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霞に紛れて、君に近づく【時透無一郎】
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任務が、思ったより早く終わった。
無一郎は空を見上げる。
まだ、いつもの時間には少し早い。
「…………」
『……来れる』
昨日の茉子の声を思い出す。
(……行くか)
無一郎の足は、いつもの稽古場へと向かっていた。
稽古場にたどり着くと、そこには既に茉子がいた。
「……早いね」
声をかけると、茉子が振り返った。
「無一郎こそ!」
茉子の表情はいつもより柔らかかった。
「僕は任務が早く終わったから」
「……わ、私も……別に。いつもこれくらいだし」
「…………」
(……早い気がするけど)
「……ふーん」
「なによ」
茉子は、視線を逸らした。
(……逃げないなら、いいか)
「じゃ、移動するよ」
「……え?」
「実戦稽古って言ったでしょ」
茉子は首を傾げた。
----------------
少しして、二人は山の中にいた。
「…………」
茉子は辺りを見回した。
木々が生い茂り、足元には木の根や石が転がっている。いつもの平坦な稽古場とは、まるで勝手が違う。
「……ここでやるの?」
「うん」
無一郎は少し先まで歩いて、振り返った。
「実戦なら、足場がいいとは限らないでしょ」
「……まぁ、そうだけど」
「それに、相手が正面から来るとも限らないし」
「………ふふっ」
茉子は笑った。
「え、なに?急に」
「私、誰に育てられたと思ってんの?」
「……誰だっけ?」
「鱗滝左近次!元水柱!」
「……あぁ」
「山の中で散々鍛えられて来たんだから」
「へぇ」
「酸素のうっすい山で、なんかもう仕掛けとかもすごいあって……!」
「ああ、だから妙に実戦で戦えてたんだ」
「妙にって何よ」
そんな言い方はしたが、確かにそれは納得できる話だった。
自分より背も低く、身体も小さい。
それなのに、茉子は妙に体力があった。
実戦でも、足場の悪さに動きを鈍らせることは少ない。元々持っている力に加え、その鍛錬により培われたものだろう。
「褒めてるけど」
「そうは聞こえないんですけど」
茉子はそこまで言って、軽く息を吐いた。
「それで、ここで何するの?」
無一郎は少し考えてから、口を開いた。
「僕を捕まえて」
「………はい?」
茉子は思わず声が出た。
「山に慣れてるんなら、できるでしょ」
「それだけでいいの?」
「ああ、いいよ」
無一郎は笑みを浮かべた。
「じゃあ、始めようか」
「え、ちょっと待って。どこまで行って——」
茉子が言い終わるより先に、無一郎の姿が消えた。
「…………」
一瞬遅れて、木々の間を抜ける気配がする。
「……え?」
茉子は慌ててその後を追った。
「ちょっと!!速すぎるんだけど!!」
速すぎてほとんど見えない。
音がしてようやっと目が追いつくが、その頃には無一郎の姿はない。
「山には慣れてるんじゃなかった?」
「そういう問題じゃない!!速すぎ!!」
「あ、そう」
「待ってよ!」
「待ったら意味ないし」
気配はなんとなく感じる。
でも、それだけだ。
「……あぁ、もしかして」
無一郎はそこまで言って——
「……痛っ……!」
無一郎は瞬時に茉子の元へと移動し、指で軽く額を弾いた。
茉子は思わず、両手で額を押さえる。
「こういう方が、やる気出る?」
「…………」
無一郎は、余裕の笑みだ。
茉子は無一郎を睨んだ後、深く息を吐いた。
「……絶対捕まえる」
「楽しみだね。ああ、でも早い方がいいよ?暗くなると見えにくいでしょ」
次の瞬間には、無一郎の姿はなかった。
「……っ、待ってってば!!」
茉子は地面を蹴った。
木の根を飛び越え、斜面を駆け上がる。
茉子がどれだけ速度を上げても距離は縮まらない。
余力すら感じる。
(……速い)
当たり前だ。
相手は柱なのだから。
「…………」
茉子は一度、足を止めた。
(……?)
気配が、止まった。
無一郎は少しだけ速度を落とした。
(諦めた?)
いや。
茉子がそう簡単に諦めるはずがない。
「…………」
無一郎は木の枝に足をかけ、辺りを見る。
気配がない。
(……消えた?)
次の瞬間、背後から茉子の気配がした。
「………っ」
「あっ!!」
無一郎は瞬時に木を蹴って跳んだ。
そこには、悔しそうにしている茉子の姿。
無一郎は小さく笑った。
(……なるほどね)
自分の気配を消して、相手に近づく。
速さで勝てないと思ったから。
「悪くないね」
「それはどーも!!」
褒めたつもりだが、どうみても茉子は嬉しそうではない。
「…………」
茉子は再び地面を蹴った。
同じように気配を消して、無一郎に近づく。
「…………?」
(褒めはしたけど……)
似たようなことを繰り返す茉子。
(……何してるんだろう?)
だいたいいつも、あの手この手を使ってくるのに。
「…………」
茉子は、感情的な面が目立つが、そこそこ適応力がある。
(……あんまり悔しそうでもないし)
無一郎はそんなことを思いながら、地面や木を蹴っていく。
(速さだけじゃ追いつけない)
それはもう、わかっている。
(でも——)
茉子は再び気配を消した。
さっき、無一郎は自分に気づいた瞬間、木を蹴って右へ跳んだ。左に跳ぶこともあるが、比べると右の方がわずかに速い気がする。
地面にいる時は、一旦真上に高く跳ぶ。
追いつけなくてもいい。
——行く先がわかれば。
(……そろそろ疲れてくる頃か)
無一郎はそう思いながら、移動を続ける。
再び、茉子の気配が消えた。
「…………」
無一郎は止まった。
「………?」
次の瞬間、背後から茉子の気配。
「………っ」
(気配消すの、うまくなってる……)
「……あ」
無一郎が木を蹴って右へ跳ぼうとすると、後ろからその方向に小石が跳んで来る。進路が塞がれ、無一郎は瞬時に左に跳んだ。
石が投げ込まれたことにより、ほんのわずかに反応が遅れる。
しかし、その速さはやはり尋常ではない。
茉子との距離が離れた。
すると
「水の呼吸——」
茉子は、木を蹴った。
「——漆ノ型 雫波紋突き」
「………!」
水の呼吸、最速の突き技。
刀はない。
それでも、身体に染みついた踏み込みは変わらない。
その踏み込みだけを使って、一気に距離を詰める。
走るより遥かに速い。
無一郎が着地する。
その瞬間には、もう茉子が迫っていた。
「……!」
(速い)
無一郎は、再び地面を蹴った。
あと少し。
(届く……!)
茉子はさらに一歩、踏み込んだ。
手を伸ばす。
「——っ!」
指先が、触れた。
逃がさない。
茉子はそのまま——
無一郎の腕を掴んだ。
「……!」
「——捕まえた!!」
無一郎は僅かに目を見開いた。
茉子は息を切らしながら、それでも得意げに笑っている。
「捕まえたよ!」
「……うん」
「どう?!」
「…………」
無一郎は、茉子が走ってきた方を見る。
「……右に行くと思ったから、石投げたの?」
「そう!あと、右の方が速いからそっち行って欲しくなかった!」
「何回も同じことしてたのも?」
「避け方見てた」
「…………」
無一郎は少しだけ目を細めた。
「ちゃんと考えたんだ」
「考えてるわ!」
「……今のは、良かったよ」
そう言われた茉子は、笑った。
「………」
ふと、無一郎の視線が落ちる。
茉子の手が、まだ自分の腕を掴んでいた。
こんなふうに、茉子の方から自分に手を伸ばしてきたのは、初めてな気がした。
(……捕まえろって言ったのは、僕だけど)
でも——
「…………」
なんとなく、目が離れなかった。
「ねぇ。次、何するっ?」
茉子はそう言って、無一郎から手を離した。
「…………」
無一郎は、離れた自分の腕を見た。
(……離れた)
その手が離れていくのを、少しだけ惜しいと思った。
「……無一郎?」
茉子は首を傾げて、無一郎を見上げた。
(…………)
「……少し、休憩しようか」
「……?うん」
二人は少し離れた木の根元に腰を下ろした。
「あー……疲れた……」
茉子は水を飲みながら、大きく息を吐いた。
「あれくらいで?」
「誰のせいだと思ってんの」
「茉子でしょ」
「…………」
「何?」
「なんでもない!!」
無一郎は首を傾げた。
「でも、さっきのは本当に良かったよ」
「……ふふ。でしょ?」
嬉しそうに笑う。
「炭治郎がね、考えることはやめたらダメだって教えてくれたの」
「そうなんだ」
「冨岡さんはね、いつもちゃんと判断しなきゃダメだって。どんな時も落ち着いてって」
「それは、できてないんじゃない」
「は?」
「ほんと、炭治郎と冨岡さん好きだね」
「……え?そうだけど」
「ふーん」
「………?」
なぜだか、少しだけつまらなかった。
せっかく今日は、普通に話しているのに。
「…………」
無一郎は、ふと自分の腕に目を落とした。
さっきまで、そこを茉子の手が掴んでいた。
(…………)
捕まえろと言ったのは、自分だ。
茉子は言われた通りにしただけ。
それなのに。
(……なんで、気になるんだろう)
「あ、ねぇ!次は?」
「…………」
無一郎は顔を上げた。
「次?」
「実戦稽古。これで終わり?」
「……いや」
無一郎は立ち上がった。
「今度は逆」
「逆?」
無一郎は茉子を見下ろす。
「茉子が逃げて」
「…………」
茉子の顔が僅かに引きつった。
「……無理じゃない?」
「やる前から諦めるの?」
「だって今の見たでしょ?!」
「見たよ」
「じゃあ無理なのわかるでしょ!」
「でも実戦なら、相手選べないから」
「ぐっ……」
それは、その通りだ。
正論かつ痛いところをサラッと突いてくるのは、いつものこと。
「そうだな……」
無一郎は少し考えた。
「1分」
「1分?!」
「短い?」
「長いよ!!」
「じゃあ始めようか」
「待って待って待って!!」
そう言って駆け出すが——
「——捕まえた」
「っ……!」
後ろから腕を掴まれ、茉子の足が止まった。
「……はや……」
「茉子よりはね」
「腹立つ……」
「…………」
無一郎は、自分の手を見る。
その手は、茉子の腕を掴んだままだった。
(…………)
今までだって、何度も触れている。
稽古で手を取ることもあった。
怪我をした時は、抱えて運んだ。
何も、変わらないはずなのに。
「……無一郎?」
茉子が振り返る。
近い。
(…………近いな)
今更そんなこと思う。
本当に、今更だ。
けれど——
「……捕まえたんだから、もう離してよ」
「…………」
「1分はやっぱり無理だよ。せめて30秒に——」
茉子はそこまで言って、返事のない無一郎の顔を覗き込んだ。
「無一郎?」
「…………」
視線が合う。
「……嫌?」
「え」
「掴まれてるの」
茉子は、目を丸くした。
「……嫌じゃ、ないけど……」
「………」
やっぱり。
嫌ではない。
なら——
「……じゃあ、いいでしょ」
「い、いや、よくないけど!」
「なんで?」
「だって、捕まえたら終わりでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、離してよ」
「…………」
それはそうだ。
茉子の言うことは、理解できる。
(……なんで、離したくないんだろう)
無一郎は、自分の手を見る。
離せと言われている。
捕まえる稽古は、もう終わっている。
なら、離せばいい。
「.............」
それなのに、すぐには手が動かなかった。
「……無一郎?」
もう一度、名前を呼ばれる。
「…………」
無一郎は、ようやく茉子の腕から手を離した。
「……どうしたの?」
「…………別に」
「絶対なんかあったでしょ」
「ないよ」
「……じゃあ、何だったの?」
「…………」
答えられなかった。
自分でも、わからなかったから。