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6.陽だまり
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あれから、一ヶ月ほどが経った。
温泉から戻ってからも、二人の暮らしは変わらない。
茉子は変わらず人々のもとを回り、義勇は家のことをしながら、穏やかな日々を過ごしていた。
庭の草花を整えたり、縁側で本を読んだり。
そんな何でもない時間が、少しずつ日常になっていた。
「…………」
辺りは、日が落ちてすっかり暗くなっている。
義勇は立ち上がり、外を眺めた。
茉子はいつも、だいたいの帰りの時刻を義勇に伝えてから家を出て行く。その時刻から大幅にズレることはない。
しかし、夜になっても帰ってこないと、少し落ち着かなくなる自分がいる。鬼はいないとはいえ、どうしても夜道は心配だった。
——と、その時だった。
「ただいまー」
玄関から物音がして、茉子の声が聞こえた。
義勇は小さく息を吐く。
玄関に向かい、灯りをつけた。
「…………」
「……?」
義勇は茉子の姿を見るなり、その場に立ったまま黙っている。
「あ、すみません、ちょっと遅くなっちゃって」
「走ってきたのか」
「え?」
「わずかに息が上がっている」
「……あ……」
茉子は一見、いつも通りだ。
けれど、義勇の目は誤魔化せない。
「何かあったのか」
「……いや、えっと……大したことでは……」
「何があったのか聞いている」
「………」
このまま誤魔化しても、納得してはくれそうにない。
「……なんか、酔った男の人三人ぐらいに話しかけられて」
「………」
「どこにいくのかとか、一緒に飲まないかとか……」
「………」
「もちろん断りましたけど、ずっとついて来るし、腕も掴まれそうになったので……」
「………」
「角曲がって走って来ました」
「………」
「……義勇さん?」
「………」
義勇は黙ったままだ。
茉子は首を傾げた。
「ちゃんと撒いてきましたよ?平気平気」
「平気かどうかは聞いていない」
「………っ」
茉子は思わず背筋を伸ばす。
義勇は声を荒げてはいない。
けれど、いつもの「大丈夫ですよ」では済ませてもらえそうになかった。
「……怒ってます……?」
「……怒っていない」
義勇はそう言ったあと、息を吐いた。
「……心配している」
その言葉に、茉子は目を丸くした。
今まで散々、鬼相手に戦ってきたのだ。
酔っ払いの男たちなど、相手にもならない。
義勇もそれはわかっている。
理解した上で、心配している。
「…………」
茉子は、しばらく何も言えなかった。
怪我をしたわけでもない。
怖くて動けなかったわけでもない。
自分で逃げ切ることもできた。
それでも——心配するのだ、この人は。
「……そっか」
茉子は、小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
「………」
「大丈夫だから、それでいいと思ってました」
義勇は黙って茉子を見る。
「……次からは、何かあったら……ちゃんと言います」
「……ああ」
茉子は義勇の顔を見て、少しだけ笑った。
「……お腹すいた」
「……そうだな」
そう言って二人は、並んで家の奥へと歩いていった。
夕餉の支度は、ほとんど済んでいた。
前日の残りと、ご近所さんからのおすそわけ。
野菜は出かける前に茉子が切っておき、それを義勇が煮たりする。
あとは、味噌汁を温め直すだけだ。
「あ。私、やりますよ」
「……いい。着替えてこい」
茉子は、少し考えた後
「じゃあ、お願いします」
そう言って、部屋へ向かっていった。
「…………」
義勇は鍋を火にかけた。
ふと、別の部屋へ視線をやる。
そこには、茉子の知らない小さな箱がしまってある。温泉から戻って間もなく、宇髄から教えられた店へ足を運んだ。
指輪は、もう手元にある。
あとは——
(……いつ渡す)
『渡し方も少しは考えろよ』
天元の言葉が蘇る。
「…………」
一緒に暮らしていると、タイミングというものは想像していたよりも難しかった。
かといって、あまり先延ばしにもしたくない。
鍋を火から下ろそうと、持ち手へ手を伸ばす。
「……っ」
僅かに指先がずれ、人差し指が、熱くなった鍋の縁に触れた。
義勇は反射的に手を引く。
「わー!お味噌汁のいい匂いする〜」
ちょうどその時だった。
寝間着に着替えた茉子は、部屋へと戻って来た。
「……?あ!」
ほんの数秒で、異変に気づく。
茉子はすぐに義勇の元へと駆け寄り、義勇の腕を掴む。そして、火傷した手を冷水に当てた。
「…………」
茉子は黙って患部を見ている。
(……怒っているな)
怒らせたのは自分なのだろうとは思う。
しかし、こんなに怒ることなのだろうかとも思う。
「………大丈夫だ」
それを聞いた茉子は、顔を上げて義勇を見た。
「……大丈夫かどうかじゃないんですよ」
「…………」
「私だって、心配するの」
義勇は目を丸くした。
「…………」
それは、先ほど自分が茉子に向かって言ったことと同じだった。
自分が茉子を心配するように。
茉子もまた、自分を心配している。
「……そうか」
少し赤くなった、人差し指を見る。
冷やしていないと、少し痛い。
「……こういうことには、すぐ気がつくんだな」
「え?」
「……いや」
茉子は不思議そうにしながら、薬箱から軟膏を取り出した。
義勇は、手当てをする茉子の横顔を見つめた。
「……?どうかしました?」
「…………」
——ずっと、渡す時を考えていた。
「……少し、待っていろ」
包帯を巻き終えた茉子を残し、義勇は立ち上がった。
「………?」
戻って来た義勇の手には、小さな箱があった。
「なんですか?これ」
全く見当もついていない様子に、義勇は少し笑った。
「……開けてみろ」
「え、なんだろ……?」
茉子は戸惑いながらも、その小さな箱を開けた。
「………っ」
そこには、小ぶりなダイヤが一粒輝く指輪があった。
茉子は思わず、手を止める。
「……綺麗」
それだけ言って、指輪を見つめた。
「……え?私に……ってこと、ですか?」
「ああ」
「でも、こんな高価そうなもの……」
まだ少し戸惑う茉子を見て、義勇は静かに口を開く。
「最近は、求婚の際に指輪を渡すこともあるらしい」
「へぇ、そうなんですね」
そう言って茉子は数秒考えたあと、また止まった。
「え?」
茉子はもう一度、箱の中の指輪を見る。
そしてまた、義勇を見た。
「……きゅう、こん……?」
義勇は何も言わなかった。
「………求婚………」
茉子の頬が、少しずつ赤くなっていく。
「……………」
義勇は、茉子が自分を見るのを待った。
やがて、戸惑った瞳が義勇を捉える。
その時、義勇はそっと茉子の手を取った。
「……茉子」
「………」
「……ずっと、俺のそばにいてほしい」
「…………」
茉子は何も言えないまま、義勇を見つめていた。
義勇は、茉子の手を握った。
「……俺と、夫婦になってほしい」
「………っ」
目を丸くしたままの茉子の瞳から、涙が溢れた。
「……泣くな」
「……むりです……っ」
義勇は黙って涙を拭う。
「……私っ……泣くし、怒るし……っ」
「……茉子」
義勇は目を細め、茉子の名を呼んだ。
視線が合うと、茉子は泣きながら、それでも笑った。
「……夫婦に、なりたいです」
それを聞いた義勇は、左腕で茉子を抱き寄せる。
「……義勇さん」
義勇は腕の中の茉子へ視線を落とす。
「……嬉しい」
義勇は小さく息を吐き、茉子の髪を撫でた。
そして少しの間を置いて、義勇は言った。
「……ありがとう」
少し体を離す。
小さな箱から指輪を取り出すと、茉子の左薬指に指輪を通した。
茉子は、指輪のはまった左手を何度も眺める。
「……私、今のままで十分だって、本当に思ってたんです」
義勇は茉子を見る。
「でも……まだ、こんなに嬉しいことがあるんだなって……」
茉子はまた少し泣きそうな顔で笑った。
「だって、今日帰ってきた時は、こんなことになるなんて思ってなかったし……」
「……ああ」
「むしろ義勇さんちょっと怖かったし」
「…………」
——怖い?
心外だ。ただ心配だっただけなのに。
「……それはお前が」
「………あ」
「……何だ」
「お味噌汁」
「「…………」」
二人は同時に、台所を見る。
「……冷めちゃいましたかね」
茉子が立ち上がる。
「温め直しますね」
「……俺が」
そう言いかけて、義勇は包帯の巻かれた左手を見る。
「……頼む」
茉子は少しだけ目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「はい」
左手の指輪をもう一度眺めてから、茉子は台所へ向かった。