
でも、まぁ。
「いちおう……何気無く喋るくらいの相手はいますよ」
大体教室では寝てる俺。
入学して2ヶ月くらいは、確かにひとりだった。
でも、所謂変人っていうのは、40人も1ヵ所に集めれば、2人以上は出てくるもんで。
「じゃあ俺、執行部なんで」
階段に差し掛かったところで、俺は足を止めて、向きを変える。
浅海さんはそのまま教室に戻るらしい、おう、と挨拶をして、階段を上って行った。
俺は溜め息をひとつ零して、生徒会室のある通路へ歩き出す。
そんな生徒会室のドアの前に、2つの女子の姿を見付けた。
何やら、小競り合いをしているような。
「どうしてですかぁ! 教えて下さいませ!」
「だ、だから、執行部終わったら部活だってば。一緒に帰るには遅くなっちゃうでしょ」
「構いませんわ! むしろチャンスですもの!」
なんて。
ぐいぐい迫っている背の低い方が、俺のクラスメイトの赤松(あかまつ)さん。
先輩である長田(おさだ)さんにガチで恋い慕っているらしい、メルヘン系百合姫である。
そんな長田さん、っていうのが、生徒会室を目前に足止めを食っている2年生。
浅海さんが「亜紀(あき)にゃん」って呼んでいるので、俺も倣って「亜紀にゃん先輩」と呼ばせてもらっている。
そんな彼女は生徒会役員の唯一の女子であり、良識(苦労人とも言う)。
……わざわざ生徒会室のドアの前でやんなくてもよさそうなものを。
「赤松さん。その辺で諦めなよ」
ぽてぽてと俺が近付きながら話し掛ける。
先に亜紀にゃん先輩が俺に気付き、ヘルプ、と俺に訴える。
しますよ、しますけど。
赤松さんは俺を見て、むうと頬を膨らます。
「嫌ですわッ。亜紀お姉様、全然誘いに乗ってくれないんですもの~! わたくしもう待ち草臥れてますの!」
なんて、赤松さんは俺にというよりは、亜紀にゃん先輩に訴える。
亜紀にゃん先輩には、残念ながらその気はないらしいので、現在すげぇ困ってるんだそうだ。
確かに、赤松さんの日頃の猛アタックを見ていると、一瞬の隙を突いて押し倒されそうだもんなぁ。
小柄で可愛い顔してるのに、すげぇ子。
なんて冷静に分析しつつ、俺は適当に追い払う言い訳を考える。
「……ほら、あの、そろそろしないと……うちの執行部の鬼が、抑揚のない声で説教しに出てくるから」
「あっ、有り得る!」
なんて、俺の説明に、亜紀にゃん先輩ははっと気付いてそう声を上げた。
多分、あの人はもう生徒会室にいるだろうし。
そろそろ「やかましい」の一言で俺たちを刺しに出てくる、気がする。
「そう、あの人怒らすと後すっげぇ面倒だから。今日は諦めて、ね?」
「~~もうっ、明日は絶対お願い聞いてくださいませ!」
終始亜紀にゃん先輩の腕に抱き着いていた赤松さんは、そう、不本意ながらも折れて、離れる。
では、と、ひとつ頭を下げて、渋々帰る赤松さん。