3.ふたりとの鮮烈な出会い〜アベル編〜
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あの日から――エマとアビスの距離は縮まった。
エマがアビスを見つけて学校や寮内で話しかけても、むっとして鬱陶しそうに顔を歪めたり、あからさまに素っ気なくされることもなくなった。なんなら、アビスの機嫌がいいとその美しい顔立ちで、微笑みを浮かべて見せてくれることさえある。不満といえば、やはり基本的には仮面を外してくれないことと、まだ名前を全然呼んでくれないことだけが寂しいくらいだ。でも、十分エマは幸せだった。
本人にも言ったが、まさに例えるならわんわんと大きな声で吠える警戒心の強い野良犬を懐柔した気分なのである。ずっと通いつめてることで、慣れてようやく室内犬になったというところか。室内犬になってくれたのもつい最近ではあるが――。そんなことをエマが思っていれば、自分を呼ぶ声が少し後ろから聞こえた。
「エマ」
この透き通った凛とした声は、アビスくんだ。自分の名前を呼んでもらえた嬉しさにエマの頬は緩む。つい、お代わりが欲しくなったのはただの欲でしかない。
「はい! エマに用があるならもう一回エマの名前呼んで!」
「? ……間髪入れずに何言ってるんですか君は。用があるから名前を呼んでいるのですよ」
自分を覆う仮面に手を当て、呆れたような声を出すアビスはまた何かの用事の途中なのかもしれない。でもきっと――その用事はあまりいいことではないのだろう。たまに生臭い血の臭いが、彼の洗いたての石鹸のようないい香りに混じって漂うのをエマは気が付いていた。
「え〜? でも、エマに話しかけたかったんでしょ? それが嬉しいの!」
「ハァ……あなたも飽きませんね。私の言うことにいちいち一喜一憂して疲れないのですか?」
アビスは何言っているのだろう。飽きるわけがない。こちとら、スタートが塩対応から始まっているのだ。
「いいですか……今日、寮の消灯時間が過ぎた午後十一時頃、この廊下を真っ直ぐ行った突き当たりで待っていなさい」
「えっ……深夜に校内デートのお誘いですか?」
消灯時間を過ぎてからのめくるめく校内デート――。そんな背徳感とスリルを味わえそうな上級者デートを提案してくるなんて、流石アビスくんだとエマは感心する。これは、女性に慣れていないアビスならではものだろうか。そんなわくわくする提案にエマの鼓動が高鳴るのと、アビスから「君は口が減りませんね」を言われるのはほぼ同時だった。こんなふうにグサッと切れ味鋭く刺してくるのは、アビスくんの良いところである……。
エマが大ダメージを受けているとは露知らず、アビスはエマに向かって淡々と言い放った。
「事情はその時、説明します」
事情とは――さっきアビスからした血の臭いと何か関係があるのだろうか。最近の事件といえば、七魔牙 関連の可能性が非常に高い。校内でも話題持ちきりなのは、アドラ寮の生徒の被害者が続出しているからだ。実際レアン寮の中枢、七魔牙 の悪い噂は常に絶えない。最近、自分の所属するレアンがアドラを中心に、オルカからも級硬貨 狩りをしているのは知っていた。貴族関係出身で構成されたレアンはいわば高潔主義、血筋を重んじる。魔法局へ切符を他の寮に取られたくないのはわからなくもないが――。
「そんな不安そうな顔をしないでください。私の命に変えてもあなたには危害を加えないと約束します」
「危害なんて……あの、そうじゃなくて……」
「……すみません、今日は予定があるのです。これで失礼します」
そう言って踵を返し、レアンのローブを揺らしながら遠ざかっていくアビスの背中を見ながら、嫌な予感で心がざわついていくのを感じ、エマは思わずぎゅっと胸を押さえた――。
*
約束の深夜十一時。見回りの教師に捕まったら一巻の終わりだ。良くて厳重注意、悪くて謹慎処分。厳格なイーストンはルールにおいて非常に厳しいのだ。どちらかといえば、素行に関しては優等生を貫いているエマは深夜徘徊している背徳感でどきどきしていた。
「こんなところにいたのですか、探しましたよ」
「きゃっ!」
廊下の突き当りでしゃがみこんで、辺りを窺っていたエマは急に話しかけられたことに驚いて、思わず声を上げてしまった。
「静かになさい……あなたに反応して教師たちが寄ってくるでしょう」
「いやいや、今のは気配を消して近づいてくるアビスくんが悪くないか……?」
「そうでしょうか。私は声をかけるまで気がつかないような君の鈍さがいけないと思いますが」
――喧嘩勃発はしない。エマが我慢したからだ。
アビスはそんなことなどお構い無しに静かに床を見据え、自分の所持する剣に手を伸ばして呪文を唱えた。
「ディスクロズ」
アビスがそれを唱えた途端――自分たちのいる真下に突如ドアが出現した。そしてそのドアの輪郭をなぞる様にまばゆい光が走り、より鮮明に地下への道を浮かび上がらせた。本来何もなかった場所に隠されていたドアは、そのままエマたちを待っていたかのようにゆっくりと開き、その奥には二人を手招きするように地下へと階段が続いていた。
「えぇ、なにこれ……?」
突然の出来事にエマは目を見開き、口からは困惑の言葉しか出てこなかった。
「さぁ、行きましょうか」
「行きましょうかって……アビスくん……」
アビスの有無を言わさない雰囲気にそれ以上エマは何も言えず、彼の後ろについて行くことしか出来なかった。
*
「何、ここ? 闘技場に見えるけど……」
見渡す限りの壁面には大きなヒビが入っており、石で作られたフィールドも傷だらけなことからかなり年期が入っているのが見受けられる。エマの質問にアビスは静かに頷き、こう言った。
「ここは大昔の決闘場――今在籍する教師が誰も知らないような、ね。僕達のような人間が悪巧みするには都合がいい場所ということです」
「悪巧みって……やっぱり」
「…… エマ、あなたは本当に素直で良い子です。でも純粋無垢故に、何も知らない籠の中の鳥。なので、本当の私を知ってもらうためにここへお呼びしました」
淡々と前だけを向いて歩くアビスは、エマの方を一度も振り返ることなく抑揚のない声で話を続ける。
「あなたもレアンの一生徒ならば、七魔牙 の悪い噂のことは――私が敢えて説明しなくともご存知かと思います」
闘技場を抜けてだいぶ進んだところで、ピタッとアビスは立ち止まった。そして、エマの方に向き直れば、その瞬間、暗く冷たい空気が漂う地下通路のたいまつにひとりでにボボボっと火が灯って。そのゆらりと揺れる火でアビスの仮面はぼんやりと照らされ、立ち姿の陰影が地面に映される様は……非常に不気味でこの世の人とは思えなかった。まるで、命を取りに来た死神のような――。
アビスは深々とお辞儀し、エマに見せつけるように悪魔の目を大きく見開いた。
「改めて自己紹介をしましょう。私は七魔牙 、第二魔牙 のアビス・レイザーと申します。そして、隠しても仕方がないので今言いますが……私は、あなたと今日――決別する覚悟です」
そう宣言したアビスの声は決して大きくなかったのに、地下で反響し今の言葉が嘘でないことを思い知らされるようだった。予想通り、七魔牙 と無関係ではなかったがまさか実行犯とは――。目の前に立つアビスの無機質な仮面からは何の感情も読み取ることは出来ず、エマは驚きと困惑から声を出せなかった。
「ですから、あなたとの最後の思い出として――私がこれより先の道案内を致しましょう。私の後ろに着いてくる勇気があるのなら、おいでなさい」
ローブをバサッと翻し、迷いを一切感じさせない確固たる足取りで、更に深い闇の中へとアビスは足を踏み入れていく。エマはその姿を見て、アビスが闇の中にそのまま吸い込まれて、このまま二度と会えないのではないかという胸騒ぎがした。
――そんなの絶対に嫌だ。
でも、この状況でエマは一つだけ、確かに気がついたことがあった。それは出会った時からアビスが、いつもエマに合わせてゆっくり歩いてくれていたということだった。最初、わたしが側に行くとあんなに嫌そうにしてたのに……それでも。なんでこんな時に限って――そういう彼のさりげない優しさに気づいてしまうのだろう。
エマはいけないとその場で強く首を振り、不安な気持ちに蓋をして、アビスの背中を追いかけた。だって、がむしゃらに追いかけないとその場で涙が溢れそうだったから。
*
ここはきっと七魔牙 の拠点の奥の奥。七魔牙 は確か七名から構成されている組織だったことをエマは思い出していた。なぜなら、今ここには悠々と椅子に座り、足を組み、威圧感を漂わせるたった一人の生徒しかいなかったからだ。だが、鈍いエマでもすぐに分かった。きっとこの人が、七魔牙 の首領、そして……。
「アベル様、お連れしました」
――アビスくんの一番大事な人だ。
アビスがそう声をかければ、その生徒はゆっくりと立ち上がり、エマとアビスを冷ややかな目で見下ろした。立つとまた、思わずひれ伏してしまうような荘厳なオーラがある。ついエマがそのオーラに萎縮していれば、彼はそれに気がついたようで軽くエマを一瞥し、アビスを見た。
「その子が……」
彼が先程立ち上がったことで、ぼんやりと灯っていた火の灯りが彼を照らし、その風貌を明らかにした。特徴的な銀と紫の綺麗なコントラストの髪、ぎらりと見た者を射抜くようなすみれ色の瞳、首を飾る白いエレガントなファー付きのフード、片手に無骨な人形を大事そうに抱えている彼の名前は、アベル・ウォーカー。レアン寮の監督生でイーストン魔法学校トップクラスの実力を誇る神覚者の最有力候補。レアンだけでなく、イーストン魔法学校内でも知らない人がいないくらいの有名人である。
「その子が、最近のアビスの刃を鈍らせている原因かい」
「……フフッ、ご冗談を。アベル様の言葉をお借りするならこのような――何の力も持たない劣等遺伝子が私に影響を与えるはずがありません」
「本当にそうかな? ……僕はそうは思わないけれど」
そう言ってアベルは、握った手から銀の級硬貨 をばらまいた。重力に逆らえず、アベルの手から離れた級硬貨 は床に音を立てて転がっていく。
「……ほら、見なよ。明らかに先月よりも回収率が劣っているじゃないか」
「――申し訳ございません……」
アベルに詰められて、深々と目の前で頭を下げるアビスは本当に悔しそうな声で呟くように事実を詫びた。そして、アベルはエマに向き直った。
「君のようなただの弱きウサギが、僕の邪魔をするなんて許されることではないんだ。分かるかい?」
僕の邪魔って……この人、アビスくん達を利用して、神覚者になるために級硬貨 を不正にも近しい形で皆から強奪して回っているだけじゃないか。
「……わたし、ウサギじゃないです! 人間のエマ・カルネです。あと、アビスくんのこと責めないでください」
「君は比喩が理解できないのか? それに……僕はアビスのことを責めていない。事実を告げてるだけだ」
「事実って……」
「僕の目的は神覚者になること。神覚者とはこの世界を想像する者……この世界の支配者だ。アビス、支配者にふさわしい資質はなんだ?」
「――高潔なる血と物言いを許さない圧倒的な力です」
「そうつまり……アドラの奴らではない。我々レアンだ。……だが実際はどうだろう?」
きらきらと光る金の級硬貨 を光にかざし、アベルは顔に手を当て呆れたようにため息をついた。そしてアビスをその鋭い眼光で強く睨んだ。
「……アビス、君はいつからそんな甘い人間になった。僕はそこを高く評価していたのに。――この間君に『不利益になることではないか』と聞いた時に、否定をしたのは嘘だったのか」
声を荒げずとも、冷や汗が出てくるほどのアベルの迫力にアビスは全く動じていなかった。それに対して極めて冷静に……嘘をついているなんて微塵も思えない真摯な態度で、アビスは首を横に振って否定した。
「いいえ、嘘ではありません。一重に私の不甲斐なさです。ですので……どうか彼女には御容赦を」
懇願するようにアベルに頭を垂れるその様は、その場にいたエマの胸を熱くさせた。きっとアビスは、ずっと守ろうとしてくれていたに違いない。エマの事を、エマの為に。
――私の命に変えてもあなたには危害を加えないと約束します
その言葉が思い返され、エマは純粋に嬉しくなった。
「……フン。これなら手を下すまでもないよ。君に連れてこいと僕が命じた時も大分渋っていたように見えたから、どんな子が来るのかと思っていれば……随分拍子抜けだ。こんな弱そうな女の子とは……」
……ちょっと待ってよ! さっきから黙って聞いていれば、エマってば、ウサギとか弱そうとか凄く酷いこと言われてるよね。失礼しちゃう! エマが憤って、それを言葉にしようと思ったその瞬間。アベルは人形を撫でながら、もう一度エマに向き直って不思議そうにこう聞いた。
「これは僕の純粋な興味本位で聞くんだけど……君、どうやってアビスを落としたんだい?」
このタイミングでこんな質問が来ると思わなかったエマは、なぜか一本取られて悔しい気持ちになった。というか……どうやってアビスを落としたかって――そんなの落とせたかどうか、エマが一番聞きたいんですけど!
「……まだ返事はもらってないの」
正直にそう答えれば、アベルは驚いたように目を見開いた。
「へぇ。既にもう、そういう仲だと思っていたけど違うんだ」
「そういう仲って……」
「アビスも君みたいな奴のどこがいいと思ったんだか知らないけど。いや……素直に、よく彼を陥落したなっていう称賛の気持ちがあってさ」
君みたいな奴って何よ。まるでエマに魅力が全くないみたい! そんな最中、アビスをちらりと見れば下を見て俯いていて。沈黙を貫いているところを見ると恥ずかしいのかもしれない。きっとこういう恋愛的なイジりに彼は慣れていないのだ。
「ほら……君も既に見ていると思うが、アビスは女子に大して全く免疫がないだろう。だから女の子と話すなんて器用な真似出来ないはずなんだけど……」
アベルが言っているのは――あのフードなしで話しかけると急に振動し出す、バイブレーション機能のことか。最初の頃は風でフードがめくれただけで、急に震えだして吐血なんてこともよくあったなと思い返して、エマはここまできた自分の努力を褒めたくなった。
「それは……あなたの言う通りです。だから、わたしに慣れてもらうためにもフードを被って、アビスくんのこと追いかけ回してました。それこそ、まずは仲良くなりたくて……」
「ふーん……アビスにそこまでする価値があったのかい? 彼が悪魔の目を持っていることを知らないわけじゃないんだろう?」
悪魔の目。魔法が全てのこの世界で持って生まれたら、一生忌み嫌われる。それこそ、悪魔の呪いだ――でも、悪魔の呪いなんて、一体誰が決めたのか。
「関係ありません」
この事だけは、何の迷いもなく言い切れる。エマは俯くアビスにニッコリ微笑んで、アベルにピースサインで力強く答えた。
「悪魔の目も含めて、アビスくんはアビスくんで……優しくて、素敵で、もう最高にかっこよくてエマの心を鷲掴みって感じなの!」
その答えにアベルは人形を撫でる手を止め、沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「なるほど、理解したよ。やはり……君は頭が少し劣っているようだ」
ど、どうして……! ショックを受けて、後ずさればトンと誰かにぶつかって。優しく肩に手を置いて受け止めてくれたのはアビスくんだった。
「――アベル様、もうよろしいでしょう。そもそも、私は彼女のことなんて……何とも思っていませんから」
エマは知らなかった。何とも思っていない――と言葉にされると、こんなに心が苦しいものなのだということを。嘘であって欲しいと気持ちを込めてアビスの方を振り向けば、何の反応もなかったことがエマにとっては一番辛かった。
「良かったじゃないか、聞きたかった返事が今聞けて」
淡々と言うアベルに対してエマは唇を引き結ぶことしかできない。なぜなら、そうしていなかったら、涙がこぼれ落ちそうだったからだ。それを我慢できたのは、アベルにはそんなところを絶対に見られたくないという反骨精神だった。
「……失礼します」
そこから早く立ち去りたくてたまらなくて、その言葉を残して歩き出すのが今のエマにできる限界だった。
*
一定の距離をあけつつ、後ろからアビスくんが着いてきているのをエマは気がついていた。
「アビスくん、いるんでしょう?」
アビスは無言でゆっくりとエマとの距離を詰めて、その仮面をはずした。窺い知ることの出来なかったその表情は、儚げでいて綺麗な微笑を携えていた。そう、今にも消えてしまいそうな程に。
「アビスくんも……そんな寂しそうに笑うなら、あんな事言わなきゃいいのに」
「私は……先程も言ったでしょう、あなたと今日決別すると」
あぁ、本気なんだ。アビスはそんな冗談を言うタイプではないのは重々把握しているが、それでも冗談であればいいのにと、わずかに期待してしまっていた自分がいるのは事実だった。
「エマ、男の子に一世一代のあんな大告白したの初めてだよ。なのに、告白の答えすら直接聞けずに……」
怖くて顔をあげられない。今すぐ耳を塞ぎたい。エマは声を振り絞るので、精一杯だった。これに対する答えを聞いてしまったら、もう――我慢できないかもしれない。
「エマ、ごめんなさい。私はやはり――あなたと一緒にいることはできません」
「どうして……」
アビスはエマのその問いに、ゆっくりと静かに首を横に振った。たいまつで照らされて、地面に落ちた影も静かに揺れて。
「こんな私のことを肯定し、好きになってくれてありがとうございます。――ですが、私にも事情があるのです。残念ですが、この世の物事には常に優先順位がありますから」
「そこまでする事情って……」
「……アベル様の目的の達成のためです。そのためにまずは七魔牙 として、級硬貨 をたくさん集める必要がある。その後は利用価値のある道具として、神覚者となったアベル様の望む世界を創造するお手伝いをする――。私は彼のお役に立てないのであれば、また必要のない人間に戻ってしまいますから」
どうして自分の事情を語っているのに、そんなに辛そうな顔してるんだろう。どうしてそんなに消え入りそうなか細い声で言うのだろう。アビスは、エマが必要としていたことをもう忘れてしまったのだろうか。でも―― エマは、本当はわかっていた。それよりも、ずっと、彼にとっては大事なことなんだろう。アベルに初めて必要としてもらえたアビスの気持ちは計り知れない――。
「エマじゃ……ダメなんだね」
「いいえ……何の条件も駆け引きもなしに、私自身をを必要としてくれたこと、嬉しかったですよ。だからこそ、あなたといると決心が鈍る……はっきり言いましょう」
アビスは一瞬、言葉を選ぶように間を置いて、エマに今まで見たことないくらいに優しい表情で微笑んだ。
「好きです―― エマ。あなたのことが。でも、アベル様を思う気持ちと、あなたを思う気持ちを不器用な私は両立できない」
「アビスくん……」
あなたがその言葉を言うのに、どれだけ勇気がいっただろうか。ちゃんと言葉にするのに、どれだけ時間をかけてくれたんだろうか。その背景を想像するだけでエマは胸がいっぱいになった。エマのことを構わず、アビスは続ける。
「自分でも分かっています。あなたのその二番目でもいいと言ってくれた優しい心につけこみ、甘えていることに。だから……今ここでさよならしましょう。次、私のことを見かけたとしても、その時は他人です。私のことは――忘れてください」
アビスの慈愛のこもった眼差しが、尚更エマの心を締め付け、苦しくさせる。そんな表情しかさせられない自分にも憤りを感じると同時に、アベルに対しての複雑な感情が湧き上がって、エマはどうしたらいいかわからなかった。なんで、一緒にいることがこんなに難しいんだろう。
「それに……私といるとあなたまで避けられてしまいますから。ここが――潮時です」
いつも自分のことより他人のことを優先してしまう彼は、今も、きっと先の未来ですら――おそらくどちらかしか選べない。そんなアビスのことが好きなのに、胸が掻き乱されてこんなに苦しい。
「アビスくん、さっきから自分の気持ちばかりで…… エマのことは! エマの気持ちは……っ、置き去りにするの?」
もやもやとした気持ちを素直に問えば、アビスは困ったように笑った。
「フフッ、そう言われてしまっても仕方ありませんね。――でも、もう僕達は借りてはいけない力にも手を出してしまっている。いずれ何らかの形で処罰を受けることは非を見るよりも明らか。君を巻き込みたくない」
アビスのその強い決意に、入り込む隙間はもうないのかもしれない。でも、諦めたくない。ぐっと力を込めた自分の握りこぶしは爪が食い込んで痛いくらいだった。
「またそうやって、自分の理由で人のこと遠ざけようとするんだ」
「分かってください…… エマ。被害が君に及ぶことがあるかもしれない、もう僕達は引き返せないところまで来ているのです」
アビスが諭すように言うことに対して、エマはもう自分の瞳から涙が溢れてくるのを止めることができなかった。止めようとも思わなかった。だって、心からの思いを止められるわけがない。
「分かってたよ、最初からアビスくん達が悪いことしてるって! でもそれでも、一緒にいたかったから聞かなかった! だって……聞いて欲しくないの分かってたし、聞いたらいなくなっちゃいそうだったから――」
「フフ……君は、変なところ鋭いですね。できれば、その鋭さは僕の前では隠しておいて欲しかった」
「そんな器用なこと、エマができると思ってるならお生憎様。……に、しても予想通りだったな〜、エマってばこういう時の勘はいつも外さないんだ」
おどけてみせる自分が、あまりにも非力なことを痛感し、エマは自分の涙を拭うことしかできなかった。アビスはそれを黙って見ているだけで。――もう涙も、拭いてもらえないんだ。綺麗にアイロンのかかった無地のハンカチ……いい匂いだったな。そんなアビスとの出来事を思い出して、余計に悲しくなって。
「……アビスくんのそれは、優しさじゃないよ。ただの自己満足。わたし、巻き込まないでなんて頼んでない!」
それはエマが自分でも驚くくらい大きな声だった。その声は狭い地下通路で響き渡り、自分の抑えきれなかった気持ちが体現化したようで。それを聞いたアビスは数秒間俯いて、申し訳なさそうに顔を上げた。その顔は、一言で言うと息を呑むくらい美しかった。
「きっと……僕はエマよりわがままなんでしょうね。こんな愛し方しかできない私をどうか――許してください」
アビスは自分を責めるように、そして懇願するようにエマにそう言った。もしかしたら、とエマは思う。きっと誰かを思い、決意し、揺らがない意志を持って、何かを貫き通そうとする時の顔は皆、美しいのかもしれない。
「……そんな言い方っ、ずるいよ……!」
「アベル様は価値と居場所を、君は愛を与えてくれました。本当に、本当に心の底から嬉しかった――ありがとう、エマ。……さよならです」
エマの返事を聞かずに踵を返し、アビスは先程のアベルがいた場所へと迷いない足取りで、前へ進んでいく。コツコツと鳴り響くその足音が聞こえなくなったら、もう今までみたいに話しかけてくれることはなくなってしまうのだろう。……好きって、言ってくれたのに。
「アビスくん! わたし、待ってるから!」
アビスの後ろ姿にエマは叫んだ。だが、決意したアビスが振り返ることない。分かっていてもエマは続ける。
「だから、だから……」
「……」
「待ってる間に、エマはアベルくんと仲良くなるよ!」
アビスが振り返ったのは、その言葉を叫んだ瞬間だった。そして、焦ったように靴を鳴らして進行方向とは逆の方へ歩みを進める。つまり……あ、戻ってきた。
「エマ! あなた、ちゃんと話を聞いていたのですか!」
さっきの雰囲気とは打って変わった形相と、凄い剣幕で言ってくるアビスに、エマはつい耳を塞ぎたくなった。
「聞いてたよ〜、エマってばえらいので、ちゃんとアビスくんの話を聞きながら、どうしたらいいか考えてたよ」
本当にそう思っていたのでそう言っただけなのだが。
「ここまでの流れはそういう感じじゃなかったでしょう……!」
アビスは子供を注意するようにエマを叱った。その姿はまるで小言の多い母親のようで。
「むむ……だって、アビスくんもエマのこと好きで、エマもアビスくんのこと好きだったら離れる必要なくない?」
「それは、そうですけど……危険に巻き込みたくないんです!」
「でも、エマは巻き込まれてもいいと思ってるのよ?」
「このわからず屋め……。だから私が……っ、耐えられない」
「はい! その発言! あなたのわがままですね?」
急にビシッとアビスを指させば、驚いたようにエマを見て。ここまできたら、言ってることは駄々っ子と一緒だぜアビスくん。
「ってことは、わたしだってわがままにいっちゃうよ。敵を知り、己を知れば、百戦|殆うからずってね……アベルくんと仲良くなっちゃえば、もう全部解決じゃないですか」
パチッと星が出るイメージでウインクすればアビスは頭を抱えてエマを見ていて。
「エマ、それはこの場合に使う言葉ではないですよ……。そもそも、なぜここまで話を聞いて、アベル様と仲良くなるなんてそんな突拍子もない発想が出てくるのですか! そもそも、私が一体どんな気持ちで言ったと……」
「分かってるよ、だからわたしも一緒に背負うって言ってんの」
「あぁもう! あなたって人は……分かりましたよ……」
アビスは力が抜けたのか、半ば諦めたように了承した。その場ではするしかなかったのだろうが。―― エマは、既に嫌な印象しかないアベルとどうやって仲良くなるべきか脳内で作戦を立て始めた。
エマがアビスを見つけて学校や寮内で話しかけても、むっとして鬱陶しそうに顔を歪めたり、あからさまに素っ気なくされることもなくなった。なんなら、アビスの機嫌がいいとその美しい顔立ちで、微笑みを浮かべて見せてくれることさえある。不満といえば、やはり基本的には仮面を外してくれないことと、まだ名前を全然呼んでくれないことだけが寂しいくらいだ。でも、十分エマは幸せだった。
本人にも言ったが、まさに例えるならわんわんと大きな声で吠える警戒心の強い野良犬を懐柔した気分なのである。ずっと通いつめてることで、慣れてようやく室内犬になったというところか。室内犬になってくれたのもつい最近ではあるが――。そんなことをエマが思っていれば、自分を呼ぶ声が少し後ろから聞こえた。
「エマ」
この透き通った凛とした声は、アビスくんだ。自分の名前を呼んでもらえた嬉しさにエマの頬は緩む。つい、お代わりが欲しくなったのはただの欲でしかない。
「はい! エマに用があるならもう一回エマの名前呼んで!」
「? ……間髪入れずに何言ってるんですか君は。用があるから名前を呼んでいるのですよ」
自分を覆う仮面に手を当て、呆れたような声を出すアビスはまた何かの用事の途中なのかもしれない。でもきっと――その用事はあまりいいことではないのだろう。たまに生臭い血の臭いが、彼の洗いたての石鹸のようないい香りに混じって漂うのをエマは気が付いていた。
「え〜? でも、エマに話しかけたかったんでしょ? それが嬉しいの!」
「ハァ……あなたも飽きませんね。私の言うことにいちいち一喜一憂して疲れないのですか?」
アビスは何言っているのだろう。飽きるわけがない。こちとら、スタートが塩対応から始まっているのだ。
「いいですか……今日、寮の消灯時間が過ぎた午後十一時頃、この廊下を真っ直ぐ行った突き当たりで待っていなさい」
「えっ……深夜に校内デートのお誘いですか?」
消灯時間を過ぎてからのめくるめく校内デート――。そんな背徳感とスリルを味わえそうな上級者デートを提案してくるなんて、流石アビスくんだとエマは感心する。これは、女性に慣れていないアビスならではものだろうか。そんなわくわくする提案にエマの鼓動が高鳴るのと、アビスから「君は口が減りませんね」を言われるのはほぼ同時だった。こんなふうにグサッと切れ味鋭く刺してくるのは、アビスくんの良いところである……。
エマが大ダメージを受けているとは露知らず、アビスはエマに向かって淡々と言い放った。
「事情はその時、説明します」
事情とは――さっきアビスからした血の臭いと何か関係があるのだろうか。最近の事件といえば、
「そんな不安そうな顔をしないでください。私の命に変えてもあなたには危害を加えないと約束します」
「危害なんて……あの、そうじゃなくて……」
「……すみません、今日は予定があるのです。これで失礼します」
そう言って踵を返し、レアンのローブを揺らしながら遠ざかっていくアビスの背中を見ながら、嫌な予感で心がざわついていくのを感じ、エマは思わずぎゅっと胸を押さえた――。
*
約束の深夜十一時。見回りの教師に捕まったら一巻の終わりだ。良くて厳重注意、悪くて謹慎処分。厳格なイーストンはルールにおいて非常に厳しいのだ。どちらかといえば、素行に関しては優等生を貫いているエマは深夜徘徊している背徳感でどきどきしていた。
「こんなところにいたのですか、探しましたよ」
「きゃっ!」
廊下の突き当りでしゃがみこんで、辺りを窺っていたエマは急に話しかけられたことに驚いて、思わず声を上げてしまった。
「静かになさい……あなたに反応して教師たちが寄ってくるでしょう」
「いやいや、今のは気配を消して近づいてくるアビスくんが悪くないか……?」
「そうでしょうか。私は声をかけるまで気がつかないような君の鈍さがいけないと思いますが」
――喧嘩勃発はしない。エマが我慢したからだ。
アビスはそんなことなどお構い無しに静かに床を見据え、自分の所持する剣に手を伸ばして呪文を唱えた。
「ディスクロズ」
アビスがそれを唱えた途端――自分たちのいる真下に突如ドアが出現した。そしてそのドアの輪郭をなぞる様にまばゆい光が走り、より鮮明に地下への道を浮かび上がらせた。本来何もなかった場所に隠されていたドアは、そのままエマたちを待っていたかのようにゆっくりと開き、その奥には二人を手招きするように地下へと階段が続いていた。
「えぇ、なにこれ……?」
突然の出来事にエマは目を見開き、口からは困惑の言葉しか出てこなかった。
「さぁ、行きましょうか」
「行きましょうかって……アビスくん……」
アビスの有無を言わさない雰囲気にそれ以上エマは何も言えず、彼の後ろについて行くことしか出来なかった。
*
「何、ここ? 闘技場に見えるけど……」
見渡す限りの壁面には大きなヒビが入っており、石で作られたフィールドも傷だらけなことからかなり年期が入っているのが見受けられる。エマの質問にアビスは静かに頷き、こう言った。
「ここは大昔の決闘場――今在籍する教師が誰も知らないような、ね。僕達のような人間が悪巧みするには都合がいい場所ということです」
「悪巧みって……やっぱり」
「…… エマ、あなたは本当に素直で良い子です。でも純粋無垢故に、何も知らない籠の中の鳥。なので、本当の私を知ってもらうためにここへお呼びしました」
淡々と前だけを向いて歩くアビスは、エマの方を一度も振り返ることなく抑揚のない声で話を続ける。
「あなたもレアンの一生徒ならば、
闘技場を抜けてだいぶ進んだところで、ピタッとアビスは立ち止まった。そして、エマの方に向き直れば、その瞬間、暗く冷たい空気が漂う地下通路のたいまつにひとりでにボボボっと火が灯って。そのゆらりと揺れる火でアビスの仮面はぼんやりと照らされ、立ち姿の陰影が地面に映される様は……非常に不気味でこの世の人とは思えなかった。まるで、命を取りに来た死神のような――。
アビスは深々とお辞儀し、エマに見せつけるように悪魔の目を大きく見開いた。
「改めて自己紹介をしましょう。私は
そう宣言したアビスの声は決して大きくなかったのに、地下で反響し今の言葉が嘘でないことを思い知らされるようだった。予想通り、
「ですから、あなたとの最後の思い出として――私がこれより先の道案内を致しましょう。私の後ろに着いてくる勇気があるのなら、おいでなさい」
ローブをバサッと翻し、迷いを一切感じさせない確固たる足取りで、更に深い闇の中へとアビスは足を踏み入れていく。エマはその姿を見て、アビスが闇の中にそのまま吸い込まれて、このまま二度と会えないのではないかという胸騒ぎがした。
――そんなの絶対に嫌だ。
でも、この状況でエマは一つだけ、確かに気がついたことがあった。それは出会った時からアビスが、いつもエマに合わせてゆっくり歩いてくれていたということだった。最初、わたしが側に行くとあんなに嫌そうにしてたのに……それでも。なんでこんな時に限って――そういう彼のさりげない優しさに気づいてしまうのだろう。
エマはいけないとその場で強く首を振り、不安な気持ちに蓋をして、アビスの背中を追いかけた。だって、がむしゃらに追いかけないとその場で涙が溢れそうだったから。
*
ここはきっと
「アベル様、お連れしました」
――アビスくんの一番大事な人だ。
アビスがそう声をかければ、その生徒はゆっくりと立ち上がり、エマとアビスを冷ややかな目で見下ろした。立つとまた、思わずひれ伏してしまうような荘厳なオーラがある。ついエマがそのオーラに萎縮していれば、彼はそれに気がついたようで軽くエマを一瞥し、アビスを見た。
「その子が……」
彼が先程立ち上がったことで、ぼんやりと灯っていた火の灯りが彼を照らし、その風貌を明らかにした。特徴的な銀と紫の綺麗なコントラストの髪、ぎらりと見た者を射抜くようなすみれ色の瞳、首を飾る白いエレガントなファー付きのフード、片手に無骨な人形を大事そうに抱えている彼の名前は、アベル・ウォーカー。レアン寮の監督生でイーストン魔法学校トップクラスの実力を誇る神覚者の最有力候補。レアンだけでなく、イーストン魔法学校内でも知らない人がいないくらいの有名人である。
「その子が、最近のアビスの刃を鈍らせている原因かい」
「……フフッ、ご冗談を。アベル様の言葉をお借りするならこのような――何の力も持たない劣等遺伝子が私に影響を与えるはずがありません」
「本当にそうかな? ……僕はそうは思わないけれど」
そう言ってアベルは、握った手から銀の
「……ほら、見なよ。明らかに先月よりも回収率が劣っているじゃないか」
「――申し訳ございません……」
アベルに詰められて、深々と目の前で頭を下げるアビスは本当に悔しそうな声で呟くように事実を詫びた。そして、アベルはエマに向き直った。
「君のようなただの弱きウサギが、僕の邪魔をするなんて許されることではないんだ。分かるかい?」
僕の邪魔って……この人、アビスくん達を利用して、神覚者になるために
「……わたし、ウサギじゃないです! 人間のエマ・カルネです。あと、アビスくんのこと責めないでください」
「君は比喩が理解できないのか? それに……僕はアビスのことを責めていない。事実を告げてるだけだ」
「事実って……」
「僕の目的は神覚者になること。神覚者とはこの世界を想像する者……この世界の支配者だ。アビス、支配者にふさわしい資質はなんだ?」
「――高潔なる血と物言いを許さない圧倒的な力です」
「そうつまり……アドラの奴らではない。我々レアンだ。……だが実際はどうだろう?」
きらきらと光る金の
「……アビス、君はいつからそんな甘い人間になった。僕はそこを高く評価していたのに。――この間君に『不利益になることではないか』と聞いた時に、否定をしたのは嘘だったのか」
声を荒げずとも、冷や汗が出てくるほどのアベルの迫力にアビスは全く動じていなかった。それに対して極めて冷静に……嘘をついているなんて微塵も思えない真摯な態度で、アビスは首を横に振って否定した。
「いいえ、嘘ではありません。一重に私の不甲斐なさです。ですので……どうか彼女には御容赦を」
懇願するようにアベルに頭を垂れるその様は、その場にいたエマの胸を熱くさせた。きっとアビスは、ずっと守ろうとしてくれていたに違いない。エマの事を、エマの為に。
――私の命に変えてもあなたには危害を加えないと約束します
その言葉が思い返され、エマは純粋に嬉しくなった。
「……フン。これなら手を下すまでもないよ。君に連れてこいと僕が命じた時も大分渋っていたように見えたから、どんな子が来るのかと思っていれば……随分拍子抜けだ。こんな弱そうな女の子とは……」
……ちょっと待ってよ! さっきから黙って聞いていれば、エマってば、ウサギとか弱そうとか凄く酷いこと言われてるよね。失礼しちゃう! エマが憤って、それを言葉にしようと思ったその瞬間。アベルは人形を撫でながら、もう一度エマに向き直って不思議そうにこう聞いた。
「これは僕の純粋な興味本位で聞くんだけど……君、どうやってアビスを落としたんだい?」
このタイミングでこんな質問が来ると思わなかったエマは、なぜか一本取られて悔しい気持ちになった。というか……どうやってアビスを落としたかって――そんなの落とせたかどうか、エマが一番聞きたいんですけど!
「……まだ返事はもらってないの」
正直にそう答えれば、アベルは驚いたように目を見開いた。
「へぇ。既にもう、そういう仲だと思っていたけど違うんだ」
「そういう仲って……」
「アビスも君みたいな奴のどこがいいと思ったんだか知らないけど。いや……素直に、よく彼を陥落したなっていう称賛の気持ちがあってさ」
君みたいな奴って何よ。まるでエマに魅力が全くないみたい! そんな最中、アビスをちらりと見れば下を見て俯いていて。沈黙を貫いているところを見ると恥ずかしいのかもしれない。きっとこういう恋愛的なイジりに彼は慣れていないのだ。
「ほら……君も既に見ていると思うが、アビスは女子に大して全く免疫がないだろう。だから女の子と話すなんて器用な真似出来ないはずなんだけど……」
アベルが言っているのは――あのフードなしで話しかけると急に振動し出す、バイブレーション機能のことか。最初の頃は風でフードがめくれただけで、急に震えだして吐血なんてこともよくあったなと思い返して、エマはここまできた自分の努力を褒めたくなった。
「それは……あなたの言う通りです。だから、わたしに慣れてもらうためにもフードを被って、アビスくんのこと追いかけ回してました。それこそ、まずは仲良くなりたくて……」
「ふーん……アビスにそこまでする価値があったのかい? 彼が悪魔の目を持っていることを知らないわけじゃないんだろう?」
悪魔の目。魔法が全てのこの世界で持って生まれたら、一生忌み嫌われる。それこそ、悪魔の呪いだ――でも、悪魔の呪いなんて、一体誰が決めたのか。
「関係ありません」
この事だけは、何の迷いもなく言い切れる。エマは俯くアビスにニッコリ微笑んで、アベルにピースサインで力強く答えた。
「悪魔の目も含めて、アビスくんはアビスくんで……優しくて、素敵で、もう最高にかっこよくてエマの心を鷲掴みって感じなの!」
その答えにアベルは人形を撫でる手を止め、沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「なるほど、理解したよ。やはり……君は頭が少し劣っているようだ」
ど、どうして……! ショックを受けて、後ずさればトンと誰かにぶつかって。優しく肩に手を置いて受け止めてくれたのはアビスくんだった。
「――アベル様、もうよろしいでしょう。そもそも、私は彼女のことなんて……何とも思っていませんから」
エマは知らなかった。何とも思っていない――と言葉にされると、こんなに心が苦しいものなのだということを。嘘であって欲しいと気持ちを込めてアビスの方を振り向けば、何の反応もなかったことがエマにとっては一番辛かった。
「良かったじゃないか、聞きたかった返事が今聞けて」
淡々と言うアベルに対してエマは唇を引き結ぶことしかできない。なぜなら、そうしていなかったら、涙がこぼれ落ちそうだったからだ。それを我慢できたのは、アベルにはそんなところを絶対に見られたくないという反骨精神だった。
「……失礼します」
そこから早く立ち去りたくてたまらなくて、その言葉を残して歩き出すのが今のエマにできる限界だった。
*
一定の距離をあけつつ、後ろからアビスくんが着いてきているのをエマは気がついていた。
「アビスくん、いるんでしょう?」
アビスは無言でゆっくりとエマとの距離を詰めて、その仮面をはずした。窺い知ることの出来なかったその表情は、儚げでいて綺麗な微笑を携えていた。そう、今にも消えてしまいそうな程に。
「アビスくんも……そんな寂しそうに笑うなら、あんな事言わなきゃいいのに」
「私は……先程も言ったでしょう、あなたと今日決別すると」
あぁ、本気なんだ。アビスはそんな冗談を言うタイプではないのは重々把握しているが、それでも冗談であればいいのにと、わずかに期待してしまっていた自分がいるのは事実だった。
「エマ、男の子に一世一代のあんな大告白したの初めてだよ。なのに、告白の答えすら直接聞けずに……」
怖くて顔をあげられない。今すぐ耳を塞ぎたい。エマは声を振り絞るので、精一杯だった。これに対する答えを聞いてしまったら、もう――我慢できないかもしれない。
「エマ、ごめんなさい。私はやはり――あなたと一緒にいることはできません」
「どうして……」
アビスはエマのその問いに、ゆっくりと静かに首を横に振った。たいまつで照らされて、地面に落ちた影も静かに揺れて。
「こんな私のことを肯定し、好きになってくれてありがとうございます。――ですが、私にも事情があるのです。残念ですが、この世の物事には常に優先順位がありますから」
「そこまでする事情って……」
「……アベル様の目的の達成のためです。そのためにまずは
どうして自分の事情を語っているのに、そんなに辛そうな顔してるんだろう。どうしてそんなに消え入りそうなか細い声で言うのだろう。アビスは、エマが必要としていたことをもう忘れてしまったのだろうか。でも―― エマは、本当はわかっていた。それよりも、ずっと、彼にとっては大事なことなんだろう。アベルに初めて必要としてもらえたアビスの気持ちは計り知れない――。
「エマじゃ……ダメなんだね」
「いいえ……何の条件も駆け引きもなしに、私自身をを必要としてくれたこと、嬉しかったですよ。だからこそ、あなたといると決心が鈍る……はっきり言いましょう」
アビスは一瞬、言葉を選ぶように間を置いて、エマに今まで見たことないくらいに優しい表情で微笑んだ。
「好きです―― エマ。あなたのことが。でも、アベル様を思う気持ちと、あなたを思う気持ちを不器用な私は両立できない」
「アビスくん……」
あなたがその言葉を言うのに、どれだけ勇気がいっただろうか。ちゃんと言葉にするのに、どれだけ時間をかけてくれたんだろうか。その背景を想像するだけでエマは胸がいっぱいになった。エマのことを構わず、アビスは続ける。
「自分でも分かっています。あなたのその二番目でもいいと言ってくれた優しい心につけこみ、甘えていることに。だから……今ここでさよならしましょう。次、私のことを見かけたとしても、その時は他人です。私のことは――忘れてください」
アビスの慈愛のこもった眼差しが、尚更エマの心を締め付け、苦しくさせる。そんな表情しかさせられない自分にも憤りを感じると同時に、アベルに対しての複雑な感情が湧き上がって、エマはどうしたらいいかわからなかった。なんで、一緒にいることがこんなに難しいんだろう。
「それに……私といるとあなたまで避けられてしまいますから。ここが――潮時です」
いつも自分のことより他人のことを優先してしまう彼は、今も、きっと先の未来ですら――おそらくどちらかしか選べない。そんなアビスのことが好きなのに、胸が掻き乱されてこんなに苦しい。
「アビスくん、さっきから自分の気持ちばかりで…… エマのことは! エマの気持ちは……っ、置き去りにするの?」
もやもやとした気持ちを素直に問えば、アビスは困ったように笑った。
「フフッ、そう言われてしまっても仕方ありませんね。――でも、もう僕達は借りてはいけない力にも手を出してしまっている。いずれ何らかの形で処罰を受けることは非を見るよりも明らか。君を巻き込みたくない」
アビスのその強い決意に、入り込む隙間はもうないのかもしれない。でも、諦めたくない。ぐっと力を込めた自分の握りこぶしは爪が食い込んで痛いくらいだった。
「またそうやって、自分の理由で人のこと遠ざけようとするんだ」
「分かってください…… エマ。被害が君に及ぶことがあるかもしれない、もう僕達は引き返せないところまで来ているのです」
アビスが諭すように言うことに対して、エマはもう自分の瞳から涙が溢れてくるのを止めることができなかった。止めようとも思わなかった。だって、心からの思いを止められるわけがない。
「分かってたよ、最初からアビスくん達が悪いことしてるって! でもそれでも、一緒にいたかったから聞かなかった! だって……聞いて欲しくないの分かってたし、聞いたらいなくなっちゃいそうだったから――」
「フフ……君は、変なところ鋭いですね。できれば、その鋭さは僕の前では隠しておいて欲しかった」
「そんな器用なこと、エマができると思ってるならお生憎様。……に、しても予想通りだったな〜、エマってばこういう時の勘はいつも外さないんだ」
おどけてみせる自分が、あまりにも非力なことを痛感し、エマは自分の涙を拭うことしかできなかった。アビスはそれを黙って見ているだけで。――もう涙も、拭いてもらえないんだ。綺麗にアイロンのかかった無地のハンカチ……いい匂いだったな。そんなアビスとの出来事を思い出して、余計に悲しくなって。
「……アビスくんのそれは、優しさじゃないよ。ただの自己満足。わたし、巻き込まないでなんて頼んでない!」
それはエマが自分でも驚くくらい大きな声だった。その声は狭い地下通路で響き渡り、自分の抑えきれなかった気持ちが体現化したようで。それを聞いたアビスは数秒間俯いて、申し訳なさそうに顔を上げた。その顔は、一言で言うと息を呑むくらい美しかった。
「きっと……僕はエマよりわがままなんでしょうね。こんな愛し方しかできない私をどうか――許してください」
アビスは自分を責めるように、そして懇願するようにエマにそう言った。もしかしたら、とエマは思う。きっと誰かを思い、決意し、揺らがない意志を持って、何かを貫き通そうとする時の顔は皆、美しいのかもしれない。
「……そんな言い方っ、ずるいよ……!」
「アベル様は価値と居場所を、君は愛を与えてくれました。本当に、本当に心の底から嬉しかった――ありがとう、エマ。……さよならです」
エマの返事を聞かずに踵を返し、アビスは先程のアベルがいた場所へと迷いない足取りで、前へ進んでいく。コツコツと鳴り響くその足音が聞こえなくなったら、もう今までみたいに話しかけてくれることはなくなってしまうのだろう。……好きって、言ってくれたのに。
「アビスくん! わたし、待ってるから!」
アビスの後ろ姿にエマは叫んだ。だが、決意したアビスが振り返ることない。分かっていてもエマは続ける。
「だから、だから……」
「……」
「待ってる間に、エマはアベルくんと仲良くなるよ!」
アビスが振り返ったのは、その言葉を叫んだ瞬間だった。そして、焦ったように靴を鳴らして進行方向とは逆の方へ歩みを進める。つまり……あ、戻ってきた。
「エマ! あなた、ちゃんと話を聞いていたのですか!」
さっきの雰囲気とは打って変わった形相と、凄い剣幕で言ってくるアビスに、エマはつい耳を塞ぎたくなった。
「聞いてたよ〜、エマってばえらいので、ちゃんとアビスくんの話を聞きながら、どうしたらいいか考えてたよ」
本当にそう思っていたのでそう言っただけなのだが。
「ここまでの流れはそういう感じじゃなかったでしょう……!」
アビスは子供を注意するようにエマを叱った。その姿はまるで小言の多い母親のようで。
「むむ……だって、アビスくんもエマのこと好きで、エマもアビスくんのこと好きだったら離れる必要なくない?」
「それは、そうですけど……危険に巻き込みたくないんです!」
「でも、エマは巻き込まれてもいいと思ってるのよ?」
「このわからず屋め……。だから私が……っ、耐えられない」
「はい! その発言! あなたのわがままですね?」
急にビシッとアビスを指させば、驚いたようにエマを見て。ここまできたら、言ってることは駄々っ子と一緒だぜアビスくん。
「ってことは、わたしだってわがままにいっちゃうよ。敵を知り、己を知れば、百戦|殆うからずってね……アベルくんと仲良くなっちゃえば、もう全部解決じゃないですか」
パチッと星が出るイメージでウインクすればアビスは頭を抱えてエマを見ていて。
「エマ、それはこの場合に使う言葉ではないですよ……。そもそも、なぜここまで話を聞いて、アベル様と仲良くなるなんてそんな突拍子もない発想が出てくるのですか! そもそも、私が一体どんな気持ちで言ったと……」
「分かってるよ、だからわたしも一緒に背負うって言ってんの」
「あぁもう! あなたって人は……分かりましたよ……」
アビスは力が抜けたのか、半ば諦めたように了承した。その場ではするしかなかったのだろうが。―― エマは、既に嫌な印象しかないアベルとどうやって仲良くなるべきか脳内で作戦を立て始めた。