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プラスチック・シュガー

「そうか、トロは、今立ち直っているところなんだ」
 ふと思いついたので、そう口に出してみる。あるいはそれは、僕がかつて通った道なのかもしれなかった。自殺未遂をして、引きこもり、コンビニでアルバイトをはじめるまで僕にもそれなりの時間がかかった。まだ完全に立ち直ったとは言えないけど、少なくともあの頃に比べれば、ずいぶん元気になったはずだ。そしてトロは、今まさに再生をはじめたばかりなのだ。彼女の環境的な事情は、僕より多くの時間を必要とするかもしれない。お母さんと過ごしたふたりきりの閉鎖的な空間は、彼女を深いところで閉塞させたはずだ。今は引きこもりかもしれないけど、かつては閉じ込められていた女の子。極度の面倒くさがりかもしれない。それでもこのままじゃいけないことはわかっている。
「じゃあ、たぶん大丈夫だよ。これからだから」
 僕は言った。言ってから、そんなのみんなそうじゃないか、と気づいて恥ずかしくなる。僕だってこれからだし、進藤さんだってこれからだし、根本さんだって紀藤さんだって万記絵だって父だってこれからだ。そしてたいていの場合、みんな大丈夫だ。大丈夫じゃない人もたまにいるけど、人はけっこう助け合って生きている。
 僕たちが今、まさにそうだと思った。
「立ち直っているところなのか、わからない。だって一日一日を、なにもせず無駄に過ごしているだけだもん」
「僕にもそういう時期があったから。そういう時期を乗り越えて、今はフリーターだけど、トロがキラキラしていると思うくらいの日常は送れてる。毎日不安だけど、毎日進んでる。たぶん。ねえ、今日僕はデートをしてきたんだ」
「急になに? すればいいじゃない」
 トロは無表情のままそう言った。その現象に、なぜか僕は少し残念なような気持ちになった。ただ、そのときはまだ気づかない。
「バイト中に手紙をもらって、メールをして、今日遊びに行こうっていうことになった。映画を観て、昼ご飯を食べて、話をした。つまらなかったわけじゃないけど、得るものはなかった。好きでもない女の子と遊んだって、申し訳ないしむなしいだけなんだ」
「それであなたは、なにが言いたいの?」
「僕も学んでいる、っていうこと。たぶん僕は二度と、好きでもない女の子と遊びに行こうとは思わないだろうね。それは誰かに余計なダメージを与えることを防ぐし、僕自身の時間を無駄に使うこともない。生きることが少しだけいいものになる。くだらないことかもしれないけど、そうやってひとつずつ学んで、積み上げていくんだ。僕たちは」
「じゃあ、もう私を海には誘わない?」
「今のところはね。トロのことは好きだけど、恋じゃない。まあ、トロがどこかに行きたくなって、そこに僕が必要なようなら付き合うけど」
 というのが僕の結論だった。この時点での。恋でも友情でもなく、利害関係もない。僕らはただ純粋に繋がっていた。僕のたいして長くもない人生において、そういう存在ははじめてだった。これも学んだことのひとつだろう。
 成瀬夏美は僕に人を愛することを教えてくれたし、高松さんは僕に愛せない人がいることを教えてくれた。アルバイト先で学んだこともたくさんある。笑顔でいれば、笑顔になる人が多いこととか。トロが立ち直っているところだとすれば、僕もそうだ。ただ僕のほうが、少し早いタイミングでスタートしただけだ。べつにその道の先輩として教えることなんか何もないけど、僕が大丈夫だから君も大丈夫だ、と言ってあげたかった。そのためには僕は、大丈夫にならなけばいけない。
 とはいえ、べつに特別なことをするわけではない。寝て、起きて、働いて、少しばかりのお金を貯め、本を読んで、人と向き合うことだ。そう言えば簡単かもしれないけど、実際にはなかなか難しいこともわかっている。ただそういう、言ってみれば簡単なことをやることが、がんばるということなんだろう。
 家を出るとか、新しい生活をするというのはあくまでも手段だ。僕に目的があるわけじゃない。その前に、なにがしたいか僕も見つける必要があった。そうやって立ち直る必要があった。
 今はとにかく、トロに大丈夫だというところを見せたい。
 夕食を食べていかないかという彼女の誘いを断って(最中でお腹がいっぱいだったし、どうせトーストだということもわかっていた)、僕は家に帰った。近いうちにまた来る、と僕は言った。待ってる、と彼女は言った。僕らの関係は、少しだけ前に進んだ。
 すっかり夜になっていて、高い空に星がたくさん見えていた。この街では、東京では珍しいくらいの星空が見える。特に田舎というわけではないのに。だからといって何というわけではないのだけど、ただ、きれいだなと思った。

 それから僕は、ときどきトロの家に行くようになった。頼まれていた車の処分をして(意外と簡単だった)、やや伸びてきていた家の周りの草木をもう一度切って、そういうのが終わると、いろいろな話をした。彼女の生活はなかなか前に進まなかったけれど、またコンビニ程度の近場なら出歩くようになった。
 それなりに気まずい別れかたをした高松さんは、新しい生活に順応しようと忙しいのか、ぱったりと連絡をしてこなくなった。それで僕はだいぶ気楽になったけれど、申し訳なさ、そして身勝手なことに若干の寂しさを感じた。まあ、生きていればこういうこともあるのだろう。僕も徐々に彼女の存在を忘れていった。
 僕の日常はつづいていく。それは僕にとっても、再生の日々だった。どこへたどりつくのかはわからないが、この道もいつかのどこかへつづいている。一生懸命働こう、その先の未来を信じて。月並み、かつ、くさい考え方を、僕はするようになった。
 そんなある日、深夜のシフトを終えた朝に帰宅すると、珍しく父と万記絵が揃ってリビングにいた。出勤前と登校前なのだろう、父はスーツ、万記絵は制服を身にまとっている。僕が扉を開けて中の様子にちょっとだけ驚いていると、万記絵が言った。
「待ってたよ」
 万記絵は言った。彼女に待たれていたことなんて、ここ数年来記憶にない。よく見ると、ふたりともなんとなく表情がニヤけていた。まだうちを出るまで時間があるはずだった。というか、まだ起きなくてもいい時間でさえあった。わざわざ僕を待っていたことになる。ごく控えめに言って、気持ち悪かった。
「ちょっと、そこに座って」
 父が、万記絵の隣の席に座ることを促す。なにか大事な話なのだろうか。表情を見ている限り深刻な話ではなさそうだったけど、僕は少し緊張する。もちろん生まれてはじめてのシチュエーションで、父と母が離婚すると報告してきたときでもこんなに改まって言われることはなかった。僕が座ると、父は言った。
「犬をね、飼おうと思ってるんだ」
 一瞬、父がなにを言っているか僕にはわからなかった。犬?
 万記絵が満面の笑みを浮かべる。よほどうれしいらしい。父はテーブルの上に載っていたノートパソコンの画面を開いて、僕に見せてきた。そのなかではかわいらしい子犬が、どこかのソファーに座って小首をかしげていた。
「キャスパーって言うんだよ」
 犬種の話かと思ったら、すでに名前をつけていた。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルという種類らしい。昨日の夜、いつものように唐突に帰ってきた万記絵がいきなり犬を飼いたいと言い出したのだという。母の家はマンションで、規則でペットが飼えないことになっていた。珍しく娘に甘えられた父はうれしくなり、さっそくインターネットで売っている子犬を調べた。そしてとある九州のブリーダーがやっているホームページに辿りつき、フィーリングでこの子犬が気に入ったらしい。
 そのことについてどう思うか、父に聞かれた。万記絵は自分が世話をすると言っているけど、きちんと毎日家に帰ってくるかは怪しいだろう。だから、基本的に我が家は父と僕のふたり暮らしだ。そして父も仕事を持っている以上、負担の何割かは僕にも回ってくる。そのことについてどう思うか、父は聞いているのだ。
 僕だって犬はべつに嫌いじゃないし、飼いたいと言っている家族に反対する積極的な理由はなかった。むしろ帰ってきても誰もいないことに慣れていたから、犬が待っているというのはなかなか新鮮かもしれない。
 ただ、うちを出て独立する、というアイデアも捨てきれていなかったから、そこに迷いが生じた。十年生きるのか十五年生きるのか知らないけど、いずれ父がひとりで面倒を見ることになるとして、それは大変なのではないだろうか。今はともかく、いつかは万記絵も僕も独立するのだ。というようなことを伝える。
「いいじゃん、そういうのはとりあえずさ。豊は考えすぎなんだよ、いつも」
 と万記絵は言った。いつだったか、進藤さんにも同じことを言われた気がする。そしてそう言われたら、僕には返す言葉もなかった。
「いいよ」
 と僕は言った。それ以外になにが言える?
 父と万記絵は、僕の目の前でハイタッチを交わした。朝からものすごく高いテンションだ。それほどまでに飼いたかったのだろうか。あまりに喜んでいるので、まるで自分がいいことをしたような気分になった。それほど悪くない。
 それから父の行動は早かった。その場でブリーダーに購入の意向を伝えるメールを送り、その日の夜には商談をまとめた。さすがサラリーマン。そして万記絵も驚くべきことに、ちゃんと家に帰ってくるようになった。父からもらった軍資金で、学校帰りに犬用品を買ってくる。「いつでも来い」と準備万端になるまで三日もかからなかったと思う。そして購入から五日後、キャスパーがうちにやってきた。
 当日はシフトが休みだったので、父の運転する車に万記絵と乗った。空輸されてくるので、羽田空港まで迎えに行かなくてはならなかったのだ。とにかくふたりは楽しみでしかたないようで、空港に着くまで犬の話しかしなかった。そしてキャスパーを受け取り、家路に着く。後部座席の万記絵は自分の膝の上からキャスパーを離そうとしないし、父は停車する度にうしろを振り返って危なっかしいし、人間はここまで浮かれられるものかと僕は思った。もちろん僕も、ちょっとは浮かれていた。助手席から、なんとなくキャスパーを見てしまう。子はかすがい、とは言うけれど、これほど三人で仲良く過ごした時間は子ども時代まで遡らなければないのではないだろうか。
 うちに着いてからも、ふたりはキャスパーにべったり貼りついていた。はっきり言って僕はのけものにされ、あまり触らせてもらえなかった。その状態に甘んじているのも苦しかったので、僕はトロの家に出かけた。事前に電話をかけたら、家にいるという。犬の写真が見たいというので携帯電話で何枚か撮っておいた。
 トロの家に着いてその写真を見せると、今度は僕の携帯が返ってこなくなった。じっと写真を眺めながら、リビングの椅子から動こうとしない。犬、好きだったのか。僕は出されたコーヒーをすすりながら、彼女が飽きるのを待つしかなかった。
 三十分も眺めていただろうか。トロはようやく携帯電話を僕に返し、すっかり冷めてしまった自分のコーヒーを飲みはじめた。
「いいねえ、犬は」
 やっぱり犬が好きなのだ。小さい頃は、この家で飼っていたこともあるのだという。お母さんが可愛がりすぎて、ノイローゼになって早死にしてしまったらしいけれど。そのことに後悔があって、自分で飼おうとは思わない、と彼女は言った。
「今度、一緒に散歩でも行く?」
「いいの?」
 家族の取り決めで朝と晩の散歩のうち、シフトが入っていないほうを僕が散歩に連れて行く、ということになっていた。特に異存はないので、承諾したのだ。
 そんなことで喜ぶなら、と思ってなにげなく言った言葉だったのだけれど、トロは予想以上に大きな反応を見せた。普段はほとんど表情を変えないくせに、このときは大きな目をさらに目いっぱい見開いて、首をぶんぶんと縦に振った。犬の力は偉大だ。
 じゃあ、さっそく明日の朝、ということになった。
 いつも通り話をして別れ、家に帰った。父と万記絵はまだキャスパーにまとわりついていた。おしっこをするのも、ご飯を食べるのもずっと見られている。キャスパーからすればたまったものではないだろうと思っていたけど、本人は意外にも気にすることなく、与えられたお菓子などを無邪気にかじっていた。その姿がまたかわいいので、父と万記絵は再びメロメロになる。たしかに、かわいい。
 まあ、そのうちブームも去るだろう。僕らが年をとるように、子犬だって大人になっていく。それで興味が失せるということはないだろうけど、お互い一緒に過ごすことに慣れていくはずだ。人間だってそうなんだし。
 結果的に、夜はともかくとして朝の散歩はほとんど僕が行くことになった。父も(基本的にうちにいるようになった)万記絵も、朝は忙しいのだ。そして、その散歩にはほとんどトロがついてくるようになった。朝起きられるし、いい運動になるしで、自分にはいいことばかりだと彼女は言った。だから僕らは毎朝、顔を合わせるようになった。

 店長の吉川さんと焼き肉を食べに行った。
 それほど珍しいことではない。彼はときどきシフト外の仕事を頼んできては、お礼と称して僕を食事に連れて行ってくれることがあった。だいたいは、納品されたペットボトルを棚に片付けていくとか、夜勤のシフト表作りだとか、それほど時間のかからない仕事だ。ようは僕と食事に行きたいのだけれど、なにかしら理由を必要としている。そんなのなくてもついていくのに、素直じゃない人なのだ。
 吉川さんは一年ほど前に僕らの店に赴任してきて、色んな改革をした。商品の置いてある売り場を大胆に入れ替えたり、それまでおざなりだった本屋部門の品揃えを強化したり。アルバイトの僕を本屋部門の責任者に据えたのも彼の仕業だった。実際それで売上を伸ばし、次の異動では昇進するはずと言われていた。そうなると今の店からはいなくなってしまうわけで、それは寂しいことだったけれど、どうすることもできない。
 僕はそんなにお酒が飲めないのだけれど、元大学のバレー部でバリバリの体育会系だった吉川さんはガンガン飲むことを要求した。冷静に考えればパワー・ハラスメントなのだけれど、べつに不快でもなかった。本当に無理なときはあっさりと引き下がってくれたし、決して僕にお金を出させなかった。そういう意味ではわかりやすく、律儀で豪快な人だった。
 この日も焼き肉をご馳走になり、公園で一緒に煙草を吸ったあと、吉川さんのアパートに遊びに行った。彼の家は店から十分ほどのところにあり、これが定番のコースなのだ。無造作に積み上げられた週刊誌を借りて読みながら、出されたコーラを飲んでつまらない話をする。
 もっと店をこういうふうにしたいだとか、吉川さんが彼女と最近喧嘩しただとか、そういう話のあと、うちで最近犬を飼ったという話になった。
「それで、毎朝散歩に行くんです。近所の女の子と」
「え、それはナギの彼女なの?」
「違います。だから近所の女の子です」
 吉川さんは釈然としないようだった。ただの近所の女の子と、毎朝会って散歩に行くというのが理解できないらしい。
 事実として、トロはただの近所の女の子だ。友情めいたものは生まれてきているかもしれないけど、恋愛関係とは違うと僕は思っている。一緒にいて楽しいけれど、それ以上のものを今の時点で考えたくなかった。
 吉川さんが煙草に火をつけたので、僕もつづいてそうする。さして広くもないアパートの部屋が、みるみるうちに煙でいっぱいになる。換気扇をつけるなり、窓を開けるなりすればいいものを、彼はそういうことを一切しない。彼もまた、極度の面倒臭がりなのだ。人間には睡眠欲、性欲、食欲の三大欲求の他に「めんどうくさい」と思う欲求が強くあるらしいけど、そういう意味で吉川さんはとても本能に忠実だった。
「その子はかわいいの?」
「ちょっときついけど、かわいいですよ。きれいです」
「それでナギは、その子のことなんとも思ってないの?」
「今のところは、なんとも、たぶん」
「えー、ナギってホモなの?」
「違いますよ。っていうかこれって、犬の話ですよね?」
 べつにホモを否定するニュアンスで言ったのでないことはわかるけど、咄嗟に否定する。実際違うし。吉川さんは勢いよく煙草の煙を吐いて、灰皿で残りを揉み潰した。それから壁に貼ってあるグラビアアイドルのポスターを眺める。眺めるようでいて、その目はどこか遠いところを見ているような気もした。
「ごめん、俺には理解できない。かわいい女の子がいて、毎日一緒に散歩して、それでもなんとも思わないなんて。いい子がいれば好きになるし、好きになれば一緒にいるし、まあダメな場合もあるけどな、一緒にいればもっと好きになる。そういうのが正常な感覚だと思うけど」
 正常な感覚、というものが具体的にどういうものなのかわからなかったけど、吉川さんの定義に従うのなら、僕のそれは正常な感覚ではないのだろう。特に反論する気もない。誰かとの関係をべつの誰かに説明したとして、わかってもらえることなんてまずない。それでなくても、たしかにトロと僕の関係は、説明の難しいものだった。
 トロのことを好きか嫌いかで言えばもちろん好きで、内面的にもいい子だと思う。どちらかといえば一緒にいたいと思うし、そういう時間が増えて彼女のことを知っていけるのはうれしい。たとえばそういうもろもろのことを、恋と表現する人はいるのかもしれない。では僕のこれは、いったいなんなのだろうか。
 吉川さんと彼女は学生時代から続いている。彼女は横浜のホテルに勤務していて、お互い忙しいからなかなか休みは合わない。それでも月に一回は会うことと、嘘をつかないという約束を守って、ときどき喧嘩したりしながら今も続いているのだという。もちろん吉川さんから聞いた話だ。その話を聞いたときに、部屋のタンスにしまってあった指輪を見せてもらった。仕事がもう少し落ち着いたら渡したいのだという。
 そういう「正常な感覚」でもって人間関係を築ける人には、僕のような人間の考えは理解できないのかもしれない。僕が吉川さんのことを理解できないように。そもそも人間が人間を理解なんてできるのか、という問題はあるにせよ、わかりあえない、ということは間違いなかった。だからと言って、彼を否定する気もない。
「ねえ吉川さん、もし僕が正常な感覚を持っていたとしたら、これを恋と呼ぶんでしょうか?」
「俺はそう思うよ。そう思えないんだとしたら、ナギの心のなかに屈折したものがなにか、あるんだろうな」
 屈折したもの。それは、あるのかもしれない。たとえばそれは、自殺未遂のこと。自分で死を選んでしまったという事実は、今も僕の自信という自信を根こそぎ奪っている。家庭環境と相まって、自分のような人間が誰かから愛されるわけはないと思っている。吉川さんには、僕が自殺未遂をしたことは話していた。上司としてではなく、年上の友人として。だから彼は僕のなかにある「屈折したもの」が何なのかわかっていて、こう言っているのだろう。
 そしてこれは吉川さんには言っていないけど、成瀬夏美のこともそうだった。彼女との別れはごく控えめに言って、ひどいものだった。自殺未遂と根っこは同じなのだけれど、結局は僕が自分の弱さを認められなかったことが原因だ。それはたぶん今もそうで、大丈夫になろう、というのは単なる強がりなのだ。その証拠に、僕が死のうとしたことは吉川さん以外には話していない。
 いずれにせよ、人から好かれないと思っている人間が、人を好きになることはできない。恋とか愛とかは、僕から遠く離れたところにある一種の幻想に思えた。その幻想のために生きる人もいるのだから、ものすごいパワーを秘めているとは思うけれど。というようなことを伝える。
「幻想っていうなら、幻想かもな。でも、それなら幻想じゃない、実体のあるものってこの世にどれだけあるよ。金だってあんなもの、ただの信用取引だよ。一万円札の原価って知ってるか? 三十円だってよ。愛なんてなおさら、原価かかってないんだ。それでも、信じる人は信じる」
 なんで一万円札の話を持ち出したのかはわからなかった。ただ、吉川さんはこういう雑学と強引さを絡めたたとえ話をよくする。ようするに、信じるものを信じればいい、ということらしかった。でも今の僕に信じるものがあるとすれば、それは自分の感覚くらいしかない。武器も経験もないままこの年になって、それでもこの世界を渡り歩いていくしかないのだ。自分の感覚さえ信じられなくなっては、どう生きていけばいいのか。
 そして自分の感覚に従って生きるのであれば、わからないことを無理にわかろうとしてはいけない。いつかわかるときが来るかもしれないし、見えるところまで進めば見えてくるだろう。いま見えないということは、そこまで進んでいないということだ。
「焦るこたあない」
 と吉川さんは言った。
「そうなんでしょうね、たぶん」
「うん。俺もたいして長く生きてきたわけじゃないけど、時間が解決してくれることって、けっこうあるよ。俺の場合は怪我して、実業団入りがダメになって、バレーをあきらめなくちゃならなかったときに、めちゃくちゃ落ち込んだ。毎日吐くまで酒を飲んだり、煙草吸いはじめたり、彼女にあたったりしてな、最低だった。それでも時間が経って、ああいつまでもこのままじゃいられないなって思って、先輩に誘われてこの会社に入った。こういうのも悪くないと、今では思ってるよ」
 人に歴史あり、じゃないけれど、吉川さんが昔の自分のことを話してくれるのははじめてのことだった。それはまぎれもなく、僕を励ますためのものだった。彼の言う、正常な感覚というのもひとつの幻想だとして、それを信じられる日がくるかもしれない。そしてそれは決して悪いことではない。そういうことだろう。
 僕はこの時点で、正常な感覚を手に入れたいとは思っていなかった。けれど、べつに嫌というわけでもなかった。もやもやする部分はあるけど、吉川さんの言うとおり時間が解決してくれる問題なのかもしれない。
 あるいは、無数にある心の痛みさえ。
 また焼き肉に行こうぜ、と言って、吉川さんは僕を見送ってくれた。日付はとうに変わっている時間だった。帰り道、暖かい夜だな、と思う。それはそうで、すでに春になっているのだ。桜の季節は終わってしまったけれど、少し遠回りをして、景色を見ながら帰ろう。そういう時間が解決してくれることも、きっとあるはずだ。
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