こんな時に体調が悪いだなんて(社会人現パロ/レイン)
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あぁ、もうどうしてなんだろう。
「もう……こんな時に限って……」
だよね、全ての事は。もう定時過ぎてから三時間も経ってるなんて信じられない。こんな広いフロアに、一人だけカタカタと響くキーボードの音が虚しい。最近、会社が残業にうるさくなったからか、定時以降に残る人が少なくなった気がする。
「前はもう少し賑やかだった気がするのに」
まぁ、これだけリモートワークが世に浸透したから家で出来る人は家でやるだろう。わたしのも家で出来るやつだったら、もちろんこんなところに用はないのだけれど。せめて、今日中に仕上げなければならない仕事じゃなければな。なぜ安請け合いした上司よ。取引先の新しい仕事欲しいからって、新製品提案の商談用資料作成を今日言われても明日には間に合わないぞ。後輩は後輩で、明日の会議で出す用のプレゼン準備出来てないし。なのに用事あるとか言って帰るのどうかと思う。逃げられたわたしも悪いのだけど。
「うぅ〜、体だるい……喉痛い……くそぉ」
だるくて支えきれなくなった体を楽な状態にするために、思わず机に突っ伏してしまう。そう、こんな時に限って体調がすこぶる悪い。先週の休日は外に出てもいないのに。どこで貰ってきたのかと問われれば、犯人の目星はついていて……そう、資料作成をわたしに押し付けて逃げた隣の席の後輩である。だってずっと、週明けマスクも付けずに咳してたし、こいつのせいに決まってる。誰もいない席を横目で睨めば、涙が溢れそうになって。
「何やってんだ」
本当に、そう思う。何やってんだ。わたし。
「おい……無視するとはいい度胸だな」
「えっ……」
さっきのわたしが漏らした言葉じゃなかったの? 机に突っ伏して気付かなかったけど、この声は確かに。
「レイン? あなた、出張中じゃ……」
「明日までの予定だったが、仕事が巻いた」
「そうだったんだ……それはお疲れ様。でもせっかくなら、そのまま直帰しても良かったんじゃないの?」
「会社に置きたいものもあったからな。それより……」
と言って急に話すのを止め、レインはわたしを見た。じっと観察するように見てきたあたり、普段と様子が違うことに気が付いたのだろうか。だとしても、大人だからいちいち指摘はしないだろう。
「どうして泣いてんだ」
単純に人が涙を流しているから、理由を聞いている。非常にごく自然な流れだが……彼は残念ながら大人ではなかったようだ。
「別に泣いてないし! ってか、気づいても普通言わないでしょ……デリカシーなさすぎ……」
目を拭い、唇を噛むように声を絞り出せば、レインは黙ってわたしの頭をくしゃりと撫でた。手を振り払う力もないから、なすがままだ。それから機嫌が悪そうにチッと舌打ちをして。あからさまに火照った体は嘘をつけない。
「早く帰れ」
「帰れたら帰ってるわよ!」
「……社会人のくせに自身の体調管理もできねぇんじゃ、お粗末だな」
「もう、あなたそんなこと言いに来たなら……」
そう言いかけて言葉を止めたのは、隣の椅子を引いて勝手にパソコンを起動させたから。社内パスワードを入力し、スタートプログラムを立ち上げ、彼はくるりとこちらを向いた。
「で? お前は何してやったら帰るんだ」
「て、手伝ってくれるの……?」
「こうでもしないと、会社で一夜を過ごすだろお前は」
「……現時点では否定できない」
「上の人間として、監督不行届の責任を負いたくないんでな……これは全てオレのためだ。勘違いするな」
聞こえるように大きなため息をついたレインは、わたしを見て不審そうに顔を歪ませた。
「お前……なに笑ってる」
「笑ってないよ。素直じゃないなって思って」
「チッ。そもそも、こういう状況になるまで……まぁ、いい。それは後で聞くとして、指示は?」
「えっと、新製品提案用の商談資料と、あと明日の会議用のプレゼン準備をやらなきゃいけなくて」
どういう内容にしたいのかを軽く説明すれば、それ以上にわたしが言いたい情報を汲み取ってくれて。やはり仕事ができる人間は理解力が違う。もう、いつもレインと仕事出来たらいいのに。
「その新製品の提案なら、今回の出張で使った資料がある……オレのやつをベースで使えば早いだろ」
自分のウサギ柄のUSBからデータを移行し、わたしに話しながら、資料をサクサクまとめていくその様はやっぱり営業成績ナンバーワンにふさわしくて。そりゃ人気もあるわけだ。言われたことを噛み砕くと、「その商社に対してのおおよその特徴把握」と「この商品のどこが御社にとっての強みになるのか」を簡単にまとめて、提出すれば十分だということだった。
「明日、商談する会社の人間とは会ったことがある……多分、これで問題ねぇだろ。ほら、次」
「は、はや……」
「いちいち時間かけてたら終わらねぇだろ。仕事で優先すべきは効率だ。時間なんていくらあっても足りねぇし……それにお前のタイムリミットのが近いじゃねぇのか」
言われてみれば、体の火照りが強くなっているような。だるさが増しているのもそうだし、どことなく悪寒がする。じわりと喉の痛みが襲い、思わず息が漏れれば、レインのひんやりとした手がわたしに触れた。
「さっさと帰るぞ」
「うん……ごめん」
レインは何か言いたそうに口を開いたが、それ以上に言葉にすることはなくて。会議用のプレゼン資料に関しては、今後の経営戦略としてまだ揉む段階であるということで、そこまで突き詰めて作る必要はないのではという話になった。確かに後輩の担当だし、でも見張っていなかったわたしの責任でもあるし。そもそも、こういう仕事に関して広報の仕事の範疇なのかと思うことはあるが、一介の平社員の出る幕ではないのだろう。社会の縮図だ。あ、なんだか余計辛くなってきた。
負の連鎖で落ち込んでいれば、横から画面の文字をピッと指さされて、自然と意識がそちらに向いて。
「お前、さっきからミスタイプが多過ぎるぞ……直すのが面倒だからゆっくりでもちゃんと入力しろ」
「うそ……ちゃんと打ってるつもりだった。指摘してくれてありがとう。はぁ……なんか自分が思ってるより頭回ってないかも……情けないわ」
「あぁ。今のお前じゃ、倍時間あっても終わらねぇだろうな」
「またそういう言い方する! レインはただでさえ誤解されやすいんだから……」
「知るか、事実を述べたまでだ。ほら、よこせ」
「え、何」
「だから、とりあえず入力してあるところまでのデータよこせって言ってんだよ。……巻き取ってやるから」
これじゃ拉致があかないと思ったのか、それとも彼なりの優しさなのか。どうして、そうやって思わせぶりな態度するの。人が弱ってる時にそれは絶対ダメって知らないの? 感謝の気持ちより、甘い気持ちが体にじんわりじわりと染みていく。
あー、こうやって現金なわたしが一番、ダメな奴だ。わたしが何も言わずとも次々と作り上げられていく資料と、目まぐるしく動くパソコン画面。無言の間がなぜか心地良くて、ちょっとだけ目をつぶろうと思ったその時には意識を手放していた。
*
「おい、終わったぞ」
椅子をくるりと反転させ、そう声をかけても返答はなく。この女、人に仕事させておいて寝やがるとは。普通より呼吸が荒いのが気になり、眠る彼女の体を触れば、先程よりもずっと熱くなっていて。もっと早く休ませてやれば良かった、という後悔が徐々に強くなるのは否めない。そして、今の問題としてはこの状態をどうするかだ。このまま職場で寝かせるわけにはいかない。叩き起こして帰らせるのも不安が残るとなると……オレの車の中が一番マシか?
「めんどくせぇな……」
とりあえず、おぶっていけばいけるか。こいつをどうするかの選択肢のなさに辟易するが、手段を選んではいられない。彼女の腕を掴んで自分の背中に寄りかからせ、オレは立ち上がって歩みを進めた。
*
しばらく自分が熱を出していないと、何が必要なのかわからなくなる。フィンが熱を出した時は何を必要としていただろうか。記憶を手繰り寄せつつ、ひとまずカゴに、冷却シートやスポーツドリンク、栄養補給ドリンク、ゼリーと思いついたのを詰めていく。コンビニなので売ってるものには無論、限りはあるがこの時間にこの品揃えなら十分である。出張終わりに自分で動けるような状態ではない病人を車に寝かせて、看病までしてやることになるとは全く想像していなかったが。最後に悩んで、プリンをカゴに入れたがこれが正解なのかは分からない。
*
何、ここ、どこ? 薄らと目を開ければ、どうやら社内ではないのはわかるが、暗くてどこかということまでは分からない。正常な思考ができない頭で、想像するも、それは憶測の域を出ることはなくて。隣にいるのはレインなの? ぼやけた視界に映った彼の姿と、先程も香ってきた甘い香水の匂い。そのままぼーっとしていれば、だんだん感覚が戻ってきて額がひんやりしていることに気付く。
「冷却シート……?」
よく見れば、レジ袋にスポーツドリンクや、栄養補給系の食品、なんとプリンまである。あれ? 何このメモ。
「起きたら食え、か」
ふっ……こんなことまでしてくれちゃって。わざわざ買いに行ってくれたんだね。ここまで運ぶのも重かったでしょう。今回のことで色々、借りができちゃったな。もう彼相手には頭が上がらないだろう。
「レイン、ありがとうね」
温かくなっていく体と心が、熱とリンクしてますます体温が上昇している……気がする。これはまずい。せめて冷却シートだけでも張り替えておこう。
「あなたが起きてる時には恥ずかしくて言えないけど……一緒に仕事してみたいなってずっと思ってる。同期だからこうして話すことはあっても、直接何かっていうのはないじゃない? レインから学べること多そうだし、サポートしてあげたいし、後もっと」
仲良くなりたいし、を自分に言い聞かせるように呟いたのは、それが自分自身の欲でしかないから。こんなん仕事と全く関係ないし。胸の鼓動を隠すように、口に手を当ててふーっと息をゆっくり吐けば、また眠気が襲ってきて……思わずうとうとする。静寂の心地良さに包まれながら、まどろみにわたしは身を任せた。
*
蛍光灯の人工的な光が差し込んできてわたしは目を覚ました。地下駐車場の明かりがつけられたということはもう朝なのだろう。明かりがついたおかげで、隣で座席を倒して眠るレインがよく見える。あなた、寝顔すらも綺麗なのね。動いている時も止まっている時も美しいとか芸術品と変わらないじゃないの、ずるいわ。起こさないようにそっと手を伸ばして、目にかかった髪をよければその腕をガッと掴まれて。
「お前……寝込みを襲うのはどうかと思うが」
「お、襲ってないわよ! っていうか起きてたなら言いなさいよ……」
「人の顔、無遠慮にジロジロ見やがってって言おうと思ったら、お前が手出してきたんだよ」
「手を出したとか言わないでよ。人聞きの悪い」
車の中ってこんなにお互いの距離感近かったっけ? 寝ている時は感じなかったのに、意識すると緊張してくる。だって、徹夜ではないけど全てそのままだし。わたしがそれに気づいて急に黙ったのが気になったのだろう。空いているもう片方の手でわたしのおでこの冷却シートを剥がし、そのまま自分の手の平を乗せた。
「大分下がったな、具合は?」
「おかげさまで、随分回復した……あの、ほんとに! 本当にありがとね。レインに指摘された通り、体調管理も社会人にもなったら仕事の一つなのに、情けないけど。でも……あなたがいてくれてよかった。助かりました」
誠心誠意のお礼を伝えるのが今のわたしにできる精一杯である。レインはそれに返事をすることはなく、ふいと窓の方に視線を逸らして。え、ちょっとなんで無視するのよ。この沈黙、わたしのせいみたいで気まずいのだけど。
「あの、レインさん」
「メシ」
「メシ?」
「奢れ」
「え、あ、はい」
有無を言わさない空気ではあったが、レインなりの気遣いなのだろう。何かギフトセットのほうが良いかと思っていた手前、ありがたいけども。
でも、誰かとご飯行ったりするんだ。意外だな。いつも仕事終わりは一切寄り道せず家に帰る、というのは社内でも有名な話である。……あれ? てっきり夜ご飯と思っていたけど、昼ご飯だったりする?
「昼と夜……どっちのが都合が良いの?」
「都合が良いのは昼。だが、今回の働きの割に合わねぇから行くなら夜」
「確かに夜の方が時間も気にしなくていいし、豪華にできるからね。わたしは嬉しいけど……でも、レインって仕事後真っ直ぐ帰るって聞いてるし、迷惑かなって思ってさ」
「別に……オレは、定時後に金も発生しないのに無駄な仕事をしたくねぇだけだ。不毛な時間を過ごすだけなら帰ったほうが効率がいいしな。それに……」
「それに?」
「まあ、いい。これはお前には関係のないことだ。ともかく、行くなら夜にしろ」
そこまで言いかけて言わないのは何か特別な事情があるのだろう。そして、レインのいう「無駄な会話」にはわたしのことは含まれていないと思い上がっても良いのだろうか。了承の返事をしつつ、少し嬉しいのは顔に出さないようにする。
「…… 名前、お前の家どこだ」
「んー……ここから車で二十分くらいかしら」
そういえば、今何時なんだろう。お互い同じタイミングで確認した腕時計は六時を指していて。
「送ってやるから、出勤時間になったら上司に有給申請しとけ。いいな?」
「いやいや、それはさすがに悪いよ! 有給は取得したいけど、引き継ぎできてないし……せめてそれだけは」
「体調悪いやつがいても迷惑だろうが。オレが引き継いで、奴等に指示しておくから言うことを聞け」
「や、役職命令ですか?」
ちょっとばかり、茶化して聞けば眼光鋭く睨まれて。ごめんて、冗談だよ。悪いなと思ったの!
「う〜、同期のよしみとはいえ、おんぶに抱っこで申し訳ございません……。この借りは必ず返します……」
アクセルが踏まれた瞬間に車が滑り出し、だんだんと駐車場が遠ざかっていく。ハンドルを握りしめて前を向くレインを見ていれば、感謝と申し訳なさでいっぱいになってきて。本調子でないのも相まってなんだか気持ち悪い。スポーツドリンクを色々な気持ちとともに喉に流し込んで、気持ちを落ち着かせる。
「……お前は、要領が悪い」
「うぐ……っ」
「そのくせ、仕事を抱え込むから更にタチが悪い。自分でなんでもかんでもやろうとし過ぎて、更なる悪循環を生んでやがる。いいか? 仕事はチームプレイだ。上司にはできないことはできないと突き返せ。部下には甘えるなと叱れ。お前は……もう少し人に頼ることを覚えろ」
「レイン、もしかして心配、してくれてる?」
「フン……使えないやつが職場にいると迷惑だってだけだ」
素直じゃないと言ったら、また怒られちゃうんだろうな。だから、敢えて指摘はしないけど、その不器用な優しさが心地よくて。ねぇ、レイン、女性にそんなに優しくしたらダメだよ。誰かに教えてもらわなかったのかしら。
「なんだよその顔は」
「レインがモテる理由がよーく分かったって思ってさ……そりゃ女性も色めき立つよね」
「あ? そんなん知るか。上部だけ見て寄ってくる女に興味なんか湧くわけねぇだろ。煩わしいだけだ」
「確かに好きじゃない人に好かれても、困るだけだもんね。レインも苦労してるね……」
同情すれば呆れたような表情で一瞥されて。いや、確かにわたしはそんなに異性にモテたことないし、その気持ちを全部は理解できないかもしれませんが。
「いや……お前、オレが誰にでもこういう事してやってると思ってないか?」
「それはさすがに思ってない!」
「ならいいが……」
「だけど、なんでこんなに優しくしてくれるの? とは、思ってる」
何か言って欲しくてレインの方を向いても口を開いてくれることはなくて。しかし、そのタイミングで信号が赤になり、車は静かに停止した。これは核心に迫るチャンスかもしれない。その角を曲がったらすぐ家に着いてしまう。その前に早く聞かなければならない。
「わたしのことさ……」
「……」
「……フィンくんみたいな存在って思ってるでしょ!」
「は……?」
「だからほら、ほっとけない妹みたいな。自分で言うのは非常に恥ずかしいですが……」
レインをチラッと窺うように見れば大きく深く溜め息をついていた。ちょっとなんでそんな苦虫を噛み潰したような顔するの。いや、やっぱりお兄ちゃんだけあって、面倒見良いんだなって解釈だったのだけれど違った? 前も社内で迷子になってる時助けてくれたし。
「……お前、今までよくそれでやってこれたな」
「どういう意味よ……」
「ほら、着いたぞ。さっさと降りろ」
ナビは確かに目的地をさしており、ここはわたしの家の前で間違いない。なんだか見慣れた景色に安堵してしまうけど、昨日ぶりなのよね。ガチャっと車のドアを開け、後ろを振り返る。
「レイン! 絶対、美味しいとこ連れていくから! ……無理しないでね」
「フン……お前と違ってオレは仕事できるから心配すんな」
「ただの嫌味だ!」
ドアをそのまま閉めれば、小さく「また連絡しろ」と聞こえたのは気のせいだろうか。聞き返したくとも、走り出した車は遠く見えなくなって。問うことは叶わなかったけど、これは喜んでもらえるお店を予約しなくては! と気合いが入るのだった。
*
「お帰りなさい兄さま。とうとう……初めての朝帰りだね?」
「朝帰りって意味深に言うんじゃねぇ。仕事って連絡したろうが」
「でも、兄さまが定時後もこんなに長い時間仕事だなんて、今までなかったじゃない」
「……放っておいたらぶっ倒れるまで仕事しようとするバカがいたんでな」
「放っておけなかったんだ?」
「別に、ちょっと手伝ってやっただけだ」
「ふーん、ちょっとね……」
にやにやする弟の髪を否定する代わりにくしゃくしゃにし、オレは風呂場へ向かった。
*
定刻九時。オレは名前からの引き継ぎ業務を遂行するために、彼女の所属部署へと足を運んでいた。オレの働く部署と名前の働く部署はフロアが分かれており、お互い用がなければ訪れることはない。昨日、オレが借りていた席に座っているコイツ。名前も知らないがおそらく間違いないだろう。
「おい、お前。ちょっと来い」
「え、何ですか……?」
場所を変えたのは単純に周りに聞かれると後々、このご時世、パワハラとか云々めんどくさいからである。
「お前、昨日隣の奴に仕事押し付けて帰ったか?」
「や、まぁ……お願いはしましたけど」
「あんなに体調が悪そうだったのにか」
「は? 用事あったんだからしょうがないでしょ……あなたには関係ない話だし……。自分の仕事だったってことに関しては反省してますけど」
反省しているだ? 信用できないことを平然と言うもんだ。だから、オレはお前みたいな奴には痛みで覚えさせればいいと思っている。二度と同じ過ちを犯そうと思わないようにな。
力を入れて握った拳で思い切り壁をガンッと叩けば、コイツの目の前でパラパラと粉が落ちて。それと同時に軽く睨めば、明らかに恐怖の表情を浮かべていた。暴力が許されるなら蹴りの一つや二つ、お見舞いしてやりたいところだが、今はコンプライアンス的に痛みの代わりとして恐怖を与えることしかできないなんて非常に残念な時代になったもんだ。
「後輩は先輩の顔を立てるもんだ。甘えんじゃねぇ、分かったか?」
「は、はい……」
「まだ理解が足りないならサービスしてやってもいいが」
「結構です!」
「……待て。このUSBに昨日あいつが作った会議用のプレゼン資料が入ってる。礼はあいつに言ってやれ」
去ろうとした男を引き留め、USBを投げればコクコクと大きく頷いていて。これでこっちはしばらく大丈夫だろう。後輩に舐められる先輩なんて、世話が焼けるな……。
*
次はあいつの上司のところか。先ほどの場所に戻れば、ビクビクした顔でこちらを見る後輩が目に入るが、ふいと目を逸らして、上司の方を見る。
「今日の資料のことで話したいことがあるんですが」
「はぁ……」
先ほどとは違う場所に連れ出し、オレは話を切り出した。
「商談用の資料作成を直前で部下に頼むのはどうかと思いますが」
「どうかと言われてもね。私は上からの指示をそのまま流しているだけだから」
「それだと部下を疲弊させるだけでしょう……。急な業務に対して、無理なことは無理と伝えるのも重要かと思いますが? もしくはご自身でやるとかね」
「お前、生意気だぞ! オレは上に従ってやってんだ!」
「上に従う……ですか。じゃあ、オレの方が役職が上だから従え。いいか? 上の立場としてマネジメントするのがお前の仕事だ。雑用を押し付けるのは仕事じゃねぇ」
ギロリと睨みつければ、ジジイが冷や汗をかいて懇願するような目で見てくるが知ったこっちゃない。そんだけ無駄に歳だけ食って、技量も知識もないなんて情けねぇな。お前みたいのが上にのさばるから、企業が腐っていくんだよ。
「オレがこの会社に入ったのは、大手だからじゃなく、年齢関係なく実力主義で上に上がれるからだ。お前みたいなのの下で働くのなんかごめんだからな。……それと頼まれていた資料はオレが代理で作ってやったから、ありがたく受け取れ」
ジジイに先程と同様、USBを押し付ければ丁寧に「ありがとうございます」とお礼を言われて。目の色変えやがってゴミが。後に、総務から先程の大きな音がした件を問われたが、オレの「何もなかったよな?」の返事に、後輩が無言で頷いたので事は荒立たなかった。とりあえず、アイツに言われた引き継ぎに関しては完了したと言ってもいいだろう。まあ、少々引き継ぎし過ぎたかもしれないが。
*
後日。体調がすっかり回復し、お礼を兼ねてレインのいるフロアに向かう。ちょっとばかし、朝早い時間だけどおそらく彼はいると踏んでいる。なぜなら、この時間に忙しなく出勤しているのを見たことがあるから。キョロキョロと彼の姿を探せば、綺麗な漆黒の髪と艶のある黄色の髪がパッと目に入り、やっぱりいたことに安堵する。フロアにまだ人も少ないし、呼んでもいいかしら。
「レイン、おはよう!」
席に座っていた彼はすぐにわたしの声に気付いてこちらを向いたが、またすぐ視線を机に落とした。いや、無視しないでよ。机に歩み寄り、もう一度声をかける。
「ちょっとあなた、冷たいわ」
「朝から騒がしい……何の用だ」
「ありがとうって言いに来たのよ」
「この間も同じ事を言われたが? ……お前、体調は」
その質問を待ってました。やっぱり回復には、良質な休養と睡眠、それから栄養が必須だとこの休みの期間に実感した次第である。わたしはピースサインを作り、自信満々に胸を張って答えた。
「もうばっちり! なんだってできるわ。今度何か困ったことがあれば名前に任せて!」
それを見てレインは深いため息をつき、静かにこめかみを押さえた。それから、冷徹な目で睨まれて。
「お前……だから周りにいいように使われるんだ。ちょっとは自覚しろ」
「うっ……ごもっとも。でも、レインだから言ってるのよ?」
「あ?」
「だから、レインのお願いならって特別にっていう……なにその顔は」
「……別に」
そう言って席を立ち上がり、わたしの前から去ろうとするレインをそのまま見送るはずもなく、わたしは後をついていく。
「やだ、なに怒ってるのよ? ごめんね? ねぇってば」
「うるさい、ついてくるな」
「……あのさ」
「……」
「あの後、上司と後輩が異様にわたしに優しくなったの。気持ち悪いくらいに気遣ってくれるようになったんだけど……レイン、なんか知ってる?」
「さぁな。……でも、よかったな」
彼がこっちを全く見ずに歩みを進めるせいで、どんな表情をしているか自体は分からなかった。けど、言葉尻はとても柔らかくて。見られてはないし、わたしの笑みがこぼれてしまうのは許して欲しい。
本当、不器用ねあなた。どうしようもないくらい優しいくせに、言いもしない。だけど、レインにとっては親愛の情なのよね。勘違いしないようにしなくちゃ。何度かしっしっと追い払われて、わたしは自分のフロアに戻ったのだった。
「もう……こんな時に限って……」
だよね、全ての事は。もう定時過ぎてから三時間も経ってるなんて信じられない。こんな広いフロアに、一人だけカタカタと響くキーボードの音が虚しい。最近、会社が残業にうるさくなったからか、定時以降に残る人が少なくなった気がする。
「前はもう少し賑やかだった気がするのに」
まぁ、これだけリモートワークが世に浸透したから家で出来る人は家でやるだろう。わたしのも家で出来るやつだったら、もちろんこんなところに用はないのだけれど。せめて、今日中に仕上げなければならない仕事じゃなければな。なぜ安請け合いした上司よ。取引先の新しい仕事欲しいからって、新製品提案の商談用資料作成を今日言われても明日には間に合わないぞ。後輩は後輩で、明日の会議で出す用のプレゼン準備出来てないし。なのに用事あるとか言って帰るのどうかと思う。逃げられたわたしも悪いのだけど。
「うぅ〜、体だるい……喉痛い……くそぉ」
だるくて支えきれなくなった体を楽な状態にするために、思わず机に突っ伏してしまう。そう、こんな時に限って体調がすこぶる悪い。先週の休日は外に出てもいないのに。どこで貰ってきたのかと問われれば、犯人の目星はついていて……そう、資料作成をわたしに押し付けて逃げた隣の席の後輩である。だってずっと、週明けマスクも付けずに咳してたし、こいつのせいに決まってる。誰もいない席を横目で睨めば、涙が溢れそうになって。
「何やってんだ」
本当に、そう思う。何やってんだ。わたし。
「おい……無視するとはいい度胸だな」
「えっ……」
さっきのわたしが漏らした言葉じゃなかったの? 机に突っ伏して気付かなかったけど、この声は確かに。
「レイン? あなた、出張中じゃ……」
「明日までの予定だったが、仕事が巻いた」
「そうだったんだ……それはお疲れ様。でもせっかくなら、そのまま直帰しても良かったんじゃないの?」
「会社に置きたいものもあったからな。それより……」
と言って急に話すのを止め、レインはわたしを見た。じっと観察するように見てきたあたり、普段と様子が違うことに気が付いたのだろうか。だとしても、大人だからいちいち指摘はしないだろう。
「どうして泣いてんだ」
単純に人が涙を流しているから、理由を聞いている。非常にごく自然な流れだが……彼は残念ながら大人ではなかったようだ。
「別に泣いてないし! ってか、気づいても普通言わないでしょ……デリカシーなさすぎ……」
目を拭い、唇を噛むように声を絞り出せば、レインは黙ってわたしの頭をくしゃりと撫でた。手を振り払う力もないから、なすがままだ。それから機嫌が悪そうにチッと舌打ちをして。あからさまに火照った体は嘘をつけない。
「早く帰れ」
「帰れたら帰ってるわよ!」
「……社会人のくせに自身の体調管理もできねぇんじゃ、お粗末だな」
「もう、あなたそんなこと言いに来たなら……」
そう言いかけて言葉を止めたのは、隣の椅子を引いて勝手にパソコンを起動させたから。社内パスワードを入力し、スタートプログラムを立ち上げ、彼はくるりとこちらを向いた。
「で? お前は何してやったら帰るんだ」
「て、手伝ってくれるの……?」
「こうでもしないと、会社で一夜を過ごすだろお前は」
「……現時点では否定できない」
「上の人間として、監督不行届の責任を負いたくないんでな……これは全てオレのためだ。勘違いするな」
聞こえるように大きなため息をついたレインは、わたしを見て不審そうに顔を歪ませた。
「お前……なに笑ってる」
「笑ってないよ。素直じゃないなって思って」
「チッ。そもそも、こういう状況になるまで……まぁ、いい。それは後で聞くとして、指示は?」
「えっと、新製品提案用の商談資料と、あと明日の会議用のプレゼン準備をやらなきゃいけなくて」
どういう内容にしたいのかを軽く説明すれば、それ以上にわたしが言いたい情報を汲み取ってくれて。やはり仕事ができる人間は理解力が違う。もう、いつもレインと仕事出来たらいいのに。
「その新製品の提案なら、今回の出張で使った資料がある……オレのやつをベースで使えば早いだろ」
自分のウサギ柄のUSBからデータを移行し、わたしに話しながら、資料をサクサクまとめていくその様はやっぱり営業成績ナンバーワンにふさわしくて。そりゃ人気もあるわけだ。言われたことを噛み砕くと、「その商社に対してのおおよその特徴把握」と「この商品のどこが御社にとっての強みになるのか」を簡単にまとめて、提出すれば十分だということだった。
「明日、商談する会社の人間とは会ったことがある……多分、これで問題ねぇだろ。ほら、次」
「は、はや……」
「いちいち時間かけてたら終わらねぇだろ。仕事で優先すべきは効率だ。時間なんていくらあっても足りねぇし……それにお前のタイムリミットのが近いじゃねぇのか」
言われてみれば、体の火照りが強くなっているような。だるさが増しているのもそうだし、どことなく悪寒がする。じわりと喉の痛みが襲い、思わず息が漏れれば、レインのひんやりとした手がわたしに触れた。
「さっさと帰るぞ」
「うん……ごめん」
レインは何か言いたそうに口を開いたが、それ以上に言葉にすることはなくて。会議用のプレゼン資料に関しては、今後の経営戦略としてまだ揉む段階であるということで、そこまで突き詰めて作る必要はないのではという話になった。確かに後輩の担当だし、でも見張っていなかったわたしの責任でもあるし。そもそも、こういう仕事に関して広報の仕事の範疇なのかと思うことはあるが、一介の平社員の出る幕ではないのだろう。社会の縮図だ。あ、なんだか余計辛くなってきた。
負の連鎖で落ち込んでいれば、横から画面の文字をピッと指さされて、自然と意識がそちらに向いて。
「お前、さっきからミスタイプが多過ぎるぞ……直すのが面倒だからゆっくりでもちゃんと入力しろ」
「うそ……ちゃんと打ってるつもりだった。指摘してくれてありがとう。はぁ……なんか自分が思ってるより頭回ってないかも……情けないわ」
「あぁ。今のお前じゃ、倍時間あっても終わらねぇだろうな」
「またそういう言い方する! レインはただでさえ誤解されやすいんだから……」
「知るか、事実を述べたまでだ。ほら、よこせ」
「え、何」
「だから、とりあえず入力してあるところまでのデータよこせって言ってんだよ。……巻き取ってやるから」
これじゃ拉致があかないと思ったのか、それとも彼なりの優しさなのか。どうして、そうやって思わせぶりな態度するの。人が弱ってる時にそれは絶対ダメって知らないの? 感謝の気持ちより、甘い気持ちが体にじんわりじわりと染みていく。
あー、こうやって現金なわたしが一番、ダメな奴だ。わたしが何も言わずとも次々と作り上げられていく資料と、目まぐるしく動くパソコン画面。無言の間がなぜか心地良くて、ちょっとだけ目をつぶろうと思ったその時には意識を手放していた。
*
「おい、終わったぞ」
椅子をくるりと反転させ、そう声をかけても返答はなく。この女、人に仕事させておいて寝やがるとは。普通より呼吸が荒いのが気になり、眠る彼女の体を触れば、先程よりもずっと熱くなっていて。もっと早く休ませてやれば良かった、という後悔が徐々に強くなるのは否めない。そして、今の問題としてはこの状態をどうするかだ。このまま職場で寝かせるわけにはいかない。叩き起こして帰らせるのも不安が残るとなると……オレの車の中が一番マシか?
「めんどくせぇな……」
とりあえず、おぶっていけばいけるか。こいつをどうするかの選択肢のなさに辟易するが、手段を選んではいられない。彼女の腕を掴んで自分の背中に寄りかからせ、オレは立ち上がって歩みを進めた。
*
しばらく自分が熱を出していないと、何が必要なのかわからなくなる。フィンが熱を出した時は何を必要としていただろうか。記憶を手繰り寄せつつ、ひとまずカゴに、冷却シートやスポーツドリンク、栄養補給ドリンク、ゼリーと思いついたのを詰めていく。コンビニなので売ってるものには無論、限りはあるがこの時間にこの品揃えなら十分である。出張終わりに自分で動けるような状態ではない病人を車に寝かせて、看病までしてやることになるとは全く想像していなかったが。最後に悩んで、プリンをカゴに入れたがこれが正解なのかは分からない。
*
何、ここ、どこ? 薄らと目を開ければ、どうやら社内ではないのはわかるが、暗くてどこかということまでは分からない。正常な思考ができない頭で、想像するも、それは憶測の域を出ることはなくて。隣にいるのはレインなの? ぼやけた視界に映った彼の姿と、先程も香ってきた甘い香水の匂い。そのままぼーっとしていれば、だんだん感覚が戻ってきて額がひんやりしていることに気付く。
「冷却シート……?」
よく見れば、レジ袋にスポーツドリンクや、栄養補給系の食品、なんとプリンまである。あれ? 何このメモ。
「起きたら食え、か」
ふっ……こんなことまでしてくれちゃって。わざわざ買いに行ってくれたんだね。ここまで運ぶのも重かったでしょう。今回のことで色々、借りができちゃったな。もう彼相手には頭が上がらないだろう。
「レイン、ありがとうね」
温かくなっていく体と心が、熱とリンクしてますます体温が上昇している……気がする。これはまずい。せめて冷却シートだけでも張り替えておこう。
「あなたが起きてる時には恥ずかしくて言えないけど……一緒に仕事してみたいなってずっと思ってる。同期だからこうして話すことはあっても、直接何かっていうのはないじゃない? レインから学べること多そうだし、サポートしてあげたいし、後もっと」
仲良くなりたいし、を自分に言い聞かせるように呟いたのは、それが自分自身の欲でしかないから。こんなん仕事と全く関係ないし。胸の鼓動を隠すように、口に手を当ててふーっと息をゆっくり吐けば、また眠気が襲ってきて……思わずうとうとする。静寂の心地良さに包まれながら、まどろみにわたしは身を任せた。
*
蛍光灯の人工的な光が差し込んできてわたしは目を覚ました。地下駐車場の明かりがつけられたということはもう朝なのだろう。明かりがついたおかげで、隣で座席を倒して眠るレインがよく見える。あなた、寝顔すらも綺麗なのね。動いている時も止まっている時も美しいとか芸術品と変わらないじゃないの、ずるいわ。起こさないようにそっと手を伸ばして、目にかかった髪をよければその腕をガッと掴まれて。
「お前……寝込みを襲うのはどうかと思うが」
「お、襲ってないわよ! っていうか起きてたなら言いなさいよ……」
「人の顔、無遠慮にジロジロ見やがってって言おうと思ったら、お前が手出してきたんだよ」
「手を出したとか言わないでよ。人聞きの悪い」
車の中ってこんなにお互いの距離感近かったっけ? 寝ている時は感じなかったのに、意識すると緊張してくる。だって、徹夜ではないけど全てそのままだし。わたしがそれに気づいて急に黙ったのが気になったのだろう。空いているもう片方の手でわたしのおでこの冷却シートを剥がし、そのまま自分の手の平を乗せた。
「大分下がったな、具合は?」
「おかげさまで、随分回復した……あの、ほんとに! 本当にありがとね。レインに指摘された通り、体調管理も社会人にもなったら仕事の一つなのに、情けないけど。でも……あなたがいてくれてよかった。助かりました」
誠心誠意のお礼を伝えるのが今のわたしにできる精一杯である。レインはそれに返事をすることはなく、ふいと窓の方に視線を逸らして。え、ちょっとなんで無視するのよ。この沈黙、わたしのせいみたいで気まずいのだけど。
「あの、レインさん」
「メシ」
「メシ?」
「奢れ」
「え、あ、はい」
有無を言わさない空気ではあったが、レインなりの気遣いなのだろう。何かギフトセットのほうが良いかと思っていた手前、ありがたいけども。
でも、誰かとご飯行ったりするんだ。意外だな。いつも仕事終わりは一切寄り道せず家に帰る、というのは社内でも有名な話である。……あれ? てっきり夜ご飯と思っていたけど、昼ご飯だったりする?
「昼と夜……どっちのが都合が良いの?」
「都合が良いのは昼。だが、今回の働きの割に合わねぇから行くなら夜」
「確かに夜の方が時間も気にしなくていいし、豪華にできるからね。わたしは嬉しいけど……でも、レインって仕事後真っ直ぐ帰るって聞いてるし、迷惑かなって思ってさ」
「別に……オレは、定時後に金も発生しないのに無駄な仕事をしたくねぇだけだ。不毛な時間を過ごすだけなら帰ったほうが効率がいいしな。それに……」
「それに?」
「まあ、いい。これはお前には関係のないことだ。ともかく、行くなら夜にしろ」
そこまで言いかけて言わないのは何か特別な事情があるのだろう。そして、レインのいう「無駄な会話」にはわたしのことは含まれていないと思い上がっても良いのだろうか。了承の返事をしつつ、少し嬉しいのは顔に出さないようにする。
「…… 名前、お前の家どこだ」
「んー……ここから車で二十分くらいかしら」
そういえば、今何時なんだろう。お互い同じタイミングで確認した腕時計は六時を指していて。
「送ってやるから、出勤時間になったら上司に有給申請しとけ。いいな?」
「いやいや、それはさすがに悪いよ! 有給は取得したいけど、引き継ぎできてないし……せめてそれだけは」
「体調悪いやつがいても迷惑だろうが。オレが引き継いで、奴等に指示しておくから言うことを聞け」
「や、役職命令ですか?」
ちょっとばかり、茶化して聞けば眼光鋭く睨まれて。ごめんて、冗談だよ。悪いなと思ったの!
「う〜、同期のよしみとはいえ、おんぶに抱っこで申し訳ございません……。この借りは必ず返します……」
アクセルが踏まれた瞬間に車が滑り出し、だんだんと駐車場が遠ざかっていく。ハンドルを握りしめて前を向くレインを見ていれば、感謝と申し訳なさでいっぱいになってきて。本調子でないのも相まってなんだか気持ち悪い。スポーツドリンクを色々な気持ちとともに喉に流し込んで、気持ちを落ち着かせる。
「……お前は、要領が悪い」
「うぐ……っ」
「そのくせ、仕事を抱え込むから更にタチが悪い。自分でなんでもかんでもやろうとし過ぎて、更なる悪循環を生んでやがる。いいか? 仕事はチームプレイだ。上司にはできないことはできないと突き返せ。部下には甘えるなと叱れ。お前は……もう少し人に頼ることを覚えろ」
「レイン、もしかして心配、してくれてる?」
「フン……使えないやつが職場にいると迷惑だってだけだ」
素直じゃないと言ったら、また怒られちゃうんだろうな。だから、敢えて指摘はしないけど、その不器用な優しさが心地よくて。ねぇ、レイン、女性にそんなに優しくしたらダメだよ。誰かに教えてもらわなかったのかしら。
「なんだよその顔は」
「レインがモテる理由がよーく分かったって思ってさ……そりゃ女性も色めき立つよね」
「あ? そんなん知るか。上部だけ見て寄ってくる女に興味なんか湧くわけねぇだろ。煩わしいだけだ」
「確かに好きじゃない人に好かれても、困るだけだもんね。レインも苦労してるね……」
同情すれば呆れたような表情で一瞥されて。いや、確かにわたしはそんなに異性にモテたことないし、その気持ちを全部は理解できないかもしれませんが。
「いや……お前、オレが誰にでもこういう事してやってると思ってないか?」
「それはさすがに思ってない!」
「ならいいが……」
「だけど、なんでこんなに優しくしてくれるの? とは、思ってる」
何か言って欲しくてレインの方を向いても口を開いてくれることはなくて。しかし、そのタイミングで信号が赤になり、車は静かに停止した。これは核心に迫るチャンスかもしれない。その角を曲がったらすぐ家に着いてしまう。その前に早く聞かなければならない。
「わたしのことさ……」
「……」
「……フィンくんみたいな存在って思ってるでしょ!」
「は……?」
「だからほら、ほっとけない妹みたいな。自分で言うのは非常に恥ずかしいですが……」
レインをチラッと窺うように見れば大きく深く溜め息をついていた。ちょっとなんでそんな苦虫を噛み潰したような顔するの。いや、やっぱりお兄ちゃんだけあって、面倒見良いんだなって解釈だったのだけれど違った? 前も社内で迷子になってる時助けてくれたし。
「……お前、今までよくそれでやってこれたな」
「どういう意味よ……」
「ほら、着いたぞ。さっさと降りろ」
ナビは確かに目的地をさしており、ここはわたしの家の前で間違いない。なんだか見慣れた景色に安堵してしまうけど、昨日ぶりなのよね。ガチャっと車のドアを開け、後ろを振り返る。
「レイン! 絶対、美味しいとこ連れていくから! ……無理しないでね」
「フン……お前と違ってオレは仕事できるから心配すんな」
「ただの嫌味だ!」
ドアをそのまま閉めれば、小さく「また連絡しろ」と聞こえたのは気のせいだろうか。聞き返したくとも、走り出した車は遠く見えなくなって。問うことは叶わなかったけど、これは喜んでもらえるお店を予約しなくては! と気合いが入るのだった。
*
「お帰りなさい兄さま。とうとう……初めての朝帰りだね?」
「朝帰りって意味深に言うんじゃねぇ。仕事って連絡したろうが」
「でも、兄さまが定時後もこんなに長い時間仕事だなんて、今までなかったじゃない」
「……放っておいたらぶっ倒れるまで仕事しようとするバカがいたんでな」
「放っておけなかったんだ?」
「別に、ちょっと手伝ってやっただけだ」
「ふーん、ちょっとね……」
にやにやする弟の髪を否定する代わりにくしゃくしゃにし、オレは風呂場へ向かった。
*
定刻九時。オレは名前からの引き継ぎ業務を遂行するために、彼女の所属部署へと足を運んでいた。オレの働く部署と名前の働く部署はフロアが分かれており、お互い用がなければ訪れることはない。昨日、オレが借りていた席に座っているコイツ。名前も知らないがおそらく間違いないだろう。
「おい、お前。ちょっと来い」
「え、何ですか……?」
場所を変えたのは単純に周りに聞かれると後々、このご時世、パワハラとか云々めんどくさいからである。
「お前、昨日隣の奴に仕事押し付けて帰ったか?」
「や、まぁ……お願いはしましたけど」
「あんなに体調が悪そうだったのにか」
「は? 用事あったんだからしょうがないでしょ……あなたには関係ない話だし……。自分の仕事だったってことに関しては反省してますけど」
反省しているだ? 信用できないことを平然と言うもんだ。だから、オレはお前みたいな奴には痛みで覚えさせればいいと思っている。二度と同じ過ちを犯そうと思わないようにな。
力を入れて握った拳で思い切り壁をガンッと叩けば、コイツの目の前でパラパラと粉が落ちて。それと同時に軽く睨めば、明らかに恐怖の表情を浮かべていた。暴力が許されるなら蹴りの一つや二つ、お見舞いしてやりたいところだが、今はコンプライアンス的に痛みの代わりとして恐怖を与えることしかできないなんて非常に残念な時代になったもんだ。
「後輩は先輩の顔を立てるもんだ。甘えんじゃねぇ、分かったか?」
「は、はい……」
「まだ理解が足りないならサービスしてやってもいいが」
「結構です!」
「……待て。このUSBに昨日あいつが作った会議用のプレゼン資料が入ってる。礼はあいつに言ってやれ」
去ろうとした男を引き留め、USBを投げればコクコクと大きく頷いていて。これでこっちはしばらく大丈夫だろう。後輩に舐められる先輩なんて、世話が焼けるな……。
*
次はあいつの上司のところか。先ほどの場所に戻れば、ビクビクした顔でこちらを見る後輩が目に入るが、ふいと目を逸らして、上司の方を見る。
「今日の資料のことで話したいことがあるんですが」
「はぁ……」
先ほどとは違う場所に連れ出し、オレは話を切り出した。
「商談用の資料作成を直前で部下に頼むのはどうかと思いますが」
「どうかと言われてもね。私は上からの指示をそのまま流しているだけだから」
「それだと部下を疲弊させるだけでしょう……。急な業務に対して、無理なことは無理と伝えるのも重要かと思いますが? もしくはご自身でやるとかね」
「お前、生意気だぞ! オレは上に従ってやってんだ!」
「上に従う……ですか。じゃあ、オレの方が役職が上だから従え。いいか? 上の立場としてマネジメントするのがお前の仕事だ。雑用を押し付けるのは仕事じゃねぇ」
ギロリと睨みつければ、ジジイが冷や汗をかいて懇願するような目で見てくるが知ったこっちゃない。そんだけ無駄に歳だけ食って、技量も知識もないなんて情けねぇな。お前みたいのが上にのさばるから、企業が腐っていくんだよ。
「オレがこの会社に入ったのは、大手だからじゃなく、年齢関係なく実力主義で上に上がれるからだ。お前みたいなのの下で働くのなんかごめんだからな。……それと頼まれていた資料はオレが代理で作ってやったから、ありがたく受け取れ」
ジジイに先程と同様、USBを押し付ければ丁寧に「ありがとうございます」とお礼を言われて。目の色変えやがってゴミが。後に、総務から先程の大きな音がした件を問われたが、オレの「何もなかったよな?」の返事に、後輩が無言で頷いたので事は荒立たなかった。とりあえず、アイツに言われた引き継ぎに関しては完了したと言ってもいいだろう。まあ、少々引き継ぎし過ぎたかもしれないが。
*
後日。体調がすっかり回復し、お礼を兼ねてレインのいるフロアに向かう。ちょっとばかし、朝早い時間だけどおそらく彼はいると踏んでいる。なぜなら、この時間に忙しなく出勤しているのを見たことがあるから。キョロキョロと彼の姿を探せば、綺麗な漆黒の髪と艶のある黄色の髪がパッと目に入り、やっぱりいたことに安堵する。フロアにまだ人も少ないし、呼んでもいいかしら。
「レイン、おはよう!」
席に座っていた彼はすぐにわたしの声に気付いてこちらを向いたが、またすぐ視線を机に落とした。いや、無視しないでよ。机に歩み寄り、もう一度声をかける。
「ちょっとあなた、冷たいわ」
「朝から騒がしい……何の用だ」
「ありがとうって言いに来たのよ」
「この間も同じ事を言われたが? ……お前、体調は」
その質問を待ってました。やっぱり回復には、良質な休養と睡眠、それから栄養が必須だとこの休みの期間に実感した次第である。わたしはピースサインを作り、自信満々に胸を張って答えた。
「もうばっちり! なんだってできるわ。今度何か困ったことがあれば名前に任せて!」
それを見てレインは深いため息をつき、静かにこめかみを押さえた。それから、冷徹な目で睨まれて。
「お前……だから周りにいいように使われるんだ。ちょっとは自覚しろ」
「うっ……ごもっとも。でも、レインだから言ってるのよ?」
「あ?」
「だから、レインのお願いならって特別にっていう……なにその顔は」
「……別に」
そう言って席を立ち上がり、わたしの前から去ろうとするレインをそのまま見送るはずもなく、わたしは後をついていく。
「やだ、なに怒ってるのよ? ごめんね? ねぇってば」
「うるさい、ついてくるな」
「……あのさ」
「……」
「あの後、上司と後輩が異様にわたしに優しくなったの。気持ち悪いくらいに気遣ってくれるようになったんだけど……レイン、なんか知ってる?」
「さぁな。……でも、よかったな」
彼がこっちを全く見ずに歩みを進めるせいで、どんな表情をしているか自体は分からなかった。けど、言葉尻はとても柔らかくて。見られてはないし、わたしの笑みがこぼれてしまうのは許して欲しい。
本当、不器用ねあなた。どうしようもないくらい優しいくせに、言いもしない。だけど、レインにとっては親愛の情なのよね。勘違いしないようにしなくちゃ。何度かしっしっと追い払われて、わたしは自分のフロアに戻ったのだった。
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