3.ふたりとの鮮烈な出会い〜アベル編〜
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エマにお小遣いを渡し、三人分の飲み物を買ってくるように指示してアベルはエマを退室させた。アビスはホットのブラックコーヒー、アベルはホットのストレートティー、猫舌のエマはきっと何か冷たい飲み物を買ってくるだろう。ようやくアビスと二人きりになれたところで、アベルは本題を切り出した。
「で、どうしたの?」
「実は最近、エマと付き合う事になったのですが」
おお……とうとう付き合い始めたんだ。傍から見てると両思いなんだから、さっさと付き合えばいいのにとアベルは思っていたが、アビスの頑固さを知っているからこそ、彼の中の決断が重たいことをよく理解していた。
「そうなんだ、まずはおめでとう……」
「ありがとうございます」
本当に嬉しそうに笑うアビスを見て、アベルは素直に祝福の気持ちが内に広がるのを感じていた。でも問題はここからなんだろう、多分。
「でも……あ、あの、アベル様おかしいんです」
「何が」
「エマが可愛くて可愛くてしょうがないんです」
「惚気なら聞きたくないんだけど……」
恥ずかしそうに言うアビスの何がおかしいのか、アベルには全く理解できなかった。好きな子を可愛いと思うのは当然の感情なのではないだろうか。というか、だから好きなんじゃ?
「いや、違うんです! 恋人になる前と後での、きらきら感が……何してても可愛いっていうか、見惚れてしまって会話にならなくて、なんだか意識したら言葉すら出てこないし、そもそもこの前まで私はエマとどうやって会話していたんだろうって思って――」
ずっと矢継ぎ早に話すアビスをアベルはじっと見守っていたが、きっとこういう事なのだろう。おそらく、悪魔の目を持つアビスは人との関わりを基本避け、自分でも禁じている。期待をしないことで、自らを守るという知恵を使い、生きてきた。だから、女の子に対する耐性がない。それは言わずもがな――初恋ということなのではないか? ……初恋、なんと甘酸っぱい響きだろうか。口の中で転がすのでさえ、熟れたイチゴの味がする気がする。それはつまり、口に出すのがはばかられるということなのだが。
「アベル様、どう思われますか……? エマのことを考えるだけで胸が苦しくなって、鼓動すら早くなる。こんなことは今まで生きてきてありませんでした。もしかしたら病気でしょうか……私はまだ退院できる体じゃないんじゃ……!?」
コホンとアベルが軽く咳払いしたのは、自分がこれから言う言葉の気恥ずかしさを軽減するためである。
「アビス、いいかい。それは君にとって、きっと初恋……本気の恋とでも言えばいいのかな。恋の病というやつに侵されてるんだよ」
この言葉を自分以上に顔色を変えずに伝えられる人間があるのであれば連れてきて欲しいとアベルは願った。アビスは恋愛初心者も初心者、運転であれば若葉マークをつけるところだ。大事故になる前に教官として、その暴走車の右隣に座るのがアベルの上に立つ者の役目かもしれないとしても――それでもアベルはこの立場を本気で変わって欲しいと願わずにはいられなかった。
「初恋、本気の恋、恋の病……」
そこだけ切り取って、呟きながら真剣に悩まないでくれないか。頼むから。アビスがというより、アベルに対してのクリティカルヒットが次々に入り、その精神攻撃だけで思い切りコンボしている。既に悩んでいるアビスよりも、聞いているアベルのダメージの方が大きくなっていた。何ヒット当てれば気が済むのか。
「でも、どこからが恋愛のいわゆる好きなのだろうと考えた時に……それだけはすぐ分かったんです。……気持ちが温かくなったので。うん、なんだかこの現象が分かって少し楽になりました。ありがとうございます。流石アベル様」
「……なら良かったけど。ちなみに、エマに今のことを伝えてないよね?」
アビスは少し首を傾げ、不思議そうにアベルに言った。
「言いました」
「言っちゃったんだ……?」
「いや、あまりにも気になってしまって……。で、でも恋人になる前と後できらきら輝いて見えるのはなぜだろうとしか」
「っ……そうか」
――全部言っちゃってるね。もうダメだこれは。思わずこめかみを抑えたアベルは心の中でエマにそっとバトンを渡した。あとは頼んだよ、エマ。それはただ恋愛初心者教習という面倒ごとのバトンを渡しただけともいえる。
*
エマが三本の飲み物を抱えて帰ってきたのは、アビスとアベルの話題が恋愛から切り替わった後であった。
「随分遅かったね」
「アベルくんのホットのストレートティーが今の時期だとなかなか置いてないのと、エマの飲みたいものがなくてさ〜病院の自販機、ぜーんぶ巡っちゃったよ」
「そんなスタンプラリーみたいなことしてたんだ。君は何にしたの」
「なんだと思う? 当てた人にはエマがハグをプレゼントしましょう!」
さっと後ろ手に隠した飲み物をエマはどうしても当てさせたいらしい。僕は別に君にハグされたところで嬉しくないんだけど。ちらりとアビスを見れば真面目にちゃんと考えているのが分かって、君が当ててくれと願うより他なかった。
「はい、答えをどうぞ」
「りんごジュースですかね」
「オレンジジュースじゃないの?」
アビスがりんごジュース、アベルがオレンジジュースをそれぞれ答え、エマの口から下手くそなドラムロールが流れる。後ろ手に隠した飲み物を前に突き出したら、水滴がついた冷えたラベルに「しぼりたてりんごジュース」の文字が見えて。どっちにせよ、お子様が好きそうな飲み物が好きと思われている事実は変わらないが。こんな事で嬉しそうにしているエマもアビスも年相応なのかもしれない。早速ハグをしようとしてるエマを見て、アベルはハッとなった。さっき聞いている限りだと、かなりアビスの具合は重症だ。刺激が強いとまたさっきみたいな変な空気になるんじゃないか? またあの空気を緩和させるのはさすがに御免こうむりたい。
「エマ、待って」
「ん?」
「動けないアビスに抱き着くのはやっぱり良くないんじゃないかな」
「えぇ〜、エマこの間も抱き着いたよ」
抱き着いたのか。それも含め、僕が今割りを食ってるのはエマのせいなんだけど。そう言いたい気持ちをグッと抑えて大人なアビスはエマに向き合う。
「アビスから聞いたけど、君達付き合い始めたんだろう」
「そうなの! エマってばもう彼女なんだよ」
額に当てた横向きのピースサインがもう既に鬱陶しい。浮き足立ってるのが目に見えてわかるとはこの事か。まぁ、ここは目をつぶろうとアベルはエマを見据えた。
「じゃあ尚更、初回のハグは小出しにした方がいいんじゃないの」
「どうして?」
「出し惜しみした方が価値が上がるからに決まってるだろ」
なんとなくそれっぽく適当に言ったけどどうだろう。アビスを守るためとはいえ――そこまで二人に目を輝かせた表情をされると……うん。僕の周りがバカばっかりで良かった。「高等テクニック!」と言ったエマがアビスからさっと離れたのを確認し、アベルは胸をなでおろした。ちなみに、こんなもの高等でもなんでもない。
「とりあえず座ろうか」
「そうだね……あ! エマ質問あるんだけどいい?」
「どうぞ、何でも聞いてください」
「アビスくんの新しい友達のマッシュくんって誰? なんかその子の名前、最近イーストン内で『魔法が使えない』って噂になってるけど、同一人物かな?」
その名前を聞いてアベルとアビスは目を合わせ、アビスは微笑み、アベルは少し表情を綻ばせた。
「それはそうですね……私から説明しましょうか」
レアンの七魔牙 とアドラの一年生四人、そしてアドラの監督生兼今年度の神覚者ことレイン・エイムズとの抗争で、最終的にマッシュ・バーンデッドという人物にアビスとアベルは負けてしまった。
「ええ!? この間、その人に魔法のハンカチを当ててもらったって言ってなかったっけ……?」
「はい、そうですよ。私が致命傷になったのは、マッシュくんからの傷ではありませんから。彼はむしろ命の恩人です。そして、僕の目を見ても態度を変えることなく、友達になってくれた」
アビスは目線を落とし、アベルに気を使ったのか口を閉じた。別にこの先の全てを話してくれていいのに。
「じゃあ、ここからは僕が話そうか」
二人がマッシュに完敗した後、無邪気な淵源 と遭遇し、その一員セル・ウォーにアベルは用済みと称されて殺されそうになった。
「あの魔法界一の犯罪組織、無邪気な淵源 !? ちょっと待って、全然頭追いつかない……まさか借りてはいけない力に手を出してるって」
「あぁ、そうだ。彼らの力だよ。奴らはこの学校で魔力の高い人間を探していた。それを手伝う代わりに僕は力を手に入れた。この三本目のアザも……奴らの力による人為的なものだ」
エマにとって衝撃的な内容だったのだろう。大きく目を見開き、口に手を当てて呆然とアベルを見つめていた。当然だ――僕は大義を成すためとはいえ、それだけの事をしてしまったのだから。
「……だったの!」
「えっ」
「だから、アベルくんは大丈夫だったの! 何かされなかった!?」
急にガッと肩を掴まれて思い切り揺すられれば、そんな事をされるとは思っていない頭は当然ぐらぐらする。お構い無しに必死の形相で揺するエマは全く気にもとめずにアベルを揺すり続けていて。
「う、エマ……気持ち悪い……」
「わ、わ! ごめんね!」
「僕は大丈夫だったんだけど、これで大丈夫じゃなくなったかも……うっ……」
ぐらりと揺れる頭を抱えてふらついたアベルをエマ は自分にもたれかからせるようにし、アビスを振り返った。
「あ、アビスくんどうしよう!」
「あぁ……! エマは加減を知らないから! アベル様!」
自分を不安そうに見てくる二人がおかしくて、アベルは吐き気と闘いながら、感じたことのない感情を胸に抱いていた。
「エマ、考えてごらん……僕は君の大好きなアビスを危険に晒したんだよ――僕が、借りてはいけない力に手を出してしまったから、アビスを怪我させてしまったんだ」
「アベルくん……」
「だから、僕の心配なんてする必要――」
そう言いかけて、温かいぬくもりが自分を包んだのは一瞬だった。何これ、あったかい。……僕、飲み物当てられなかったのにな。
「……」
声をかけようとしてかけられなかったのは、エマのアベルを抱き締める力が強かったから。もちろん、仮にも彼氏の前でその行為は良くないんじゃないかと言いたい気持ちはあったが、アベルは肩の力を抜き、なすがままに――甘んじて受け入れることにした。それが罰だと思ったからだ。ちなみに、アビスと目が合った時に優しく微笑まれたのは余談だ。彼氏公認とか、君も止めてくれたらいいのに。
「もう友達でしょ! 心配するよ! 必要あるとかないとかじゃないの……どうしてわかんないの……」
唇を震わせるエマが美しいと思ってしまったアベルは既にその時点でおかしくなっていたんだろう。だって、自分のためにその顔を歪ませてくれることに喜びにさえ似た感情を抱いていたのだから。
「アベル様」
「アビス……」
アビスはベッドからその手を伸ばし、アベルの左肩にそっと置いた。右にはエマ、左はアビス、綺麗なものという意味では両手に花だろうか――とそんなくだらない事を考えてしまうほどにはアベルは今の状況に狼狽えていた。
「アベル様……それは違いますよ」
「あぁ、そうだよね。やっぱり両手に花は女性に使う言葉だもんね」
「えっ」
「えっ?」
「アベルくん、今のこの状況を――両手に花だと思ってるの?」
エマにずばり言われて、アベルは息をのんだ。アビスの否定は何も関係なかったというのに。何を血迷ったか、その事だと思って心の内側の声が聞こえているもののように話してしまったことを非常に後悔した。非常に……後悔した。
「いや、あの、違うんだ……」
いつも自信に満ち溢れるアベル・ウォーカーの狼狽している姿を見られるなど、レア中のレアとも言えるだろう。もちろん、そんな姿を見ることがなかったエマとアビスは――顔を見合わせて吹き出してしまった。
「アベルくん可愛いね〜」
「私なんかのことも花と思っていただけて恐縮です」
「あぁ……もういいや」
二人はひとしきり笑って満足したのか、アビスが先に口を開いた。
「さっきの話ですが……違うと言ったのは、私が自分の意思であなたについて行くことを決めたからですよ。だから、守りたいと体を張ったのは自分の意思です。なのでそんな風に言わないでください」
悲しそうに、でも力強い瞳でアビスはそう断言した。……君はいつも何も言わずとも、僕についてきてくれるね。僕が間違っていたことなんて賢い君のことだ、とっくのとうに気付いていただろうに――。
「私はアベル様がご無事で何よりです」
アビスは、そう言って目尻を下げた。だが、その一言からはアベルが無事であることを誰よりも喜んでいる事を――何より、アベル自身が一番感じ取れて。
「――ともかく僕から言えるのはマッシュ・バーンデッドには大きな借りがあるということだよ」
これにはアビスも大きく頷いた。エマは静かにアビスとアベルの話を聞いていたが、話に区切りがついたと思ったのか、アビスの下半身が横たわるベッドにボフンと顔を埋めた。アベルを見る横顔は満足そうに笑っていて。
「二人とも〜、良い友達できて良かったね!」
その言葉にアベルとアビスは顔を見合せたが、アビスが「本当に、そうですね」と言ってくれたので、アベルはそれに同意する形で首を縦に振った。
「じゃあー、エマも二人の友達代表としてお礼しなくっちゃなあ。そういう意味ではエマもマッシュくんに大きな借りできちゃった! ねー、今度紹介してよ!」
「そういえば、僕達に勝った祝勝パーティーを来週やると言ってましたね……私の快気祝いも兼ねてくださってるようで、アベル様と私がお呼ばれしています」
アビスの言う通り、来週の放課後にアドラ寮302号室にて、二人はパーティーに呼ばれていた。アベルとしては、アドラの人間と馴れ合うつもりなどさらさらないが、アビスの快気祝いを含め、上に立つ者の務めとして空気を読むつもりでいる。トランプだけは忘れないようにしなければと早々にローブの中に仕込んでいるのは内緒である。
「えー! エマも行く! 行くったら行く!」
「と……言ってますが、どうしましょうかアベル様」
「どうせダメって言ったって聞くような子じゃないだろう」
「ふふん、わかってんじゃんアベルくん」
そう、断ったとしても無理やりについてくる未来が簡単に想像できてしまうのがエマの怖いところだ。寮を越えて招待してもらう側としては、そのような恥を晒す事態は避けたい。
「マッシュくんに私から連絡しておきましょうか」
「アビス、頼めるかい?」
「はい、もちろんです」
「わーい! やったー! 美味しいものたくさん出る?」
アビスはちょっと考える仕草をしてから、エマを見てニッコリと笑った。
「実は……マッシュくんとシュークリームを一緒に食べる約束をしています。だからシュークリームは確実に出るはずですよ」
「きゃー! エマ、シュークリームすっごく好きだよ! 生地はフワフワのシュー生地? それともカリカリのクッキー生地? あ! 中はとろとろのカスタードかな、生クリーム? ……わくわく止まらないんだが! 楽しみすぎる!」
「エマ、君は元々招待されてないんだから粗相のないようにね」
「フフッ、大丈夫ですよアベル様……エマはいい子にできますから……ね? エマ」
「もちのろん!」
今からこんなに爛々と目を輝かせているのを見ると些か不安ではあるが――アベルは渋々許可を出したのだった。
*
――時は過ぎ、見晴らしの良いアビスの病室の窓から見える空模様は、いつの間にか綺麗な夕焼けを描いていた。
「友達といえば……エマね、アベルくんと友達になったよ!」
「ちょっと待ってよ、それ今言うの?」
途端に嫌そうな顔をしたアベルからは直接聞いていないが、今日の感じを見る限りすっかり仲良くなったものなのだろう……とアビスは思っていた。もしかして、何か違ったのだろうか。
「だって、エマはアビスくんにアベルくんと仲良くなるって宣言したんだもん。今更ながら報告忘れてたなって!」
「と、エマが言ってますが……」
アベルを伺うように見れば、ムッとした顔ではあるが「一応ね」と同意の意をアビスに示した。本当に自分を待っている間に、イーストン内で三本指に入るレアンのトップのアベルと仲良くなったのか――。アベルを陥落させる手腕はもちろんのこと、この調子だと先にアドラのトップ兼神覚者のレインとも仲良くなったりして……いや、まさか。アビスはその考えを消すように首を横に振った。
「アビス、いいかい? 僕は別にエマと友達になんかなりたくなかったんだ。エマがどうしても僕と友達になりたいって言うから……」
「あー! アビスくんこれ嘘だよ! アベルくん友達いないからエマが友達になるって言ったの!」
「次、それを言ったら問答無用で磔にする約束忘れてないよね……?」
アベルと長くいるアビスには瞬時に分かった。これは――アベルの本気の目だ。まずい、流石に病院に剣は持ってきていない。どうする、どうすると頭をフル回転させたが、口をついて出たのは「アベル様と親しくなったのは私が先です」という言葉だった。
魔法を唱える寸前だったアベルはその言葉に驚き、思わず口を閉じた。エマは謝罪の言葉を述べる寸前で右に同じく閉口して。二人の反応を見て、アビスはほっと胸を撫で下ろしたが、よく考えたらこれでは自分が妬いているみたいではないかと思った途端……顔が熱くなった。
「アビスくん、ヤキモチ妬いてるよ」
「そうみたいだね……」
「ほら、アベルくんてば素直になりなよ」
「うるさいな……」
「早くっ!」
「――心配しなくても、僕にとっての君の代わりはいないよ」
アビスはどういう気持ちで二人のやり取りを見ればいいか分からなかったが……アビスが大切に思うふたりが仲良くなって、そして自分の事を大事だと、自分の代わりはいないと言ってくれる。それだけでアビスにとっては十分過ぎるくらい幸福で。
「もー! エマ、最初に上下関係なく、対等に視線を合わせられる関係って言ったじゃん!」
「本音 を聞いたら、僕の入れた紅茶が美味しかったからまた飲みたいって話だっただろ」
「忖度しないって言ったもん! アベルくん最後に楽しい時間をありがとう、また会おうって言ってくれたじゃん」
「……あれはエマに無理矢理言わされたんだ。アビスも何とか言ってくれないか」
「フ、フフッ……フフフッ……」
もう我慢できない。こんなやり取りを病室でしかも大きな声でずっとやるのだから笑ってしまうに決まっている。エマが素直で子供っぽいのはいつもの事だが、いつもはクールで貫禄のあるアベルでさえも、エマと話していると幼く見えてくる。エマにはきっと、心の内側を開かせる才があるのだろうとアビスは思った。
「君のせいで僕も幼稚だと思われる」
「はぁ!? エマは幼稚じゃないもん!」
「……そもそも、アビスと仲良くなりたい時も追いかけ回して仲良くなったって言ってたじゃないか。そういうの世間ではストーカーって言うんだよ。知ってる? 犯罪なの」
淡々とエマに言うアベルはそれこそ言い負かす気満々である。とてもじゃないがいつもの素性からは想像もできない。
「そんなの! アビスくんにも言われたことないのにっ……!」
「この間もこの話したけどいい加減決着つけようよ、ねぇアビス」
「あ、アビスくん嫌じゃなかったよね!?」
急に振られて返答に困ったが、アビスは素直に返事をした。
「うーん、正直言うと……最初はちょっと鬱陶しかったですね」
「鬱陶しかったって」
「ちょっとだもん!」
「あ、あまり病室でバチバチ火花を散らされると焦げてしまいそうなので、そろそろクールダウンしましょうか。ね? ふたりが親しくなったのはここまででよく分かりましたから……」
アビスがなだめれば、渋々と言った形で双方は黙った。何なんだろうか、エマとアベルが揃うと話すか黙るかしかできないのだろうか。両極端過ぎてこちらが気を遣うのだが、何とかして欲しい。治った傷がまた深くなりそうな勢いである。
そして、面会時間が終了し、エマとアベルはアビスに別れを告げ、病室を退室するのだった。もちろんアビスは苦笑いで見送ったわけだが……二人が帰りに喧嘩をしないよう祈るしかなかった。
ちなみに――エマへのお菓子と手紙のお礼を言い忘れてしまい、後悔するのはこのあとすぐの話である。
*
――イーストン魔法学校のレアン寮への帰り道。全く同じ寮に住んでいるので、当然帰路は一緒なわけだが。外でエマとふたりきりというシチュエーションにアベルは少し緊張していた。彼氏がいる女の子に対して抱いていい気持ちではないのかもしれないが。
「あの、アベルくん」
「どうしたの」
「エマね、アベルくんに聞きたいことあって」
聞きたいこととは何だろうか。エマの透明感のある琥珀色の瞳にじっと見つめられれば、なんだか余計に意識してしまう。
「あの、話したくなかったら話さなくていいんだけど……アビスくんから、アベルくんのお母さんのこと少し聞いたの。だから良かったら聞きたいなって思って。ダメかな」
――母さんの事を。聞きたいのか、この子は。
アベルは自然と人形を抱く力が強くなっているのを感じていた。アベルはマッシュにも一度聞かせた話をエマに語ることを決め、静かに口を開いた。
「……僕の母はとても優しく慈悲深い人だった」
エマはずっと頷きながら、時々アベルを気遣うようにぽんぽんと背中をさすった。その手は、どうしようもなく――優しかった。
「……そして、母はいなくなったんだ。母は間違っていたとずっと思っていたけど、きっとそうじゃなくて」
「うん」
「もちろん、その出来事を許せることは未来永劫ないけど――綺麗事を少しは信じていいかもしれないと。母が、アビスが教えてくれた。マッシュ・バーンデッドはきっかけをくれた」
絶対に変わらないと思っていた考えですら、急に裏表がひっくり返る事がある。初めての感覚に戸惑いながらも、なぜかアベルは胸がすく思いが先に来ていた。
「アベルくん……」
「エマも綺麗事が世界を変えると信じているんだろう? だから、僕も少しだけ信じてもいいよ。それに、君は――少しだけ母さんに似てるから」
エマは嬉しそうに笑ってアベルを肯定するように深く頷いた。アベルの変化をアビスはもちろん、まだ付き合いの浅いエマも深く感じているのだろう。
「……でも、エマがそんなお母さんに似てるなんて光栄だけど……どこらへんが?」
「僕は母さんによく言われていた。……相手の立場になって考えるようになりなさい。そうすれば少しだけ人に優しくなれるのよ――と。君も似たようなことを言っていた」
「……確かに言ったね」
「どうしてそれを僕に言った」
立ち止まったアベルに返事をするように、ザァッと突風が吹いた。アベルの羽織るローブがバサバサと激しく揺れ、エマの長い髪も舞い上がり、風は弄ぶように彼女の髪を揺らめかせた。彼女は揺れる髪を押さえて、その場に立ち止まったアベルの方を振り返った。元の髪色を忘れさせるくらいに光が当たったブロンドが非常に印象的で。
「所詮、赤の他人――なんて寂しい言葉、言って欲しくなかったからだよ。もう、目的の為にアベルくんばっかりが自分を犠牲にするのはやめて欲しい。アナタを心配してるのは、アビスくんだけじゃないよ。わかった?」
「……君は口が減らないな」
「またそんなこと言って! もう友達なんだから、これからは間違ってることは間違ってるって言うからね。アビスくんみたいに甘やかしたりしないんだから」
さっきの印象とは真逆に、腕を組んでプイッと横を向いたエマは、大人びてない等身大のいつもの彼女だった。
「フン、心配しなくとも僕が間違えることなんて早々ないよ。僕が歩けばそこはもう道になるし」
「本当、会った時から思ってたけど、そういう自信過剰なところ良くないよ! もっと謙虚に……」
「君みたいな謙虚じゃない奴に、『謙虚』という言葉自身も使って欲しくはないだろうね。余計なお世話だ。僕は確固たる地位を裏付ける実力があるんだから、自信を持って何が悪い」
「何その言い方! 本当可愛くない! 〜っ……こんのわからず屋ッ!」
こんなに自分と対等に張り合ってくるのは、後にも先にもきっとこの子くらいなのだろう。生意気で、力も持たないくせに綺麗事ばかり言って、勝手に人の内側に土足で入ってくる彼女は――どう足掻いても大事な人 のものなのだ。
「エマ」
「ん?」
「――アビスと先に出会ってなかったら」
僕のこと好きになってくれた、なんて聞けるわけないだろう。でも、自然に口から放たれた言葉を戻せる魔法なんてこの世には存在しない。エマはアベルを驚いたように見つめ、優しく目を細めた。
「……うん、きっとなってたよ。アベルくん、不器用だけど魅力的だからね。――あと顔がいい」
その見透かされたような返答に――アベルは息が止まりそうになった。そして、エマはアベルの胸を右手の人差し指でトンと軽くつついて。
……トクン。心拍がそれだけで簡単に上昇するなんて、人体の仕組みはなんて単純明快なんだろう。それはもう嫌になるくらいに。
「それって……」
「え? 友達ってことじゃないの?」
ですよね、とどこかからオチが聞こえてきそうな展開に、アベルはグッと自分の胸を掴んだ。完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを兼ね備えたこの僕が別に、期待なんて! ……期待なんて、するわけはない。ありえない、これは負け惜しみではない、決して。
「ハァ……不器用は余計」
「あ、顔がいいは否定しないんだ」
「母さんが、僕達はたまたま恵まれて生まれてきたと言っていた。出自も才能も容姿でさえも……」
亡くなった母の言葉になぞらえて話せば、エマはそれ以上何も言ってこなくなった。母さん、盾にしてすまない。
「でも、確かにアベルくん全部持ってるもんね」
「……そんな僕にも手に入らないものくらいあるよ」
「何?」
「神覚者の座と、もう一個は言いたくない」
「え〜! 友達に内緒は良くないな〜!」
「友達は相手の秘密を尊重するべきなんじゃないの」
「ド正論……!」
ぐぬぬと顔を歪めるエマ。本当に君は喜怒哀楽が全部出るね。ある意味エマらしいけど。
「あのさ、アベルくん最後に一つだけ……」
話しながらアベルとエマは歩き続けて、もうレアン寮の門自体は目の前に迫ってきていた。
「――お母さんの話したくなったら、エマのとこおいで」
「……なんで」
「エマもね、言ってなかったけどお母さん……病気で亡くなってるの。周りからさ、よく乗り越えたねとか言われるんだけど……乗り越えてなんかなくて、時が過ぎてるだけで」
「……」
「その場の空気重くしちゃうから、周りにはあんまり話せないんだけど……なんかこう時々、思い出して話したい夜があって――だから、いつでも待ってる」
何かを想起させるような顔は今は亡き母を想うからだろうか。いつものエマからは想像もつかないような綺麗で儚げな表情にアベルは目を奪われていた。
「あれれ? アベルくんてば、可愛い可愛いエマにみとれてるな? そんなにまじまじ見られたらエマ困っちゃーう」
「……確かに綺麗だったよ、今の君。思わず目を奪われたくらいには」
「えっ……」
「いつもその顔してればいいのに。容姿は悪くないんだから」
そんな事をアベルが言うとは思わなかったのか、エマはおどけるのをやめて急に静かになって。これだから意地悪のしがいがある。
「――男をからかいたいなら、覚悟しないとダメ」
「……」
俯いたエマの顎をクイッと上に持ち上げ、逃げられないようにしてアベルは非常に近い距離でエマに聞いた。持ち上げられたエマのその顔は赤く、褒められたことに照れているのだろうという事はいちいち聞かなくても分かった。
「返事は」
「……は、い」
「分かればよろしい」
パッと手を離し、自由にしてやればエマは一目散に門まで走っていった。そのあまりにも素早い逃走劇と獣なみのスピードに驚いていれば、エマは遠くから手を振っていて。――僕もこれからそっちに行くこと忘れてないか?
「アベルくん! 次の満月の夜、約束ね!」
それだけ言い残して、アベルを待たずに寮の中に入っていったエマの後ろ姿を見ながら、この早速できた「友達」のせいで――これからの毎日が騒がしくなるようなそんな予感がしたのだった。
「で、どうしたの?」
「実は最近、エマと付き合う事になったのですが」
おお……とうとう付き合い始めたんだ。傍から見てると両思いなんだから、さっさと付き合えばいいのにとアベルは思っていたが、アビスの頑固さを知っているからこそ、彼の中の決断が重たいことをよく理解していた。
「そうなんだ、まずはおめでとう……」
「ありがとうございます」
本当に嬉しそうに笑うアビスを見て、アベルは素直に祝福の気持ちが内に広がるのを感じていた。でも問題はここからなんだろう、多分。
「でも……あ、あの、アベル様おかしいんです」
「何が」
「エマが可愛くて可愛くてしょうがないんです」
「惚気なら聞きたくないんだけど……」
恥ずかしそうに言うアビスの何がおかしいのか、アベルには全く理解できなかった。好きな子を可愛いと思うのは当然の感情なのではないだろうか。というか、だから好きなんじゃ?
「いや、違うんです! 恋人になる前と後での、きらきら感が……何してても可愛いっていうか、見惚れてしまって会話にならなくて、なんだか意識したら言葉すら出てこないし、そもそもこの前まで私はエマとどうやって会話していたんだろうって思って――」
ずっと矢継ぎ早に話すアビスをアベルはじっと見守っていたが、きっとこういう事なのだろう。おそらく、悪魔の目を持つアビスは人との関わりを基本避け、自分でも禁じている。期待をしないことで、自らを守るという知恵を使い、生きてきた。だから、女の子に対する耐性がない。それは言わずもがな――初恋ということなのではないか? ……初恋、なんと甘酸っぱい響きだろうか。口の中で転がすのでさえ、熟れたイチゴの味がする気がする。それはつまり、口に出すのがはばかられるということなのだが。
「アベル様、どう思われますか……? エマのことを考えるだけで胸が苦しくなって、鼓動すら早くなる。こんなことは今まで生きてきてありませんでした。もしかしたら病気でしょうか……私はまだ退院できる体じゃないんじゃ……!?」
コホンとアベルが軽く咳払いしたのは、自分がこれから言う言葉の気恥ずかしさを軽減するためである。
「アビス、いいかい。それは君にとって、きっと初恋……本気の恋とでも言えばいいのかな。恋の病というやつに侵されてるんだよ」
この言葉を自分以上に顔色を変えずに伝えられる人間があるのであれば連れてきて欲しいとアベルは願った。アビスは恋愛初心者も初心者、運転であれば若葉マークをつけるところだ。大事故になる前に教官として、その暴走車の右隣に座るのがアベルの上に立つ者の役目かもしれないとしても――それでもアベルはこの立場を本気で変わって欲しいと願わずにはいられなかった。
「初恋、本気の恋、恋の病……」
そこだけ切り取って、呟きながら真剣に悩まないでくれないか。頼むから。アビスがというより、アベルに対してのクリティカルヒットが次々に入り、その精神攻撃だけで思い切りコンボしている。既に悩んでいるアビスよりも、聞いているアベルのダメージの方が大きくなっていた。何ヒット当てれば気が済むのか。
「でも、どこからが恋愛のいわゆる好きなのだろうと考えた時に……それだけはすぐ分かったんです。……気持ちが温かくなったので。うん、なんだかこの現象が分かって少し楽になりました。ありがとうございます。流石アベル様」
「……なら良かったけど。ちなみに、エマに今のことを伝えてないよね?」
アビスは少し首を傾げ、不思議そうにアベルに言った。
「言いました」
「言っちゃったんだ……?」
「いや、あまりにも気になってしまって……。で、でも恋人になる前と後できらきら輝いて見えるのはなぜだろうとしか」
「っ……そうか」
――全部言っちゃってるね。もうダメだこれは。思わずこめかみを抑えたアベルは心の中でエマにそっとバトンを渡した。あとは頼んだよ、エマ。それはただ恋愛初心者教習という面倒ごとのバトンを渡しただけともいえる。
*
エマが三本の飲み物を抱えて帰ってきたのは、アビスとアベルの話題が恋愛から切り替わった後であった。
「随分遅かったね」
「アベルくんのホットのストレートティーが今の時期だとなかなか置いてないのと、エマの飲みたいものがなくてさ〜病院の自販機、ぜーんぶ巡っちゃったよ」
「そんなスタンプラリーみたいなことしてたんだ。君は何にしたの」
「なんだと思う? 当てた人にはエマがハグをプレゼントしましょう!」
さっと後ろ手に隠した飲み物をエマはどうしても当てさせたいらしい。僕は別に君にハグされたところで嬉しくないんだけど。ちらりとアビスを見れば真面目にちゃんと考えているのが分かって、君が当ててくれと願うより他なかった。
「はい、答えをどうぞ」
「りんごジュースですかね」
「オレンジジュースじゃないの?」
アビスがりんごジュース、アベルがオレンジジュースをそれぞれ答え、エマの口から下手くそなドラムロールが流れる。後ろ手に隠した飲み物を前に突き出したら、水滴がついた冷えたラベルに「しぼりたてりんごジュース」の文字が見えて。どっちにせよ、お子様が好きそうな飲み物が好きと思われている事実は変わらないが。こんな事で嬉しそうにしているエマもアビスも年相応なのかもしれない。早速ハグをしようとしてるエマを見て、アベルはハッとなった。さっき聞いている限りだと、かなりアビスの具合は重症だ。刺激が強いとまたさっきみたいな変な空気になるんじゃないか? またあの空気を緩和させるのはさすがに御免こうむりたい。
「エマ、待って」
「ん?」
「動けないアビスに抱き着くのはやっぱり良くないんじゃないかな」
「えぇ〜、エマこの間も抱き着いたよ」
抱き着いたのか。それも含め、僕が今割りを食ってるのはエマのせいなんだけど。そう言いたい気持ちをグッと抑えて大人なアビスはエマに向き合う。
「アビスから聞いたけど、君達付き合い始めたんだろう」
「そうなの! エマってばもう彼女なんだよ」
額に当てた横向きのピースサインがもう既に鬱陶しい。浮き足立ってるのが目に見えてわかるとはこの事か。まぁ、ここは目をつぶろうとアベルはエマを見据えた。
「じゃあ尚更、初回のハグは小出しにした方がいいんじゃないの」
「どうして?」
「出し惜しみした方が価値が上がるからに決まってるだろ」
なんとなくそれっぽく適当に言ったけどどうだろう。アビスを守るためとはいえ――そこまで二人に目を輝かせた表情をされると……うん。僕の周りがバカばっかりで良かった。「高等テクニック!」と言ったエマがアビスからさっと離れたのを確認し、アベルは胸をなでおろした。ちなみに、こんなもの高等でもなんでもない。
「とりあえず座ろうか」
「そうだね……あ! エマ質問あるんだけどいい?」
「どうぞ、何でも聞いてください」
「アビスくんの新しい友達のマッシュくんって誰? なんかその子の名前、最近イーストン内で『魔法が使えない』って噂になってるけど、同一人物かな?」
その名前を聞いてアベルとアビスは目を合わせ、アビスは微笑み、アベルは少し表情を綻ばせた。
「それはそうですね……私から説明しましょうか」
レアンの
「ええ!? この間、その人に魔法のハンカチを当ててもらったって言ってなかったっけ……?」
「はい、そうですよ。私が致命傷になったのは、マッシュくんからの傷ではありませんから。彼はむしろ命の恩人です。そして、僕の目を見ても態度を変えることなく、友達になってくれた」
アビスは目線を落とし、アベルに気を使ったのか口を閉じた。別にこの先の全てを話してくれていいのに。
「じゃあ、ここからは僕が話そうか」
二人がマッシュに完敗した後、
「あの魔法界一の犯罪組織、
「あぁ、そうだ。彼らの力だよ。奴らはこの学校で魔力の高い人間を探していた。それを手伝う代わりに僕は力を手に入れた。この三本目のアザも……奴らの力による人為的なものだ」
エマにとって衝撃的な内容だったのだろう。大きく目を見開き、口に手を当てて呆然とアベルを見つめていた。当然だ――僕は大義を成すためとはいえ、それだけの事をしてしまったのだから。
「……だったの!」
「えっ」
「だから、アベルくんは大丈夫だったの! 何かされなかった!?」
急にガッと肩を掴まれて思い切り揺すられれば、そんな事をされるとは思っていない頭は当然ぐらぐらする。お構い無しに必死の形相で揺するエマは全く気にもとめずにアベルを揺すり続けていて。
「う、エマ……気持ち悪い……」
「わ、わ! ごめんね!」
「僕は大丈夫だったんだけど、これで大丈夫じゃなくなったかも……うっ……」
ぐらりと揺れる頭を抱えてふらついたアベルをエマ は自分にもたれかからせるようにし、アビスを振り返った。
「あ、アビスくんどうしよう!」
「あぁ……! エマは加減を知らないから! アベル様!」
自分を不安そうに見てくる二人がおかしくて、アベルは吐き気と闘いながら、感じたことのない感情を胸に抱いていた。
「エマ、考えてごらん……僕は君の大好きなアビスを危険に晒したんだよ――僕が、借りてはいけない力に手を出してしまったから、アビスを怪我させてしまったんだ」
「アベルくん……」
「だから、僕の心配なんてする必要――」
そう言いかけて、温かいぬくもりが自分を包んだのは一瞬だった。何これ、あったかい。……僕、飲み物当てられなかったのにな。
「……」
声をかけようとしてかけられなかったのは、エマのアベルを抱き締める力が強かったから。もちろん、仮にも彼氏の前でその行為は良くないんじゃないかと言いたい気持ちはあったが、アベルは肩の力を抜き、なすがままに――甘んじて受け入れることにした。それが罰だと思ったからだ。ちなみに、アビスと目が合った時に優しく微笑まれたのは余談だ。彼氏公認とか、君も止めてくれたらいいのに。
「もう友達でしょ! 心配するよ! 必要あるとかないとかじゃないの……どうしてわかんないの……」
唇を震わせるエマが美しいと思ってしまったアベルは既にその時点でおかしくなっていたんだろう。だって、自分のためにその顔を歪ませてくれることに喜びにさえ似た感情を抱いていたのだから。
「アベル様」
「アビス……」
アビスはベッドからその手を伸ばし、アベルの左肩にそっと置いた。右にはエマ、左はアビス、綺麗なものという意味では両手に花だろうか――とそんなくだらない事を考えてしまうほどにはアベルは今の状況に狼狽えていた。
「アベル様……それは違いますよ」
「あぁ、そうだよね。やっぱり両手に花は女性に使う言葉だもんね」
「えっ」
「えっ?」
「アベルくん、今のこの状況を――両手に花だと思ってるの?」
エマにずばり言われて、アベルは息をのんだ。アビスの否定は何も関係なかったというのに。何を血迷ったか、その事だと思って心の内側の声が聞こえているもののように話してしまったことを非常に後悔した。非常に……後悔した。
「いや、あの、違うんだ……」
いつも自信に満ち溢れるアベル・ウォーカーの狼狽している姿を見られるなど、レア中のレアとも言えるだろう。もちろん、そんな姿を見ることがなかったエマとアビスは――顔を見合わせて吹き出してしまった。
「アベルくん可愛いね〜」
「私なんかのことも花と思っていただけて恐縮です」
「あぁ……もういいや」
二人はひとしきり笑って満足したのか、アビスが先に口を開いた。
「さっきの話ですが……違うと言ったのは、私が自分の意思であなたについて行くことを決めたからですよ。だから、守りたいと体を張ったのは自分の意思です。なのでそんな風に言わないでください」
悲しそうに、でも力強い瞳でアビスはそう断言した。……君はいつも何も言わずとも、僕についてきてくれるね。僕が間違っていたことなんて賢い君のことだ、とっくのとうに気付いていただろうに――。
「私はアベル様がご無事で何よりです」
アビスは、そう言って目尻を下げた。だが、その一言からはアベルが無事であることを誰よりも喜んでいる事を――何より、アベル自身が一番感じ取れて。
「――ともかく僕から言えるのはマッシュ・バーンデッドには大きな借りがあるということだよ」
これにはアビスも大きく頷いた。エマは静かにアビスとアベルの話を聞いていたが、話に区切りがついたと思ったのか、アビスの下半身が横たわるベッドにボフンと顔を埋めた。アベルを見る横顔は満足そうに笑っていて。
「二人とも〜、良い友達できて良かったね!」
その言葉にアベルとアビスは顔を見合せたが、アビスが「本当に、そうですね」と言ってくれたので、アベルはそれに同意する形で首を縦に振った。
「じゃあー、エマも二人の友達代表としてお礼しなくっちゃなあ。そういう意味ではエマもマッシュくんに大きな借りできちゃった! ねー、今度紹介してよ!」
「そういえば、僕達に勝った祝勝パーティーを来週やると言ってましたね……私の快気祝いも兼ねてくださってるようで、アベル様と私がお呼ばれしています」
アビスの言う通り、来週の放課後にアドラ寮302号室にて、二人はパーティーに呼ばれていた。アベルとしては、アドラの人間と馴れ合うつもりなどさらさらないが、アビスの快気祝いを含め、上に立つ者の務めとして空気を読むつもりでいる。トランプだけは忘れないようにしなければと早々にローブの中に仕込んでいるのは内緒である。
「えー! エマも行く! 行くったら行く!」
「と……言ってますが、どうしましょうかアベル様」
「どうせダメって言ったって聞くような子じゃないだろう」
「ふふん、わかってんじゃんアベルくん」
そう、断ったとしても無理やりについてくる未来が簡単に想像できてしまうのがエマの怖いところだ。寮を越えて招待してもらう側としては、そのような恥を晒す事態は避けたい。
「マッシュくんに私から連絡しておきましょうか」
「アビス、頼めるかい?」
「はい、もちろんです」
「わーい! やったー! 美味しいものたくさん出る?」
アビスはちょっと考える仕草をしてから、エマを見てニッコリと笑った。
「実は……マッシュくんとシュークリームを一緒に食べる約束をしています。だからシュークリームは確実に出るはずですよ」
「きゃー! エマ、シュークリームすっごく好きだよ! 生地はフワフワのシュー生地? それともカリカリのクッキー生地? あ! 中はとろとろのカスタードかな、生クリーム? ……わくわく止まらないんだが! 楽しみすぎる!」
「エマ、君は元々招待されてないんだから粗相のないようにね」
「フフッ、大丈夫ですよアベル様……エマはいい子にできますから……ね? エマ」
「もちのろん!」
今からこんなに爛々と目を輝かせているのを見ると些か不安ではあるが――アベルは渋々許可を出したのだった。
*
――時は過ぎ、見晴らしの良いアビスの病室の窓から見える空模様は、いつの間にか綺麗な夕焼けを描いていた。
「友達といえば……エマね、アベルくんと友達になったよ!」
「ちょっと待ってよ、それ今言うの?」
途端に嫌そうな顔をしたアベルからは直接聞いていないが、今日の感じを見る限りすっかり仲良くなったものなのだろう……とアビスは思っていた。もしかして、何か違ったのだろうか。
「だって、エマはアビスくんにアベルくんと仲良くなるって宣言したんだもん。今更ながら報告忘れてたなって!」
「と、エマが言ってますが……」
アベルを伺うように見れば、ムッとした顔ではあるが「一応ね」と同意の意をアビスに示した。本当に自分を待っている間に、イーストン内で三本指に入るレアンのトップのアベルと仲良くなったのか――。アベルを陥落させる手腕はもちろんのこと、この調子だと先にアドラのトップ兼神覚者のレインとも仲良くなったりして……いや、まさか。アビスはその考えを消すように首を横に振った。
「アビス、いいかい? 僕は別にエマと友達になんかなりたくなかったんだ。エマがどうしても僕と友達になりたいって言うから……」
「あー! アビスくんこれ嘘だよ! アベルくん友達いないからエマが友達になるって言ったの!」
「次、それを言ったら問答無用で磔にする約束忘れてないよね……?」
アベルと長くいるアビスには瞬時に分かった。これは――アベルの本気の目だ。まずい、流石に病院に剣は持ってきていない。どうする、どうすると頭をフル回転させたが、口をついて出たのは「アベル様と親しくなったのは私が先です」という言葉だった。
魔法を唱える寸前だったアベルはその言葉に驚き、思わず口を閉じた。エマは謝罪の言葉を述べる寸前で右に同じく閉口して。二人の反応を見て、アビスはほっと胸を撫で下ろしたが、よく考えたらこれでは自分が妬いているみたいではないかと思った途端……顔が熱くなった。
「アビスくん、ヤキモチ妬いてるよ」
「そうみたいだね……」
「ほら、アベルくんてば素直になりなよ」
「うるさいな……」
「早くっ!」
「――心配しなくても、僕にとっての君の代わりはいないよ」
アビスはどういう気持ちで二人のやり取りを見ればいいか分からなかったが……アビスが大切に思うふたりが仲良くなって、そして自分の事を大事だと、自分の代わりはいないと言ってくれる。それだけでアビスにとっては十分過ぎるくらい幸福で。
「もー! エマ、最初に上下関係なく、対等に視線を合わせられる関係って言ったじゃん!」
「
「忖度しないって言ったもん! アベルくん最後に楽しい時間をありがとう、また会おうって言ってくれたじゃん」
「……あれはエマに無理矢理言わされたんだ。アビスも何とか言ってくれないか」
「フ、フフッ……フフフッ……」
もう我慢できない。こんなやり取りを病室でしかも大きな声でずっとやるのだから笑ってしまうに決まっている。エマが素直で子供っぽいのはいつもの事だが、いつもはクールで貫禄のあるアベルでさえも、エマと話していると幼く見えてくる。エマにはきっと、心の内側を開かせる才があるのだろうとアビスは思った。
「君のせいで僕も幼稚だと思われる」
「はぁ!? エマは幼稚じゃないもん!」
「……そもそも、アビスと仲良くなりたい時も追いかけ回して仲良くなったって言ってたじゃないか。そういうの世間ではストーカーって言うんだよ。知ってる? 犯罪なの」
淡々とエマに言うアベルはそれこそ言い負かす気満々である。とてもじゃないがいつもの素性からは想像もできない。
「そんなの! アビスくんにも言われたことないのにっ……!」
「この間もこの話したけどいい加減決着つけようよ、ねぇアビス」
「あ、アビスくん嫌じゃなかったよね!?」
急に振られて返答に困ったが、アビスは素直に返事をした。
「うーん、正直言うと……最初はちょっと鬱陶しかったですね」
「鬱陶しかったって」
「ちょっとだもん!」
「あ、あまり病室でバチバチ火花を散らされると焦げてしまいそうなので、そろそろクールダウンしましょうか。ね? ふたりが親しくなったのはここまででよく分かりましたから……」
アビスがなだめれば、渋々と言った形で双方は黙った。何なんだろうか、エマとアベルが揃うと話すか黙るかしかできないのだろうか。両極端過ぎてこちらが気を遣うのだが、何とかして欲しい。治った傷がまた深くなりそうな勢いである。
そして、面会時間が終了し、エマとアベルはアビスに別れを告げ、病室を退室するのだった。もちろんアビスは苦笑いで見送ったわけだが……二人が帰りに喧嘩をしないよう祈るしかなかった。
ちなみに――エマへのお菓子と手紙のお礼を言い忘れてしまい、後悔するのはこのあとすぐの話である。
*
――イーストン魔法学校のレアン寮への帰り道。全く同じ寮に住んでいるので、当然帰路は一緒なわけだが。外でエマとふたりきりというシチュエーションにアベルは少し緊張していた。彼氏がいる女の子に対して抱いていい気持ちではないのかもしれないが。
「あの、アベルくん」
「どうしたの」
「エマね、アベルくんに聞きたいことあって」
聞きたいこととは何だろうか。エマの透明感のある琥珀色の瞳にじっと見つめられれば、なんだか余計に意識してしまう。
「あの、話したくなかったら話さなくていいんだけど……アビスくんから、アベルくんのお母さんのこと少し聞いたの。だから良かったら聞きたいなって思って。ダメかな」
――母さんの事を。聞きたいのか、この子は。
アベルは自然と人形を抱く力が強くなっているのを感じていた。アベルはマッシュにも一度聞かせた話をエマに語ることを決め、静かに口を開いた。
「……僕の母はとても優しく慈悲深い人だった」
エマはずっと頷きながら、時々アベルを気遣うようにぽんぽんと背中をさすった。その手は、どうしようもなく――優しかった。
「……そして、母はいなくなったんだ。母は間違っていたとずっと思っていたけど、きっとそうじゃなくて」
「うん」
「もちろん、その出来事を許せることは未来永劫ないけど――綺麗事を少しは信じていいかもしれないと。母が、アビスが教えてくれた。マッシュ・バーンデッドはきっかけをくれた」
絶対に変わらないと思っていた考えですら、急に裏表がひっくり返る事がある。初めての感覚に戸惑いながらも、なぜかアベルは胸がすく思いが先に来ていた。
「アベルくん……」
「エマも綺麗事が世界を変えると信じているんだろう? だから、僕も少しだけ信じてもいいよ。それに、君は――少しだけ母さんに似てるから」
エマは嬉しそうに笑ってアベルを肯定するように深く頷いた。アベルの変化をアビスはもちろん、まだ付き合いの浅いエマも深く感じているのだろう。
「……でも、エマがそんなお母さんに似てるなんて光栄だけど……どこらへんが?」
「僕は母さんによく言われていた。……相手の立場になって考えるようになりなさい。そうすれば少しだけ人に優しくなれるのよ――と。君も似たようなことを言っていた」
「……確かに言ったね」
「どうしてそれを僕に言った」
立ち止まったアベルに返事をするように、ザァッと突風が吹いた。アベルの羽織るローブがバサバサと激しく揺れ、エマの長い髪も舞い上がり、風は弄ぶように彼女の髪を揺らめかせた。彼女は揺れる髪を押さえて、その場に立ち止まったアベルの方を振り返った。元の髪色を忘れさせるくらいに光が当たったブロンドが非常に印象的で。
「所詮、赤の他人――なんて寂しい言葉、言って欲しくなかったからだよ。もう、目的の為にアベルくんばっかりが自分を犠牲にするのはやめて欲しい。アナタを心配してるのは、アビスくんだけじゃないよ。わかった?」
「……君は口が減らないな」
「またそんなこと言って! もう友達なんだから、これからは間違ってることは間違ってるって言うからね。アビスくんみたいに甘やかしたりしないんだから」
さっきの印象とは真逆に、腕を組んでプイッと横を向いたエマは、大人びてない等身大のいつもの彼女だった。
「フン、心配しなくとも僕が間違えることなんて早々ないよ。僕が歩けばそこはもう道になるし」
「本当、会った時から思ってたけど、そういう自信過剰なところ良くないよ! もっと謙虚に……」
「君みたいな謙虚じゃない奴に、『謙虚』という言葉自身も使って欲しくはないだろうね。余計なお世話だ。僕は確固たる地位を裏付ける実力があるんだから、自信を持って何が悪い」
「何その言い方! 本当可愛くない! 〜っ……こんのわからず屋ッ!」
こんなに自分と対等に張り合ってくるのは、後にも先にもきっとこの子くらいなのだろう。生意気で、力も持たないくせに綺麗事ばかり言って、勝手に人の内側に土足で入ってくる彼女は――どう足掻いても
「エマ」
「ん?」
「――アビスと先に出会ってなかったら」
僕のこと好きになってくれた、なんて聞けるわけないだろう。でも、自然に口から放たれた言葉を戻せる魔法なんてこの世には存在しない。エマはアベルを驚いたように見つめ、優しく目を細めた。
「……うん、きっとなってたよ。アベルくん、不器用だけど魅力的だからね。――あと顔がいい」
その見透かされたような返答に――アベルは息が止まりそうになった。そして、エマはアベルの胸を右手の人差し指でトンと軽くつついて。
……トクン。心拍がそれだけで簡単に上昇するなんて、人体の仕組みはなんて単純明快なんだろう。それはもう嫌になるくらいに。
「それって……」
「え? 友達ってことじゃないの?」
ですよね、とどこかからオチが聞こえてきそうな展開に、アベルはグッと自分の胸を掴んだ。完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを兼ね備えたこの僕が別に、期待なんて! ……期待なんて、するわけはない。ありえない、これは負け惜しみではない、決して。
「ハァ……不器用は余計」
「あ、顔がいいは否定しないんだ」
「母さんが、僕達はたまたま恵まれて生まれてきたと言っていた。出自も才能も容姿でさえも……」
亡くなった母の言葉になぞらえて話せば、エマはそれ以上何も言ってこなくなった。母さん、盾にしてすまない。
「でも、確かにアベルくん全部持ってるもんね」
「……そんな僕にも手に入らないものくらいあるよ」
「何?」
「神覚者の座と、もう一個は言いたくない」
「え〜! 友達に内緒は良くないな〜!」
「友達は相手の秘密を尊重するべきなんじゃないの」
「ド正論……!」
ぐぬぬと顔を歪めるエマ。本当に君は喜怒哀楽が全部出るね。ある意味エマらしいけど。
「あのさ、アベルくん最後に一つだけ……」
話しながらアベルとエマは歩き続けて、もうレアン寮の門自体は目の前に迫ってきていた。
「――お母さんの話したくなったら、エマのとこおいで」
「……なんで」
「エマもね、言ってなかったけどお母さん……病気で亡くなってるの。周りからさ、よく乗り越えたねとか言われるんだけど……乗り越えてなんかなくて、時が過ぎてるだけで」
「……」
「その場の空気重くしちゃうから、周りにはあんまり話せないんだけど……なんかこう時々、思い出して話したい夜があって――だから、いつでも待ってる」
何かを想起させるような顔は今は亡き母を想うからだろうか。いつものエマからは想像もつかないような綺麗で儚げな表情にアベルは目を奪われていた。
「あれれ? アベルくんてば、可愛い可愛いエマにみとれてるな? そんなにまじまじ見られたらエマ困っちゃーう」
「……確かに綺麗だったよ、今の君。思わず目を奪われたくらいには」
「えっ……」
「いつもその顔してればいいのに。容姿は悪くないんだから」
そんな事をアベルが言うとは思わなかったのか、エマはおどけるのをやめて急に静かになって。これだから意地悪のしがいがある。
「――男をからかいたいなら、覚悟しないとダメ」
「……」
俯いたエマの顎をクイッと上に持ち上げ、逃げられないようにしてアベルは非常に近い距離でエマに聞いた。持ち上げられたエマのその顔は赤く、褒められたことに照れているのだろうという事はいちいち聞かなくても分かった。
「返事は」
「……は、い」
「分かればよろしい」
パッと手を離し、自由にしてやればエマは一目散に門まで走っていった。そのあまりにも素早い逃走劇と獣なみのスピードに驚いていれば、エマは遠くから手を振っていて。――僕もこれからそっちに行くこと忘れてないか?
「アベルくん! 次の満月の夜、約束ね!」
それだけ言い残して、アベルを待たずに寮の中に入っていったエマの後ろ姿を見ながら、この早速できた「友達」のせいで――これからの毎日が騒がしくなるようなそんな予感がしたのだった。
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