1.ふたりとの鮮烈な出会い〜アビス編〜
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相手の魔法を一時的に使えなくする悪魔の目。魔法が全てのこの世界で畏怖の対象として避けられる――間引きされるべき、人間。それがアビス・レイザーである。
ぎらりと赤く光る悪魔の目を今日も仮面で隠し、アビスは目的遂行の為に歩いていた。七魔牙 の第二魔牙 としての役割を果たすために。道具としての必要性――利用価値を示すために。
「重い……」
絞り出すようなそんな声が聞こえたのは、前方からで。この忌まわしい目のせいで下を見て歩くのが癖になっているせいか、アビスは気付かなかったのだ。高く積み上げられた書類の束を抱える生徒が、目の前からよろよろと歩いてくるのを。
深く被ったフードからは性別すら分からないが、小柄であることから重心が安定しないのかもしれない。その様子を見てアビスは今にも気を抜いたら束が倒れてなだれそうだと思っていたが、ある意味予想通りと言えばいいのか――。
生徒がつまづいたその瞬間、書類の束が支えきれないほどにグラリと揺れた。
「アクセレイズ」
アビスがそう唱え、書類の束を手前から支えたことで書類は宙に舞うことなく、ピタリとその場で綺麗に止まって。
「うわぁ、あなたってすごいのね!」
随分と嬉しそうな高い声。他人からこんな賞賛の声を贈られたのなんていつぶりだろうか。
「大したことではありません」
「大したことだよ! あなた、名前は?」
アビスが仮面をしているのは悪魔の目を隠すためもあるが、他人と関わりたくない意思表示の表れでもあった。
「アナタに名乗る名前などない」
「え〜? そんな、減るものじゃないし教えてくれたっていいじゃない」
その生徒の返答にアビスは少し苛立ち、自分の赤く染まった忌み嫌われる目がよく見えるようにギンと見開いた。
「去りなさい」
アビスがこう言えば、大抵の人間は気味悪がって恐れるか、逃げるかの選択肢をとる。悪魔の目を持つ人間は誰からも――必要とされないのだから。
「その目……あなたのその目」
ほら、まただ。また……。
「――生きてるのが感じられる綺麗な赤ね。吸い込まれそう」
生徒はアビスの目を見据えて、そう言ったのだ。耳を疑うくらいにはっきりと、気持ち良いくらいに凛とした声で。
「君は……知らないのですか? この目を……」
アビスは訝しむように生徒に問いかけたが、生徒はフードを揺らし、ただ頷いただけだった。
「――悪魔の目。知ってるよ」
「では、なぜ……?」
「そう思ったから、そう言っただけだよ……そんなに、おかしい?」
おかしい、と咄嗟に言えなかったのはなぜだろうか。その目を持つと認識した上で、自分を対等な人間として扱ってくれたからか?
分からないが何か裏があるに違いない。アビスが仮面の下で顔を歪ませているとは知らず、生徒は書類を脇に置いて地べたに座り込んでいた。
「何で、座っているのですか」
「疲れたからだよ〜」
「……意味がわかりません」
初対面の、それも悪魔の目を持つ相手に対し、足すらぐーっと伸ばしてリラックスする緊迫感のなさ。この子はなんなのだろう――。実は、本当は凄く強い力を持っていて、いずれアベルの邪魔になるような存在だったりするのだろうか。そんな事も脳内で想像だけはしたが、おそらくこの様子を見る限りそんなことはあり得ないだろう。
「じゃあさ、逆に聞くけど……何でわたしのこと助けてくれたの?」
生徒は不思議そうに唇に手を当てて、小首を傾げ、逆にアビスへ質問をした。アビスはこの状況に思わず警戒心を解きそうになり、いけないと横に首を振る。
「……気まぐれ」
「ほら、意味なんてないじゃない」
一体、何が言いたいんだ。それの意図するところがわからず、相手の出方を窺ってしまう。
「ね? 自分がしたいようにしただけ……その事にさ、理由なんていらないでしょ」
パンパンとローブの埃を払って立ち上がった生徒は、深くローブを被った状態でもわかるくらいに、口角をぐっと上げて笑った。
「だから―― エマのこと、助けてくれてありがとう!」
全ての言動に意味があり、相手の思惑の裏を読む。
この目を見た途端、態度を変え自分を避ける人間を何度も見てきたアビスにとっては、至極当然の事であった。そもそも、駆け引きも代償もなしに思うがままに振る舞える人間なんてよほど周りに恵まれてきたとしか考えられない。
ただ、事実として……自分なんかにお礼を言う人間もいるのか、という戸惑いの感情がアビスの中には渦巻いていた。
「もう、仮面さん難しく考えすぎ!」
「仮面さんて……」
「だって名前教えてくれないから。いつか……教えたくなったら教えてよ。ね?」
「……うるさい。絶対に教えない」
生徒はアビスが断固教える気がないのを察したのだろう。少し拗ねてるようにも見受けられたが、すぐに気を取り直したようでアビスをビシッと指さした。
「じゃあ、せめてわたしの名前だけでも覚えてって!」
それならさっき聞きましたよ。
「エマ」
「えっ、エマ……自分の名前言ってた?」
「アナタ……自分で言ってる自覚ないんですね」
呆れながらアビスが言えば、エマはその場で地団駄を踏んだ。きっと、感情が出やすいタイプなのだろう。
「ああ、もうっ! しまらないな!」
生徒はそう言って、ファサッと自分を覆っていたフードを取った。すると、ミルクベージュのふわふわとした猫のようなくせっ毛が特徴の長い髪があらわになり、琥珀色の艶のある瞳がアビスを強く見つめていて。それはアビスにとって、非常に強い刺激であることを生徒は知らない。
「わたし、エマ・カルネ。エマでいいよ!」
「……」
「もう……今日、寝ぐせ直す時間なかったから、フード被ってたのに恥ずかしいな……」
「……」
「……仮面さん?」
「あっ、えっ……あっ……おなご……! オナゴ……」
「お、おなごって……女の子のこと……?」
エマのその問いにアビスは答えることなく、壊れた電子再生機器のように同じ言葉を繰り返し、突如震えだした。
なぜなら、初対面の女子と立ち話など……アビス・レイザーの人生では、ほぼ想定できない自体と言っても過言ではない。つまり、緊急事態だ。仮面をつけているアビスに声をかけようとする勇気のある者など、いないに等しい。
そんな状態のアビスを見て、エマは驚いたのだろう。目をその場でパチパチと瞬かせていたが、何かに気がついたようで深くフードを被り直した。
それから数十秒を要し、アビスは息を吹き返した。
「……はっ!」
「だ、大丈夫? 仮面さん」
「余計なお世話です」
「もしかしてだけど……女の子苦手だったり、する?」
「私に苦手なものなど――」
もう一度パサリとフードを取れば、フードを取った摩擦でパチパチと静電気がはじけて、よりふわふわとエマの髪が舞った。そんな中、アビスの様子を窺うように注視するエマであったが、予想通りアビスが「あわああっ、あふん」と言い残し、事切れ……ブブブと震え出したのは言うに及ばない。
「……」
その様子を確認してフードを先程よりも深く被れば、電源が入ったかのようにアビスは再度ビクッと動きだした。
「ア……アナタ、面白がっているでしょう」
「え、バレた? ごめんね」
「ハァ……ふざけないでください」
「どっちかと言うと、ふざけてるのはあなたの方だけどね……?」
エマは小さな声でそう呟き、唇をとがらせた。
「と、ともかく! わたしは忙しい……アナタに構っている暇などないのです。もう用がないなら行きますよ」
そう言ったアビスが踵を返せば、後ろからエマにローブの裾を掴まれて。
「エマ、明日から仮面さん探して話しかけるから」
「……それに何の意味があるというのです?」
「また意味聞いてる。そんなの仲良くなって、名前聞きたいからに決まってるじゃんか!」
悪魔の目を持つ人間と仲良く? そんな冗談、笑えない。何を言ってるんだ。……どうせ、そんな事を言ってもこの目を恐れ、態度を変えるのは分かっている。
「フン――そこまで言うのなら、私に名前を聞けるまで精々努力してはいかがですか? 所詮この目がある以上、あなたの気もいつか変わるでしょうから。では私はこれで」
そう言い捨てて、エマの顔も見ずに颯爽と歩き出したアビスは分からなかったのだ。自分のすぐ後ろで、琥珀色の瞳が爛々と光り輝いているのを。それはエマにとっては――開戦の合図でしかなかったのだから。
*
アビスは後悔していた。この間、「名前を聞けるまで精々努力してはいかがですか?」という台詞を、エマ・カルネに言ってしまったことを――。
「ねぇねぇ! 仮面さん!」
「アナタもしつこいな……」
エマはフードを深く被ってアビスのしつこいの言葉通り、色々なところに出没していた。時にイーストン内でも、レアン寮内でも、応接間で、廊下で、庭で、図書室で……アビスを探してわざわざ話しかけてくるものだから辟易もする。そして今日はイーストンの食堂内で話しかけられた。しかもちゃっかり目の前に座っている。いつもなら悪魔の目で騒がれるのを避けるために学生食堂など利用はしないのだが、今日のスケジュールを考えると止むを得ず利用せざるを得なかったのだ。
「分かる! エマもサラマンダーの唐揚げにしちゃった。一番人気だもんね」
皿の上に乗ったほかほかの唐揚げ……アビスが頼んだメニューを見て、同意するようにうんうんと頷いているがアビスは何も言ってはいない。エマはこうして、勝手に色んな所へついてきて、気安く話しかけてくる。アビスからしたら鬱陶しいことこの上ないが、自分が挑発してしまった手前仕方ないと受け入れざるを得なかった。そんな状況に憂鬱としながら、アビスは仮面をはずし――あまり見せることのない素顔をその場に晒した。
「えっ……」
そういえば、エマに素顔を見せるのは初めてだったか。常に行動する時は仮面をつけているので意識はしていないが、目の前からこれだけあけすけな視線を感じたら聞かざるを得ない。
「なんですか、人の顔をジロジロ見て失礼な……」
「か、」
「……か?」
「かっこいい……! えっ、えっ……? 美形すぎない? エマのきゅんきゅんな胸の高鳴り、本日最高潮……っ!」
「は?何言ってるんですか……アナタ」
アビスが冷ややかな目でエマを見れば、それすらも愛おしそうに受け止めてくねくねしていて。意味がわからない。
「はう! そんな見つめないで!」
「いや……目が合っただけでしょう」
そんなアビスの言うことに全く聞く耳を持たず、頬を両手で抑え、エマはずっと顔を赤らめて何かをブツブツと呟いていた。なんて不気味なんだ。
「……綺麗な海のような右の瞳と、左は鮮血の赤に黄金の左の瞳。そんな美しいオッドアイに艶のある空色の長い長髪……。神の与えたもうたその容姿に、エマってば…… エマってば! もう、どうにかなっちゃう……!」
アビスは溜息をつき、相手をするだけ無駄だと感じて、目の前の唐揚げに手をつけた。
「あっつ……」
「え〜……可愛い」
人が舌を火傷をしているというのに、エマはうっとりとした表情でアビスを見つめていて。これまたアビスの気に触り、苛立ちを募らせた。
「あぁもう鬱陶しい……! あっちに行きなさい」
「いやっ! 仮面さんとご飯食べる!」
サラマンダーの唐揚げについているサラダに、エマはドレッシングをかけようとしたのだろう。ドレッシングの原液と油が分離しているのを、一体とするために彼女は強く容器を振った。緩く蓋をした方も悪いが、蓋を押さえなかったエマが一番悪い。緩くしか蓋をされていなかったドレッシングの中身は思い切り飛び出して―― エマと、アビスに向かって飛び散った。そんな事になると想定しているはずもないので、ふたりは避けられるはずもなく。被害は服だけに及ばず、顔面にも跳ねている始末である。
「……ちょっと」
「ご、ごめんね! わざとじゃなくて、本当に、あの、」
テーブルに置いていた仮面にもドレッシングは飛んでいて、油溶性の為か軽く布巾で拭き取ってもシミになって汚れは取れなかった。これでは、今日は仮面は付けられませんね。
「みっともない――アナタも顔を拭きなさい」
アビスはアイロンがしっかりかけられた無地の綺麗なハンカチをエマに向かって差し出した。咎めても仕方のないことだ。嫌味の一つくらいは言っても良かったかもしれないが……言わなかったのはエマが震えて申し訳なさそうな顔をしていたから。ただ拭きなさいとハンカチを渡しただけなのに、俯いてもじもじしていたのはアビスにはよくわからなかったが。
「仮面さん……いい人だね、ありがとう」
「別に……わざとではないのは分かっていますから。ただし、次からは気をつけなさい」
「うん……わかった」
エマがぐっとフードを深く被り直した理由に気が付くはずもなく、アビスはただ黙々とご飯を食べるのであった。
*
アビスが忠誠を誓う、アベル・ウォーカーという人物は、完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを体現したこの世界を回すに値する、選ばれた人間である。そんなアベルが願う「不純物の無い世界を作る」という目的のために、アビスは級硬貨 を集めていた。全てはアベルを神覚者にするために――。
今、アビスはアベルたち七魔牙 が拠点にしている部屋にいた。
「アビス」
七魔牙 の首領に高圧的に名前を呼ばれ、アビスは少し身構えた。
「……はい」
「珍しいね、君が仮面をしていないなんて」
そう、アビスが仮面をしていないのは先程の食堂での出来事のせいであった。
「ちょっと、予想外の出来事がありまして」
「ふーん? 君程の人間の予想外、なんて……僕の不利益になることではないんだろうね」
アベルが詰めるように聞いてきたことに対しても、アビスは冷静に答えた。
「いえ、アベル様のお耳に入れるようなことではありません。私の不注意によることですから」
「そうか……まぁ、いいよ。アビスが僕の為によく働いてくれているのは事実だからね。七魔牙 は実力主義だ。第二魔牙 の君が一番わかってるとは思うけど……」
「重々承知の上です。全てはアベル様の為に、必ずや道具としてお役に立ちます」
「理解していればいいよ。――期待しているよ」
コツコツと音を立てて、扉から出ていったアベルの背中を見送り、アビスは今日の夜に決行しようと思っている級硬貨 奪取の作戦を再度練り直した――。
*
ここは深夜のオルカ寮――。
「貴様、本当に金の級硬貨 を奪える気でいるのか?」
そうアビスに聞いたのは、オルカ寮に所属するマグマの魔法使い、ローデス・エイムスだ。研究に没頭する者が多いオルカ寮でも好戦的と聞いている。
「自信がなければこんなところまで来ていませんよ」
「馬鹿にしやがって……!」
そう言ってローデスはマグマを使った魔法を使用しようとしたが、残念ながらそれは叶わなかった。
「なぜ、魔法が……!?」
「この目をご存知ありませんか?」
「それは――悪魔の目!」
分かったところでもう遅い。この世の先手必勝は、速さに由来するものなのだから。呻き声をあげて倒れたローデスをアビスはただ静かに見据えた。
「オルカの割には好戦的と聞いていましたが……ただただ好戦的なだけだったみたいですね」
――剣からは返り血が流れ落ち、静かに床に血溜まりを作った。それを払うようにアビスは剣を素早く振るい、鞘へと剣を収めて。そしてごそごそとローデスの服をまさぐり、目的であった金の級硬貨 を奪った後、その場を後にした。
*
今日は、エマを見かけていない。あまりにも毎日付きまとわれているからこそ、いないと逆に拍子抜けしてしまう。自然とエマを探すようになってしまったことにアビスは自覚こそなかったが―― エマのことを少しづつ信用してきていた。
「いないと静かでいい」
そうポツリと呟いてしまうほど、辺りは静まっている。エマは大抵誰かと一緒にいて、アビスを見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるのだ。この間のように物を持っていたり、何かを一緒に手伝っていたりと、思い浮かぶのは他人に世話を焼いている場面ばかりである。他人に世話を焼いたって無意味、ただ損をするだけ。――時間の無駄でしかない。そう彼女に言えば、「また意味を求めてる」と言われてしまうのだろうが。悪魔の目を持たぬ者と持つ者では、態度も考えも変わるのだろうとアビスは思った。
*
「うぅ、誰か助けて……」
高い木のミシミシと鳴る木の幹の先の方でエマは助けを求めていた。無我夢中で登ってきてしまったので、実際のところは分からないが二十メートルくらいはあるのだろうか。体感、建物五階くらいの高さである。可愛い子猫が木から下りられなくなっていたので、下ろしてあげようと思い、意気揚々と登ってきたのはいいものの、子猫はこちらの事など構わず自力でサクサクと下りられたのに対し、エマは下りられなかったというだけの話だ。とはいえ、下を見ればゾクゾクするような感覚に襲われ少しづつ下りることも厳しい。
もしかしてエマって――高いところ、実は苦手なのでは?
今更そんな事実に気付いても仕方がない。ずっとこの上で暮らすことも一瞬考えたが、食料も寝床もないから無理だとエマは首を振る。食べることと寝ることを奪われたら到底エマは生きては行けない。その二つはエマ・カルネが生きていく上で最大の楽しみだからだ。
「どうしよう……」
寒さと恐怖に身を縮こまらせながら、エマは大粒の涙を瞳いっぱいに浮かべた。それは瞬きをしたら今すぐにでもこぼれ落ちそうであった。
*
快晴ではあるが寒気が身に染みる。ずっと外にいたら体の底から凍りついてしまうような、そんな気温であった。目的の場所までは庭をショートカットした方が早いので、アビスは木々に覆われた日陰の中をずんずんと突き進んでいた。そんな矢先――。
「仮面さん……」
と頭上から今にも消えそうなか細い声がふってきて。この声はきっとエマの声だが、エマがこんな場所にいるわけはない。ましてや頭上にいるなど有り得ないと思ったアビスではあったが、幻聴であるというわずかな可能性も消すためにバッと木々を見た。やはりいないとそう思いたかったのに――彼女はいた。風でふわふわ揺れる髪とローブのせいで森の精のようにも思えたが、間違いなく―― エマ・カルネ本人だ。
「アナタ……そこで何をしているんですか」
「あ、えっと……」
いや、なぜ私を見て安堵の表情を作るんだ。
「今日は寒いですし、日向ぼっこをするなら別の場所がいいと思いますが」
冗談とも本気とも取れるアビスの発言に、エマは一瞬硬直したが、その後ブンブンと首を振って否定した。
「違う! ……子猫がね、下りられなくなってると思ったから登ってきたんだけど、実は子猫は自分で下りられたみたいでね」
子猫が下りられなくなっていると思った、か。なるほど、辺りを見渡してもそのような気配はなかったのでエマの言う通りなのだろう。
「はぁ……じゃあ君も下りたらいいじゃないですか」
「お、下りられたら下りてるよ! 一人取り残されちゃったの!」
顔を真っ赤にしてアビスに反論するあまり、つい片手を上にあげたエマはそんな事まで気が回らなかったのだろう。幹を両手で掴むことでとれていたバランスは崩壊し、そのままひっくり返って片手で宙ぶらりんの状態になってしまった。
「っ……危ないでしょう! 気をつけなさい!」
落ちるのではないかとこちらの肝が冷えた瞬間だった。なぜその状態で会話に夢中になって、自分の状況を忘れてしまうのかアビスには考えられなかった。
「き、気をつけなさいって言ったって、下りられないんだから仕方ないでしょ……」
「助けましょうか?」
「ほ、本当に?」
こんな場面だからだろうか。アビス・レイザーはこのやり取りにほんの少し意地悪なスパイスを効かせたくなった。それに対して、エマは一体どういう反応をするのか。強くなってきた風が木々を揺らし、エマとアビスの心もざわつかせる。
「二者択一としましょう。前者は文字通り、アナタを助けます。後者は、助けはしませんが――私の名前、フルネームをお教えしましょう。ただし、前者を選んだ場合、二度と私の名前はお教え致しません。いかがでしょうか?」
自分の胸に右手を当て、左手を下に一礼し、わざとかしこまった様なポーズを作りエマに問いかける。どうせエマは、迷わず助けてくれと言うのだろう。なぜならこんな状況下で次に他の人がここを偶然通りかかり、助けてくれる確率などないに等しいからである。もしかしたら、これが彼女にとって最後のチャンスかもしれない。だから前者を選んで欲しい。それはアビスの一縷の望みでもあった。期待したのに、この目のせいで相手の気が変わって切り捨てられるなんて思いは――もう二度としたくない。
エマの答えを待とうと上を見上げれば、間髪入れず、エマは即答だった。
「仮面さん!」
「! ……」
「エマはー! 冥土の土産に仮面さんの名前を教えて欲しい! 正直ね、下見ると震えるくらい怖いんだけど、名前を教えてくれるなら落ちてもいいかなって思ったー!」
アビスに何か答える時は、声が届かないから嫌でも下を向かないといけない。冥土の土産ってアナタ……顔は笑っているのに、顔面蒼白じゃないですか。そんなに痩せ我慢してまで、自分なんかと仲良くなりたいのか――。こんな気持ちを今まで味わったことがなかったアビスは、どうしたらいいか分からなかったが戸惑いよりも、喜びの方が強いことだけははっきりしていた。
パキパキッと嫌な音と、エマの怖がる声が聞こえる。全く、あなたって人は――羨ましくなるくらいに素直で良い子なのですね。
「エマ!」
「か……仮面さん、名前!」
「あぁもう……そんなの後で教えますから! 私を信じて飛びなさい!」
自分が他人を信じて裏切られてきて、私はもう誰のことも信じないと決めていたのに。まさかそんな自分が他人に信じろと言う日が来るなんて――滑稽ですね。
「お、落ちそうなのに飛ぶの!? ……きゃっ!」
「いいから、早く!!」
エマは意を決して空を飛んだ。その瞬間、木の幹は飛んだ弾みでバキッと大きな音を立てて根元から折れ、エマよりも先に下に落下して。エマは恐怖で声も出ないのか、ただ重力に身を委ねてぽろぽろと大粒の涙を流していた。確かにいくらアビスが指示をしているとはいえ、ホウキなしに空を飛ぶ経験は生まれて初めてだろう。アビスはすっと杖が仕込まれた剣を構えて、呪文を唱えた。
「アクセレイズ セコンズ フォースフィールド」
アビスが唱えたのは、加速魔法の強化系、今の自分が使える最強の高等呪文である。呪文を唱えればすぐさま可視化できる紫色の空間が展開され、エマの体には赤い矢印が、アビスの体には青い矢印がそれぞれ現れた。その矢印が現れた刹那、落下スピードが急に遅くなったことから――きっと、エマ自身は重力がなくなったように感じるだろう。
「な、何これ……」
「驚きましたか? 自分が遅くなっていることに……この空間は私以外の動きを減速させ、その分私の動きを加速させるのです」
エマがアビスの言う通り、驚きでぱちぱちと目を瞬かせた瞬間に、アビスは次の呪文を唱えた。
「アクセレイズ スフィア」
アビスが次に唱えたのは、矢印を出現させ、自分自身を加速させる魔法であった。つまり、最初に自分の空間を展開することで相手の落下速度を遅くさせ、落下自体を遅らせる。かつ自分を更に加速させ、矢印で足場をつくることでエマ自身を受け止めて着地できる――ということである。
ミルクベージュの髪をふわふわと揺らしながら、落ちてくるエマはやはり妖精のようで。そんな彼女をアビスは素早く空中で受け止め、壊れ物を扱うようにそっと抱き抱えた。ああ、こんなに震えてかわいそうに。エマを安心させるようにアビスは仮面の下で優しく微笑んだ。途端、きらきらと熱い視線が無遠慮にアビスに突き刺さったのは言うまでもない。エマが震えていたのは、アビスが王子様にしか見えなかったからなのだが――アビスにそんなことが露ほども伝わるはずもなく。アビスはストンと綺麗に着地をし、ゆっくりとエマを足の先から地面へ下ろした。
「そういえば約束の自己紹介がまだでしたね……」
自分の素顔を隠す仮面を外し、エマに向き直りアビスは敬意を込めて一礼した。
「私はアビス・レイザーと申します。以後、お見知りおきを」
アビスが名前を名乗れば、エマはまた瞳をうるうるとさせていて。アビスが敢えて七魔牙 の第二魔牙 というのを伏せたのは、何も知らないエマを巻き込みたくないという配慮だった。
「っ! ……やっと名前教えてくれた〜!」
―― エマはそんなことを知るわけもなく、アビスに名前を教えてもらった嬉しさで感極まっていた。聞けば、調べるのではなく、本人から教えてもらうことに意味があるのだという。それでも。
「な、泣くほどのことではないでしょう……」
「泣くほどのことだよ! 例えるなら、もう仲良くなりたくて何度も何度も通い詰めてるのに、ずーっと懐いてくれない警戒心の強いわんちゃんがようやく懐いてくれた! っていう喜び……?」
「本人を前にして、犬に例えるのはいささかどうかと思いますが……」
困惑するアビスを前にエマは、「だって本当でしょ」と言ってニッと笑った。
「あ、それと…… エマの名前呼んでくれて嬉しかった……! あの、ボーナスタイム的な感じでもう一回呼んでくれたりしますか……?」
「呼びませんが」
わくわくした顔でお願いしてきたエマをアビスは一蹴した。そもそも、アビスがそう簡単に女の子の名前なんか呼べるはずもない。少しづつ、慣れていくからそこはそうご期待としてもらいたいものである。
「うっ……じゃあ、呼んでもらえるように頑張る……。それよりも! あ、アビスくん……あの、助けてくれてありがとう……」
両手の人差し指を合わせて上目遣いで言ってくるエマに思わずたじろぐが、これだけはちゃんと聞いておかなければアビスの気が済まない。
「全く――どちらを選んでも助けるつもりでしたが、あなたは迷わず、私の名前を選びましたね。泣くほど怖かったのでしょう? 自分のことより優先して……なぜですか?」
そうエマに問えば、そんな簡単なことと言いたげに、ククッと喉を鳴らして笑っていて。でも、アビスには「そんな簡単なこと」がわからなくて、首を傾げた。
「ククッ……そんなの初めて会った時と理由は変わらないよ。このチャンス逃したら、せっかく心を開こうとしてくれたアビスくんともう二度と仲良くなれない……って思ったから。でも……」
「でも、なんですか」
「一番の理由は……好きに、なっちゃったからかな」
エマの頬が紅潮しているのは、寒さからか、この状況からか――。ちらっとアビスの顔を窺って、目を逸らすように俯いたエマは困ったように頭をかいた。
「すきに、なっちゃった……のですか?」
「わー! もう普通同じテンションでその部分聞き返すかね! 女心がわからん奴め!」
彼女のあまりの剣幕にアビスは口をつぐんだ。どうしてエマは怒っているのだろうか。理解はできないが、多分この感じだと自分が悪いのだろう。実はこの間、会話をしながらアビスは意識せず、エマのウェーブがかった髪に絡みつく葉っぱを一本一本綺麗に解いて地面に落としてやっていたのだが……なぜかエマはその間もずっと恥ずかしそうな顔をしていて。
「だから、もう、そういうとこ……そういうの自然にできちゃうそういうとこ……」
「いやだって、落ち葉だらけですし」
「や、エマの髪、長くて猫っ毛だから色々絡まりやすくて……なのにそんな丁寧に……だから、その、うーん!」
今度はエマが黙ってしまった。アビスは何を言うのが正解か考え――考えた挙句、何も思いつかなかった。こうして思い返すとアビスが話さない時は、いつもエマが話を振ってくれていたのだ。なんでこんな時に痛感するのだろう。
エマが押し黙ったことで、急に風のざわめきと、木々の擦れ合う音が大きく聞こえてくる。その間を持たせるために、アビスは自分のハンカチで瞳に溜まっていたエマの涙を拭ってやった。なのに、拭ったはずの涙は、拭っても拭っても、とめどなく流れてきて。おかしい、確実にさっきより酷くなっている。女の子の扱いに慣れていないアビスはこの事態に非常に戸惑った。
「どうしてッ、そんなに……優しいの!? もうこんなの好きになっちゃうよ! ううっ……」
「こ、困りましたね……。あなたは誰かのことを優しくてすきだと思うと、泣きたくなるのですか?」
「泣きたくなるよ、好きって思った男の子が自分に優しかったら! ……だって、優しいってその人がわたしを大事にしてくれる気持ちだから」
――優しいとは、その人を大事にする気持ちか。アビスは思わず笑ってしまった。だって、こんな自分をすきだと言って、目の前の女の子が泣いている。どうして世界から望まれない存在の自分をすきだと言うのかはわからない。でも、不思議と嫌な感情はなかった。
「な、なんで笑うの……?」
「フフッ、いえ……気に障ったなら謝ります」
「真剣に言ってるのに!」
「……君は、随分と変わり者のようですね。面白い子だ」
もしかしたら、信じてみてもいいのかもしれない。そう思わせるほどに、アビスの氷の心はエマによって溶かされていた――。
「というかアビスくん、やっぱり笑った顔もすっごく素敵だね……! はぁー……こんな美形に微笑んでもらえるなんて、エマってばもう……夢心地ですよ……」
「そんな事言われたことありませんが……」
そう言えば、エマに前にも同じようなことを言われたか。だが、生まれてきたことを後悔しているアビスが容姿を気にする暇など今までなかった。それ程までに生きていくのに必死だった。ましてや、人に笑顔を見せるなんて。どうせ自分は忌み嫌われる存在であるのだから、そんなことに意味なんて――。
「……アビスくんはね、とっても素敵な人だよ。だから、嫌われることに慣れないで!」
「は……?」
嫌われることに慣れるなとはどういうことか。悪魔の目を持つ者が嫌われるのは当然のことという認識であるため、アビスはエマの言っている意味が理解できなかった。
「あのね……今だから言うけど! アビスくん出会った時からずっと寂しそうな目してるよ」
「寂しそうな、目……」
意識はしていなかったが、エマの言う通りなのかもしれない。魔法が全てのこの世界に、物心ついたあの日から――自分は何の期待もしていないのだから。
「いや、自分が傷つかないように周りを拒絶してるんだなと思ってはいたけどさ……」
「……」
「そうはいってもアビスくん……名前すら教えてくれないし、いつもすっごく素っ気ないし、挙句の果てに全然エマに興味持ってくれないからさ……わたしも半ば意地になっちゃって。でも、だんだんね……優しいところがたくさんある事がわかって……」
アビスは黙ってエマの話に耳を傾ける。
「この世界はこんなにアビスくんに冷たいのに、アビスくんは温かかった。いつも見てたからわかるよ、理不尽に虐げられる中で、大事な人の役に立ちたいって一生懸命で……! だから、だからっ……今度はエマが隣で、そんな一生懸命なアビスくんのことを笑顔にしたいって思ったの!」
「……私を笑顔に、ですか」
顔を真っ赤にして懸命に伝えようとするエマから真剣さが伝わってきて。――こんな事を言ってもらえる日が来るなんて、アビスは想像もしていなかった。
「今までアビスくんが人から嫌な思いをした分も、エマが代わりにいっぱいいっぱい好きをあげるから……その、アビスくんの大事な人の二番目でもいいので、エマを隣に置いてもらえませんか? ……と、友達からでも構いませんので!」
アビスは感じたことのない、温かい気持ちが流れ込んできたことに困惑した。だから、自分を熱心に見つめ、片手を差し出すエマにすぐに返事が出来なかった。
「え、あ……やだよ! 何も言ってくれなかったら恥ずかしいじゃない! 何かリアクションして!」
エマのまた潤み始めた琥珀色の瞳に、きらっと光が反射して透けた様はまるで宝石のようで。あぁ、胸がいっぱいで、何も言葉にできない代わりに――人は抱擁で気持ちを表すのかもしれない。
「わっ……!」
いつの間にかアビスは自分の女子への苦手意識がエマに対してはなくなっていることに気付いていた。あれだけ追いかけ回されていたら当然かもしれないが――自分のためにいつもフードを被り、仲良くなるために何度冷たくあしらっても、諦めず話しかけてくれた。いつの間にか、自分から求めていた。
「わ、わ! わー! ……アビスくん、それは同意と受け取っても……?」
エマに窺うように聞かれ、返事こそしなかったがアビスは抱き締めた腕の力を強めた。こんなに細くて、自分のせいで折れてしまわないだろうか――。トクントクンと生きている鼓動が伝わってくる。繋がりあった相手の体温とはこんなにも気持ちのいいものなのか。エマのおかげでアビスは――今、まさに生を実感していた。
「……だからさ、嫌われることに慣れないでね。アビスくんが悪いわけじゃない。全ては悪魔の目が悪いんだから……」
「はい……」
何かを言葉にしたら泣いてしまいそうで、相槌を打つことしか出来ない自分が歯がゆい。エマはこんなにもアビスに対して、ちゃんと言葉にしてくれるのに。
「あ、でもね!」
「?……」
「エマはアビスくんの悪魔の目、好きだよ。こんな深い深紅の赤に、強く輝く金色の綺麗な瞳……まるで芸術品みたいじゃない。初めて見た時から――吸い込まれそうで、目が離せなかったよ。だから、あなたの全部が好き。生まれてきてくれてありがとう」
「……っ」
「あは……なんて、まだ会って間もないのに大袈裟だし、偉そうですが……。んー……頬あっつ……恥ずかし」
誰かのために、何かのためにこんなに必死になって――。どうして、私がずっと欲しかった言葉が分かるのだろう。どうして、私がずっと欲しかった言葉をこんなに簡単にくれるのだろう。確認も込めて、アビスはエマに聞いた。
「アナタには私が必要……ということですよね」
エマはそれを聞いた途端、驚きで目を見開いて声を荒らげた。
「ええっ、今の聞いてそれ!? もう……にっぶいな! ……必要だよ、すっごく必要、いなきゃダメ! すなわち必須! 分かりましたか!?」
「……はい」
その言葉を聞いた瞬間に、アビスは自然に口角が上がるのを感じていた。答えは分かりきっていたが……これはエマに言わせたかった、に等しいかもしれない。
そして――この時、アビスは目的遂行のことなどすっかり忘れてしまっていた。想定外の事が起こった時のために、慎重なアビスは何個かプランを用意しておくのを定石としているが、これは流石に想定外すぎたのだろう。どのプランでも、カバーできそうにない。
「そろそろ……は、恥ずかしいから離れて欲しいな〜」
そんな折エマからの申し出があったが、アビスはこれまた平然と却下した。これに関しては、彼女に対するアビスなりのわがままである。
「嫌です」
「い、嫌なの!?」
「嫌です」
「そっか……」
「はい、諦めてください。だって――私にいっぱいのすきをくれるとつい先程言いましたよね、あなた。ほら……私を笑顔にしたいのでしょう?」
「あ、アビスくんって、結構意地悪だよね……」
「おや、知らなかったのですか。今更後悔しても、遅いですよエマ」
「な、名前……! また呼んでくれた……」
「ハハッ、君の言葉を借りると、『ボーナスタイム』ですかね」
こんな事で頬を染めて、自分に擦り寄ってくるエマが可愛くて仕方なくて。嬉々とした顔で自分に笑いかける彼女のことを大事にしたいとアビスは心から思った。
*
相手の魔法を一時的に使えなくする悪魔の目。魔法が使える者からしたら、アビスはまさに天敵。もし、この目さえ、この目さえない自分が、ただ普通に生まれてこれたとするなら。私は一体――何を望んだのだろう。
そんな、アビスの人生における問いは――たった今、一人の少女の優しき心によって答えが導かれたのであった。
ぎらりと赤く光る悪魔の目を今日も仮面で隠し、アビスは目的遂行の為に歩いていた。
「重い……」
絞り出すようなそんな声が聞こえたのは、前方からで。この忌まわしい目のせいで下を見て歩くのが癖になっているせいか、アビスは気付かなかったのだ。高く積み上げられた書類の束を抱える生徒が、目の前からよろよろと歩いてくるのを。
深く被ったフードからは性別すら分からないが、小柄であることから重心が安定しないのかもしれない。その様子を見てアビスは今にも気を抜いたら束が倒れてなだれそうだと思っていたが、ある意味予想通りと言えばいいのか――。
生徒がつまづいたその瞬間、書類の束が支えきれないほどにグラリと揺れた。
「アクセレイズ」
アビスがそう唱え、書類の束を手前から支えたことで書類は宙に舞うことなく、ピタリとその場で綺麗に止まって。
「うわぁ、あなたってすごいのね!」
随分と嬉しそうな高い声。他人からこんな賞賛の声を贈られたのなんていつぶりだろうか。
「大したことではありません」
「大したことだよ! あなた、名前は?」
アビスが仮面をしているのは悪魔の目を隠すためもあるが、他人と関わりたくない意思表示の表れでもあった。
「アナタに名乗る名前などない」
「え〜? そんな、減るものじゃないし教えてくれたっていいじゃない」
その生徒の返答にアビスは少し苛立ち、自分の赤く染まった忌み嫌われる目がよく見えるようにギンと見開いた。
「去りなさい」
アビスがこう言えば、大抵の人間は気味悪がって恐れるか、逃げるかの選択肢をとる。悪魔の目を持つ人間は誰からも――必要とされないのだから。
「その目……あなたのその目」
ほら、まただ。また……。
「――生きてるのが感じられる綺麗な赤ね。吸い込まれそう」
生徒はアビスの目を見据えて、そう言ったのだ。耳を疑うくらいにはっきりと、気持ち良いくらいに凛とした声で。
「君は……知らないのですか? この目を……」
アビスは訝しむように生徒に問いかけたが、生徒はフードを揺らし、ただ頷いただけだった。
「――悪魔の目。知ってるよ」
「では、なぜ……?」
「そう思ったから、そう言っただけだよ……そんなに、おかしい?」
おかしい、と咄嗟に言えなかったのはなぜだろうか。その目を持つと認識した上で、自分を対等な人間として扱ってくれたからか?
分からないが何か裏があるに違いない。アビスが仮面の下で顔を歪ませているとは知らず、生徒は書類を脇に置いて地べたに座り込んでいた。
「何で、座っているのですか」
「疲れたからだよ〜」
「……意味がわかりません」
初対面の、それも悪魔の目を持つ相手に対し、足すらぐーっと伸ばしてリラックスする緊迫感のなさ。この子はなんなのだろう――。実は、本当は凄く強い力を持っていて、いずれアベルの邪魔になるような存在だったりするのだろうか。そんな事も脳内で想像だけはしたが、おそらくこの様子を見る限りそんなことはあり得ないだろう。
「じゃあさ、逆に聞くけど……何でわたしのこと助けてくれたの?」
生徒は不思議そうに唇に手を当てて、小首を傾げ、逆にアビスへ質問をした。アビスはこの状況に思わず警戒心を解きそうになり、いけないと横に首を振る。
「……気まぐれ」
「ほら、意味なんてないじゃない」
一体、何が言いたいんだ。それの意図するところがわからず、相手の出方を窺ってしまう。
「ね? 自分がしたいようにしただけ……その事にさ、理由なんていらないでしょ」
パンパンとローブの埃を払って立ち上がった生徒は、深くローブを被った状態でもわかるくらいに、口角をぐっと上げて笑った。
「だから―― エマのこと、助けてくれてありがとう!」
全ての言動に意味があり、相手の思惑の裏を読む。
この目を見た途端、態度を変え自分を避ける人間を何度も見てきたアビスにとっては、至極当然の事であった。そもそも、駆け引きも代償もなしに思うがままに振る舞える人間なんてよほど周りに恵まれてきたとしか考えられない。
ただ、事実として……自分なんかにお礼を言う人間もいるのか、という戸惑いの感情がアビスの中には渦巻いていた。
「もう、仮面さん難しく考えすぎ!」
「仮面さんて……」
「だって名前教えてくれないから。いつか……教えたくなったら教えてよ。ね?」
「……うるさい。絶対に教えない」
生徒はアビスが断固教える気がないのを察したのだろう。少し拗ねてるようにも見受けられたが、すぐに気を取り直したようでアビスをビシッと指さした。
「じゃあ、せめてわたしの名前だけでも覚えてって!」
それならさっき聞きましたよ。
「エマ」
「えっ、エマ……自分の名前言ってた?」
「アナタ……自分で言ってる自覚ないんですね」
呆れながらアビスが言えば、エマはその場で地団駄を踏んだ。きっと、感情が出やすいタイプなのだろう。
「ああ、もうっ! しまらないな!」
生徒はそう言って、ファサッと自分を覆っていたフードを取った。すると、ミルクベージュのふわふわとした猫のようなくせっ毛が特徴の長い髪があらわになり、琥珀色の艶のある瞳がアビスを強く見つめていて。それはアビスにとって、非常に強い刺激であることを生徒は知らない。
「わたし、エマ・カルネ。エマでいいよ!」
「……」
「もう……今日、寝ぐせ直す時間なかったから、フード被ってたのに恥ずかしいな……」
「……」
「……仮面さん?」
「あっ、えっ……あっ……おなご……! オナゴ……」
「お、おなごって……女の子のこと……?」
エマのその問いにアビスは答えることなく、壊れた電子再生機器のように同じ言葉を繰り返し、突如震えだした。
なぜなら、初対面の女子と立ち話など……アビス・レイザーの人生では、ほぼ想定できない自体と言っても過言ではない。つまり、緊急事態だ。仮面をつけているアビスに声をかけようとする勇気のある者など、いないに等しい。
そんな状態のアビスを見て、エマは驚いたのだろう。目をその場でパチパチと瞬かせていたが、何かに気がついたようで深くフードを被り直した。
それから数十秒を要し、アビスは息を吹き返した。
「……はっ!」
「だ、大丈夫? 仮面さん」
「余計なお世話です」
「もしかしてだけど……女の子苦手だったり、する?」
「私に苦手なものなど――」
もう一度パサリとフードを取れば、フードを取った摩擦でパチパチと静電気がはじけて、よりふわふわとエマの髪が舞った。そんな中、アビスの様子を窺うように注視するエマであったが、予想通りアビスが「あわああっ、あふん」と言い残し、事切れ……ブブブと震え出したのは言うに及ばない。
「……」
その様子を確認してフードを先程よりも深く被れば、電源が入ったかのようにアビスは再度ビクッと動きだした。
「ア……アナタ、面白がっているでしょう」
「え、バレた? ごめんね」
「ハァ……ふざけないでください」
「どっちかと言うと、ふざけてるのはあなたの方だけどね……?」
エマは小さな声でそう呟き、唇をとがらせた。
「と、ともかく! わたしは忙しい……アナタに構っている暇などないのです。もう用がないなら行きますよ」
そう言ったアビスが踵を返せば、後ろからエマにローブの裾を掴まれて。
「エマ、明日から仮面さん探して話しかけるから」
「……それに何の意味があるというのです?」
「また意味聞いてる。そんなの仲良くなって、名前聞きたいからに決まってるじゃんか!」
悪魔の目を持つ人間と仲良く? そんな冗談、笑えない。何を言ってるんだ。……どうせ、そんな事を言ってもこの目を恐れ、態度を変えるのは分かっている。
「フン――そこまで言うのなら、私に名前を聞けるまで精々努力してはいかがですか? 所詮この目がある以上、あなたの気もいつか変わるでしょうから。では私はこれで」
そう言い捨てて、エマの顔も見ずに颯爽と歩き出したアビスは分からなかったのだ。自分のすぐ後ろで、琥珀色の瞳が爛々と光り輝いているのを。それはエマにとっては――開戦の合図でしかなかったのだから。
*
アビスは後悔していた。この間、「名前を聞けるまで精々努力してはいかがですか?」という台詞を、エマ・カルネに言ってしまったことを――。
「ねぇねぇ! 仮面さん!」
「アナタもしつこいな……」
エマはフードを深く被ってアビスのしつこいの言葉通り、色々なところに出没していた。時にイーストン内でも、レアン寮内でも、応接間で、廊下で、庭で、図書室で……アビスを探してわざわざ話しかけてくるものだから辟易もする。そして今日はイーストンの食堂内で話しかけられた。しかもちゃっかり目の前に座っている。いつもなら悪魔の目で騒がれるのを避けるために学生食堂など利用はしないのだが、今日のスケジュールを考えると止むを得ず利用せざるを得なかったのだ。
「分かる! エマもサラマンダーの唐揚げにしちゃった。一番人気だもんね」
皿の上に乗ったほかほかの唐揚げ……アビスが頼んだメニューを見て、同意するようにうんうんと頷いているがアビスは何も言ってはいない。エマはこうして、勝手に色んな所へついてきて、気安く話しかけてくる。アビスからしたら鬱陶しいことこの上ないが、自分が挑発してしまった手前仕方ないと受け入れざるを得なかった。そんな状況に憂鬱としながら、アビスは仮面をはずし――あまり見せることのない素顔をその場に晒した。
「えっ……」
そういえば、エマに素顔を見せるのは初めてだったか。常に行動する時は仮面をつけているので意識はしていないが、目の前からこれだけあけすけな視線を感じたら聞かざるを得ない。
「なんですか、人の顔をジロジロ見て失礼な……」
「か、」
「……か?」
「かっこいい……! えっ、えっ……? 美形すぎない? エマのきゅんきゅんな胸の高鳴り、本日最高潮……っ!」
「は?何言ってるんですか……アナタ」
アビスが冷ややかな目でエマを見れば、それすらも愛おしそうに受け止めてくねくねしていて。意味がわからない。
「はう! そんな見つめないで!」
「いや……目が合っただけでしょう」
そんなアビスの言うことに全く聞く耳を持たず、頬を両手で抑え、エマはずっと顔を赤らめて何かをブツブツと呟いていた。なんて不気味なんだ。
「……綺麗な海のような右の瞳と、左は鮮血の赤に黄金の左の瞳。そんな美しいオッドアイに艶のある空色の長い長髪……。神の与えたもうたその容姿に、エマってば…… エマってば! もう、どうにかなっちゃう……!」
アビスは溜息をつき、相手をするだけ無駄だと感じて、目の前の唐揚げに手をつけた。
「あっつ……」
「え〜……可愛い」
人が舌を火傷をしているというのに、エマはうっとりとした表情でアビスを見つめていて。これまたアビスの気に触り、苛立ちを募らせた。
「あぁもう鬱陶しい……! あっちに行きなさい」
「いやっ! 仮面さんとご飯食べる!」
サラマンダーの唐揚げについているサラダに、エマはドレッシングをかけようとしたのだろう。ドレッシングの原液と油が分離しているのを、一体とするために彼女は強く容器を振った。緩く蓋をした方も悪いが、蓋を押さえなかったエマが一番悪い。緩くしか蓋をされていなかったドレッシングの中身は思い切り飛び出して―― エマと、アビスに向かって飛び散った。そんな事になると想定しているはずもないので、ふたりは避けられるはずもなく。被害は服だけに及ばず、顔面にも跳ねている始末である。
「……ちょっと」
「ご、ごめんね! わざとじゃなくて、本当に、あの、」
テーブルに置いていた仮面にもドレッシングは飛んでいて、油溶性の為か軽く布巾で拭き取ってもシミになって汚れは取れなかった。これでは、今日は仮面は付けられませんね。
「みっともない――アナタも顔を拭きなさい」
アビスはアイロンがしっかりかけられた無地の綺麗なハンカチをエマに向かって差し出した。咎めても仕方のないことだ。嫌味の一つくらいは言っても良かったかもしれないが……言わなかったのはエマが震えて申し訳なさそうな顔をしていたから。ただ拭きなさいとハンカチを渡しただけなのに、俯いてもじもじしていたのはアビスにはよくわからなかったが。
「仮面さん……いい人だね、ありがとう」
「別に……わざとではないのは分かっていますから。ただし、次からは気をつけなさい」
「うん……わかった」
エマがぐっとフードを深く被り直した理由に気が付くはずもなく、アビスはただ黙々とご飯を食べるのであった。
*
アビスが忠誠を誓う、アベル・ウォーカーという人物は、完璧な教育、圧倒的な才能、高貴なる血筋全てを体現したこの世界を回すに値する、選ばれた人間である。そんなアベルが願う「不純物の無い世界を作る」という目的のために、アビスは
今、アビスはアベルたち
「アビス」
「……はい」
「珍しいね、君が仮面をしていないなんて」
そう、アビスが仮面をしていないのは先程の食堂での出来事のせいであった。
「ちょっと、予想外の出来事がありまして」
「ふーん? 君程の人間の予想外、なんて……僕の不利益になることではないんだろうね」
アベルが詰めるように聞いてきたことに対しても、アビスは冷静に答えた。
「いえ、アベル様のお耳に入れるようなことではありません。私の不注意によることですから」
「そうか……まぁ、いいよ。アビスが僕の為によく働いてくれているのは事実だからね。
「重々承知の上です。全てはアベル様の為に、必ずや道具としてお役に立ちます」
「理解していればいいよ。――期待しているよ」
コツコツと音を立てて、扉から出ていったアベルの背中を見送り、アビスは今日の夜に決行しようと思っている
*
ここは深夜のオルカ寮――。
「貴様、本当に金の
そうアビスに聞いたのは、オルカ寮に所属するマグマの魔法使い、ローデス・エイムスだ。研究に没頭する者が多いオルカ寮でも好戦的と聞いている。
「自信がなければこんなところまで来ていませんよ」
「馬鹿にしやがって……!」
そう言ってローデスはマグマを使った魔法を使用しようとしたが、残念ながらそれは叶わなかった。
「なぜ、魔法が……!?」
「この目をご存知ありませんか?」
「それは――悪魔の目!」
分かったところでもう遅い。この世の先手必勝は、速さに由来するものなのだから。呻き声をあげて倒れたローデスをアビスはただ静かに見据えた。
「オルカの割には好戦的と聞いていましたが……ただただ好戦的なだけだったみたいですね」
――剣からは返り血が流れ落ち、静かに床に血溜まりを作った。それを払うようにアビスは剣を素早く振るい、鞘へと剣を収めて。そしてごそごそとローデスの服をまさぐり、目的であった金の
*
今日は、エマを見かけていない。あまりにも毎日付きまとわれているからこそ、いないと逆に拍子抜けしてしまう。自然とエマを探すようになってしまったことにアビスは自覚こそなかったが―― エマのことを少しづつ信用してきていた。
「いないと静かでいい」
そうポツリと呟いてしまうほど、辺りは静まっている。エマは大抵誰かと一緒にいて、アビスを見つけると嬉しそうに駆け寄ってくるのだ。この間のように物を持っていたり、何かを一緒に手伝っていたりと、思い浮かぶのは他人に世話を焼いている場面ばかりである。他人に世話を焼いたって無意味、ただ損をするだけ。――時間の無駄でしかない。そう彼女に言えば、「また意味を求めてる」と言われてしまうのだろうが。悪魔の目を持たぬ者と持つ者では、態度も考えも変わるのだろうとアビスは思った。
*
「うぅ、誰か助けて……」
高い木のミシミシと鳴る木の幹の先の方でエマは助けを求めていた。無我夢中で登ってきてしまったので、実際のところは分からないが二十メートルくらいはあるのだろうか。体感、建物五階くらいの高さである。可愛い子猫が木から下りられなくなっていたので、下ろしてあげようと思い、意気揚々と登ってきたのはいいものの、子猫はこちらの事など構わず自力でサクサクと下りられたのに対し、エマは下りられなかったというだけの話だ。とはいえ、下を見ればゾクゾクするような感覚に襲われ少しづつ下りることも厳しい。
もしかしてエマって――高いところ、実は苦手なのでは?
今更そんな事実に気付いても仕方がない。ずっとこの上で暮らすことも一瞬考えたが、食料も寝床もないから無理だとエマは首を振る。食べることと寝ることを奪われたら到底エマは生きては行けない。その二つはエマ・カルネが生きていく上で最大の楽しみだからだ。
「どうしよう……」
寒さと恐怖に身を縮こまらせながら、エマは大粒の涙を瞳いっぱいに浮かべた。それは瞬きをしたら今すぐにでもこぼれ落ちそうであった。
*
快晴ではあるが寒気が身に染みる。ずっと外にいたら体の底から凍りついてしまうような、そんな気温であった。目的の場所までは庭をショートカットした方が早いので、アビスは木々に覆われた日陰の中をずんずんと突き進んでいた。そんな矢先――。
「仮面さん……」
と頭上から今にも消えそうなか細い声がふってきて。この声はきっとエマの声だが、エマがこんな場所にいるわけはない。ましてや頭上にいるなど有り得ないと思ったアビスではあったが、幻聴であるというわずかな可能性も消すためにバッと木々を見た。やはりいないとそう思いたかったのに――彼女はいた。風でふわふわ揺れる髪とローブのせいで森の精のようにも思えたが、間違いなく―― エマ・カルネ本人だ。
「アナタ……そこで何をしているんですか」
「あ、えっと……」
いや、なぜ私を見て安堵の表情を作るんだ。
「今日は寒いですし、日向ぼっこをするなら別の場所がいいと思いますが」
冗談とも本気とも取れるアビスの発言に、エマは一瞬硬直したが、その後ブンブンと首を振って否定した。
「違う! ……子猫がね、下りられなくなってると思ったから登ってきたんだけど、実は子猫は自分で下りられたみたいでね」
子猫が下りられなくなっていると思った、か。なるほど、辺りを見渡してもそのような気配はなかったのでエマの言う通りなのだろう。
「はぁ……じゃあ君も下りたらいいじゃないですか」
「お、下りられたら下りてるよ! 一人取り残されちゃったの!」
顔を真っ赤にしてアビスに反論するあまり、つい片手を上にあげたエマはそんな事まで気が回らなかったのだろう。幹を両手で掴むことでとれていたバランスは崩壊し、そのままひっくり返って片手で宙ぶらりんの状態になってしまった。
「っ……危ないでしょう! 気をつけなさい!」
落ちるのではないかとこちらの肝が冷えた瞬間だった。なぜその状態で会話に夢中になって、自分の状況を忘れてしまうのかアビスには考えられなかった。
「き、気をつけなさいって言ったって、下りられないんだから仕方ないでしょ……」
「助けましょうか?」
「ほ、本当に?」
こんな場面だからだろうか。アビス・レイザーはこのやり取りにほんの少し意地悪なスパイスを効かせたくなった。それに対して、エマは一体どういう反応をするのか。強くなってきた風が木々を揺らし、エマとアビスの心もざわつかせる。
「二者択一としましょう。前者は文字通り、アナタを助けます。後者は、助けはしませんが――私の名前、フルネームをお教えしましょう。ただし、前者を選んだ場合、二度と私の名前はお教え致しません。いかがでしょうか?」
自分の胸に右手を当て、左手を下に一礼し、わざとかしこまった様なポーズを作りエマに問いかける。どうせエマは、迷わず助けてくれと言うのだろう。なぜならこんな状況下で次に他の人がここを偶然通りかかり、助けてくれる確率などないに等しいからである。もしかしたら、これが彼女にとって最後のチャンスかもしれない。だから前者を選んで欲しい。それはアビスの一縷の望みでもあった。期待したのに、この目のせいで相手の気が変わって切り捨てられるなんて思いは――もう二度としたくない。
エマの答えを待とうと上を見上げれば、間髪入れず、エマは即答だった。
「仮面さん!」
「! ……」
「エマはー! 冥土の土産に仮面さんの名前を教えて欲しい! 正直ね、下見ると震えるくらい怖いんだけど、名前を教えてくれるなら落ちてもいいかなって思ったー!」
アビスに何か答える時は、声が届かないから嫌でも下を向かないといけない。冥土の土産ってアナタ……顔は笑っているのに、顔面蒼白じゃないですか。そんなに痩せ我慢してまで、自分なんかと仲良くなりたいのか――。こんな気持ちを今まで味わったことがなかったアビスは、どうしたらいいか分からなかったが戸惑いよりも、喜びの方が強いことだけははっきりしていた。
パキパキッと嫌な音と、エマの怖がる声が聞こえる。全く、あなたって人は――羨ましくなるくらいに素直で良い子なのですね。
「エマ!」
「か……仮面さん、名前!」
「あぁもう……そんなの後で教えますから! 私を信じて飛びなさい!」
自分が他人を信じて裏切られてきて、私はもう誰のことも信じないと決めていたのに。まさかそんな自分が他人に信じろと言う日が来るなんて――滑稽ですね。
「お、落ちそうなのに飛ぶの!? ……きゃっ!」
「いいから、早く!!」
エマは意を決して空を飛んだ。その瞬間、木の幹は飛んだ弾みでバキッと大きな音を立てて根元から折れ、エマよりも先に下に落下して。エマは恐怖で声も出ないのか、ただ重力に身を委ねてぽろぽろと大粒の涙を流していた。確かにいくらアビスが指示をしているとはいえ、ホウキなしに空を飛ぶ経験は生まれて初めてだろう。アビスはすっと杖が仕込まれた剣を構えて、呪文を唱えた。
「アクセレイズ セコンズ フォースフィールド」
アビスが唱えたのは、加速魔法の強化系、今の自分が使える最強の高等呪文である。呪文を唱えればすぐさま可視化できる紫色の空間が展開され、エマの体には赤い矢印が、アビスの体には青い矢印がそれぞれ現れた。その矢印が現れた刹那、落下スピードが急に遅くなったことから――きっと、エマ自身は重力がなくなったように感じるだろう。
「な、何これ……」
「驚きましたか? 自分が遅くなっていることに……この空間は私以外の動きを減速させ、その分私の動きを加速させるのです」
エマがアビスの言う通り、驚きでぱちぱちと目を瞬かせた瞬間に、アビスは次の呪文を唱えた。
「アクセレイズ スフィア」
アビスが次に唱えたのは、矢印を出現させ、自分自身を加速させる魔法であった。つまり、最初に自分の空間を展開することで相手の落下速度を遅くさせ、落下自体を遅らせる。かつ自分を更に加速させ、矢印で足場をつくることでエマ自身を受け止めて着地できる――ということである。
ミルクベージュの髪をふわふわと揺らしながら、落ちてくるエマはやはり妖精のようで。そんな彼女をアビスは素早く空中で受け止め、壊れ物を扱うようにそっと抱き抱えた。ああ、こんなに震えてかわいそうに。エマを安心させるようにアビスは仮面の下で優しく微笑んだ。途端、きらきらと熱い視線が無遠慮にアビスに突き刺さったのは言うまでもない。エマが震えていたのは、アビスが王子様にしか見えなかったからなのだが――アビスにそんなことが露ほども伝わるはずもなく。アビスはストンと綺麗に着地をし、ゆっくりとエマを足の先から地面へ下ろした。
「そういえば約束の自己紹介がまだでしたね……」
自分の素顔を隠す仮面を外し、エマに向き直りアビスは敬意を込めて一礼した。
「私はアビス・レイザーと申します。以後、お見知りおきを」
アビスが名前を名乗れば、エマはまた瞳をうるうるとさせていて。アビスが敢えて
「っ! ……やっと名前教えてくれた〜!」
―― エマはそんなことを知るわけもなく、アビスに名前を教えてもらった嬉しさで感極まっていた。聞けば、調べるのではなく、本人から教えてもらうことに意味があるのだという。それでも。
「な、泣くほどのことではないでしょう……」
「泣くほどのことだよ! 例えるなら、もう仲良くなりたくて何度も何度も通い詰めてるのに、ずーっと懐いてくれない警戒心の強いわんちゃんがようやく懐いてくれた! っていう喜び……?」
「本人を前にして、犬に例えるのはいささかどうかと思いますが……」
困惑するアビスを前にエマは、「だって本当でしょ」と言ってニッと笑った。
「あ、それと…… エマの名前呼んでくれて嬉しかった……! あの、ボーナスタイム的な感じでもう一回呼んでくれたりしますか……?」
「呼びませんが」
わくわくした顔でお願いしてきたエマをアビスは一蹴した。そもそも、アビスがそう簡単に女の子の名前なんか呼べるはずもない。少しづつ、慣れていくからそこはそうご期待としてもらいたいものである。
「うっ……じゃあ、呼んでもらえるように頑張る……。それよりも! あ、アビスくん……あの、助けてくれてありがとう……」
両手の人差し指を合わせて上目遣いで言ってくるエマに思わずたじろぐが、これだけはちゃんと聞いておかなければアビスの気が済まない。
「全く――どちらを選んでも助けるつもりでしたが、あなたは迷わず、私の名前を選びましたね。泣くほど怖かったのでしょう? 自分のことより優先して……なぜですか?」
そうエマに問えば、そんな簡単なことと言いたげに、ククッと喉を鳴らして笑っていて。でも、アビスには「そんな簡単なこと」がわからなくて、首を傾げた。
「ククッ……そんなの初めて会った時と理由は変わらないよ。このチャンス逃したら、せっかく心を開こうとしてくれたアビスくんともう二度と仲良くなれない……って思ったから。でも……」
「でも、なんですか」
「一番の理由は……好きに、なっちゃったからかな」
エマの頬が紅潮しているのは、寒さからか、この状況からか――。ちらっとアビスの顔を窺って、目を逸らすように俯いたエマは困ったように頭をかいた。
「すきに、なっちゃった……のですか?」
「わー! もう普通同じテンションでその部分聞き返すかね! 女心がわからん奴め!」
彼女のあまりの剣幕にアビスは口をつぐんだ。どうしてエマは怒っているのだろうか。理解はできないが、多分この感じだと自分が悪いのだろう。実はこの間、会話をしながらアビスは意識せず、エマのウェーブがかった髪に絡みつく葉っぱを一本一本綺麗に解いて地面に落としてやっていたのだが……なぜかエマはその間もずっと恥ずかしそうな顔をしていて。
「だから、もう、そういうとこ……そういうの自然にできちゃうそういうとこ……」
「いやだって、落ち葉だらけですし」
「や、エマの髪、長くて猫っ毛だから色々絡まりやすくて……なのにそんな丁寧に……だから、その、うーん!」
今度はエマが黙ってしまった。アビスは何を言うのが正解か考え――考えた挙句、何も思いつかなかった。こうして思い返すとアビスが話さない時は、いつもエマが話を振ってくれていたのだ。なんでこんな時に痛感するのだろう。
エマが押し黙ったことで、急に風のざわめきと、木々の擦れ合う音が大きく聞こえてくる。その間を持たせるために、アビスは自分のハンカチで瞳に溜まっていたエマの涙を拭ってやった。なのに、拭ったはずの涙は、拭っても拭っても、とめどなく流れてきて。おかしい、確実にさっきより酷くなっている。女の子の扱いに慣れていないアビスはこの事態に非常に戸惑った。
「どうしてッ、そんなに……優しいの!? もうこんなの好きになっちゃうよ! ううっ……」
「こ、困りましたね……。あなたは誰かのことを優しくてすきだと思うと、泣きたくなるのですか?」
「泣きたくなるよ、好きって思った男の子が自分に優しかったら! ……だって、優しいってその人がわたしを大事にしてくれる気持ちだから」
――優しいとは、その人を大事にする気持ちか。アビスは思わず笑ってしまった。だって、こんな自分をすきだと言って、目の前の女の子が泣いている。どうして世界から望まれない存在の自分をすきだと言うのかはわからない。でも、不思議と嫌な感情はなかった。
「な、なんで笑うの……?」
「フフッ、いえ……気に障ったなら謝ります」
「真剣に言ってるのに!」
「……君は、随分と変わり者のようですね。面白い子だ」
もしかしたら、信じてみてもいいのかもしれない。そう思わせるほどに、アビスの氷の心はエマによって溶かされていた――。
「というかアビスくん、やっぱり笑った顔もすっごく素敵だね……! はぁー……こんな美形に微笑んでもらえるなんて、エマってばもう……夢心地ですよ……」
「そんな事言われたことありませんが……」
そう言えば、エマに前にも同じようなことを言われたか。だが、生まれてきたことを後悔しているアビスが容姿を気にする暇など今までなかった。それ程までに生きていくのに必死だった。ましてや、人に笑顔を見せるなんて。どうせ自分は忌み嫌われる存在であるのだから、そんなことに意味なんて――。
「……アビスくんはね、とっても素敵な人だよ。だから、嫌われることに慣れないで!」
「は……?」
嫌われることに慣れるなとはどういうことか。悪魔の目を持つ者が嫌われるのは当然のことという認識であるため、アビスはエマの言っている意味が理解できなかった。
「あのね……今だから言うけど! アビスくん出会った時からずっと寂しそうな目してるよ」
「寂しそうな、目……」
意識はしていなかったが、エマの言う通りなのかもしれない。魔法が全てのこの世界に、物心ついたあの日から――自分は何の期待もしていないのだから。
「いや、自分が傷つかないように周りを拒絶してるんだなと思ってはいたけどさ……」
「……」
「そうはいってもアビスくん……名前すら教えてくれないし、いつもすっごく素っ気ないし、挙句の果てに全然エマに興味持ってくれないからさ……わたしも半ば意地になっちゃって。でも、だんだんね……優しいところがたくさんある事がわかって……」
アビスは黙ってエマの話に耳を傾ける。
「この世界はこんなにアビスくんに冷たいのに、アビスくんは温かかった。いつも見てたからわかるよ、理不尽に虐げられる中で、大事な人の役に立ちたいって一生懸命で……! だから、だからっ……今度はエマが隣で、そんな一生懸命なアビスくんのことを笑顔にしたいって思ったの!」
「……私を笑顔に、ですか」
顔を真っ赤にして懸命に伝えようとするエマから真剣さが伝わってきて。――こんな事を言ってもらえる日が来るなんて、アビスは想像もしていなかった。
「今までアビスくんが人から嫌な思いをした分も、エマが代わりにいっぱいいっぱい好きをあげるから……その、アビスくんの大事な人の二番目でもいいので、エマを隣に置いてもらえませんか? ……と、友達からでも構いませんので!」
アビスは感じたことのない、温かい気持ちが流れ込んできたことに困惑した。だから、自分を熱心に見つめ、片手を差し出すエマにすぐに返事が出来なかった。
「え、あ……やだよ! 何も言ってくれなかったら恥ずかしいじゃない! 何かリアクションして!」
エマのまた潤み始めた琥珀色の瞳に、きらっと光が反射して透けた様はまるで宝石のようで。あぁ、胸がいっぱいで、何も言葉にできない代わりに――人は抱擁で気持ちを表すのかもしれない。
「わっ……!」
いつの間にかアビスは自分の女子への苦手意識がエマに対してはなくなっていることに気付いていた。あれだけ追いかけ回されていたら当然かもしれないが――自分のためにいつもフードを被り、仲良くなるために何度冷たくあしらっても、諦めず話しかけてくれた。いつの間にか、自分から求めていた。
「わ、わ! わー! ……アビスくん、それは同意と受け取っても……?」
エマに窺うように聞かれ、返事こそしなかったがアビスは抱き締めた腕の力を強めた。こんなに細くて、自分のせいで折れてしまわないだろうか――。トクントクンと生きている鼓動が伝わってくる。繋がりあった相手の体温とはこんなにも気持ちのいいものなのか。エマのおかげでアビスは――今、まさに生を実感していた。
「……だからさ、嫌われることに慣れないでね。アビスくんが悪いわけじゃない。全ては悪魔の目が悪いんだから……」
「はい……」
何かを言葉にしたら泣いてしまいそうで、相槌を打つことしか出来ない自分が歯がゆい。エマはこんなにもアビスに対して、ちゃんと言葉にしてくれるのに。
「あ、でもね!」
「?……」
「エマはアビスくんの悪魔の目、好きだよ。こんな深い深紅の赤に、強く輝く金色の綺麗な瞳……まるで芸術品みたいじゃない。初めて見た時から――吸い込まれそうで、目が離せなかったよ。だから、あなたの全部が好き。生まれてきてくれてありがとう」
「……っ」
「あは……なんて、まだ会って間もないのに大袈裟だし、偉そうですが……。んー……頬あっつ……恥ずかし」
誰かのために、何かのためにこんなに必死になって――。どうして、私がずっと欲しかった言葉が分かるのだろう。どうして、私がずっと欲しかった言葉をこんなに簡単にくれるのだろう。確認も込めて、アビスはエマに聞いた。
「アナタには私が必要……ということですよね」
エマはそれを聞いた途端、驚きで目を見開いて声を荒らげた。
「ええっ、今の聞いてそれ!? もう……にっぶいな! ……必要だよ、すっごく必要、いなきゃダメ! すなわち必須! 分かりましたか!?」
「……はい」
その言葉を聞いた瞬間に、アビスは自然に口角が上がるのを感じていた。答えは分かりきっていたが……これはエマに言わせたかった、に等しいかもしれない。
そして――この時、アビスは目的遂行のことなどすっかり忘れてしまっていた。想定外の事が起こった時のために、慎重なアビスは何個かプランを用意しておくのを定石としているが、これは流石に想定外すぎたのだろう。どのプランでも、カバーできそうにない。
「そろそろ……は、恥ずかしいから離れて欲しいな〜」
そんな折エマからの申し出があったが、アビスはこれまた平然と却下した。これに関しては、彼女に対するアビスなりのわがままである。
「嫌です」
「い、嫌なの!?」
「嫌です」
「そっか……」
「はい、諦めてください。だって――私にいっぱいのすきをくれるとつい先程言いましたよね、あなた。ほら……私を笑顔にしたいのでしょう?」
「あ、アビスくんって、結構意地悪だよね……」
「おや、知らなかったのですか。今更後悔しても、遅いですよエマ」
「な、名前……! また呼んでくれた……」
「ハハッ、君の言葉を借りると、『ボーナスタイム』ですかね」
こんな事で頬を染めて、自分に擦り寄ってくるエマが可愛くて仕方なくて。嬉々とした顔で自分に笑いかける彼女のことを大事にしたいとアビスは心から思った。
*
相手の魔法を一時的に使えなくする悪魔の目。魔法が使える者からしたら、アビスはまさに天敵。もし、この目さえ、この目さえない自分が、ただ普通に生まれてこれたとするなら。私は一体――何を望んだのだろう。
そんな、アビスの人生における問いは――たった今、一人の少女の優しき心によって答えが導かれたのであった。
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