3.ふたりとの鮮烈な出会い〜アベル編〜
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――あれから一ヶ月が経過した。エマがその間、アビスとアベルに出会うことはなかった。力を持たない者は、止める術も持たない。何より、物事の善悪ではなく、彼らは自分たちの中で確固たる信念を持って戦っていたのだ。それが分かっていたからこそ、エマはもう何も言うまいと決めていた。アビスに、『待っている』と宣言した通り、約束をしっかりと守っていたのだ。そう全てが終わるまでは。
そして、その時は突然やってきた。
「アビスくん!」
病院のベッドで静かに横たわっていたアビスは、その声に反応しむくりと起き上がり、エマの姿を見て微笑んだ。悪魔を宿すその左目にはぐるぐると包帯が巻かれ、いつもは高い位置で縛っている髪も今日は下ろされていた。さらさらと艶やかな髪は光に透けて淡い空の色を連想させ、病衣に身を包むその姿は、白で統一された病室も相まってか、どこか儚げな印象をエマに与えた。こんな状況だと不思議なことに、窓から差し込む光でさえも美少年をきらきらと照らすスポットライトのように見える。一言で言うならば――めっちゃ色っぽい。ただそれに尽きる。しかし今はそんな下世話なことを考えている場合ではない。アビスの緊急事態なのだ。
「エマ……来てくれたのですね」
「だ、大丈夫なの!? アベルくんを庇って……重症だって聞いたよ!」
慌てふためくエマを安心させるように、アビスは「ひとまず座ってください」とベッドの横にあったパイプ椅子に座るように促した。
「落ち着いて、私は大丈夫。マッシュくん……あぁ、私の新しい友達なのですが、その子が傷の癒える魔法のハンカチを当ててくれたので……大事には至りませんでした」
アビスは一段目の引き出しに入れていたピンク色のウサギ柄のハンカチを取り出し、エマの前でひらひらと振って見せた。随分と可愛い柄のハンカチだ。男性物にしては可愛すぎる気もするが、その人のものだろうか――気にはなったが、これのおかげでアビスくんが助かったのであれば、感謝するより他にない。
「そっか……本当に良かった! もう……アビスくんに何かあったらエマは……!」
「――ずっと心配をかけてごめんなさい。エマ」
白いシーツをぎゅっと握りしめて、本当に申し訳なさそうに謝ったアビスをエマに責められるはずもなかった。アビスはアビスで大事なものを守りたかったのだから。
「いいよ、戻ってきてくれたから。それより! もうエマに向かって――さよならって言わない?」
アビスはそれを聞いて、目を細め「はい」と力強く返事をした。エマは嬉しくて、嬉しくて、アビスが病人だということも忘れて言いたいことを捲し立てた。
「もうエマの前で隠し事禁止だからね?」
「はい」
「エマの気持ちも置き去りにしちゃダメだよ?」
「はい」
「エマのこと置いて勝手にどっか行かないでね?」
「はい」
「じゃあ……これからはエマとずっと一緒にいてくれる?」
「――はい、喜んで。私はあなたと共に」
優しく笑うアビスが愛おしくてたまらなくて、エマはもう自分の気持ちを抑えることができずに、椅子から勢いよく立ち上がりアビスの首元に思い切り抱き付いた。途端、鼻をついたのは病院特有の薬品の匂い。でも、その首元は温かく、アビスに血が通っているのをエマに認識させるのには十分であった。生きて、エマと一緒にいてくれる。もうどこにも行かないと、自分とずっと一緒にいてくれると言ってくれたのだ。これがどれほど嬉しいことか、それはエマが一番待ち望んでいた答えだった。
「あのエマ、苦しいです」
「わわっ、ごめん! つい……!」
「フフッ、いいですよ。では……私からも一ついいですか?」
アビスは可笑しそうに笑って、一呼吸置いたあとにエマをすっと見据えた。さっきとは裏腹に真剣な表情を携え、エマを見つめる瞳は澄んだ深い海のように綺麗で、目を逸らすことなど到底できないほどに美しかった。エマは息をするのも忘れ、アビスを見ていた。今度はきっとエマが返事する番なのだろう。
「エマ、私は……あなたをもう泣かせないと誓います。だから」
アビスの続きの言葉を待つ、エマの手のひらにはジワリと汗が滲み、ドクンドクン……と心臓が刻む鼓動は最高潮に達していた。その信じられないくらいにエマ自身から発せられる爆音は、もはやこの病室に響き渡っているのではないかと錯覚するほどであった。思わず自分の心臓を掴むように、エマはシャツをグッと握りしめた。
「――私だけの大事な人になってもらえませんか」
「……はい!」
これ以上、心臓の爆音が続けば先に天に召されるのはエマの方かもしれない。でも、都合よくここは病院ということを加味すると、助かる可能性は高い。いや、そもそもアビスの腕の中で召されるなら逆に助からなくてもいいかもしれない。ああ、もう何が何だかよく分からない。――よく分からないけど、今この瞬間エマが幸せってことだけは分かるよ。急に全身の力が抜けて足に力が入らなくなり、ふらりと前に倒れればアビスが支えてくれて。
「フッ……これじゃ、どちらが病人か分かりませんね。困った子だ」
「どう考えてもアビスくんのせいでしょ……ねぇ、好き」
アビスに支えられたまま、見上げるような形で溢れ出る好意を伝えればアビスは見るからに、動揺していて。
「! ……きゅ、急に言わないでください!」
「なんでよ〜! 好きって言うよって言わなきゃダメってこと? ……というか前も、エマ好きって言ったじゃん」
「あ、あれは、そのそういう関係になる前というか、意識する前であって……!」
「アビスくんだって、自分から言ってくれたし」
「それは……伝えようとしたと言うよりか、つい気持ちが溢れて口をついて出てしまったんです!」
「それくらい必死だったんだ?」
「ハァ、あなたも意地悪ですね……そんなことを聞かないでください」
透き通るような白い肌を赤らめて懸命に話すアビスは、エマの視線に気付いたのかふいと下を向いて。おそらく照れているのを見られたくないのだろう。気持ちはわかるが……そんなチャンスをみすみす逃すことがないのがエマという人間である。ごろりと左側に体を倒し、下から覗き込めばバッチリ目があって。
「み〜ちゃった。アビスくんてば可愛いね、好きだよ、大好き」
「――っ! あぁ……もう勘弁してもらえませんか」
「ダメ。エマは好きの気持ちでさえ、お見通しなんだから」
「じゃあ私の気持ちは伝わってますよね……」
「伝わってても、言って欲しい時があるんだよ、女の子には」
お願いするように伝えれば、アビスはもう逃げられないと思ったのだろう。「仕方ないですね……」と諦めたように応じてくれて。
「世界中の誰よりも、わがままなアナタが――愛おしくてたまらないんです」
「つまり?」
「大好きってことですよ! もう!」
拗ねて窓の方を向くアビスの脇腹をつつけば、ヒッと変な声をあげてすぐにジトッと睨まれた。くすぐったかったんだ、可愛い。
「こら、病人を大事にしてくれないなら追い出しますよ」
「アハハッ拗ねてる〜、でもエマは嬉しいよ……ありがと」
嬉しいのに涙が出てくる人間の構造は不思議だと思う。でも、隣で好きな人が好きと言ってくれて、笑ってくれて、拗ねたり、怒ったり、色々な感情を見せてくれる。これほどまでに幸福なことがあるんだろうか。最初の触れたら鋭く切れてしまいそうな……でも反面、ガラスのような脆さが感じられた彼とは――まるで別人のようだ。エマの頬を伝う涙を、拭ってくれたのはアビスの綺麗な指だった。
「今日はハンカチじゃないんだね」
「ごめんなさい……持ち合わせていなくて」
「いいよ、愛情感じるもん」
「それよりも……私は先程、アナタを泣かせないと誓ったばかりなのですが……本当に泣き虫ですね、エマは」
そう言って苦笑するアビスが震え出したのは――すぐのことだった。気づかなかったが、確かに涙を拭ってくれる際に直接エマに触れている。
「アビスくん……困った子は君の方だと思うけど……」
エマに触れる指先をベッドにそっと戻してやれば、アビスは振動するのをやめた。ベッドごとガタガタ揺れてたから、知らない人は地震だと思うだろうな。もういい加減慣れたが、もう恋人同士なのだからアビスには耐性をつけてもらわないといけないとエマは思った。
「……そういやアベルくんは?」
「! ……はい、アベル様も怪我をしていましたが……わざわざ私を病院まで運んでくださいました」
「そっか……。アベルくんの目的は当然ながら達成、できなかったんだよね」
既にレアン寮の級硬貨 が、アドラ寮に取られてしまったのは周知の事実であった。金の硬貨がレアンは十五枚あったのが、0枚になっていたのをエマも寮ごとの金の硬貨数を表す魔法の秤で直接見たので間違いない。
アビスの悔しそうな顔は後悔しているからか、目的を果たせなかったからか―― エマはその事には触れなかった。
「……アベル様はあくまで級硬貨 を得るために、借りてはいけない力に手を出しました。少数を犠牲にしても大義をなすために……」
「うん」
「アベル様も本当はお母様のような優しい人間が平和に暮らせる世界をつくりたかっただけ……それを分かっていながら私は……」
エマはそっと自分の胸にアビスを抱き寄せて、言葉を紡がせなかった。アビスのせいではないと言いたかった気持ちは伝わっているだろうか。実際の胸の内は――彼にしか分からない。
*
エマが帰ってアビスは病室で一人になった。一人になると話し相手がいなくなるからか、急に静かに感じるのはもちろん、やけに部屋が広く感じる。布団の上に両腕を出し、手のひらを握って開いてを繰り返すとつい先日剣を握っていた感覚が思い返される。
にしても、無邪気な淵源 があんなに強いとは――。流石、魔法界一の犯罪組織といったところか。あのアベルでさえ手も足も出なかった。きっと手を出してはいけない力だったなんて、そんな事は最初から分かっている。そんなのは所詮、結果論でしかない。でも、自分に止められる強さがあればアベルは怪我をしなくても済んだだろう。これから待ち受ける処罰だって……。
――今から僕がその目に意味を持たせると言ってるんだ。ついてこい。
アビスはゆっくりと目を閉じて、無力で情けない自分を呪った。期待に応えられないどころか、守れもしない不甲斐なさでどうにかなりそうだった。自分を落ち着けるために、飲み物でも買いに行こうと思い立ち、松葉杖に手を伸ばしたところに――それはあった。あったというよりかは、括り付けられていたが正しいかもしれない。松葉杖に括られていたのは何やら薄桃色の紙らしきもので。アビスが不審に思い、括り付けられているのをほどけば、それは単純に細く折りたたまれた便箋であった。
「なんでこんなところに便箋が……」
折りたたまれた便箋を丁寧に開いていけば、差出人は今日恋人になったばかりの彼女からで。可愛らしい文字が一枚の便箋にびっしりと並んでいるのを見ると、自分に向けて書きたいことがたくさんあったのだろう。一枚にまとめるのに相当苦慮したに違いないとアビスは苦笑いし、引き出しの上の証明のスイッチを入れ、その便箋に目を落とした。
――愛するアビスくんへ。これを読んでいる君はきっと元気がなくて落ち込んでるでしょう。なんでわかるか? そりゃエマってばエスパーだから!
「フフッ……なんですかこれは」
手紙でさえもエマらしい始まり方に、声が勝手に脳内再生されてしまうのはもう仕様と言ってもいいかもしれない。
――優しいアビスくんはいつも自分より、大切な人を優先してしまうでしょう。本当に……思わず妬いてしまうくらい、アビスくんはアベルくんのことが大好きだから。
「……そうかもしれませんね」
―― エマの勝手な持論だよ。きっと、一緒に道を誤ってくれる人が彼にはきっと必要だったと思う。だって、正しいだけのモノサシじゃ測れないことがこの世にはたくさんあって……何かを変えるには力がいる、力を得るには犠牲は必然だもん。
「……」
――どうしても譲れないものがあって、叶えたいものがあって、そこに確固たる意志があったなら二人とも間違ってないよ。エマは、そう思う。だから、自分のことあんまり責めちゃダメだよ。
最後に、「二段目の引き出しを開けてね、エマ」で締めくくってある手紙は、じんわりとアビスの心に染みていくには十分過ぎるほどだった。間違っていない――でも、肯定も否定もしない。その優しさがアビスは嬉しかった。肩からさらっと前に落ちてきた長い髪を耳にかけ、アビスは手を伸ばしてエマの指示通りに二段目の引き出しを開けた、はずだった。おかしい、さっき一段目の引き出しを開けた時はこんなに固くなかった。何かが引っかかって開かなくなっている。嫌な予感がして、そっともう片方の手で押さえながら開ければ、そこにはお菓子がギチギチに詰まっていた。
「なんだこれ……」
カントリー・ママアズの「ピスタチオ&ベリー味」、これは確かエマが好きなシリーズのお菓子だったはず。よく自分を追いかけている時に抱き締めていたのが印象的で、アビスは覚えていた。『ひとつは毒マムシ入り! トリプル・リスキー・キャンディ』、これは病人が食べても大丈夫なのでしょうか。あとは『カリっと二度揚げサラマンダー揚げせん』に『カレー香るごちそうハートチップス』、『キューピッド・グミいまだけ魔力2倍』。よくもまぁ、こんなに集めたものだ。しかもぜんぶ期間限定とは…… エマのお菓子へのとめどなく溢れる愛を見せつけられたようでアビスは苦笑する。それよりも、今のこの惨状だ。一人じゃとてもじゃないが食べきれない量のお菓子ともに病室に残され、アビスは途方に暮れてはいるが――元気になって欲しいという意味で差し入れてくれたお菓子達はしっかりその役目を果たしてくれたと言えよう。確かに、お見舞いに来る荷物にしてはリュックがパンパンだとは思ってはいたが……今度からは注意してみるようにしなければ。無理やり閉まっていた引き出しを、また無理やり閉めてアビスはゆっくりと横になった。
――にしても。エマはいつアビス宛に手紙を書いて松葉杖に括りつけ、引き出しにお菓子を入れたのだろう。油断も隙もない魔法使い 顔負けの一連の行動に驚くともに、やっぱり堪えきれずにフフフッと笑い声が漏れてしまうのだった。
*
――アビスの退院間近となった。「若いから自己治癒力も高いし、回復が早いよ」と医者には言われていたものの、確かに言われるだけあって日々体が回復していくのをアビスは感じていた。自分的には大分、調子も戻ってきてこれならすぐに復帰できそうだと気持ちを新たにしていた。アベルの役に立つのと同時に、エマとの関係性の進展も……。そんなことを考えていた矢先、自分の病室をトントンと叩く音が聞こえ、顔を覗かせたのは丁度、頭に浮かべていた人物であった。
「おや、アビスくん今日は顔色いいね。大分良くなった?」
「はい、もう明後日くらいには退院できそうです」
「そうなんだ、良かった」
そう受け答えをするエマを見て思ったことがある。惚気になるかもしれないが――彼女が可愛いということだ。いや、彼女が可愛いのはいつもなのだが、きらきらして見えるのはなぜなのだろうか。前回と言っても一週間も経っていないが、恋人になってからは初めての逢瀬……いや、お見舞いを逢瀬というのはおかしいかもしれないにしても、恋人になる前となった後で見え方がまた変わったような気がするのはどうしてかさっぱり分からない――アビスは頭を抱えて一人で混乱していた。
「わ、どしたの。急に顔色悪くなったけど!」
「あの、もし分かったら教えて欲しいんですが」
「エマに答えられることなら、なんでも」
エマは両手の拳を、自分の胸の前に持ってきてグッと握った。彼女なりの役に立ちたいという意思表示なのだろう。それがもう既に可愛い。ぼーっとエマに見惚れていれば、何にも言わずに黙ったアビスが心配になったのか、エマは目をパチパチさせて困ったように首を傾げていて。これも可愛い。何だこれは、病気か? 病気なのか? 本当はまだ退院できないのではないだろうか……? だってこれじゃ、まともに会話すら出来ないじゃないか。アビスは落胆した。
「あ、あの、アビスくん……大丈夫?」
「いや……その……息が苦しくて……」
「た、大変! 看護師さん呼ぶ!?」
アビスのベッド横のナースコールに急いで手を伸ばしたエマの手を静止し、「大丈夫ですよ」アビスは笑顔を作った。
「全然それ笑顔じゃないし、辛そうなんだけど!」
前回、自分がエマとどう会話していたのか思い出せない。そもそも、こんな愛くるしい子に、自分はどうやって思いを伝えたのだろうか。エマの琥珀色の瞳がアビスの心の内を透かすようにきらめき、またときめかせる。ダメだ、意識すると余計に話せなくなる。アビスは座っているエマに、背を向けるように話を始めた。
「……付き合うと、彼女がますます可愛く見えるものでしょうか」
「うぇ!? 突然……な、なに、その質問。彼女が可愛いかどうか……って、エマは男の子じゃないしな……」
このままでは答えてもらえない。アビスはその時、その場でどうしても参考意見が欲しかった。
「いいから答えてくださいっ!」
「や! 急に強いな! ……ん、んーと……でも、愛しく思う気持ちが増して、可愛く見えることはあるんじゃない?」
エマの手振り身振りも表情も見れないのは惜しいが、仕方ない。彼女の何を見ても可愛く映してしまう自分のおかしな瞳に、蓋をするしか今は手立てがないのである。そう――既にアビスは瞼を閉じていた。
「つ、付き合っただけでですか? 名目上のステータスが友達以上恋人未満から、恋人になっただけですよ……別に恋人になる前も同様の気持ちがあったわけで、その……」
「いやいや、アビスくん! 付き合っただけって……それは違うでしょ! 名目上のステータスを恋人にランクアップさせるのにどれくらい勇気と時間と労力がいることか!」
「あ、えっと、それは違くて……! その人を好きな気持ちは変わらないし、映る姿も変わらないはずなのに、恋人になる前と後できらきらと輝いて見えるのはなぜだろうと思っただけなんですが――」
「それってエマが、そう見えるってこと?」
はいと言いかけたその瞬間に、クイッと右腕の病衣を引っ張られたので目を開けてエマの方を見れば顔が真っ赤になっていて。
「そういうのは……あんまり具体的に言わない方がいいかもね……?」
「……」
「……」
その時トントンとまたノックをして入ってきたのは、またもやアビスが頭に浮かべていたもう一人――自らが忠誠を誓うアベルであった。
「ちょっと君達、病室の外にまで聞こえるくらい大きな声で話すのはやめてくれるかな。その部屋に入る僕が恥ずかしいんだが……って、この空気何……? 喧嘩でもしたの」
確かにアベルからすれば、さっきまでボリュームなど気にせずに話していた二人がお互いに下を向いて目線も合わせず、沈黙。かつ、顔を赤くしているのは異様な光景であろう。でもアビスも、そしてエマも相手の出方を伺って口を開けなくなっていた。
「僕はこれから……この二人の間に挟まれていかなきゃいけないのか。先が思いやられるね、母さん」
アベルは聞こえるか聞こえないかぐらいの声でボソリと呟き、悟ったようにため息を吐いた。
そして、その時は突然やってきた。
「アビスくん!」
病院のベッドで静かに横たわっていたアビスは、その声に反応しむくりと起き上がり、エマの姿を見て微笑んだ。悪魔を宿すその左目にはぐるぐると包帯が巻かれ、いつもは高い位置で縛っている髪も今日は下ろされていた。さらさらと艶やかな髪は光に透けて淡い空の色を連想させ、病衣に身を包むその姿は、白で統一された病室も相まってか、どこか儚げな印象をエマに与えた。こんな状況だと不思議なことに、窓から差し込む光でさえも美少年をきらきらと照らすスポットライトのように見える。一言で言うならば――めっちゃ色っぽい。ただそれに尽きる。しかし今はそんな下世話なことを考えている場合ではない。アビスの緊急事態なのだ。
「エマ……来てくれたのですね」
「だ、大丈夫なの!? アベルくんを庇って……重症だって聞いたよ!」
慌てふためくエマを安心させるように、アビスは「ひとまず座ってください」とベッドの横にあったパイプ椅子に座るように促した。
「落ち着いて、私は大丈夫。マッシュくん……あぁ、私の新しい友達なのですが、その子が傷の癒える魔法のハンカチを当ててくれたので……大事には至りませんでした」
アビスは一段目の引き出しに入れていたピンク色のウサギ柄のハンカチを取り出し、エマの前でひらひらと振って見せた。随分と可愛い柄のハンカチだ。男性物にしては可愛すぎる気もするが、その人のものだろうか――気にはなったが、これのおかげでアビスくんが助かったのであれば、感謝するより他にない。
「そっか……本当に良かった! もう……アビスくんに何かあったらエマは……!」
「――ずっと心配をかけてごめんなさい。エマ」
白いシーツをぎゅっと握りしめて、本当に申し訳なさそうに謝ったアビスをエマに責められるはずもなかった。アビスはアビスで大事なものを守りたかったのだから。
「いいよ、戻ってきてくれたから。それより! もうエマに向かって――さよならって言わない?」
アビスはそれを聞いて、目を細め「はい」と力強く返事をした。エマは嬉しくて、嬉しくて、アビスが病人だということも忘れて言いたいことを捲し立てた。
「もうエマの前で隠し事禁止だからね?」
「はい」
「エマの気持ちも置き去りにしちゃダメだよ?」
「はい」
「エマのこと置いて勝手にどっか行かないでね?」
「はい」
「じゃあ……これからはエマとずっと一緒にいてくれる?」
「――はい、喜んで。私はあなたと共に」
優しく笑うアビスが愛おしくてたまらなくて、エマはもう自分の気持ちを抑えることができずに、椅子から勢いよく立ち上がりアビスの首元に思い切り抱き付いた。途端、鼻をついたのは病院特有の薬品の匂い。でも、その首元は温かく、アビスに血が通っているのをエマに認識させるのには十分であった。生きて、エマと一緒にいてくれる。もうどこにも行かないと、自分とずっと一緒にいてくれると言ってくれたのだ。これがどれほど嬉しいことか、それはエマが一番待ち望んでいた答えだった。
「あのエマ、苦しいです」
「わわっ、ごめん! つい……!」
「フフッ、いいですよ。では……私からも一ついいですか?」
アビスは可笑しそうに笑って、一呼吸置いたあとにエマをすっと見据えた。さっきとは裏腹に真剣な表情を携え、エマを見つめる瞳は澄んだ深い海のように綺麗で、目を逸らすことなど到底できないほどに美しかった。エマは息をするのも忘れ、アビスを見ていた。今度はきっとエマが返事する番なのだろう。
「エマ、私は……あなたをもう泣かせないと誓います。だから」
アビスの続きの言葉を待つ、エマの手のひらにはジワリと汗が滲み、ドクンドクン……と心臓が刻む鼓動は最高潮に達していた。その信じられないくらいにエマ自身から発せられる爆音は、もはやこの病室に響き渡っているのではないかと錯覚するほどであった。思わず自分の心臓を掴むように、エマはシャツをグッと握りしめた。
「――私だけの大事な人になってもらえませんか」
「……はい!」
これ以上、心臓の爆音が続けば先に天に召されるのはエマの方かもしれない。でも、都合よくここは病院ということを加味すると、助かる可能性は高い。いや、そもそもアビスの腕の中で召されるなら逆に助からなくてもいいかもしれない。ああ、もう何が何だかよく分からない。――よく分からないけど、今この瞬間エマが幸せってことだけは分かるよ。急に全身の力が抜けて足に力が入らなくなり、ふらりと前に倒れればアビスが支えてくれて。
「フッ……これじゃ、どちらが病人か分かりませんね。困った子だ」
「どう考えてもアビスくんのせいでしょ……ねぇ、好き」
アビスに支えられたまま、見上げるような形で溢れ出る好意を伝えればアビスは見るからに、動揺していて。
「! ……きゅ、急に言わないでください!」
「なんでよ〜! 好きって言うよって言わなきゃダメってこと? ……というか前も、エマ好きって言ったじゃん」
「あ、あれは、そのそういう関係になる前というか、意識する前であって……!」
「アビスくんだって、自分から言ってくれたし」
「それは……伝えようとしたと言うよりか、つい気持ちが溢れて口をついて出てしまったんです!」
「それくらい必死だったんだ?」
「ハァ、あなたも意地悪ですね……そんなことを聞かないでください」
透き通るような白い肌を赤らめて懸命に話すアビスは、エマの視線に気付いたのかふいと下を向いて。おそらく照れているのを見られたくないのだろう。気持ちはわかるが……そんなチャンスをみすみす逃すことがないのがエマという人間である。ごろりと左側に体を倒し、下から覗き込めばバッチリ目があって。
「み〜ちゃった。アビスくんてば可愛いね、好きだよ、大好き」
「――っ! あぁ……もう勘弁してもらえませんか」
「ダメ。エマは好きの気持ちでさえ、お見通しなんだから」
「じゃあ私の気持ちは伝わってますよね……」
「伝わってても、言って欲しい時があるんだよ、女の子には」
お願いするように伝えれば、アビスはもう逃げられないと思ったのだろう。「仕方ないですね……」と諦めたように応じてくれて。
「世界中の誰よりも、わがままなアナタが――愛おしくてたまらないんです」
「つまり?」
「大好きってことですよ! もう!」
拗ねて窓の方を向くアビスの脇腹をつつけば、ヒッと変な声をあげてすぐにジトッと睨まれた。くすぐったかったんだ、可愛い。
「こら、病人を大事にしてくれないなら追い出しますよ」
「アハハッ拗ねてる〜、でもエマは嬉しいよ……ありがと」
嬉しいのに涙が出てくる人間の構造は不思議だと思う。でも、隣で好きな人が好きと言ってくれて、笑ってくれて、拗ねたり、怒ったり、色々な感情を見せてくれる。これほどまでに幸福なことがあるんだろうか。最初の触れたら鋭く切れてしまいそうな……でも反面、ガラスのような脆さが感じられた彼とは――まるで別人のようだ。エマの頬を伝う涙を、拭ってくれたのはアビスの綺麗な指だった。
「今日はハンカチじゃないんだね」
「ごめんなさい……持ち合わせていなくて」
「いいよ、愛情感じるもん」
「それよりも……私は先程、アナタを泣かせないと誓ったばかりなのですが……本当に泣き虫ですね、エマは」
そう言って苦笑するアビスが震え出したのは――すぐのことだった。気づかなかったが、確かに涙を拭ってくれる際に直接エマに触れている。
「アビスくん……困った子は君の方だと思うけど……」
エマに触れる指先をベッドにそっと戻してやれば、アビスは振動するのをやめた。ベッドごとガタガタ揺れてたから、知らない人は地震だと思うだろうな。もういい加減慣れたが、もう恋人同士なのだからアビスには耐性をつけてもらわないといけないとエマは思った。
「……そういやアベルくんは?」
「! ……はい、アベル様も怪我をしていましたが……わざわざ私を病院まで運んでくださいました」
「そっか……。アベルくんの目的は当然ながら達成、できなかったんだよね」
既にレアン寮の
アビスの悔しそうな顔は後悔しているからか、目的を果たせなかったからか―― エマはその事には触れなかった。
「……アベル様はあくまで
「うん」
「アベル様も本当はお母様のような優しい人間が平和に暮らせる世界をつくりたかっただけ……それを分かっていながら私は……」
エマはそっと自分の胸にアビスを抱き寄せて、言葉を紡がせなかった。アビスのせいではないと言いたかった気持ちは伝わっているだろうか。実際の胸の内は――彼にしか分からない。
*
エマが帰ってアビスは病室で一人になった。一人になると話し相手がいなくなるからか、急に静かに感じるのはもちろん、やけに部屋が広く感じる。布団の上に両腕を出し、手のひらを握って開いてを繰り返すとつい先日剣を握っていた感覚が思い返される。
にしても、
――今から僕がその目に意味を持たせると言ってるんだ。ついてこい。
アビスはゆっくりと目を閉じて、無力で情けない自分を呪った。期待に応えられないどころか、守れもしない不甲斐なさでどうにかなりそうだった。自分を落ち着けるために、飲み物でも買いに行こうと思い立ち、松葉杖に手を伸ばしたところに――それはあった。あったというよりかは、括り付けられていたが正しいかもしれない。松葉杖に括られていたのは何やら薄桃色の紙らしきもので。アビスが不審に思い、括り付けられているのをほどけば、それは単純に細く折りたたまれた便箋であった。
「なんでこんなところに便箋が……」
折りたたまれた便箋を丁寧に開いていけば、差出人は今日恋人になったばかりの彼女からで。可愛らしい文字が一枚の便箋にびっしりと並んでいるのを見ると、自分に向けて書きたいことがたくさんあったのだろう。一枚にまとめるのに相当苦慮したに違いないとアビスは苦笑いし、引き出しの上の証明のスイッチを入れ、その便箋に目を落とした。
――愛するアビスくんへ。これを読んでいる君はきっと元気がなくて落ち込んでるでしょう。なんでわかるか? そりゃエマってばエスパーだから!
「フフッ……なんですかこれは」
手紙でさえもエマらしい始まり方に、声が勝手に脳内再生されてしまうのはもう仕様と言ってもいいかもしれない。
――優しいアビスくんはいつも自分より、大切な人を優先してしまうでしょう。本当に……思わず妬いてしまうくらい、アビスくんはアベルくんのことが大好きだから。
「……そうかもしれませんね」
―― エマの勝手な持論だよ。きっと、一緒に道を誤ってくれる人が彼にはきっと必要だったと思う。だって、正しいだけのモノサシじゃ測れないことがこの世にはたくさんあって……何かを変えるには力がいる、力を得るには犠牲は必然だもん。
「……」
――どうしても譲れないものがあって、叶えたいものがあって、そこに確固たる意志があったなら二人とも間違ってないよ。エマは、そう思う。だから、自分のことあんまり責めちゃダメだよ。
最後に、「二段目の引き出しを開けてね、エマ」で締めくくってある手紙は、じんわりとアビスの心に染みていくには十分過ぎるほどだった。間違っていない――でも、肯定も否定もしない。その優しさがアビスは嬉しかった。肩からさらっと前に落ちてきた長い髪を耳にかけ、アビスは手を伸ばしてエマの指示通りに二段目の引き出しを開けた、はずだった。おかしい、さっき一段目の引き出しを開けた時はこんなに固くなかった。何かが引っかかって開かなくなっている。嫌な予感がして、そっともう片方の手で押さえながら開ければ、そこにはお菓子がギチギチに詰まっていた。
「なんだこれ……」
カントリー・ママアズの「ピスタチオ&ベリー味」、これは確かエマが好きなシリーズのお菓子だったはず。よく自分を追いかけている時に抱き締めていたのが印象的で、アビスは覚えていた。『ひとつは毒マムシ入り! トリプル・リスキー・キャンディ』、これは病人が食べても大丈夫なのでしょうか。あとは『カリっと二度揚げサラマンダー揚げせん』に『カレー香るごちそうハートチップス』、『キューピッド・グミいまだけ魔力2倍』。よくもまぁ、こんなに集めたものだ。しかもぜんぶ期間限定とは…… エマのお菓子へのとめどなく溢れる愛を見せつけられたようでアビスは苦笑する。それよりも、今のこの惨状だ。一人じゃとてもじゃないが食べきれない量のお菓子ともに病室に残され、アビスは途方に暮れてはいるが――元気になって欲しいという意味で差し入れてくれたお菓子達はしっかりその役目を果たしてくれたと言えよう。確かに、お見舞いに来る荷物にしてはリュックがパンパンだとは思ってはいたが……今度からは注意してみるようにしなければ。無理やり閉まっていた引き出しを、また無理やり閉めてアビスはゆっくりと横になった。
――にしても。エマはいつアビス宛に手紙を書いて松葉杖に括りつけ、引き出しにお菓子を入れたのだろう。油断も隙もない
*
――アビスの退院間近となった。「若いから自己治癒力も高いし、回復が早いよ」と医者には言われていたものの、確かに言われるだけあって日々体が回復していくのをアビスは感じていた。自分的には大分、調子も戻ってきてこれならすぐに復帰できそうだと気持ちを新たにしていた。アベルの役に立つのと同時に、エマとの関係性の進展も……。そんなことを考えていた矢先、自分の病室をトントンと叩く音が聞こえ、顔を覗かせたのは丁度、頭に浮かべていた人物であった。
「おや、アビスくん今日は顔色いいね。大分良くなった?」
「はい、もう明後日くらいには退院できそうです」
「そうなんだ、良かった」
そう受け答えをするエマを見て思ったことがある。惚気になるかもしれないが――彼女が可愛いということだ。いや、彼女が可愛いのはいつもなのだが、きらきらして見えるのはなぜなのだろうか。前回と言っても一週間も経っていないが、恋人になってからは初めての逢瀬……いや、お見舞いを逢瀬というのはおかしいかもしれないにしても、恋人になる前となった後で見え方がまた変わったような気がするのはどうしてかさっぱり分からない――アビスは頭を抱えて一人で混乱していた。
「わ、どしたの。急に顔色悪くなったけど!」
「あの、もし分かったら教えて欲しいんですが」
「エマに答えられることなら、なんでも」
エマは両手の拳を、自分の胸の前に持ってきてグッと握った。彼女なりの役に立ちたいという意思表示なのだろう。それがもう既に可愛い。ぼーっとエマに見惚れていれば、何にも言わずに黙ったアビスが心配になったのか、エマは目をパチパチさせて困ったように首を傾げていて。これも可愛い。何だこれは、病気か? 病気なのか? 本当はまだ退院できないのではないだろうか……? だってこれじゃ、まともに会話すら出来ないじゃないか。アビスは落胆した。
「あ、あの、アビスくん……大丈夫?」
「いや……その……息が苦しくて……」
「た、大変! 看護師さん呼ぶ!?」
アビスのベッド横のナースコールに急いで手を伸ばしたエマの手を静止し、「大丈夫ですよ」アビスは笑顔を作った。
「全然それ笑顔じゃないし、辛そうなんだけど!」
前回、自分がエマとどう会話していたのか思い出せない。そもそも、こんな愛くるしい子に、自分はどうやって思いを伝えたのだろうか。エマの琥珀色の瞳がアビスの心の内を透かすようにきらめき、またときめかせる。ダメだ、意識すると余計に話せなくなる。アビスは座っているエマに、背を向けるように話を始めた。
「……付き合うと、彼女がますます可愛く見えるものでしょうか」
「うぇ!? 突然……な、なに、その質問。彼女が可愛いかどうか……って、エマは男の子じゃないしな……」
このままでは答えてもらえない。アビスはその時、その場でどうしても参考意見が欲しかった。
「いいから答えてくださいっ!」
「や! 急に強いな! ……ん、んーと……でも、愛しく思う気持ちが増して、可愛く見えることはあるんじゃない?」
エマの手振り身振りも表情も見れないのは惜しいが、仕方ない。彼女の何を見ても可愛く映してしまう自分のおかしな瞳に、蓋をするしか今は手立てがないのである。そう――既にアビスは瞼を閉じていた。
「つ、付き合っただけでですか? 名目上のステータスが友達以上恋人未満から、恋人になっただけですよ……別に恋人になる前も同様の気持ちがあったわけで、その……」
「いやいや、アビスくん! 付き合っただけって……それは違うでしょ! 名目上のステータスを恋人にランクアップさせるのにどれくらい勇気と時間と労力がいることか!」
「あ、えっと、それは違くて……! その人を好きな気持ちは変わらないし、映る姿も変わらないはずなのに、恋人になる前と後できらきらと輝いて見えるのはなぜだろうと思っただけなんですが――」
「それってエマが、そう見えるってこと?」
はいと言いかけたその瞬間に、クイッと右腕の病衣を引っ張られたので目を開けてエマの方を見れば顔が真っ赤になっていて。
「そういうのは……あんまり具体的に言わない方がいいかもね……?」
「……」
「……」
その時トントンとまたノックをして入ってきたのは、またもやアビスが頭に浮かべていたもう一人――自らが忠誠を誓うアベルであった。
「ちょっと君達、病室の外にまで聞こえるくらい大きな声で話すのはやめてくれるかな。その部屋に入る僕が恥ずかしいんだが……って、この空気何……? 喧嘩でもしたの」
確かにアベルからすれば、さっきまでボリュームなど気にせずに話していた二人がお互いに下を向いて目線も合わせず、沈黙。かつ、顔を赤くしているのは異様な光景であろう。でもアビスも、そしてエマも相手の出方を伺って口を開けなくなっていた。
「僕はこれから……この二人の間に挟まれていかなきゃいけないのか。先が思いやられるね、母さん」
アベルは聞こえるか聞こえないかぐらいの声でボソリと呟き、悟ったようにため息を吐いた。