3.ふたりとの鮮烈な出会い〜アベル編〜
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次の日――。
アビスはその場で静かに息を吐いた。エマ・カルネはなぜあんなに――自由奔放なのか。怖いもの知らずにも程がある。だから、目が離せないのかもしれないが……。アベルが人形にした生徒から魔力が吸い取っている最中、アビスはアベルに話しかけた。
「アベル様」
「……なんだい? アビス」
ビカビカと激しく光る紫色の閃光は、振り向いたアベルの顔を怪しく照らす。
「昨日の彼女の事なのですが……」
「あぁ、あの君が連れてきたウサギかい?」
特に気に留める様子もなく、アベルは作業を続ける。
「差し出がましいお願いとは重々承知の上ですが……何があっても手を出さないと約束してもらえませんか?」
アビスが意を決してそうお願いすれば、アベルは少し眉間にシワを寄せた。
「……まるで僕が手を出すと思っているような口ぶりじゃないか。不本意だな」
「すみません。……そんなつもりはないのですが」
「フン……いいよ。聞こうか」
アビスはアベルに対してどう話したものかと悩んだが、素直に言葉を選ばずに伝えることにした。
「あの子はちょっと変わった子で、物怖じしないというか、突拍子もないことをしでかす子でして……もしかしたらアベル様にも危害を加えるのではないかと」
「ん? ……君はいつからあの子の母になったんだい?」
母――。確かに今、アビスがお願いしていることはそう思われても仕方ないことかもしれないと自分を恥じた。しかし、アベルのことは信じていても、彼女が何か失礼なことをしでかす可能性は大いにある。そう考えると先回りをせずにはいられなかったのだ。
「そうだな……ただ君のお願いを聞くんじゃ趣きがないから、ゲームをしようか」
「ゲーム、ですか?」
「ここに、さっき銀が5枚集まってできた金の級硬貨 がある」
アベルの手できらめき、自らも光を放つそれは紛れもなく、イーストン魔法学校の全生徒が喉から手が出るほど欲しい金の級硬貨 そのものであった。
「これでコイントスしよう。僕がコインを飛ばして、表か裏をアビスが予想する。それで当てられたらいいよ」
「……? 、わかりました」
アベルはアビスの同意を得たその瞬間に金の級硬貨 を高く飛ばした。光を反射しながら、飛んだ級硬貨 は高く宙を舞い、アベルの左の手の甲に乗り、すぐ右手に包まれた。
「さぁ。表、裏、どっち?」
「……裏」
アベルはその答えに頷き、自分の右手をゆっくりと上げ、手のひらを裏返して見せた。
「よく分かったね、当たり」
――その答えにアビスは思わず笑ってしまった。コイントスを提案された時から既に笑いそうではあったが、我慢できなかったのだ。なぜなら、両面に同じデザインが描かれているイーストンの級硬貨 には表も裏もないからだ。
「フフッ、アベル様……あなたも人が悪いですね」
「茶番過ぎたかい? ……だって、別にそれくらいのことなら君が僕に結果を出していることに対しての正当な見返りだと思うから。――で、話はそれで終わりかな」
「はい」
「じゃあ例の件、頼んだよ」
アビスの返事を待たずに、アベルは出口へ向かってスッと歩き出した。きっと魔力が十分に供給されたのだろう。遊び心がある七魔牙 の首領と第二魔牙 の会話を聞いていたのはびっしりと並ぶ、人形化した生徒達だけであった。
*
「どうしてこんなことに……」
沸いたお湯を紅茶の茶葉を淹れるにふさわしい温度まで調整し、ティーポットに注ぐ。フワッと鼻をくすぐるベルガモットの香りが普段なら心地いいが、今はなぜか縋りたくなるような気持ちにさせる。アベルがお茶を用意するに至る経緯は寸刻遡る。
*
ここはレアン寮のアベルの部屋――。
他の七魔牙 達の活躍もあり、アベルの手元には大量に級硬貨 が集まってきていた。テーブルに並べて高く積み上げれば、神覚者への道のり――アベルにその高みへの階段を連想させた。あくまでも級硬貨 を集めるのは、不純物のない世界を作る為の手段でしかない。椅子に深くもたれかかり、アベルは次なる作戦を考えようとしていた。
その時だった。不躾にドンドンと自分の部屋の扉を叩く音が聞こえたのは――。もしかして、という気持ちとそうであるな、という相反する気持ちが胸を渦巻く。開いたドアの前に立っていたのはアベルの予想通りの人物だった。
「あの、今暇ですか?」
アベルを恐る恐るといった感じで上目遣いで見上げる彼女は、紅茶に濃厚なミルクをたっぷりと入れたような髪色とふわふわな髪質が特徴的で。
「……時間ありますか? は分かるけど、暇ですか? はダメなんじゃないかな。なぜなら僕は忙しくて、君に構っている時間はないから」
「同じ意味なのに、あなた細かいねぇ」
両手の平を上にして首を横に振る彼女は、確かエマ・カルネと名乗っていたはず。自分の不躾けな態度を棚に上げて、やれやれじゃないんだよ。
「それに、僕とほぼ初対面に近い形でタメ口をきくなんて随分勇気があるね」
「そうかな? あんまり言われないけど……ありがとう」
どうやら嫌味が通じない人種らしい。
「ハァ……で、か弱いウサギ風情が僕の部屋に何の用だい?」
アベルは内心イラッとしていたので、冷たく睨みながらエマに用事を聞いた。――わざわざ、自分の部屋を探して会いにくるくらいだから何かしらの用はあるのだろう。
「話したくて」
アベルの態度に関して、全く意に介さないようなけろっとした様子でエマはそう言った。
「……なぜ?」
「――あなたと仲良くなりたいから」
エマが自分を見る真っ直ぐな瞳から、強い意志が伝わってきて、アベルは自身の唇に手を当てた。狙いは何だ。神覚者を目指すなら級硬貨 ? イーストン内での権力が欲しいならまずはレアンでの地位? それとも自分の道具であるアビスの事か? 考えれば考えるほど、アベルには分からなかった。
「僕に媚びて取り入ろうとするつもりなら甘いよ。……生憎、僕はそういう事に一切興味がないからね」
「フッ、アベルくん何言ってんの? エマは誰にも媚びたりしないよ」
面白そうに笑った彼女にアベルは面食らった。この子は何を言っているのだろう。そしたらますます仲良くなるメリットがないじゃないか。
「いいよ……僕のことをそんな馴れ馴れしく呼ぶことに敬意を表して、話くらいは聞こうじゃないか」
「お! いいね、じゃあ部屋入ろう。エマね〜、お気に入りのクッキー持ってきた」
アベルのことを君付けで呼ぶ者など校内にはいないにも関わらず、「おじゃましまーす!」とそのアベルの部屋にすら何の恐れもなく侵入し、自分主催でお茶会すら開こうとしている。この子は、一体何なんだ。
「……あの、ここ僕の部屋なんだけど」
当たり前のことを当たり前にエマに伝えるだけで、その時のアベルは精一杯であった。
*
「アベルくん、紅茶入れてくれてありがとう!」
「君のために入れたわけじゃないよ」
紅茶を入れたのは自分の今の状況を整理して落ち着きたいからに過ぎない。――結局、部屋にあげてしまった。いや、侵入されたが正しいだろうか。事実、不法侵入と呼ぶにはくつろぎ過ぎているエマを見て、自分がおかしいのかとさえアベルは思っていた。紅茶に口をつける目の前にいるエマは、熱かったのか息を吹きかけて熱を冷まそうとしていて。
「美味しいけど、やっぱり猫舌のエマはアイスティーのが好きだな。すぐ飲めるし……」
「あのさ」
「何でも聞いて!」
何でアベルの方が聞きたい方の立場になっているのかは理解できないが、今はそんなことを指摘しても仕方がない。
「君はどうして僕と仲良くなりたいの?」
そう聞けば、エマは驚いたような表情をした後にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そういうとこ、アビスくんとそっくりだね! 難しく考え過ぎて、意味聞いちゃうとことか」
「は? 何言って……」
「まぁ、本音を言うとさ…… エマ的にはね、アベルくんと仲良くなっちゃえば全部解決なの! その人と仲良くなりたいなら、まずはその人を知れってね。だから押しかけちゃった」
解決、何のことだ。意図するものがわからないと不安になるのは当然の感情である。そして押しかけたという自覚はあるんだ。
エマは紅茶に砂糖を入れてくるくるとかき混ぜながら口を開いた。
「アビスくんがさ――アベルくんとエマの狭間で揺れて、辛そうだから……わたし達が仲良くなれば解決じゃない? って思ってさ」
「なるほど。この間、僕は君のことを少し頭が劣っていると言ったけど訂正しよう。――とても頭が劣っている、にね」
僕とエマの狭間で揺れている、に対しての結論がどうしてそういう話になるんだろうか。
「あー! またそういうこと言う……でも分かってるよ、アベルくん本当は悪い人じゃないでしょ」
じっと見てくるエマの目線が鬱陶しくて、アベルは目を逸らした。
「良い人とか悪い人とか、自分にとっての評価でしかないだろ。……そもそも、君からしたら僕は恋路の邪魔者でしかないと思うんだけど」
エマは自分で持ってきたというクッキーを広げて、サクサク食べながらアベルの話を聞いていた。マイペース過ぎないだろうか。
「恋は障害があった方が燃えるって言葉があります。そもそも……アベルくんのが先でしょ。アビスくん救ったの。アベルくんにとってのアビスくんって何?」
「そんなの……決まってるだろう。道具だよ。利用価値のある道具」
淡々と言い放てば、エマはむっとした表情になって。なぜ彼女が顔を歪ませる必要があるのだろうか。だって、悪魔の目を持つ人間を傍におけば、都合がいいじゃないか。
「そんなこと言っちゃダメ!」
「フッ……悪魔の目を持つ者のできることは限られてる。だったら力のある者が、それらを有効活用してあげるのが使い道としては一番正しいだろう」
「本気で言ってるの?」
「本気も何も、事実だよ」
瞬間、エマの張り手が飛んできて、アベルの左頬でぴたっと止まり、その手は勢いなく頬に優しく触れた。目の下を親指で拭うように動かし、そのまま静止したエマの小さな手からは、じんわりと感じ取れる熱が頬を介してアベルに伝わって。――はたかれるより痛く感じるのはただの気のせいだ。
「アベルくん、そんなこと言っちゃだめ……。ね? お願い」
「……二回言うな」
今にも泣きそうな顔で琥珀色の瞳をうるうるさせるエマに、あのアベル・ウォーカーという男が戸惑っている。人の為に、しかも皆に忌み嫌われる悪魔の目を持つ者の為に、心を痛めているをエマ見て――きっと物好きなただの馬鹿でしかないのに。
「所詮は赤の他人だろう。なぜそこまでする?」
「え〜……そんなこと考えたこともなかったな。アビスくんが好きってのはもちろんだけど……」
言葉を選ぶようにエマは続けた。
「エマ達はたまたま恵まれて生まれてきただけで、悪魔の目を持って生まれてくるのが自分だったかもしれない。――ほら、相手の立場になって考えたら、少しだけ優しくなれる気がしない?」
アベルは思わず目を見開いて目の前の女の子を穴があくほどに見つめた。いや、見つめざるを得なかった。アベルが手に抱き抱えて大事にしているそれと、神覚者になる目的である理由の全てが今、ピースのようにはまったからだ。――アベルは、自らの母のことを思い出していた。
「そんなの綺麗事だ……」
「綺麗事が世界を変えるってエマは信じてるよ。ずっと一人ぼっちで、寂しくて生きているのが辛かったアビスくんを救ったのはアベルくんでしょ。嬉しかったと思うな……アベルくんにそんなつもりはなかったとしてもね」
どうして、心が乱されるんだ。勝手に入ってきて、何も知らないくせに、勝手に好きなことを好きなように言ってるようなこの子に。アベルは唇を強く噛んだ。血が出るほどに強く。母さん――理想を語ることはできても、力がなくては何も変えられないんだ。アベルの薄い唇から静かに流れた血をエマは自分のハンカチで優しく拭って、「アベルくんも随分不器用だね」と言って笑った。なぜ、突き飛ばせないんだろう。ズキズキと痛み始めた傷とともに、アベルは自分が心底嫌になった。
「ねぇ、唇が赤いのってどうしてか知ってる?」
「? ……何、突然」
驚くくらいに唐突な話題転換に、アベルの頭にはてなマークが浮かぶ。
「人の口腔内や唇の粘膜にはメラニン細胞がない。かつ、唇の粘膜は角層が凄く薄いの。だから血管内の赤血球、ヘモグロビンの赤が透けて見えてるんだって」
「知ってるけど、何が言いたいの」
「だから……唇って他の部位より血を流すと痛いだろうし、そうやって自分のこと傷つけて欲しくないなって。あ、でも唇が赤いのって人間だけで、理由はまだ分かってないらしいよ……愛情表現の発達のためって提唱している人がいるけど本当にそうだったらいいよね」
「……どうして」
「だって夢あるじゃん。伝えるために口から愛を吐いて、表現するために口付けから愛を交わす。そのために、唇を魅惑的な赤になるようにしてたらさ、ちょっと素敵じゃない?」
頬を少し染めて俯きながら彼女はそう言った。愛なんてくだらないものをこの子は――本やメロドラマの見過ぎじゃなかろうか。でも、本人は多分、思ったことを思ったように言っているだけだ。びっくりするくらい、表裏一体。アベルは今更ながら、アビスの「ちょっと変わった子で、物怖じしないというか、突拍子もないことをしでかす子」という言葉を思い出していた。――何があっても手を出さないと約束してもらえませんか、ね。理解したよ。警戒していた僕がバカみたいじゃないか。アベルは自分の緊張が緩み、気持ちがほぐれていくのを感じていた。
「もう一杯飲むかい?」
「飲む!」
「ところで、アビスとはどうなったの」
気になっていたことをエマに直球に聞けば、紅茶を飲んだ後にゴホゴホと盛大にむせていて。いい気味である。
「おかげさまで! 恋人になる予定が遠のきました……」
エマは、自分のせいとでも言いたげな恨みがましい視線をアベルに向けた。跳ね返すように手で払えば、頬をむすっと膨らまして。
「心外だな、別に僕は何も言ってはないよ。アビスが自ら考えて、自分の意思で行動した。ただそれだけのことだ」
「それがエマよりもアベルくんの方が大事っていう確固たる証拠じゃん……!」
「残念だったね。アビスは君よりも僕をとったということだよ」
本当に悔しそうに顔を歪ませて、テーブルに顔を突っ伏したエマは足をバタバタさせて、唸った。
「う〜っ、改めて言われると傷つく〜……アベルくんなんか嫌い……アビスくんに愛されてずるい……羨ましい!!」
「早いもの勝ち」
「アビスくんはものじゃない……神様は不公平だ……」
勝利の味というのは、いつ何時も格別なのである。最後のクッキーにそっと手を伸ばしたエマの手をはたけば、更にガックリと彼女は肩を落とした。
「君といると調子が狂うよ」
「……じゃあ、狂ってるついでにさ、何で神覚者を執拗に目指しているのか教えてよ」
アベルは手元の人形を見つめ、俯いた。何も関係ない、ましてや自分の視界の端にも普段なら入らないような人間に――教える必要があるのだろうか。
「教えない」
「あー、なるほど……アベルくんって秘密主義?」
「そういうわけじゃないけど、君には教えたくない」
「じゃあ、当ててあげようか」
エマは一口紅茶を含み、不敵に笑って人差し指をアベルに向けた。
「実は――誰もが平和に暮らせる世界を実現したいから、だったりして」
自信たっぷりにエマから放たれた言葉は、少し開けた窓から入ってきた爽やかな風にかき消されたかのように思えたが、アベルの耳には届いていた。
どうして……と思わずにはいられない。そんなアベルの複雑な感情が表情に出ていたのだろう。エマはテーブルに頬杖をついて、ニンマリと口角を上げた。
「その表情は正解と捉えてもいいよね。当てずっぽうでも案外当たるもんだね〜」
ケラケラと嬉しそうに笑うエマとは対照的に、アベルは心中穏やかではない。
「…… エマってば、こういう時の勘はいつも外さないんだ。やっぱり、アベルくん悪い人じゃないじゃん」
「――もうそれでいいよ。面倒だから」
「拗ねてる?」
こんな事で拗ねてるなんて言われたらこちらもたまったものではない。どうせ分からないだろうという気持ちでアベルは問うた。
「拗ねてない……。ハァ……あのね、僕はこの世界を本来の姿に戻したいんだ。君は、人間が何故栄えてきたか分かるかい?」
「え〜、みんな仲良しだったからじゃない?」
なんて――知性の欠片も感じられない回答。能天気にも程がある。アベルは呆れながら首を横に振った。問う相手をやはり間違えたと思うと同時に、質問をした事を後悔した。
「全然違う……。むしろ逆、弱い種から奪い利用し貪ってきたからだ。だが、今の社会はどうだろう……? 弱者の平等……真の平等……慈悲の心……。戯言だよ……」
「戯言か〜」
「世間は目をつむり見ようとしないんだ。真実をね……我々の本質は獣だ」
目をぱちくりとして、理解しているのかしていないのか、目を瞬かせたエマは「獣……」と呟いてまた一口紅茶をすすった。
「人間社会においても弱きは奪われ、利用され淘汰されゆくべき……我々のような高次な存在だけが栄えていく。それが自然の理だ」
「つまりそれは……」
アベルはごくりと唾を飲み込んだエマの次の言葉を待っていた。
「獣同士、みんな協力しようよってこと?」
――今の話を聞いて、そんなわけあるか。
「君は……本物の獣かもしれないね」
「アハハ、何それ面白い! でもエマ、猫舌だしそういうとこ確かに獣かもしんないな〜」
最大級に貶しているのに、まるで通じておらず、それどころか楽しそうにケタケタと声をあげて笑っている。その頃には自分でも驚くくらい、アベルはエマに毒気を抜かれていた。
――彼女にはもう何を言っても、無駄だと。
「でも実際……アベルくん、わたしなんかがやめなよって言ったってやめないでしょ」
自分の長い髪を指でくるくると弄びながら、エマは小さい声で呟いた。
「――あぁ、僕の考えは変わらない。底辺弱者は狩られて当然。むしろ狩るべきだ……」
「……わかった、もう何も言わない。だけど全部終わったら……」
エマは頷いて、すっと自分の右手の小指をアベルの方にのばした。何を意味するか分からず、指先の爪を見つめていればエマの手がさらに近くまでのびてきて。
「約束。指切りげんまん、ね。また一緒にお茶会しよう」
アベルは絡めた小指の温もりから、エマの思いでさえも自分に流れ込んでくるような感覚を覚えた。何も言うことができなかった代わりに、アベルはただ小さく同意の意味を込めて頷いた。
*
アベルの部屋を出た直後。エマの内には様々な感情が入り乱れていた。理想を語ることは誰にでもできる。が――結局、力がないと何も変えられない。エマに使えるのは精々、低級の回復魔法ぐらいであった。……正直、あれぐらいのアベルの傷程度なら簡単に治すことは出来たが、敢えてエマはそれをしなかった。
「世の中ってのは……無情ですな」
誰かがお灸を据えてくれることを祈るしかできないなんて。他人任せで、ごめんなさい。でも、二人を救ってくれる人がいるなら助けてください――。
あのアビスが心から慕っている人を、好きにならないはずはないとは思っていたが……アベルに対しての嫌な印象はおろか、純粋に好意の感情を抱くようになっていて。祈るように両手を合わせ、願う自分の弱さをエマは悔いた。
*
アビスとエマが話した日から一週間後――。
アビスはやはり意図的にエマを避けているらしい。見かけることすらなくなったというのは、大袈裟かもしれないが、本当にそれくらいエマの視界に入ってこない。こんなに探しているのに。
思わず口から漏れたため息に、エマの気分は余計に落ちていく。なんか、最近ずっと目的のために校内徘徊している気すらしてくるな。そんなことを考えていた矢先――すっと漂わせた視線の先に、綺麗な束ねられた水色の長い髪がゆらりと揺れるのが見えて。
「アビスくん」
エマの声が聞こえたのか、アビスはエマに気づき、ハッした表情をして、避けるように視線を逸らした。好きな人にこれされるとメンタルやられるな……。でも、挫けている場合ではない。ずっと探していたのだから。エマがその背を掴みたくて追いかければ、曲がり角でアビスは音もなく消えていた。そもそも、アビスの呪文がある限り、エマが追いかけっこで勝てるわけはないのだ。
――次、私のことを見かけたとしても、その時は他人です。私のことは、忘れてください。
そう言ったアビスの悲しそうなその笑顔が鮮明に思い出されて、エマはその場にうずくまった。どのくらいそうしていたんだろう。エマは後ろから声かけられるまで、その場に自分のことを立って見下ろしてる人物がいることなど全く気が付かなかった。
「初めて会った時も、アナタはそうやって廊下で座り込んでいましたね。――具合が悪いなら保健室に連れていくくらいはしてあげますが」
前と今じゃ、状況と気持ちが違う。そもそも、あの時は自分の意思でくつろぐために座ったのだ。座り込んでなんかいない。
「……またそうやって優しくする」
振り向かなかったのはその人が誰か、分かっていたから。
「それはその……寝覚めが悪いので」
自分で避けた手前、バツが悪いんだろう。声が尻すぼみになっている。
「なんで戻ってきたの……関わらないって決めたなら貫きなよ。次会った時は他人なんでしょ」
エマが冷たく突き放せば、一瞬沈黙が流れて。
「……仕方ないでしょう。そうしたくとも、もう身体が勝手に動いてしまうんですから」
ほら、なんでそっちが困ったように言うんだ。
「……まるでエマのせいみたいに言うじゃん」
こっちが拗ねることしかできなくなっちゃうじゃないか。
「えぇ、そう聞こえるように言ってますが。それに人間、そんなに単純だったら苦労しませんよ」
……きっとあの時だって色々な場面で、簡単にわたしから逃げられたのに。たった一言、呪文を唱えるだけで、逃げられたのに。なのに、あの時も今もエマを本当に避けなかったのはどうして?
「なぜ泣いているんですか……? まさか、本当に具合が悪いんじゃ……!」
ほら――こうやって背中をさすってくれる優しいアビスが大好きなのだ。避けたくせにうずくまったエマの様子を心配して、わざわざ戻ってきてくれる優しいアビスが。ちょっとは伝われ……このもどかしさが! エマは自分でも驚くくらいに気持ちが昂っていた。
「本当にどうでもいいとか、迷惑とか思ってるなら中途半端に助けたりしないでよ! ……もう、アビスくんのそういうとこが……っ」
いつから自分はこんなにわがままになっていたのか。そしてこの人の前で何度涙を流せば気が済むのか。ポタポタと頬を伝って流れ落ちていく雫はエマの黒のスカートに染み込み、シミを作った。
「エマ、私の気持ちは伝えたはずですよ」
言い聞かせるように言うアビスの気持ちは分かっている。分かっていても――その通りにできない、いい子にできない時だってあるのだ。
「……だからって遠ざけられると、傷付くの! エマだっていつもヘラヘラ笑ってるわけじゃない! アビスくん、エマに聞いたじゃん。必要かどうかって……」
抱える膝と自分の額がぴったりくっつくように体育座りでますます体を小さく縮こませる。こんな事がないと、アビスに逃げられてエマは今、甘えることすら出来ないのだ。行き場のない好きなんて、何の役にも立ちやしない。
「エマってば、もうアビスくんいないとダメな子になっちゃったんだよ、責任とってくれなきゃやだよ……」
アビスは今どんな顔をしているんだろうか。黙って話を聞いてくれているのは分かる。
「好きで好きでたまらなくて、もうどうしようもなくて、エマってばもう……ダメみたい。ハハッ……あなたがいない世界なんて今更考えらんないよ」
もし、「借りてはいけない力」のせいで、その代償として――アビスが戻ってきてくれなかったらどうしよう。この間の話を聞いて喉に小骨が刺さったようにエマはその事ばかりを考えてしまっていた。
「アナタの言うことはわかりました。今、エマの話を聞いて思ったことを正直に言ってもいいですか?」
アビスはエマの目の前に回り込み、しゃがみこんでエマの高さに視線を合わせた。それからアビスはそっと仮面を外して床に置き、エマをじっと見つめて。廊下の中央で、生徒が二人しゃがみこんで話をしているのだ。他の者から見たら異質だろう。でも、当の本人達にそんな事を考える余裕はなかった。
「非常に言いにくいのですが」
「……うん」
エマがこんな奴だと知って、呆れられてしまっただろうか。アビスの口から聞くのが怖くて、エマは自分のローブの両袖をぎゅっと掴み、しわくちゃにした。それくらいしか縋れるものがなかったから。
「アナタと付き合ってたらこんな感覚なのかなって」
「え……?」
思わず顔をあげれば、しゃがみこんでいたアビスとパチッと目が合った。彼はエマと目が会った瞬間に、照れくさそうに微笑みを浮かべて。
――ストン。エマはわかった。この音はエマにしか聞こえない音なのだと。そうきっとこれが、更に底の見えない深い谷に落ちるような、恋の音なのだ。
その衝撃に呆然として、穴があくほど彼を見つめていればアビスは困ったように両の手のひらで自分の顔を覆った。
「ごめんなさい、つい嬉しくなってしまいました。エマは怒っているのに……いけませんね。私は凄く嫌な奴です」
えーーーー何その反応!? 可愛すぎるでしょ、反則でしょ!!!!
「……訂正して。アビスくんは、嫌な奴だけじゃなくてずるい奴でもあるよ」
アビスの目の前で両手の人差し指でバツを作れば、アビスは優しく微笑んで。
「フフッ……でもアナタは――こんな私をいいと言ってくれるのでしょう」
「あぁもう! またそうやって、エマのこと手のひらで転がそうとする!」
「そうですね……私に身をゆだねてくれるなら、眠ってしまうくらい気持ちよく転がしてあげましょう」
「何それ、もう転がされてることにすら気付いてないじゃん!」
アビスはエマを転がしているようなモーションをして笑っていた。そんな簡単に、簡単に――転がされちゃうんだよね、これが。悔しいことに。
「あぁー……恋ってさ、先に好きになった方が負けなんだって…… エマ、その時点で負けてんじゃんね」
「ふむ、そうですか。エマ、私に勝ちたいですか」
「え……か、勝ちたい」
負けたいか、勝ちたいかという問いが存在するのであれば、勝ちたいと言うのは人間の道理であるだろう。
「仕方ないですね……手を伸ばして僕の頬に触れてみてください」
そんなわけで反射的に勝ちたいと言ってしまったが、何をするつもりなのだろう…… エマは自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。いつの間にか日が落ちてきた廊下の絨毯は、夕日の綺麗なオレンジをこぼした様で――それはきらきらとアビスの頬を照らし、優しい茜色の光は瞳にも映りこんだ。それに吸い寄せられるが如く、エマはその目に映った光を掴むようにアビスへ手を伸ばした。温かいのは夕日のせいか、アビスの体温か。
「……っ、エマは気づいていなかったかもしれませんが、今まで私はずっと布越しにアナタに触れていたんですよ」
アビスの真剣な瞳にエマの潤んだ顔が一瞬映り、近い距離に心臓が早鐘を打つ。あまりにどきどきして、視線を逸らせば触れた手のひらから振動が伝わってきて。振動?
「あ、アビスくん?」
「あわ、あわわ、アワワワワ……」
そう言ったきり、アビスは先程よりも強く振動し、何も話さなくなってしまった。あたりに響くは機械のような振動音のみ。いや、待って、振動音のみってなに……。
「だ、大丈夫!? 」
パッと手を話せば、振動はピタリと止まりアビスは意識を取り戻したようだった。
「か、勝てましたか……?」
「そんな口から静かに血を流しながら言われてもね!」
「大分、アナタに対しては克服したと思っていたのですが、やはり直接は刺激が強いですね……」
軽く咳払いをして、自身のハンカチで血を拭い、アビスは深呼吸をした。そんなに無理しなくてもいいのだが。でも嬉しいと言われたことに対しては当然、満更でもない。
「ちょっとは反省してよ……と思ってたけど、うん……」
最近普通に話せるようになったものだから、この設定があったのをエマはすっかり忘れていた。そう――アビスが女の子に耐性がないことを。アベルに先日指摘されたばかりだというのにいけない。アビスはすっと立ち上がり、エマにローブ越しであるが手を伸ばした。
「……反省はしてますよ、とても」
その布越しの手を握れば、アビスに引っ張られるように沈んでいた心までもが引き上げられるような感覚になって。
「――だって、私のことでこんな風に泣いてくれたり、拗ねてくれたり、色々な感情を見せてくれる一瞬一瞬を、今は見ることができないので」
そんなこと言われて、ときめかないわけがない。エマはそれこそ悲しそうな表情をするアビスが愛しくてたまらなくなって。
「意味わかんない〜! じゃあ付き合えばいいじゃん! ていうか付き合ってよ! 付き合ってください! お願いしますーーーー!」
エマはともかく付き合ってくれと懇願した。それはもうムードやシチュエーションなんてへったくれもなく。エマがアビスに詰め寄ると、アビスは困ったように眉間に皺を寄せて唸った。どこか嬉しそうなのは気のせいではないだろう。
「うーん……イヴル・アイを持つ者にこんなに激しく求愛する人間なんて、きっと世界のどこを探しても君のような物好きだけでしょうね……」
「――あのね、イヴル・アイがあろうがなかろうが、どっちでも好きになってるっつーの……アベルくんの前でも言ったけど、関係ない。エマは、エマは……アビスくんが好きなの。本当、分かってない」
「今まで私は、そういう経験をしたことがないですが……愛されるというのは悪いものじゃないですね」
そんなことは……考えながら真剣な顔で言うものではない。思わずそんなアビスにエマは吹き出してしまい、やっぱり負けてしまったな――と思うのだった。
*
――前方にこの間、不法侵入に近い形で部屋に入ってきた子がいる。アベルは無視しようと思い、曲がる予定がなかったところで曲がった。なのに、ズカズカとその子は歩いてきて、僕を先回りして追い抜き、挙句の果てに通せんぼをしてきて。
「ちょっと君……どういうつもり?」
「どういうつもりもなにも! ……気づいてるのにアビスくんもアベルくんも無視したらやだ!」
「知らないよ……アビスも追いかけ回されてうんざりしてるんじゃないの」
「そ、そんなこと言われたことないし……!」
エマがあからさまに動揺しているのがアベルには手に取るようにわかった。本人にその自覚はないだろうが。
「というか、もう僕の前には現れないと思ってたけど」
チッチッチッと人差し指を振ってエマは否定し、ローブの袂を揺らした。
「ところがどっこいですよ。ふっふっふ……実はエマのこと、気になってたでしょ?」
綺麗事を謳う、力も持たないただの女の子。自分が切るべき、愚かな人間。底辺そのものを切り捨てる自分の考えは変わらない。でも、と踏みとどまり、アベルはエマに聞いた。
「――気になってたって、言ったらどうするの?」
ただの言葉遊びの延長線。これで答えが変わることはないが、なんとなくエマの反応が見たくなっただけだ。
「え! ……嬉しい」
「……嬉しいんだ」
アベルは表情こそ一切変えていなかったが、自分でも驚く感情があった。もしかして、僕、喜んでるのか? そんなわけはない。ありえない。こんな底辺弱者に、僕が――。
「……なんで嬉しいの?」
勝手に開く口から漏れる言葉が、止められない。自分の体なのに、思う通りにならない。いつもは操る側だというのに――アベルは内心焦っていた。
「なんでって、仲良くなりたいし。いや、最初は正直、怖いし嫌な奴だな……って思ってたけど、アベルくん尖ってるように見えて不器用だけで、根は優しいし。話してて楽しいし……後はそうだな、やっぱりすっごくいいよね」
「何が」
エマは一拍置いて、アベルにグッと前に親指を立ててウインクした。それは星が散ったのかと錯覚するくらい潔いウインクだった。
「顔!」
「か、顔?」
もう一度言うが、アベルはイーストン魔法学校レアン寮の監督生である。上に立つ監督生は申し分ない実力があるのは必然で、それすなわち神覚者――神に使える者になりうる資質を持った者である。
自分より下の人間に、ずけずけと失礼なことを羅列された挙句、顔がいいと言われる屈辱。自分の人生において、こんな歯に衣着せぬ物言いをしてくる奴がいるなんて。自分に向けられた言葉に衝撃を受け、沈黙していれば、更にアベルはエマから発せられる次の言葉にショックを受けることとなる。
「何で黙って顔赤くしてるの……。もしかして」
体が火照る感覚に、自分でも意味がわからずアベルは上を見上げて息をフーッと吐き出した。窺うようにこちらをじっと見つめてくるエマに、思わず目を逸らしたくなる。
「……あの、怒っちゃった?」
「……」
アベルは怒ってはいなかったが、どうしたらいいかわからなかった。なのにエマに困った顔をされて、更に困っていた。だから嘘をついた。
「……怒った」
「やっぱり!え〜、エマ怒られたくないな〜」
「……だから、さっさと人形にしてしまおうかなって」
「怒り方、過激過ぎない!?」
「魔力の供給源にしてしまった方が幾分か使えそうだから」
アベルが人形の糸を操るような動作を見せれば、冷や汗をかいて謝るエマは見てて気持ちが良かった。最初からそれくらい、僕を畏れ、敬い、挙げ句の果てに跪けばいいのに。
「アベルくんの質問攻めに、素直に答えただけなのにあんまりだ……」
「いずれはそうする可能性もあるけど……嘘だよ。今は君の不躾な態度に面食らっただけ」
アベルが依然、可能性を残したことでエマは唇を尖らせ、目の前でフードを深く被った。警戒の仕方が獣なみだな。まるでいじめられてすごすごと住処に帰るような、そんな感じ。アベルは少し眉の角度が上がったが、その顔がエマからは見えることはない。
「それ防御力0だけど」
「精神力プラス100」
両手をローブの中に隠すエマのフードをつまんで、サッと脱がせば「あぁ!」と悲しそうに声を上げて。何だこれ、面白い。
「これで精神力マイナス100?」
「それと恐怖感プラス50……さてはアベルくん友達いないな?」
「そんなもの僕には必要ないよ。僕は目的の為に優秀な人材さえいればいい」
そう彼女に言えば、エマは驚いたように目を見開いて口を隠すように右手で覆った。
「ええっ、大変! カッコつけて素直に友達いないって言えない人になっちゃってる……! これは重症! ……や……っ! 痛い痛い!」
アベルからしたら自分が手を下さずとも、相手の首を絞めることなんて楽勝である。その白く長い綺麗な指先を動かせば、それはもう趣もなく、一方的に、簡単に――なぜなら、相手が勝手に己の手で己の首締めてくれるのだから。
「今謝れば、僕の気が変わるかも」
「ごめんなさい!」
「残念……やっぱり許さない」
アベルが力の加減をしているとはいえ、平常の状態より苦しいのは変わりがない。さぞ、早く楽になりたいだろうとエマを見れば、何かを唸りながら考えているようで。この状況で、出る案などどうせろくなものではないだろう。
「じゃ、じゃあさ!」
「何? つまんなかったら、落としちゃうよ」
意識を――とは言わなかったが、十分に察したらしい。エマは力強く頷いた。
「…… エマがアベルくんの友達になったげる!」
「なんで上からなの」
「あぁもう! めんどくさいな!」
「めんどくさいだって? どうにも聞き捨てならないな。いいだろう……君みたいな出来損ないの劣等遺伝子の為に、この僕が口の利き方を直々に教えてあげよう。いいかい? 私、エマ・カルネは……」
「うっ……私、エマ・カルネは」
「完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを兼ね備えた」
「……かんぺきな教育、あっとーてきな才能、こーきなる血筋全てをかねそなえた」
「アベル・ウォーカー様の下僕 にしてください」
「……アベルくんのおともだちにしてください」
ダメだ、やっぱりこの子には高度な言葉が理解できないらしい。この際ここで、劣等遺伝子は処分してしまおうか? 手間も省けるし。……と思ったけど、興が冷めたしもういいか。アベルがすっと糸を解除すれば、エマはその場にうずくまって。
「僕の気まぐれで命拾いしたね。でも覚えておくといい――次はないよ」
「こ、このプライドお化けめ……!」
「フン……なんとでも言いなよ」
何度か咳をして、エマは声を張り上げた。
「そもそも! アベルくんの忠実な下僕 さんはたくさんいるでしょ!」
「アビス達のことかい?」
アベルは頭に浮かんだ七魔牙 のことを例に出したが、エマに速攻否定された。
「アビスくんは友達でしょ! だから友達いないんだよ!」
「……次、それ言ったら問答無用で磔 にするから」
今、力を行使されたにも関わらず、何度も言うとは知性がないだけでなく、考えも足りないのだとアベルはカワイそうなエマに同情した。
「ううっ……ともかくっ! エマはアベルくんと対等な関係、友達になりたいの。ご理解いただけましたか?」
「それって僕に何かメリットある?」
素直な気持ちで問えば、エマは即答した。
「アベルくんが、上辺の言葉を聞かなくて良くなる。あなたほどになると、思ってることを直接言ってくれる人なんていないでしょ」
「……上辺も何も、僕に頭を垂れない奴なんていないよ。僕は上に立つ側の人間――誰の指図も受けないからね」
アベルが睨みながら静かに説けば、エマは怯むことなくそれを聞いて得意げにニッと笑った。
「だからそこでエマの出番ですよ! 上下関係なく、対等に視線を合わせられる関係も大事だと思いますが。ね?」
「君の本音 は?」
「……アベルくんの入れてくれた紅茶が美味しかったから、また飲みたい」
「最初から素直にそう言えばいいのに……君、頭は劣るけど味覚は劣ってないようだね。いいよ……なってあげるよ友達に」
アベルは自分の入れる紅茶に自信を持っていた。いつもはアビスに入れてもらうことの方が多いが、いつもアビスが側にいるわけではないので自分で給湯室に行くのも珍しい事ではない。そもそも、アベルが自ら入れる紅茶を第三者が飲める機会などないに等しいと言っても過言ではないだろう。自称友達にそれを褒められてアベルが満更でもないのは事実であった。
「よっし、今のうちに言っとくけどエマは忖度しないからね!」
レアン寮にいる者の中できっとここまで物怖じしない……怖い者知らずな生徒はエマ以外にいないと断言できる。なぜならアベルはレアンの監督生だからだ。監督性の言うことは絶対だ。
「……あのね、今だから言うけど」
「ん?」
「僕はアビスから、君に対して『何があったとしても手を出さないで欲しい』とお願いされていたんだよ」
「アビスくん…… エマのこと……そっか。そうだったんだ……!」
「長い付き合いだけど、アビスからのお願い事なんて初めてだからね。だから、変な条件だと思いつつ、無条件で要求を飲んだんだけど……この間の強制的不法侵入も含めてその理由に納得したよ」
「この間、ちゃんと『おじゃまします』って言ったし!」
「部屋主は了承してないし」
アベルが冷静に否定して返せば、エマは何か反撃できることはないかと再度唸っていて。よく唸るね、君は。
「あ! アベルくん、エマの首絞めた!」
「……僕は絞めていないよ、君が自らの手で絞めただろう。約束は反故にしていない」
「なにそれ! めっちゃ屁理屈じゃん! も〜」
「――君のせいで時間を無駄にしてしまった。じゃあ僕は行くよ」
アベルはアビスを待たせていることを思い出し、怒っているエマの横をすり抜けた。
「友達には普通そんなこと言わない!」
アベルは数歩歩いて、ピタリと止まりエマの方を振り向いて聞いた。
「じゃあ、君が思う『友達』には別れの時、普通なんて言うの」
「楽しい時間をありがとう。また会おう、かな!」
「……」
「め、めちゃくちゃ嫌そうな顔してる……!」
自分でも顔を歪めているのは分かったが、エマに指摘されるほどだから相当だったのだろう。アベルは静かに溜息をついてエマを振り返らずに歩を進めた。非常に棒読みではあったが、エマの希望した台詞をその場に残して――。その後、エマがどう思ったかなんてアベルには知る由もない。
アビスはその場で静かに息を吐いた。エマ・カルネはなぜあんなに――自由奔放なのか。怖いもの知らずにも程がある。だから、目が離せないのかもしれないが……。アベルが人形にした生徒から魔力が吸い取っている最中、アビスはアベルに話しかけた。
「アベル様」
「……なんだい? アビス」
ビカビカと激しく光る紫色の閃光は、振り向いたアベルの顔を怪しく照らす。
「昨日の彼女の事なのですが……」
「あぁ、あの君が連れてきたウサギかい?」
特に気に留める様子もなく、アベルは作業を続ける。
「差し出がましいお願いとは重々承知の上ですが……何があっても手を出さないと約束してもらえませんか?」
アビスが意を決してそうお願いすれば、アベルは少し眉間にシワを寄せた。
「……まるで僕が手を出すと思っているような口ぶりじゃないか。不本意だな」
「すみません。……そんなつもりはないのですが」
「フン……いいよ。聞こうか」
アビスはアベルに対してどう話したものかと悩んだが、素直に言葉を選ばずに伝えることにした。
「あの子はちょっと変わった子で、物怖じしないというか、突拍子もないことをしでかす子でして……もしかしたらアベル様にも危害を加えるのではないかと」
「ん? ……君はいつからあの子の母になったんだい?」
母――。確かに今、アビスがお願いしていることはそう思われても仕方ないことかもしれないと自分を恥じた。しかし、アベルのことは信じていても、彼女が何か失礼なことをしでかす可能性は大いにある。そう考えると先回りをせずにはいられなかったのだ。
「そうだな……ただ君のお願いを聞くんじゃ趣きがないから、ゲームをしようか」
「ゲーム、ですか?」
「ここに、さっき銀が5枚集まってできた金の
アベルの手できらめき、自らも光を放つそれは紛れもなく、イーストン魔法学校の全生徒が喉から手が出るほど欲しい金の
「これでコイントスしよう。僕がコインを飛ばして、表か裏をアビスが予想する。それで当てられたらいいよ」
「……? 、わかりました」
アベルはアビスの同意を得たその瞬間に金の
「さぁ。表、裏、どっち?」
「……裏」
アベルはその答えに頷き、自分の右手をゆっくりと上げ、手のひらを裏返して見せた。
「よく分かったね、当たり」
――その答えにアビスは思わず笑ってしまった。コイントスを提案された時から既に笑いそうではあったが、我慢できなかったのだ。なぜなら、両面に同じデザインが描かれているイーストンの
「フフッ、アベル様……あなたも人が悪いですね」
「茶番過ぎたかい? ……だって、別にそれくらいのことなら君が僕に結果を出していることに対しての正当な見返りだと思うから。――で、話はそれで終わりかな」
「はい」
「じゃあ例の件、頼んだよ」
アビスの返事を待たずに、アベルは出口へ向かってスッと歩き出した。きっと魔力が十分に供給されたのだろう。遊び心がある
*
「どうしてこんなことに……」
沸いたお湯を紅茶の茶葉を淹れるにふさわしい温度まで調整し、ティーポットに注ぐ。フワッと鼻をくすぐるベルガモットの香りが普段なら心地いいが、今はなぜか縋りたくなるような気持ちにさせる。アベルがお茶を用意するに至る経緯は寸刻遡る。
*
ここはレアン寮のアベルの部屋――。
他の
その時だった。不躾にドンドンと自分の部屋の扉を叩く音が聞こえたのは――。もしかして、という気持ちとそうであるな、という相反する気持ちが胸を渦巻く。開いたドアの前に立っていたのはアベルの予想通りの人物だった。
「あの、今暇ですか?」
アベルを恐る恐るといった感じで上目遣いで見上げる彼女は、紅茶に濃厚なミルクをたっぷりと入れたような髪色とふわふわな髪質が特徴的で。
「……時間ありますか? は分かるけど、暇ですか? はダメなんじゃないかな。なぜなら僕は忙しくて、君に構っている時間はないから」
「同じ意味なのに、あなた細かいねぇ」
両手の平を上にして首を横に振る彼女は、確かエマ・カルネと名乗っていたはず。自分の不躾けな態度を棚に上げて、やれやれじゃないんだよ。
「それに、僕とほぼ初対面に近い形でタメ口をきくなんて随分勇気があるね」
「そうかな? あんまり言われないけど……ありがとう」
どうやら嫌味が通じない人種らしい。
「ハァ……で、か弱いウサギ風情が僕の部屋に何の用だい?」
アベルは内心イラッとしていたので、冷たく睨みながらエマに用事を聞いた。――わざわざ、自分の部屋を探して会いにくるくらいだから何かしらの用はあるのだろう。
「話したくて」
アベルの態度に関して、全く意に介さないようなけろっとした様子でエマはそう言った。
「……なぜ?」
「――あなたと仲良くなりたいから」
エマが自分を見る真っ直ぐな瞳から、強い意志が伝わってきて、アベルは自身の唇に手を当てた。狙いは何だ。神覚者を目指すなら
「僕に媚びて取り入ろうとするつもりなら甘いよ。……生憎、僕はそういう事に一切興味がないからね」
「フッ、アベルくん何言ってんの? エマは誰にも媚びたりしないよ」
面白そうに笑った彼女にアベルは面食らった。この子は何を言っているのだろう。そしたらますます仲良くなるメリットがないじゃないか。
「いいよ……僕のことをそんな馴れ馴れしく呼ぶことに敬意を表して、話くらいは聞こうじゃないか」
「お! いいね、じゃあ部屋入ろう。エマね〜、お気に入りのクッキー持ってきた」
アベルのことを君付けで呼ぶ者など校内にはいないにも関わらず、「おじゃましまーす!」とそのアベルの部屋にすら何の恐れもなく侵入し、自分主催でお茶会すら開こうとしている。この子は、一体何なんだ。
「……あの、ここ僕の部屋なんだけど」
当たり前のことを当たり前にエマに伝えるだけで、その時のアベルは精一杯であった。
*
「アベルくん、紅茶入れてくれてありがとう!」
「君のために入れたわけじゃないよ」
紅茶を入れたのは自分の今の状況を整理して落ち着きたいからに過ぎない。――結局、部屋にあげてしまった。いや、侵入されたが正しいだろうか。事実、不法侵入と呼ぶにはくつろぎ過ぎているエマを見て、自分がおかしいのかとさえアベルは思っていた。紅茶に口をつける目の前にいるエマは、熱かったのか息を吹きかけて熱を冷まそうとしていて。
「美味しいけど、やっぱり猫舌のエマはアイスティーのが好きだな。すぐ飲めるし……」
「あのさ」
「何でも聞いて!」
何でアベルの方が聞きたい方の立場になっているのかは理解できないが、今はそんなことを指摘しても仕方がない。
「君はどうして僕と仲良くなりたいの?」
そう聞けば、エマは驚いたような表情をした後にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「そういうとこ、アビスくんとそっくりだね! 難しく考え過ぎて、意味聞いちゃうとことか」
「は? 何言って……」
「まぁ、本音を言うとさ…… エマ的にはね、アベルくんと仲良くなっちゃえば全部解決なの! その人と仲良くなりたいなら、まずはその人を知れってね。だから押しかけちゃった」
解決、何のことだ。意図するものがわからないと不安になるのは当然の感情である。そして押しかけたという自覚はあるんだ。
エマは紅茶に砂糖を入れてくるくるとかき混ぜながら口を開いた。
「アビスくんがさ――アベルくんとエマの狭間で揺れて、辛そうだから……わたし達が仲良くなれば解決じゃない? って思ってさ」
「なるほど。この間、僕は君のことを少し頭が劣っていると言ったけど訂正しよう。――とても頭が劣っている、にね」
僕とエマの狭間で揺れている、に対しての結論がどうしてそういう話になるんだろうか。
「あー! またそういうこと言う……でも分かってるよ、アベルくん本当は悪い人じゃないでしょ」
じっと見てくるエマの目線が鬱陶しくて、アベルは目を逸らした。
「良い人とか悪い人とか、自分にとっての評価でしかないだろ。……そもそも、君からしたら僕は恋路の邪魔者でしかないと思うんだけど」
エマは自分で持ってきたというクッキーを広げて、サクサク食べながらアベルの話を聞いていた。マイペース過ぎないだろうか。
「恋は障害があった方が燃えるって言葉があります。そもそも……アベルくんのが先でしょ。アビスくん救ったの。アベルくんにとってのアビスくんって何?」
「そんなの……決まってるだろう。道具だよ。利用価値のある道具」
淡々と言い放てば、エマはむっとした表情になって。なぜ彼女が顔を歪ませる必要があるのだろうか。だって、悪魔の目を持つ人間を傍におけば、都合がいいじゃないか。
「そんなこと言っちゃダメ!」
「フッ……悪魔の目を持つ者のできることは限られてる。だったら力のある者が、それらを有効活用してあげるのが使い道としては一番正しいだろう」
「本気で言ってるの?」
「本気も何も、事実だよ」
瞬間、エマの張り手が飛んできて、アベルの左頬でぴたっと止まり、その手は勢いなく頬に優しく触れた。目の下を親指で拭うように動かし、そのまま静止したエマの小さな手からは、じんわりと感じ取れる熱が頬を介してアベルに伝わって。――はたかれるより痛く感じるのはただの気のせいだ。
「アベルくん、そんなこと言っちゃだめ……。ね? お願い」
「……二回言うな」
今にも泣きそうな顔で琥珀色の瞳をうるうるさせるエマに、あのアベル・ウォーカーという男が戸惑っている。人の為に、しかも皆に忌み嫌われる悪魔の目を持つ者の為に、心を痛めているをエマ見て――きっと物好きなただの馬鹿でしかないのに。
「所詮は赤の他人だろう。なぜそこまでする?」
「え〜……そんなこと考えたこともなかったな。アビスくんが好きってのはもちろんだけど……」
言葉を選ぶようにエマは続けた。
「エマ達はたまたま恵まれて生まれてきただけで、悪魔の目を持って生まれてくるのが自分だったかもしれない。――ほら、相手の立場になって考えたら、少しだけ優しくなれる気がしない?」
アベルは思わず目を見開いて目の前の女の子を穴があくほどに見つめた。いや、見つめざるを得なかった。アベルが手に抱き抱えて大事にしているそれと、神覚者になる目的である理由の全てが今、ピースのようにはまったからだ。――アベルは、自らの母のことを思い出していた。
「そんなの綺麗事だ……」
「綺麗事が世界を変えるってエマは信じてるよ。ずっと一人ぼっちで、寂しくて生きているのが辛かったアビスくんを救ったのはアベルくんでしょ。嬉しかったと思うな……アベルくんにそんなつもりはなかったとしてもね」
どうして、心が乱されるんだ。勝手に入ってきて、何も知らないくせに、勝手に好きなことを好きなように言ってるようなこの子に。アベルは唇を強く噛んだ。血が出るほどに強く。母さん――理想を語ることはできても、力がなくては何も変えられないんだ。アベルの薄い唇から静かに流れた血をエマは自分のハンカチで優しく拭って、「アベルくんも随分不器用だね」と言って笑った。なぜ、突き飛ばせないんだろう。ズキズキと痛み始めた傷とともに、アベルは自分が心底嫌になった。
「ねぇ、唇が赤いのってどうしてか知ってる?」
「? ……何、突然」
驚くくらいに唐突な話題転換に、アベルの頭にはてなマークが浮かぶ。
「人の口腔内や唇の粘膜にはメラニン細胞がない。かつ、唇の粘膜は角層が凄く薄いの。だから血管内の赤血球、ヘモグロビンの赤が透けて見えてるんだって」
「知ってるけど、何が言いたいの」
「だから……唇って他の部位より血を流すと痛いだろうし、そうやって自分のこと傷つけて欲しくないなって。あ、でも唇が赤いのって人間だけで、理由はまだ分かってないらしいよ……愛情表現の発達のためって提唱している人がいるけど本当にそうだったらいいよね」
「……どうして」
「だって夢あるじゃん。伝えるために口から愛を吐いて、表現するために口付けから愛を交わす。そのために、唇を魅惑的な赤になるようにしてたらさ、ちょっと素敵じゃない?」
頬を少し染めて俯きながら彼女はそう言った。愛なんてくだらないものをこの子は――本やメロドラマの見過ぎじゃなかろうか。でも、本人は多分、思ったことを思ったように言っているだけだ。びっくりするくらい、表裏一体。アベルは今更ながら、アビスの「ちょっと変わった子で、物怖じしないというか、突拍子もないことをしでかす子」という言葉を思い出していた。――何があっても手を出さないと約束してもらえませんか、ね。理解したよ。警戒していた僕がバカみたいじゃないか。アベルは自分の緊張が緩み、気持ちがほぐれていくのを感じていた。
「もう一杯飲むかい?」
「飲む!」
「ところで、アビスとはどうなったの」
気になっていたことをエマに直球に聞けば、紅茶を飲んだ後にゴホゴホと盛大にむせていて。いい気味である。
「おかげさまで! 恋人になる予定が遠のきました……」
エマは、自分のせいとでも言いたげな恨みがましい視線をアベルに向けた。跳ね返すように手で払えば、頬をむすっと膨らまして。
「心外だな、別に僕は何も言ってはないよ。アビスが自ら考えて、自分の意思で行動した。ただそれだけのことだ」
「それがエマよりもアベルくんの方が大事っていう確固たる証拠じゃん……!」
「残念だったね。アビスは君よりも僕をとったということだよ」
本当に悔しそうに顔を歪ませて、テーブルに顔を突っ伏したエマは足をバタバタさせて、唸った。
「う〜っ、改めて言われると傷つく〜……アベルくんなんか嫌い……アビスくんに愛されてずるい……羨ましい!!」
「早いもの勝ち」
「アビスくんはものじゃない……神様は不公平だ……」
勝利の味というのは、いつ何時も格別なのである。最後のクッキーにそっと手を伸ばしたエマの手をはたけば、更にガックリと彼女は肩を落とした。
「君といると調子が狂うよ」
「……じゃあ、狂ってるついでにさ、何で神覚者を執拗に目指しているのか教えてよ」
アベルは手元の人形を見つめ、俯いた。何も関係ない、ましてや自分の視界の端にも普段なら入らないような人間に――教える必要があるのだろうか。
「教えない」
「あー、なるほど……アベルくんって秘密主義?」
「そういうわけじゃないけど、君には教えたくない」
「じゃあ、当ててあげようか」
エマは一口紅茶を含み、不敵に笑って人差し指をアベルに向けた。
「実は――誰もが平和に暮らせる世界を実現したいから、だったりして」
自信たっぷりにエマから放たれた言葉は、少し開けた窓から入ってきた爽やかな風にかき消されたかのように思えたが、アベルの耳には届いていた。
どうして……と思わずにはいられない。そんなアベルの複雑な感情が表情に出ていたのだろう。エマはテーブルに頬杖をついて、ニンマリと口角を上げた。
「その表情は正解と捉えてもいいよね。当てずっぽうでも案外当たるもんだね〜」
ケラケラと嬉しそうに笑うエマとは対照的に、アベルは心中穏やかではない。
「…… エマってば、こういう時の勘はいつも外さないんだ。やっぱり、アベルくん悪い人じゃないじゃん」
「――もうそれでいいよ。面倒だから」
「拗ねてる?」
こんな事で拗ねてるなんて言われたらこちらもたまったものではない。どうせ分からないだろうという気持ちでアベルは問うた。
「拗ねてない……。ハァ……あのね、僕はこの世界を本来の姿に戻したいんだ。君は、人間が何故栄えてきたか分かるかい?」
「え〜、みんな仲良しだったからじゃない?」
なんて――知性の欠片も感じられない回答。能天気にも程がある。アベルは呆れながら首を横に振った。問う相手をやはり間違えたと思うと同時に、質問をした事を後悔した。
「全然違う……。むしろ逆、弱い種から奪い利用し貪ってきたからだ。だが、今の社会はどうだろう……? 弱者の平等……真の平等……慈悲の心……。戯言だよ……」
「戯言か〜」
「世間は目をつむり見ようとしないんだ。真実をね……我々の本質は獣だ」
目をぱちくりとして、理解しているのかしていないのか、目を瞬かせたエマは「獣……」と呟いてまた一口紅茶をすすった。
「人間社会においても弱きは奪われ、利用され淘汰されゆくべき……我々のような高次な存在だけが栄えていく。それが自然の理だ」
「つまりそれは……」
アベルはごくりと唾を飲み込んだエマの次の言葉を待っていた。
「獣同士、みんな協力しようよってこと?」
――今の話を聞いて、そんなわけあるか。
「君は……本物の獣かもしれないね」
「アハハ、何それ面白い! でもエマ、猫舌だしそういうとこ確かに獣かもしんないな〜」
最大級に貶しているのに、まるで通じておらず、それどころか楽しそうにケタケタと声をあげて笑っている。その頃には自分でも驚くくらい、アベルはエマに毒気を抜かれていた。
――彼女にはもう何を言っても、無駄だと。
「でも実際……アベルくん、わたしなんかがやめなよって言ったってやめないでしょ」
自分の長い髪を指でくるくると弄びながら、エマは小さい声で呟いた。
「――あぁ、僕の考えは変わらない。底辺弱者は狩られて当然。むしろ狩るべきだ……」
「……わかった、もう何も言わない。だけど全部終わったら……」
エマは頷いて、すっと自分の右手の小指をアベルの方にのばした。何を意味するか分からず、指先の爪を見つめていればエマの手がさらに近くまでのびてきて。
「約束。指切りげんまん、ね。また一緒にお茶会しよう」
アベルは絡めた小指の温もりから、エマの思いでさえも自分に流れ込んでくるような感覚を覚えた。何も言うことができなかった代わりに、アベルはただ小さく同意の意味を込めて頷いた。
*
アベルの部屋を出た直後。エマの内には様々な感情が入り乱れていた。理想を語ることは誰にでもできる。が――結局、力がないと何も変えられない。エマに使えるのは精々、低級の回復魔法ぐらいであった。……正直、あれぐらいのアベルの傷程度なら簡単に治すことは出来たが、敢えてエマはそれをしなかった。
「世の中ってのは……無情ですな」
誰かがお灸を据えてくれることを祈るしかできないなんて。他人任せで、ごめんなさい。でも、二人を救ってくれる人がいるなら助けてください――。
あのアビスが心から慕っている人を、好きにならないはずはないとは思っていたが……アベルに対しての嫌な印象はおろか、純粋に好意の感情を抱くようになっていて。祈るように両手を合わせ、願う自分の弱さをエマは悔いた。
*
アビスとエマが話した日から一週間後――。
アビスはやはり意図的にエマを避けているらしい。見かけることすらなくなったというのは、大袈裟かもしれないが、本当にそれくらいエマの視界に入ってこない。こんなに探しているのに。
思わず口から漏れたため息に、エマの気分は余計に落ちていく。なんか、最近ずっと目的のために校内徘徊している気すらしてくるな。そんなことを考えていた矢先――すっと漂わせた視線の先に、綺麗な束ねられた水色の長い髪がゆらりと揺れるのが見えて。
「アビスくん」
エマの声が聞こえたのか、アビスはエマに気づき、ハッした表情をして、避けるように視線を逸らした。好きな人にこれされるとメンタルやられるな……。でも、挫けている場合ではない。ずっと探していたのだから。エマがその背を掴みたくて追いかければ、曲がり角でアビスは音もなく消えていた。そもそも、アビスの呪文がある限り、エマが追いかけっこで勝てるわけはないのだ。
――次、私のことを見かけたとしても、その時は他人です。私のことは、忘れてください。
そう言ったアビスの悲しそうなその笑顔が鮮明に思い出されて、エマはその場にうずくまった。どのくらいそうしていたんだろう。エマは後ろから声かけられるまで、その場に自分のことを立って見下ろしてる人物がいることなど全く気が付かなかった。
「初めて会った時も、アナタはそうやって廊下で座り込んでいましたね。――具合が悪いなら保健室に連れていくくらいはしてあげますが」
前と今じゃ、状況と気持ちが違う。そもそも、あの時は自分の意思でくつろぐために座ったのだ。座り込んでなんかいない。
「……またそうやって優しくする」
振り向かなかったのはその人が誰か、分かっていたから。
「それはその……寝覚めが悪いので」
自分で避けた手前、バツが悪いんだろう。声が尻すぼみになっている。
「なんで戻ってきたの……関わらないって決めたなら貫きなよ。次会った時は他人なんでしょ」
エマが冷たく突き放せば、一瞬沈黙が流れて。
「……仕方ないでしょう。そうしたくとも、もう身体が勝手に動いてしまうんですから」
ほら、なんでそっちが困ったように言うんだ。
「……まるでエマのせいみたいに言うじゃん」
こっちが拗ねることしかできなくなっちゃうじゃないか。
「えぇ、そう聞こえるように言ってますが。それに人間、そんなに単純だったら苦労しませんよ」
……きっとあの時だって色々な場面で、簡単にわたしから逃げられたのに。たった一言、呪文を唱えるだけで、逃げられたのに。なのに、あの時も今もエマを本当に避けなかったのはどうして?
「なぜ泣いているんですか……? まさか、本当に具合が悪いんじゃ……!」
ほら――こうやって背中をさすってくれる優しいアビスが大好きなのだ。避けたくせにうずくまったエマの様子を心配して、わざわざ戻ってきてくれる優しいアビスが。ちょっとは伝われ……このもどかしさが! エマは自分でも驚くくらいに気持ちが昂っていた。
「本当にどうでもいいとか、迷惑とか思ってるなら中途半端に助けたりしないでよ! ……もう、アビスくんのそういうとこが……っ」
いつから自分はこんなにわがままになっていたのか。そしてこの人の前で何度涙を流せば気が済むのか。ポタポタと頬を伝って流れ落ちていく雫はエマの黒のスカートに染み込み、シミを作った。
「エマ、私の気持ちは伝えたはずですよ」
言い聞かせるように言うアビスの気持ちは分かっている。分かっていても――その通りにできない、いい子にできない時だってあるのだ。
「……だからって遠ざけられると、傷付くの! エマだっていつもヘラヘラ笑ってるわけじゃない! アビスくん、エマに聞いたじゃん。必要かどうかって……」
抱える膝と自分の額がぴったりくっつくように体育座りでますます体を小さく縮こませる。こんな事がないと、アビスに逃げられてエマは今、甘えることすら出来ないのだ。行き場のない好きなんて、何の役にも立ちやしない。
「エマってば、もうアビスくんいないとダメな子になっちゃったんだよ、責任とってくれなきゃやだよ……」
アビスは今どんな顔をしているんだろうか。黙って話を聞いてくれているのは分かる。
「好きで好きでたまらなくて、もうどうしようもなくて、エマってばもう……ダメみたい。ハハッ……あなたがいない世界なんて今更考えらんないよ」
もし、「借りてはいけない力」のせいで、その代償として――アビスが戻ってきてくれなかったらどうしよう。この間の話を聞いて喉に小骨が刺さったようにエマはその事ばかりを考えてしまっていた。
「アナタの言うことはわかりました。今、エマの話を聞いて思ったことを正直に言ってもいいですか?」
アビスはエマの目の前に回り込み、しゃがみこんでエマの高さに視線を合わせた。それからアビスはそっと仮面を外して床に置き、エマをじっと見つめて。廊下の中央で、生徒が二人しゃがみこんで話をしているのだ。他の者から見たら異質だろう。でも、当の本人達にそんな事を考える余裕はなかった。
「非常に言いにくいのですが」
「……うん」
エマがこんな奴だと知って、呆れられてしまっただろうか。アビスの口から聞くのが怖くて、エマは自分のローブの両袖をぎゅっと掴み、しわくちゃにした。それくらいしか縋れるものがなかったから。
「アナタと付き合ってたらこんな感覚なのかなって」
「え……?」
思わず顔をあげれば、しゃがみこんでいたアビスとパチッと目が合った。彼はエマと目が会った瞬間に、照れくさそうに微笑みを浮かべて。
――ストン。エマはわかった。この音はエマにしか聞こえない音なのだと。そうきっとこれが、更に底の見えない深い谷に落ちるような、恋の音なのだ。
その衝撃に呆然として、穴があくほど彼を見つめていればアビスは困ったように両の手のひらで自分の顔を覆った。
「ごめんなさい、つい嬉しくなってしまいました。エマは怒っているのに……いけませんね。私は凄く嫌な奴です」
えーーーー何その反応!? 可愛すぎるでしょ、反則でしょ!!!!
「……訂正して。アビスくんは、嫌な奴だけじゃなくてずるい奴でもあるよ」
アビスの目の前で両手の人差し指でバツを作れば、アビスは優しく微笑んで。
「フフッ……でもアナタは――こんな私をいいと言ってくれるのでしょう」
「あぁもう! またそうやって、エマのこと手のひらで転がそうとする!」
「そうですね……私に身をゆだねてくれるなら、眠ってしまうくらい気持ちよく転がしてあげましょう」
「何それ、もう転がされてることにすら気付いてないじゃん!」
アビスはエマを転がしているようなモーションをして笑っていた。そんな簡単に、簡単に――転がされちゃうんだよね、これが。悔しいことに。
「あぁー……恋ってさ、先に好きになった方が負けなんだって…… エマ、その時点で負けてんじゃんね」
「ふむ、そうですか。エマ、私に勝ちたいですか」
「え……か、勝ちたい」
負けたいか、勝ちたいかという問いが存在するのであれば、勝ちたいと言うのは人間の道理であるだろう。
「仕方ないですね……手を伸ばして僕の頬に触れてみてください」
そんなわけで反射的に勝ちたいと言ってしまったが、何をするつもりなのだろう…… エマは自身の心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。いつの間にか日が落ちてきた廊下の絨毯は、夕日の綺麗なオレンジをこぼした様で――それはきらきらとアビスの頬を照らし、優しい茜色の光は瞳にも映りこんだ。それに吸い寄せられるが如く、エマはその目に映った光を掴むようにアビスへ手を伸ばした。温かいのは夕日のせいか、アビスの体温か。
「……っ、エマは気づいていなかったかもしれませんが、今まで私はずっと布越しにアナタに触れていたんですよ」
アビスの真剣な瞳にエマの潤んだ顔が一瞬映り、近い距離に心臓が早鐘を打つ。あまりにどきどきして、視線を逸らせば触れた手のひらから振動が伝わってきて。振動?
「あ、アビスくん?」
「あわ、あわわ、アワワワワ……」
そう言ったきり、アビスは先程よりも強く振動し、何も話さなくなってしまった。あたりに響くは機械のような振動音のみ。いや、待って、振動音のみってなに……。
「だ、大丈夫!? 」
パッと手を話せば、振動はピタリと止まりアビスは意識を取り戻したようだった。
「か、勝てましたか……?」
「そんな口から静かに血を流しながら言われてもね!」
「大分、アナタに対しては克服したと思っていたのですが、やはり直接は刺激が強いですね……」
軽く咳払いをして、自身のハンカチで血を拭い、アビスは深呼吸をした。そんなに無理しなくてもいいのだが。でも嬉しいと言われたことに対しては当然、満更でもない。
「ちょっとは反省してよ……と思ってたけど、うん……」
最近普通に話せるようになったものだから、この設定があったのをエマはすっかり忘れていた。そう――アビスが女の子に耐性がないことを。アベルに先日指摘されたばかりだというのにいけない。アビスはすっと立ち上がり、エマにローブ越しであるが手を伸ばした。
「……反省はしてますよ、とても」
その布越しの手を握れば、アビスに引っ張られるように沈んでいた心までもが引き上げられるような感覚になって。
「――だって、私のことでこんな風に泣いてくれたり、拗ねてくれたり、色々な感情を見せてくれる一瞬一瞬を、今は見ることができないので」
そんなこと言われて、ときめかないわけがない。エマはそれこそ悲しそうな表情をするアビスが愛しくてたまらなくなって。
「意味わかんない〜! じゃあ付き合えばいいじゃん! ていうか付き合ってよ! 付き合ってください! お願いしますーーーー!」
エマはともかく付き合ってくれと懇願した。それはもうムードやシチュエーションなんてへったくれもなく。エマがアビスに詰め寄ると、アビスは困ったように眉間に皺を寄せて唸った。どこか嬉しそうなのは気のせいではないだろう。
「うーん……イヴル・アイを持つ者にこんなに激しく求愛する人間なんて、きっと世界のどこを探しても君のような物好きだけでしょうね……」
「――あのね、イヴル・アイがあろうがなかろうが、どっちでも好きになってるっつーの……アベルくんの前でも言ったけど、関係ない。エマは、エマは……アビスくんが好きなの。本当、分かってない」
「今まで私は、そういう経験をしたことがないですが……愛されるというのは悪いものじゃないですね」
そんなことは……考えながら真剣な顔で言うものではない。思わずそんなアビスにエマは吹き出してしまい、やっぱり負けてしまったな――と思うのだった。
*
――前方にこの間、不法侵入に近い形で部屋に入ってきた子がいる。アベルは無視しようと思い、曲がる予定がなかったところで曲がった。なのに、ズカズカとその子は歩いてきて、僕を先回りして追い抜き、挙句の果てに通せんぼをしてきて。
「ちょっと君……どういうつもり?」
「どういうつもりもなにも! ……気づいてるのにアビスくんもアベルくんも無視したらやだ!」
「知らないよ……アビスも追いかけ回されてうんざりしてるんじゃないの」
「そ、そんなこと言われたことないし……!」
エマがあからさまに動揺しているのがアベルには手に取るようにわかった。本人にその自覚はないだろうが。
「というか、もう僕の前には現れないと思ってたけど」
チッチッチッと人差し指を振ってエマは否定し、ローブの袂を揺らした。
「ところがどっこいですよ。ふっふっふ……実はエマのこと、気になってたでしょ?」
綺麗事を謳う、力も持たないただの女の子。自分が切るべき、愚かな人間。底辺そのものを切り捨てる自分の考えは変わらない。でも、と踏みとどまり、アベルはエマに聞いた。
「――気になってたって、言ったらどうするの?」
ただの言葉遊びの延長線。これで答えが変わることはないが、なんとなくエマの反応が見たくなっただけだ。
「え! ……嬉しい」
「……嬉しいんだ」
アベルは表情こそ一切変えていなかったが、自分でも驚く感情があった。もしかして、僕、喜んでるのか? そんなわけはない。ありえない。こんな底辺弱者に、僕が――。
「……なんで嬉しいの?」
勝手に開く口から漏れる言葉が、止められない。自分の体なのに、思う通りにならない。いつもは操る側だというのに――アベルは内心焦っていた。
「なんでって、仲良くなりたいし。いや、最初は正直、怖いし嫌な奴だな……って思ってたけど、アベルくん尖ってるように見えて不器用だけで、根は優しいし。話してて楽しいし……後はそうだな、やっぱりすっごくいいよね」
「何が」
エマは一拍置いて、アベルにグッと前に親指を立ててウインクした。それは星が散ったのかと錯覚するくらい潔いウインクだった。
「顔!」
「か、顔?」
もう一度言うが、アベルはイーストン魔法学校レアン寮の監督生である。上に立つ監督生は申し分ない実力があるのは必然で、それすなわち神覚者――神に使える者になりうる資質を持った者である。
自分より下の人間に、ずけずけと失礼なことを羅列された挙句、顔がいいと言われる屈辱。自分の人生において、こんな歯に衣着せぬ物言いをしてくる奴がいるなんて。自分に向けられた言葉に衝撃を受け、沈黙していれば、更にアベルはエマから発せられる次の言葉にショックを受けることとなる。
「何で黙って顔赤くしてるの……。もしかして」
体が火照る感覚に、自分でも意味がわからずアベルは上を見上げて息をフーッと吐き出した。窺うようにこちらをじっと見つめてくるエマに、思わず目を逸らしたくなる。
「……あの、怒っちゃった?」
「……」
アベルは怒ってはいなかったが、どうしたらいいかわからなかった。なのにエマに困った顔をされて、更に困っていた。だから嘘をついた。
「……怒った」
「やっぱり!え〜、エマ怒られたくないな〜」
「……だから、さっさと人形にしてしまおうかなって」
「怒り方、過激過ぎない!?」
「魔力の供給源にしてしまった方が幾分か使えそうだから」
アベルが人形の糸を操るような動作を見せれば、冷や汗をかいて謝るエマは見てて気持ちが良かった。最初からそれくらい、僕を畏れ、敬い、挙げ句の果てに跪けばいいのに。
「アベルくんの質問攻めに、素直に答えただけなのにあんまりだ……」
「いずれはそうする可能性もあるけど……嘘だよ。今は君の不躾な態度に面食らっただけ」
アベルが依然、可能性を残したことでエマは唇を尖らせ、目の前でフードを深く被った。警戒の仕方が獣なみだな。まるでいじめられてすごすごと住処に帰るような、そんな感じ。アベルは少し眉の角度が上がったが、その顔がエマからは見えることはない。
「それ防御力0だけど」
「精神力プラス100」
両手をローブの中に隠すエマのフードをつまんで、サッと脱がせば「あぁ!」と悲しそうに声を上げて。何だこれ、面白い。
「これで精神力マイナス100?」
「それと恐怖感プラス50……さてはアベルくん友達いないな?」
「そんなもの僕には必要ないよ。僕は目的の為に優秀な人材さえいればいい」
そう彼女に言えば、エマは驚いたように目を見開いて口を隠すように右手で覆った。
「ええっ、大変! カッコつけて素直に友達いないって言えない人になっちゃってる……! これは重症! ……や……っ! 痛い痛い!」
アベルからしたら自分が手を下さずとも、相手の首を絞めることなんて楽勝である。その白く長い綺麗な指先を動かせば、それはもう趣もなく、一方的に、簡単に――なぜなら、相手が勝手に己の手で己の首締めてくれるのだから。
「今謝れば、僕の気が変わるかも」
「ごめんなさい!」
「残念……やっぱり許さない」
アベルが力の加減をしているとはいえ、平常の状態より苦しいのは変わりがない。さぞ、早く楽になりたいだろうとエマを見れば、何かを唸りながら考えているようで。この状況で、出る案などどうせろくなものではないだろう。
「じゃ、じゃあさ!」
「何? つまんなかったら、落としちゃうよ」
意識を――とは言わなかったが、十分に察したらしい。エマは力強く頷いた。
「…… エマがアベルくんの友達になったげる!」
「なんで上からなの」
「あぁもう! めんどくさいな!」
「めんどくさいだって? どうにも聞き捨てならないな。いいだろう……君みたいな出来損ないの劣等遺伝子の為に、この僕が口の利き方を直々に教えてあげよう。いいかい? 私、エマ・カルネは……」
「うっ……私、エマ・カルネは」
「完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを兼ね備えた」
「……かんぺきな教育、あっとーてきな才能、こーきなる血筋全てをかねそなえた」
「アベル・ウォーカー様の
「……アベルくんのおともだちにしてください」
ダメだ、やっぱりこの子には高度な言葉が理解できないらしい。この際ここで、劣等遺伝子は処分してしまおうか? 手間も省けるし。……と思ったけど、興が冷めたしもういいか。アベルがすっと糸を解除すれば、エマはその場にうずくまって。
「僕の気まぐれで命拾いしたね。でも覚えておくといい――次はないよ」
「こ、このプライドお化けめ……!」
「フン……なんとでも言いなよ」
何度か咳をして、エマは声を張り上げた。
「そもそも! アベルくんの忠実な
「アビス達のことかい?」
アベルは頭に浮かんだ
「アビスくんは友達でしょ! だから友達いないんだよ!」
「……次、それ言ったら問答無用で
今、力を行使されたにも関わらず、何度も言うとは知性がないだけでなく、考えも足りないのだとアベルはカワイそうなエマに同情した。
「ううっ……ともかくっ! エマはアベルくんと対等な関係、友達になりたいの。ご理解いただけましたか?」
「それって僕に何かメリットある?」
素直な気持ちで問えば、エマは即答した。
「アベルくんが、上辺の言葉を聞かなくて良くなる。あなたほどになると、思ってることを直接言ってくれる人なんていないでしょ」
「……上辺も何も、僕に頭を垂れない奴なんていないよ。僕は上に立つ側の人間――誰の指図も受けないからね」
アベルが睨みながら静かに説けば、エマは怯むことなくそれを聞いて得意げにニッと笑った。
「だからそこでエマの出番ですよ! 上下関係なく、対等に視線を合わせられる関係も大事だと思いますが。ね?」
「君の
「……アベルくんの入れてくれた紅茶が美味しかったから、また飲みたい」
「最初から素直にそう言えばいいのに……君、頭は劣るけど味覚は劣ってないようだね。いいよ……なってあげるよ友達に」
アベルは自分の入れる紅茶に自信を持っていた。いつもはアビスに入れてもらうことの方が多いが、いつもアビスが側にいるわけではないので自分で給湯室に行くのも珍しい事ではない。そもそも、アベルが自ら入れる紅茶を第三者が飲める機会などないに等しいと言っても過言ではないだろう。自称友達にそれを褒められてアベルが満更でもないのは事実であった。
「よっし、今のうちに言っとくけどエマは忖度しないからね!」
レアン寮にいる者の中できっとここまで物怖じしない……怖い者知らずな生徒はエマ以外にいないと断言できる。なぜならアベルはレアンの監督生だからだ。監督性の言うことは絶対だ。
「……あのね、今だから言うけど」
「ん?」
「僕はアビスから、君に対して『何があったとしても手を出さないで欲しい』とお願いされていたんだよ」
「アビスくん…… エマのこと……そっか。そうだったんだ……!」
「長い付き合いだけど、アビスからのお願い事なんて初めてだからね。だから、変な条件だと思いつつ、無条件で要求を飲んだんだけど……この間の強制的不法侵入も含めてその理由に納得したよ」
「この間、ちゃんと『おじゃまします』って言ったし!」
「部屋主は了承してないし」
アベルが冷静に否定して返せば、エマは何か反撃できることはないかと再度唸っていて。よく唸るね、君は。
「あ! アベルくん、エマの首絞めた!」
「……僕は絞めていないよ、君が自らの手で絞めただろう。約束は反故にしていない」
「なにそれ! めっちゃ屁理屈じゃん! も〜」
「――君のせいで時間を無駄にしてしまった。じゃあ僕は行くよ」
アベルはアビスを待たせていることを思い出し、怒っているエマの横をすり抜けた。
「友達には普通そんなこと言わない!」
アベルは数歩歩いて、ピタリと止まりエマの方を振り向いて聞いた。
「じゃあ、君が思う『友達』には別れの時、普通なんて言うの」
「楽しい時間をありがとう。また会おう、かな!」
「……」
「め、めちゃくちゃ嫌そうな顔してる……!」
自分でも顔を歪めているのは分かったが、エマに指摘されるほどだから相当だったのだろう。アベルは静かに溜息をついてエマを振り返らずに歩を進めた。非常に棒読みではあったが、エマの希望した台詞をその場に残して――。その後、エマがどう思ったかなんてアベルには知る由もない。