B101の異常行動及び保護記録
保護記録■02:イグゼキュター
誘導灯の緑の光が通路の隅に蹲る黒いフードを照らす。
力なく藻掻いた足先が脱ぎ捨てられたフェイスガードを弾いたらしく、からからと気の抜けた音を響かせた。
深夜の通路で、ぜえぜえと粘ついた荒い呼吸音が床から立ち上る。
「どうして、はなしてくれなかった」
それは初めて耳にする、ドクターのなんとも恨めしい声だった。
いまにも泣き出しそうな、やるせなさと苛立ちにまみれた声に非難され、イグゼキュターは僅かに喉が詰まるような、絞まるような奇妙な感覚を覚えた。
「行ってしまった」
おまえのせいで、と言葉にこそならなかったが、そう糾弾された気がしてイグゼキュターは握りしめていたドクターの黒いジャケットから手を離した。
真夜中、しんと冷えた暗闇のなかにドクターは彼にしかみえないなにかに追い縋って、彷徨う。
よたよたと覚束なく、危なっかしい足取りで無人の通路をゆらゆら揺れながら進む様は、気の弱い者が目にしたら悲鳴を上げてしまうくらい不気味で、現実離れしている。
話しかけても会話が成り立たず、その言動から鑑みてまともにとりあうのは時間の無駄だろうし、手を離したところでドクターが満足に動けるとは考えられない。
「ドクター。視認できませんが恐らくあなたは今鼻から出血している状態だと思われます。それもかなりの量です。速やかに安静にする必要があります」
暗闇の中の黒い輪郭に、なるべく刺激しないようにとゆっくり語りかける。
以前、ブリーフィングで『徘徊中』のドクターは強い光を嫌うと聞いていたので携帯しているフラッシュライトは使えない。
それでも濃厚な血の匂いが鼻をつくので、おそらく大量に鼻血が出ているのだろう。
誘導灯の小さな光の中にうっすらと、蹲って蠢く人の形を見出す。
昼間、業務中にみる姿とは明らかに違う、イグゼキュターの知らない姿だった。
ドクターが真夜中に無人の艦内をひとり彷徨うことがある、というのはオペレーターたちの間では浸透している話であったが、イグゼキュターが深夜の警邏にあたっているときに遭遇するのはこれが初めてだった。
深夜に徘徊するのは理性回復剤の副作用やドクターが抱えている様々な精神的問題の影響なのだという。
前後不覚のドクターに遭遇したら刺激せず速やかに保護。そのように通知されてきた内容を頭の中で反芻しながらイグゼキュターは目の前の影の塊のような男をじっと見つめた。
ふう、ふう、と呼吸をするのもつらそうな音がする。
細さばかりが目立つ手で床を掻き、膝でじりじりと這う。どうやら前に進みたいらしいが、ドクターにだけ何十倍ものGがかかっているかのようにその動きは重々しく緩慢で、苦しそうだった。
誘導灯の光がフードから溢れた髪を照らし、形容し難い色をイグゼキュターに見せた。
「ドクター、鼻からの出血は止まりませんか」
「あと少しだった、もっと早ければ…」
なんの話をしているのかわからず、イグゼキュターは再度同じことを問うた。
だがドクターは答えず、ただ苦しそうに喉を鳴らすだけだった。
鼻血が逆流し、喉に詰まっているかもしれないと考え、イグゼキュターは蹲ったままのドクターの上半身を引き起こし、壁にもたれさせた。
「あなたの心身の状態は正常ではありません。直ちに部屋に戻りましょう」
「触るな、 わたしが行かないと」
「どこへ行こうとしているのですか」
伸ばされた手が闇を掻く。
それをやんわりと掴み取ると、ヒステリックに払いのけられた。
手のひらに微かに濡れたような感触が残った。おそらく血だろう。
「はやく……はやく…彼女が死んでしまう」
イグゼキュターとドクターの他に、この深夜の生産階層に人はいない。
震える手を暗闇の先へ伸ばし、ドクターはか細い声で呻いた。
「間に合わない」
「…? 泣いているのですか」
だらりと落ちた手が、誘導灯の光に照らされて緑色に光る。
骨ばった手は黒いもので酷く汚れていた。
「ドクター」
「お前のようなサンクタは知らない」
頬の薄皮が切れそうなほど冷たく、硬い声だった。
ぼそぼそとした不明瞭なささやきであったにも関わらず、ふたり以外誰もいない深夜の通路であったばっかりに、無責任な呪いめいた言葉はイグゼキュターの耳にすんなりと届いてしまった。
「――…」
心臓に、細く長い針が突き立てられてそのまま貫通していくような。
味わったことのない、初めての痛みだった。
それ以降、イグゼキュターがなにを言っても反応らしい反応は返ってこなかった。
抱き上げても抵抗せず、されるがまま、部屋に運ばれていく。
ぽつぽつとジャケットに滴ったのが涙だったのか、それとも血だったのか、ドクターの顔を照らせないイグゼキュターには結局判らなかった。
誘導灯の緑の光が通路の隅に蹲る黒いフードを照らす。
力なく藻掻いた足先が脱ぎ捨てられたフェイスガードを弾いたらしく、からからと気の抜けた音を響かせた。
深夜の通路で、ぜえぜえと粘ついた荒い呼吸音が床から立ち上る。
「どうして、はなしてくれなかった」
それは初めて耳にする、ドクターのなんとも恨めしい声だった。
いまにも泣き出しそうな、やるせなさと苛立ちにまみれた声に非難され、イグゼキュターは僅かに喉が詰まるような、絞まるような奇妙な感覚を覚えた。
「行ってしまった」
おまえのせいで、と言葉にこそならなかったが、そう糾弾された気がしてイグゼキュターは握りしめていたドクターの黒いジャケットから手を離した。
真夜中、しんと冷えた暗闇のなかにドクターは彼にしかみえないなにかに追い縋って、彷徨う。
よたよたと覚束なく、危なっかしい足取りで無人の通路をゆらゆら揺れながら進む様は、気の弱い者が目にしたら悲鳴を上げてしまうくらい不気味で、現実離れしている。
話しかけても会話が成り立たず、その言動から鑑みてまともにとりあうのは時間の無駄だろうし、手を離したところでドクターが満足に動けるとは考えられない。
「ドクター。視認できませんが恐らくあなたは今鼻から出血している状態だと思われます。それもかなりの量です。速やかに安静にする必要があります」
暗闇の中の黒い輪郭に、なるべく刺激しないようにとゆっくり語りかける。
以前、ブリーフィングで『徘徊中』のドクターは強い光を嫌うと聞いていたので携帯しているフラッシュライトは使えない。
それでも濃厚な血の匂いが鼻をつくので、おそらく大量に鼻血が出ているのだろう。
誘導灯の小さな光の中にうっすらと、蹲って蠢く人の形を見出す。
昼間、業務中にみる姿とは明らかに違う、イグゼキュターの知らない姿だった。
ドクターが真夜中に無人の艦内をひとり彷徨うことがある、というのはオペレーターたちの間では浸透している話であったが、イグゼキュターが深夜の警邏にあたっているときに遭遇するのはこれが初めてだった。
深夜に徘徊するのは理性回復剤の副作用やドクターが抱えている様々な精神的問題の影響なのだという。
前後不覚のドクターに遭遇したら刺激せず速やかに保護。そのように通知されてきた内容を頭の中で反芻しながらイグゼキュターは目の前の影の塊のような男をじっと見つめた。
ふう、ふう、と呼吸をするのもつらそうな音がする。
細さばかりが目立つ手で床を掻き、膝でじりじりと這う。どうやら前に進みたいらしいが、ドクターにだけ何十倍ものGがかかっているかのようにその動きは重々しく緩慢で、苦しそうだった。
誘導灯の光がフードから溢れた髪を照らし、形容し難い色をイグゼキュターに見せた。
「ドクター、鼻からの出血は止まりませんか」
「あと少しだった、もっと早ければ…」
なんの話をしているのかわからず、イグゼキュターは再度同じことを問うた。
だがドクターは答えず、ただ苦しそうに喉を鳴らすだけだった。
鼻血が逆流し、喉に詰まっているかもしれないと考え、イグゼキュターは蹲ったままのドクターの上半身を引き起こし、壁にもたれさせた。
「あなたの心身の状態は正常ではありません。直ちに部屋に戻りましょう」
「触るな、 わたしが行かないと」
「どこへ行こうとしているのですか」
伸ばされた手が闇を掻く。
それをやんわりと掴み取ると、ヒステリックに払いのけられた。
手のひらに微かに濡れたような感触が残った。おそらく血だろう。
「はやく……はやく…彼女が死んでしまう」
イグゼキュターとドクターの他に、この深夜の生産階層に人はいない。
震える手を暗闇の先へ伸ばし、ドクターはか細い声で呻いた。
「間に合わない」
「…? 泣いているのですか」
だらりと落ちた手が、誘導灯の光に照らされて緑色に光る。
骨ばった手は黒いもので酷く汚れていた。
「ドクター」
「お前のようなサンクタは知らない」
頬の薄皮が切れそうなほど冷たく、硬い声だった。
ぼそぼそとした不明瞭なささやきであったにも関わらず、ふたり以外誰もいない深夜の通路であったばっかりに、無責任な呪いめいた言葉はイグゼキュターの耳にすんなりと届いてしまった。
「――…」
心臓に、細く長い針が突き立てられてそのまま貫通していくような。
味わったことのない、初めての痛みだった。
それ以降、イグゼキュターがなにを言っても反応らしい反応は返ってこなかった。
抱き上げても抵抗せず、されるがまま、部屋に運ばれていく。
ぽつぽつとジャケットに滴ったのが涙だったのか、それとも血だったのか、ドクターの顔を照らせないイグゼキュターには結局判らなかった。
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