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プラスチック・シュガー

「くだらない」
 とトロは言った。前日の酒が少し残っている、朝の散歩でのことだ。
「愛でも恋でもいいんだけど、必要としている人だけが必要とすればいいんだよ。なかにはそういうのを求めてない人がいることを、その人はわかってないね」
 吉川さんとのやりとりを、かいつまんで話したことに対する反応がこれだった。いつものように無表情でキャスパーのリードをつかみ、犬の進みたい方向へ進んでいく。僕はそのあとをついていく。普段通りの光景だ。
 僕が正常な感覚を持っているかいないか以前に、トロに対して抱いている感情が恋かそうでないか以前に、彼女のなかにそういう概念がないのだ。多感な時期を家に閉じこもって過ごしていたからかもしれない。彼女は僕に恋をしていない。生きるうえで、幻想を必要としていないのだ。現実を見ている、といえばかっこいいかもしれないけど、目に見えるもののなかにしか生きられないのだ、少なくとも今は。
 僕はかえって、そのことに安心した。たとえば万が一、僕らの関係が恋愛に発展するとして(あるいは変化・劣化するとして)、そのあとに待っているのは別れや悲劇だ。そうでない可能性もあるかもしれないけど、どう考えても今の距離感のほうが心地良いに決まっていた。お互いに傷つかない、安全な関係。トロは無意識的に、僕は意識的にそれに甘えようとしているのかもしれない。いずれにせよ、僕はこれ以上その話題を広げることをやめた。
 トロはトロで、たいしてその話題に興味はないようだった。キャスパーが往来で立ち止まり、キャバリアにしては大きなうんこをすると、僕にその処理を任せた。僕がトイレットペーパーでうんこを拾っているのを、まるで無心に、いつか彼女の家の草木を切ったときみたいに眺めている。僕が拾ったものをビニール袋に入れると、散歩が再開された。元々持っている話題に乏しいトロから、なにか話をふってくることはない。たいていそうだ。最初の頃は「円相場が上昇したんだよ」とか「最近読んだ本がおもしろかった」とか、彼女なりに話を考えていたのだけど、そのどれもがたいして楽しくもないことに気づくと、何も話さなくなった。そこが普通の女の子と違うところだ。たぶん。
 僕は僕で日常のささいなことを、思いつけば話す。吉川さんとの会話なんか、まさにそうだ。でも、それだってとくに面白いわけではない。だから自然と話すことは少なくなる。僕らの散歩で、会話というものはそれほどない。毎日会えば会うほどそうなっていった。幸いなことにお互いそれを気まずく思うような性格ではなくて、散歩の時間は鳥の鳴き声とか、朝の湿った匂いだとか、そういうものを感じるためのものになった。ずいぶん高尚な趣味に思えるけれど、やってみるとたいして違和感はなかった。
 彼女はなにを求めているのだろう。
 ときどき、それが見えないことに気づいたりする。というか、なにも求めていないのではないかとさえ思った。愛や恋を求めず、この世界との同調を求めず、人のうちの犬と散歩を楽しんだりしている。外との接点は僕だけで、その世界から抜けだそうとしない。立ち直っている最中だとしても、あまりに進歩や進展がなかった。僕が心配したところで、どうにもならないのだけど。
「たまには駅前にでも行ってみる? この時間なら、人は少ないと思うけど」
 僕が提案すると、トロは黙って首を横に振った。徒歩十分以上かかるところに、彼女は行こうとしない。いろいろ理由はあるらしいけど、本質的には不特定多数の他人と同じ空間に長時間いたくない、ということだった。
「じゃあ、いつも通り古民家園に行こう」
 古民家園は、なぜその時間なのか不明だが朝の六時には開く。もちろん人なんかひとりも来ない。入口のところで管理人がひとり、居眠り半分で椅子に座っているだけだ。本来ペットを連れて入ることはできないのだけれど、この時間帯だからか管理人は黙認してくれている。というか、厳密には居眠りして見過ごしている。
 かつて農村だったこのあたりの、残っていた古民家の集合地帯を保存して一般公開している。その主旨はわからなくもなかったけど、周辺の老人のサロンになっていること以外は、存在意義が疑わしかった。まあ、僕らみたいに犬の散歩コースにしている人もいる。ときどき見かけたり、すれ違ったりしていた。そしてそういう人とすれ違うたび、トロの顔は少しだけこわばった。
 いつも通り古民家園の外周をぐるっと周り、時間をかけて元の入口に戻ってくる。相変わらず管理人は眠っていたけど、いつものことなのでもう慣れてしまった。それからトロの家まで戻り、(時間のあるときは)家にあがって朝のコーヒーをもらう。今日は夜勤なので、これからしばらく予定が空いていた。家にキャスパーをあげることを、はじめからトロは嫌がらなかった。むしろ自分の家に動物がいる、という久しぶりの状況が嬉しいのか、最初にキャスパーを見たときから進んで家にあげている。いつのまにか専用の水皿を購入し、散歩のあとはそこへ水を入れて飲ませていた。元々犬を飼っていたことがあるからかもしれないけど、なかなかの溺愛っぷりだ。無表情なのは変わらなかったけど。
 希望すれば、トロはトーストも出してくれる。今日はお願いした。夕食の時間はともかく、朝食として食べる分には、この家のトーストは最高だった。彼女の出してくれる色とりどりのジャムをたっぷり塗って、こぼれ落ちないように口へ運ぶときの気持ちよさは朝のいい刺激になる。
 トロと一緒になってトーストを食べ終える。食事中も、基本的に会話は盛り上がらない。咀嚼して、飲み込み、ときおりコーヒーで喉を潤す。お互いに思いついたことを口に出すことはあったりしたけど、それも二言三言のキャッチボールで終わる。傍から見れば、僕らは仲が悪いように映るかもしれない。
 決して仲が悪いというわけではない。ただ、特別に良いわけでもないというだけで。居心地はいいのだけれど、お互いどこかで親しくなりすぎないよう一線を引いている感じはあった。僕たちはその手の親しさを必要としていないと思っていたし、それぞれの事情で親しい人間を作ることを避けている。ふたりとも、その根幹にあるのはある種のおそろしさだ。誰かと仲良くなることが怖いのだ。
 それに、これはこれで、もう充分親しいような気がしていた。毎朝会う人がいて、一緒に散歩する人がいて、ときどき一緒に朝食をとる相手がいて、それでもう満足だった。だから吉川さんの言っていたこともすぐ、どうでもよくなる。やっぱり、これでいいのだ。
「こういうのを、友達っていうんだろうか」
 食後にもう一杯コーヒーを入れてきてくれたトロを前にして、僕は言った。トロは不思議そうに僕を見たあと、自分の席に座って、自分のコーヒーを飲む。
「どうだろう、友達っていうのとも違う気がするけど。だって友達っていうのは、同じ感情を共有して、会ってても会わなくても関係が変わらなくて、信頼関係で結ばれているようなものでしょう?」
「それは、すごく理想的な関係だね」
「でしょ、だから違う。私たちが共有している感情はたぶんないし、会わなくなったらそれで終わりそうだし、信頼関係で結ばれてもいない」
「そうかな?」
「そうだよ。だって豊くんは、私のことなんか全然好きじゃないでしょ?」
 そんなことはない、と言いかけて、僕は口をつぐむ。果たしてそんな理想通りの友情を育んでいる人がどれだけいるかわからないけど、少なくとも、トロはそう思っているのだ。自分は好かれていないと。愛されていない(と思っている)期間があまりに長すぎて、自分が愛されるわけはないと思っている。なんのために生きているかわからないから、生きている価値がないと思っている。それでは、僕と同じだ。
 自分のことは棚に上げて、トロが自分のことをそう思っているのが、なんとなく嫌だった。彼女はもっといろんな人から愛されていい、というか、愛されるべきだと思った。多少性格に難はあるものの、自由気ままで、多少顔立ちはきついけれど美しいこの女の子は。
 かといってそれは僕がどうにかできる問題でなく、本人の気の持ちようと、この世界の彼女に対する反応次第だ。だから解決するには、それなりに時間がかかるだろう。
「僕は、トロが好きだよ」
「それはどういう意味?」
「わからない」
「じゃあ、わかったら教えて」
「教えたらどうなるの?」
「わからない」
 わからないことばっかりだ。でもそのほうが、おもしろいのかもしれない。同じくらい不安ではあるけれど。
 トロに、僕のことをどう思っているのか聞きたくなった。あるいは彼女の返答によっては、僕のなかにもポジティブな変化が生まれるかもしれない。けれど、結局その日に聞くことはできなかった。聞いてみたいのと同じくらい、おそろしくもあったのだ。彼女は僕に恋をしていない。それはたぶんそうだろう。しかもそれだけでなく、彼女は僕のことを好きでもなんでもないかもしれない。それはとても悲しいことだった。
「親しさと、その人に対する感情は比例しないよ」
 まだそれほど親しくなっていなかったときに、トロはそう言っていた。そのときはどういう意味で言ったのかわからなかった。今もよくわかっていないけど、親しくなったからといって彼女が僕のことを好きになるとは限らないということではあった。僕は円相場の動きにそれほど興味はないし、残念なことに本の趣味も合わなかった。お互い読書家ではあったけど、自分たちの本を交換して読んだときにそれがわかった。彼女は音楽を聴くけど、僕はあまり聴かない。ほぼ唯一聴く、進藤さんのCDはトロもまあまあ気に入ったようだったけど、共通の話題になるほどではなかった。僕たちに共有できる話題はほとんどなく、それはつまり、親しくなるためのツールが不足しているということだった。これ以上親しくなりようがない。それはある意味で僕を安心させたけど、同時に閉塞感をもたらした。最終的に僕らは、相性が合わないのではないかと思ったからだ。
 仲良くできない人間とは仲良くできない。それはシンプルな真理だと思う。べつに今までは、それでよかった。合う人とは合ったし、合わない人にそこまでの執着を感じることもなかった。けれどトロには、そういうあきらめかたをしたくなかった。
 なにがそうさせるのかわからなかった。出会いかたかもしれないし、お互いが感じている孤独の親和性かもしれなかった。お互いの痛みをかばいあうことは、中毒性のある感情なのかも。
 ぽつぽつとした会話をしたあとで、僕はトロの家をあとにした。いつものことだけれど、まだ昼にもなっていなかった。時間を持て余しそうな予感、いや確信があったので、僕は電車に乗って海を見に行くことにした。
 そして着いた江ノ島の海で、僕は成瀬夏美と再会することになる。

 もともと海を見るのが好きだったのは成瀬夏美のほうで、付き合っているうちにいつしか僕の趣味にもなった。お金をかけるのがきらいな子で、出かけるときはたいてい海とか山とか公園とか、特になにもなくても楽しめるところが多くなる。お互いに高校生だったし、小遣いもそんなに持っていなかったので、そういう意味では非常にありがたい彼女だった。
 出会いはなんの変哲もなくて、ようするに部活が一緒だったのだ。僕はなにを思ったか、高校入学と同時に演劇部へ入った。特に友達に誘われたわけでもなく、学校の規則で部活に入らなければならないわけでもなく、あくまでも自主的に。たぶん時間や自分の存在を持て余していて、フィクションの世界に救いを求めていたのだろう。当時は映画を観るのが好きだったというのもある。一方の成瀬夏美は小学校から演劇部に入っていた筋金入りの経験者で、将来は舞台役者になりたいと恥ずかしげもなく言ってしまうタイプの女の子だった。実際そのために努力しているのも見ていたし、残念ながらそんなに美人というわけではなかったけれど、それでも真剣に演劇に取り組む彼女の姿勢は美しかった。
 入学して最初の一ヶ月くらいは真面目に通っていたものの、新人生歓迎公演という催しが終わったゴールデンウィーク直前、僕は唐突に飽きてしまった。退屈して、というわけではない。ただその頃は、真面目になにかをするということに嫌悪感があったのだ。籍は残しておいたのだけれど、たまに顔を出してはちょっと準備を手伝ったりする程度の幽霊部員に成り下がった。それでも演劇部では貴重な男手だったので、小言を言われることはあっても退部させられることはなかった。
 成瀬夏美は一心不乱に演劇に打ち込んだ。例の新入生歓迎公演で一年生ながら役をもらうと、おそらく誰よりもすさまじい熱量でもって、その作品を演じきってみせた。それからは一年生の中心になり、先輩や顧問の先生にも一目置かれ、部活全体を引っ張っていく存在になった。結局、組織は特定の人間の情熱で成り立っている。
 ただ、彼女は強烈なまでにストイックな性格だった。自分にも他人にも大変厳しい。僕が幽霊部員になりかけたとき、もっとも強く責めてきたのが成瀬夏美だった。責任感がないだの、やる気のない人間は辞めろだの、顔を合わせるたびに僕に対する怒りをオブラートに包むことなくぶつけてきた。辞めずにすんだのは幸い、彼女に僕を辞めさせる権限がなかった、というだけの話だ。
 そんな人だったから、高校に入って早々、クラスでは浮いた存在になったらしい。入学して間もなくあった、球技大会でやる気のないクラスメイトにキレたのが直接的なきっかけになったらしい。あっというまにクラス全員とぎくしゃくした関係になった。僕がそのことを知ったのはあとになって、本人に聞いてからで、それを聞いて「ああ、そういうことやりそうな人だもんな」と思ったものだ。
 彼女は彼女なりに、密かに落ち込んでいたようだ。気が強かろうと意識が高かろうと彼女はまだ高校一年生の女の子で、友達のひとりもいない状況に痛みを感じていた。ゴールデンウィークが明けて最初の土曜日だったと思う。僕は父に誘われて東京ドームに野球を観に行っていて、五回の表が終わったあたりで成瀬夏美からメールが届いた。僕らは最初に部活で出会ったとき携帯電話のメールアドレスを(儀礼的に)交換していたので、事務的な連絡を取り合うことがあった。そのときも、来週のミーティングには出席するように、しないと怒る、という主旨のメールだった。早くも夏休みの予定を決めるミーティングで、合宿に行くだの行かないだの話し合うのだということは聞いていた。自由参加の合宿などはなから行く気のない僕にはめんどうな議題でしかなかったけど、ミーティングをサボって怒られるのも嫌なので出席する旨を彼女に伝えた。それだけでは事務連絡としてももの足りないと思ったので、ついつい余計な言葉を添えてしまう。
「成瀬さんはいつもそうやってピリピリしてるの?」
 彼女はそのとき暇だったのか、返信はすぐにやってきた。
「そうだよ、悪い?」
「いや、好きだよそういうところ」
「そういうところって?」
「自分のやりたいことをやりたいっていう、人間くさいところ」
 これは未だによくわからないのだけど、成瀬夏美はこのメールで僕に恋をしたらしい。
「そっか、私は人間くさいのか。ありがとう」
 意味不明のお礼を言われ、その日のメールは終わった。彼女とのやりとりのせいで、五回の裏と六回の表を見逃した。父はなにも言わなかった。特にどちらかのチームのファンというわけでもない僕たちは、ぼんやりと試合の最後を見届けてうちに帰った。
 そして翌週のミーティングで顔を合わせて以降、成瀬夏美の態度がなんとなく柔らかくなった。僕に対してきついことを言わなくなったし、他の部員に対しても全体的におおらかになっているように見えた。あとから聞いた話では、このあたりからクラスメイトとの関係も修復できていったのだという。
 僕がなにげなく放った「人間くさい」という言葉を、成瀬夏美がどう受け取ったのかはわからない。あるいは、自分の性格は人間くさくて、なにも間違っていない、というふうに思ったのかもしれない。やりたいことをやっていいのだと思ったのかも。いずれにせよ彼女は僕の知らないところで落ち込み、僕の知らないところで立ち直った。そして僕を好きになった。
 夏休み前最後の部活の日に「花火大会へ一緒に行かないか」と誘われた。トロほどではないけど、僕も人ごみはあまり好きじゃない。それでも断る理由を思いつけないうちに、やや強引ともいえる勢いで約束を交わされた。
 花火はそれなりにきれいだった。人の群れにまぎれて会場に向かい、人の群れにまぎれて会場をあとにする。それは大変憂鬱な作業ではあったけれど、少なくとも帰りは花火を観た感動で思ったほど苦にならなかった。
 そして帰り道の途中に会った公園で、僕は成瀬夏美に告白された。
「私と付き合ってくれない?」
 彼女らしいシンプルなもの言いで、僕は好感を持った。正直に言えばこの時点で僕は成瀬夏美に恋をしていなかったのだけれど、彼女と一緒に過ごすのはもしかしたら楽しいかもしれない、と思い、その申し出を受けた。
 付き合いはじめて最初の頃こそ映画に行ったりショッピング的なことをしたりと、それなりにお金を使ったカップルらしい活動もしていた。けど、次第にお互いの嗜好がわかると、目的地が海や山や公園に変わっていった。予感していた通り、成瀬夏美と過ごす時間は楽しかった。美人というわけではない顔も、次第にたまらなく愛嬌のある顔に見えた。僕はだんだん彼女のことが好きになっていった。
 彼女が特に、人気の少ない春や秋の海を好んでいたことを忘れていたわけではない。そしていつも行く海が(地理的な理由もあって)江ノ島だったということも。ただ、もしかしたらそこで再会するかもしれないなんて可能性を考えたことがなかっただけだ。
 僕は駅前のコンビニで缶コーヒーを三本買って、ぼんやりと煙草を吸いながら海岸の砂に座っていた。いろんなことを考えていたのだ。トロのこと、仕事のこと、これからの人生のこと。考えているうちに容量オーバーでめまいがしそうになる。落ち着くために一本目の缶コーヒーを飲み干したところで、うしろから声をかけられた。
「草薙くん?」
 座ったままふりかえると、成瀬夏美の顔が目に入る。とたんに、なつかしさがこみあげてきた。なぜだか、僕は叫び声をあげたい衝動に駆られた。あまりの意外さに、単純に驚いたというのもあるかもしれない。自分ではないと思っていたけど、やっぱり未練めいたものが残っていたのかもしれない。いずれにせよ、自殺未遂で入院して以降、一度も見ることのできなかった彼女の顔を、僕はずっと見たかったのだと気づく。もう一度。
 人気の少ない海岸とはいえ、叫び声をあげるわけにはいかなかった。かわりに、かわりになっているかも微妙だけど、僕はうなった。
「うううううう」
「え、なにそれ?」
 なにそれと言われても、自分でもわからない。ただ、成瀬夏美と再会できた事実を、口に出すとこうなったのだ。彼女は不思議そうに首をかしげる。舞台役者を目指しているだけあって、心底不思議そうに見える。表情が豊かなのだ。
 成瀬夏美はそのままなにも言わず、僕の隣に腰をおろした。ふたりで春の海を眺めるかっこうになる。なにか言葉をかけないといけない、そう思っても、頭が真っ白でなにも思いつかなかった。
「久しぶり」
 しばらくの沈黙があったあと、彼女は海を見ながらぽつりと言った。僕が落ち着くのを待っていてくれたのだと思う。
「うん、久しぶり」
「なにやってるの? こんなところで」
「夏美さんは?」
「考えごとしたくて」
「じゃあ、おんなじだ」
 かつて一緒に、海で過ごした頃のことを思い出す。あの頃も、海へやってきては特に会話をすることもなく、ふたり並んで座って水平線を眺めていた。それで充分だった。お互いここで別々のことを考えていても、僕らは通じ合っていたし(あるいはそう思えたし)、この時間を大切にしていた。あの頃はよかった、なんて大人みたいなことを言うつもりはないけれど、この先も一生忘れることのない時間だ。
 僕は成瀬夏美から誕生日プレゼントでもらった本のことを思い出していた。彼女とは、本の趣味が合ったのだ。枡野浩一という歌人の本で、そこにはたくさんの短歌がおさめられていた。
「好きだった雨雨だったあの頃の日々あの頃の日々だった君」
 僕にとって、成瀬夏美はまさにあの頃の日々だった。学校にも部活にも行かず、生きていて楽しいことなど何もなく、ただただ消化するしかなかった日々。そこに断片的な救いがあったとすれば、それは彼女の存在だけだった。
 風に乗って、彼女の髪の匂いがする。かつてはもっと至近距離で嗅いだことのある、ひどくなつかしい匂いだった。ほのかな体臭も、使っているシャンプーも変わっていない。僕はそのことで一瞬昔に戻ったような錯覚に陥ったけれど、それはもう終わったことだと彼女の一言で思い出す。
「付き合っている人がいるの。大学の、部活の先輩なんだけど。入学してすぐに、私が好きになって。でもその人、彼女が三十五人いるの」
「三十五人は嘘でしょ」
「三十五人は嘘だと思うけど。でも何人かの人と付き合ってるのは本当みたい。それで自分が、どうしたらいいかわからなくなって。ちょっとひとりで考えたくて、ここへ来てみたの」
「好きな人ができたんだね。よかった」
「草薙くん以来だよ。あの頃のことが忘れられなくて、でもようやく新しい関係が築けそうで。なのにこんなんで。もうよくわからない」
 そう言って成瀬夏美は静かに泣きはじめた。久々に会う人間と、再会してすぐ、悩みを打ち明け、泣いてしまう。せっかちというか、直情的というか、自由気ままというか、そういうところは変わっていないのだなと思う。
 彼女に好きな人ができたという事実は、少なからず僕を動揺させた。悲しいとか寂しいというのではない。むしろ感情としては安心に近い。僕がしたことは彼女の心に深い傷を負わせたはずで、それを乗り越えられたのなら僕の罪悪感も軽くなる。それでも、自分があの頃のことを消化できないうちに、彼女が先に乗り越えてしまったという事実に、僕は追い込まれたような気分になった。お前はいつまでそこにいるのだと。
「草薙くん、私のこと恨んでる?」
 ひとしきり泣いたあと、成瀬夏美は僕の目を見た。あの頃と少しも変わらない顔に、うっすらと化粧が乗っている。高校生の頃はしていなかった。そんなことひとつをとっても、時間の流れを感じてしまう。
 そう言われて、僕はハッとした。同じことを、僕もずっと思っていたからだ。
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