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霞が晴れても、君が好き【時透無一郎】
*名前変換*
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「……無一郎、これ見たか」
「見た。修正入れておいたよ」
「早いな」
「兄さんが遅いんじゃない?」
「お前な……」
午前9時。
株式会社 結(むすび)の社長室。
ガラス越しに見えるオフィスでは、社員たちが忙しそうに働いていた。
「……で、午後の打ち合わせは?」
「14時から。新しい企画担当の人も入るみたい」
「ああ、今日からだったな」
有一郎は手元の資料に目を落とす。
「お前も顔出せよ」
「わかってる」
「……ん? こないだ言ってた方の資料は?」
「え?ああ、ごめん。打ち合わせの前に送るよ」
そう答えて、無一郎はノートパソコンを閉じ、シャツの袖を軽く直して立ち上がった。
「……頼むぞ」
有一郎は椅子の背にもたれた。
「じゃ、仕事戻るね」
無一郎は立ち上がり、社長室を後にした。
時透無一郎、25歳。
双子の兄・有一郎と共に大学時代に立ち上げたこの会社も、今年で5年目になる。
小規模会社だが、仕事は順調だった。
忙しくはあるけれど、悪くない毎日だ。
兄がいて、仲間がいて、自分の仕事がある。
それだけで十分だと思っていた。
「………」
——もう、ずっと昔のことだ。
忘れたことはない。
けれど、思い出してばかりいるわけでもない。
あの頃の自分が、どれほど大切に思っていたとしても。
今は、今を生きている。
ふと、廊下の窓に目を向けた。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れている。
「…………」
無一郎は少しだけ目を細めて、また歩き出した。
(……資料資料……。あ。これか……)
スマホを見ながら、有一郎に言われていたデータを探す。
ふと、向かい側からパタパタと足音が聞こえた。
「……す、すみません!」
「………」
「あ、あのっ……」
そこまで言われて、自分が話しかけられていることに気がつき、足を止めた。
「すみません、第3会議室ってどちらでしょうか?」
(……第3会議室?)
会議室に迷う社員なんていたのか。
確かに、元々会議室として使う予定ではなかった部屋だ。隠れたような場所にある。
無一郎は顔を上げた。
「……第3会議室なら、奥の——」
そこで、言葉が止まった。
「………?」
目の前の女性が、不思議そうに首を傾げる。
「……えっと、奥行って……右ですか?左……?」
胸元まで伸びた、柔らかく波打つ髪。
淡い色のブラウスに、すっきりとしたスカート。
あの頃より、少し大人びた顔立ち。
けれど、こちらを見上げる大きな水色の瞳は、何も変わっていなかった。
無一郎は、その顔を見つめた。
見間違えるはずがなかった。
どれだけ、時が経っても。
「…………茉子?」
思わず、その名を口にした。
女性は目を丸くする。
「……あの、どうして私の名前……?」
「…………」
無一郎は、ようやく我に返った。
「……ああ、ごめん」
「……?」
「……今日から入る人の名前、聞いてたから」
「……あ! そうなんですね!」
茉子は、ほっとしたように笑った。
「……それで、第3会議室なんですけど……」
「……案内するよ」
「えっ、いいんですか?!」
「……うん。ちょっとわかりにくい場所だから」
「ありがとうございます!」
無一郎は歩き出した。
その隣を、茉子が小走りでついてくる。
(……小さい……いや、俺の背が違うからか……)
あの頃より、自分の背はかなり伸びた。
隣に並ぶ感覚は、少し違った。
「……あの、本当に助かりました! 初日から迷っちゃって……」
「……うん」
「会議室、全部同じところにあると思ってたんですけど」
「……第3だけ、後から作ったんだよね」
「そうなんですね!」
——話し方も。
笑い方も。
雰囲気も。
覚えているものと、少しだけ違う。
それでも。
(……茉子だ)
間違いなかった。
「……ここだよ」
「わあ、ありがとうございます!」
茉子は会議室の扉を見上げた。
「さっきもここ通りました……」
「……うん。わかりにくいよね」
「とても助かりました! あの、お名前も聞かずにすみません」
「……ああ、別に」
「……?」
「……もう、始まるんじゃない?」
「あっ! そうでした!」
慌てて腕時計を確認する。
「本当にありがとうございました!」
ぺこりと頭を下げて、茉子は会議室へ入っていった。
扉が閉まる。
「…………」
無一郎は、その場に立ち尽くした。
(……茉子)
間違いない。
少し大人びていたけれど。
(……本当に?)
もう一度、閉じた扉を見る。
「…………」
それから、踵を返した。
足早に廊下を進む。
向かった先は、自分のデスクではなかった。
「兄さん!」
ノックもそこそこに、社長室の扉を開ける。
「……何だよ」
有一郎はモニターから顔を上げた。
「お前、さっきから何してんの?資料は?」
「……兄さん」
「だから何だよ」
無一郎は扉を閉めた。
「………?」
(……何かトラブルか……?)
有一郎は、僅かに眉間に皺を寄せた。
「……どうしたんだ?」
無一郎は、瞳を大きくしながら、一言だけ。
「……茉子に会った」
「……………。」
有一郎は、少し黙った。
「…………は?」
「……茉子がいた」
有一郎は眉をひそめた。
「……お前、何言って……」
そこまで言って、言葉を止める。
「…………まさか」
「……うん」
「……あの、茉子か?」
無一郎は頷いた。
「……今日から入った人」
「…………」
有一郎はしばらく弟の顔を見つめていた。
それから、机の上の資料へ視線を落とす。
「……ちょっと待て」
社員情報を確認する。
新しく入社した企画担当。
櫻井 茉子。
「…………」
有一郎はゆっくり顔を上げた。
「……間違いないのか」
「……うん」
「……そうか」
無一郎は何も言わなかった。
有一郎も、しばらく黙っていた。
やがて。
「……よかったな、無一郎」
「…………」
無一郎は少しだけ目を伏せた。
「……うん」
そして、息を吐いた。
「……よかった」
それだけ言って、再び部屋から出ていった。
「……………」
有一郎は、少しの間、閉まった扉を見ていた。
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