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プラスチック・シュガー

「あんまり大したことじゃないよ、俺の場合はね。兄貴と一緒だし。それにあんまり関係ない気がするな、ひとりで暮らすのも、誰かと一緒に暮らすのも」
 そりゃ日がな一日ネットゲームばっかりやっている人なら、関係ないだろうと思った。聞く人を間違えたかもしれない。その日に食べる廃棄の弁当を選びながら、根本さんはなおも続ける。
「草薙くんが家を出たいのって、なんのため? ただ単に大人になりたいだけならやめといたほうがいいよ、そんなんでなれないから。結局のところ、生活なんて目的ありきなんだよ。あくまでも手段だよ、どう暮らすかなんて」
「それじゃあ、なんで根本さんは家を出たんですか?」
「ゲームやりたかったから。誰にも文句言われずに」
 夜勤の根本さんと日中働くお兄さんとは生活リズムが真逆だから、自分が遊んでいるときは誰からも文句を言われないのだという。それが心地良いと。たしかに目的があって、手段がある。そのプロセスが成立している。
 翻って僕には、生きていく上で特になにか目的があるわけではなかった。生きていくにはお金が必要だから働いている。ありあまる時間を使い切らなければならないから、本を読んでいる。両方とも、目的というものからはほど遠い。手段はあるけれど、目的がないのだ。根本さんの言うことはいつも鋭いし、たいてい当たっている。
 たとえばこの先どうするのだろう、という不安もあった。十歳上の進藤さんがまだアルバイトをしているのだから大丈夫だろうという考えもあったけど、彼の場合はバンドという本職がある。根本さんにしても地元に帰ればなにかしらの仕事はあるらしい。僕の働いているこの店はスリーマート本部の直営店で、就職するということもできなかった。本部は大卒しかとらない。他の企業なりに就職、という選択肢も、高校中退だと幅がかなり限られている。もう一度高校へ行く、という気にもなれなかった。現実は厳しい。
 根本さんは弁当の物色を終え、電子レンジを使って温めてから食べはじめた。彼は食事中に会話ができないので、僕は売り場に出て商品の補充をしたり陳列を直したりする。もうそろそろ雑誌や書籍の納品がある。今日は女性誌の発売日だから、付録付けの作業でそれなりに忙しくなるだろう。
 作業をしているうちにお腹が空いてきて、僕もなにか食べようかと思いはじめた頃、進藤さんが店にやってきた。廃棄の弁当をもらうためだ。建前上、この店も他のコンビニと同じように廃棄の商品を食べたり持ち帰ったりすることは禁止されている。従業員がそれをすると窃盗になり、経営者サイドがそれをすると脱税になるのだ。といっても、律儀にそのルールを守っている店はほとんどない。まったくないこともないだろうけど、目の前に捨てるだけの食べものがあって、お腹が空いていて、ただ捨てるという選択をする人間が果たしてどれだけいるだろうか。
 進藤さんに促され僕もバックルームへ戻り、自分の食べる弁当を選ぶ。進藤さんは自分はもらいに来ただけだからと言って、僕を先に選ばせてくれた。
 根本さんが交代で売り場に出て、僕と進藤さんが弁当を食べる。音楽や漫画などの他愛ない話をしていたのだけど、気になったので彼にも根本さんと同じことを聞いてみた。
「なんで進藤さんは家を出たんですか?」
 音楽をするためだろう、ということはわかっていた。それでも聞いたのは、彼の話のなかに僕の選択に役立つようなとっかかりがないかと思ったからだ。弁当を食べ終わり、食後の煙草に火をつけた進藤さんはゆっくりと喋ってくれた。
「俺の生まれた街には黒い煙突があってね、死んだ人を焼く火葬場の煙突なんだけど、それがきらいでね。中学を出て職業訓練所に通って卒業するあたりで、今出ていかなければ俺はずっとこの街に住んで、この街で死んでこの煙突で焼かれるんだと思ったんだよ。それがいやで、ベース一本持って上京してね、まあ今に至るんだけど」
 僕と万記絵には生まれ故郷というものがない。両親の離婚やそこへ至るまでの過程で、どちらかに引き取られたりべつの場所へ預けられたりして、引っ越す回数は他の人よりだいぶ多かった。まだ両親の仲が良かった子どもの頃、長く住んだ街もあったけれど、それにしても六年程度。だからその街で生まれてその街で死ぬ、その恐怖や嫌悪、というのは僕にはわからなかった。
 わからなかったけど、どこかへ行きたいという気持ちはわかる気がした。どこかへ行って、べつの場所で生きていきたい。それは高校を辞めて自殺未遂をして、新しい生活を選んだ(あるいは選ばざるをえなかった)僕と共通しているように思えた。そしてまた、僕は新しいステップを踏み出したいと思っている。それは自然で健全なことなのかもしれない。
「僕も家を出たいと思ってるんです」
 だからそう口にする。進藤さんはいつものように柔和な表情を浮かべて、うんうんとうなずいた。
「そう思うんならしてみるといいよ。案外なんとかなるもんだし。ただ、そんなに焦らなくていい気もする。ナギちゃんはまだ若いんだし、なにかやりたいことが見つかるかもしれない。それからでも遅くはないよ。それに、ナギちゃんがこの店を辞めちゃったら寂しいし」
 そうか。僕はそこでやっと気づく。どこか新しい場所へ行くということは、うちはもちろんこの店からも離れるということだ。新しい場所で新しい仕事を見つけ、新しい世界を切り開いていく。それは希望のように見えたけど、同じくらい不安のようにも見えた。
 今まであたりまえのように会えていた人に会えなくなる。それは、高校を辞めたことで経験していたつもりだった。けど、これは根本的に違う。小学校、中学校、高校と、通っていたのはいわば受動的な行為だった。それがしたいから、というよりは義務としての日常だった。だから面倒臭くなって、行かなくなった。人生ではじめて自発的に動いて、手に入れた居場所。それを自ら失うということ。考えると、めまいがした。
 それでも、いろいろ考えてみる、と進藤さんに言った。実際に、いろいろ考えてみなければならない。生きている以上はなにかを考えつづけなければ。朝が来れば夜が来るように、人は前に進まなければならない。しんどいけど。
 それからほどなくして雑誌の納品があった。根本さんとふたりで片付けはじめる。付録付けをしていると、ユニフォームに着替えた進藤さんがやってきて、仕事を手伝ってくれた。そんな義理はないはずなのに、弁当をもらったから、と言って彼は笑った。

 冬が終わりを迎え、春にさしかかろうとしていた。受験終了のお祝いに、という猛烈な誘いを断りきれず、僕は高松さんと映画を観に行った。彼女はどうしても観たい映画があるのだと言い、僕もその映画には少し興味があった。普段映画を観に行くこともないので、たまにはそういうのもいいか、と思った。つとめて気軽に。
 午前の遅い時間に新宿で待ち合わせをして、昼の回の映画を観て、それからファストフード店で昼食をとった。映画はそれなりにおもしろく、おかげで昼食の席で話が盛り上がったのだけど、その話題も尽きると高松さんは急に大人しくなった。僕から投げかける話もないので、自然と沈黙が舞い降りてくる。周りのがやがやとした喧噪のなかで、僕たちふたりはかなり不自然に浮いているような気がした。
「遅くなったけど、合格おめでとうございます」
 僕はそう言って鞄からプレゼントを取り出し、彼女に渡した。こういうときなにを渡せばいいのかわからなかったので、自分がもらって嬉しいものを、と思い考えた結果、学校でも使えるちょっといいボールペンにした。好きでもなんでもない相手に、果たしてお祝いと称するプレゼントをすべきなのかどうかはわからなかった。
 高松さんは顔を赤くして(前からずっと赤かったのだけれど)、それを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
 トロのときとは違い、僕らはいつまでも敬語のままだった。僕のほうにに近づく気がない、というのもあるけど、それ以上に彼女が頑なに敬語を使いつづけたのだ。だからといって差し障りがあるわけではないし、たいした問題ではないと思っていた。
 それからまた沈黙はつづいた。僕らには話題がない。
 それから十分くらい、周りの喧噪を聞く時間になった。僕は沈黙が苦にならないたちなので大丈夫だったけれど、高松さんはつねに視線をキョロキョロさせて何度かみじろぎをし、落ち着きがなかった。なにか話題を探しているのだろう。
「あ、ありがとう」
 高松さんはもう一度言った。どうやら、敬語をやめたいらしかった。それなら僕にも、特に敬語をつづける理由があるわけじゃない。
「草薙さんは、草薙くんは、どうして高校に行ってないの?」
「どうしてってことはないけど、簡単に言うなら、生きることに絶望したんだ」
「それはどうして?」
「それも、どうしてってことはないけど。毎日学校に通って、したくもない勉強をして、仲良くもない友達と遊んで、彼女にいつフラれるかわからないことに怯えて、そういうのに疲れたんだよ」
「彼女、いたんだ」
「今はもう、いないけどね」
 と言ったのは余計なことだったか。けど、成瀬夏美に関することでもう嘘をつきたくなかった。僕らは高校で出会い、惹かれあって、付き合いはじめ、そして別れた。彼女を失いたくないあまりに、それなら自分から切り捨ててしまおうと思い、自殺未遂をしたことが原因だった。あまりにも自業自得なので、そのことを考えるたびに僕はものすごく後悔した。その後悔が、本当に後悔なのか未練なのか、そのへんははっきりしない。
「あの、改めてお願いがあるんだけど」
 高松さんは言った。
「私と付き合ってほしいの。私なら草薙くんを大事にできるし、うまくやっていけると思う。今はまだうまく話せないけど、これから仲良くなれるはず。そんな昔のことは忘れて、私と今を楽しもう?」
 そんな昔のこと。そう言われて、自分でも不思議なくらいの怒りが湧きあがってきた。僕の抱いているものが後悔でも未練でもいいけど、僕の内側に、無遠慮に立ち入ることは誰であっても許さない。誰であっても。僕は席を立って、自分の食べ終わったあとのトレーを片づけ、帰ることにした。
「べつに過去にこだわっているわけじゃないんだよ。でも、もし僕が誰かと付き合うとしても、そういうことをズケズケ言ってしまう人はいやだね。改めてはっきり言うと、高松さんとは付き合えない。ごめんなさい」
 後ろを振り返ることなく、僕はそのファストフード店をあとにした。その夜に高松さんからは謝罪のメールが着たけど、無視をするとそれっきり彼女からの連絡は来なくなった。
 一緒に遊びに行って、楽しくなかったわけではない。自分に興味、というか好意を持ってくれた人と一緒に出かけて、映画を観て、会話をする。久しぶりだったので、新鮮な感覚さえあった。それでも、特定の誰かと再び同じときを過ごすというのは僕にとって、まだ恐ろしいことだった。
 僕はトロに会いたくなった。恋愛でなく、友情でなく、ただそこにいて利害関係の外にある、そういう人間のそばにいたかった。だからその日、彼女の家を訪ねることにした。電車に乗って最寄り駅に着き、帰り道を歩く。

 日はまだ完全に暮れきっていなかった。僕はふと思い立ち、駅前にある和菓子屋に寄った。トーストばっかり食べている女の子に、たまには手土産を持っていってもいいだろう。いらないとは言っていたけど、怒られたりはしないはずだ。そこで、皇室献上品を謳っている最中をひと箱買った。前々からあるのは知っていたのだだけ、なんとなく買ってみようという気にならなかった。人にあげる理由ができて、これもいい機会だろう。
 十分ちょっとでトロの家に辿りつき、インターホンを押した。いつも通り、すぐには出てこない。最後に来たのは去年の冬のはじめだ。それからしばらく時間が経っていた。久しぶりに会う人とどう接すればいいのか自信がなくて、不安な気持ちが頭をもたげた。とはいえインターホンはすでに押してしまったし、トロは普通に迎えてくれるような気もした。
 果たしてその通りで、玄関の扉を開けて出てきたトロは僕を見ても表情を変えることなく、淡々としたもの言いだった。
「久しぶり」
 前に来たときに切った、家の周りの草木がまた少し伸びているような気がした。それは自然で健全な現象だろう。この家だって生きている。朽ち果てたメルセデス・ベンツはそのままだったけど、もう誰も住んでいない、という印象は受けない。僕があたりを見渡しながらそんなことを考えていると、彼女が不思議そうに続ける。
「どうしたの?」
「いや、だいぶ人間の住む家に見えるなって」
「そりゃそうだよ、人間が住んでるんだから。久しぶり」
 トロはどうしても僕に返事をさせたいようだった。
「久しぶり。でも前、僕がそう言ったときに君は言ったよ。そんなこと言うほど会ってるわけでもないって」
「そうだっけ? でも会ったでしょ、それから。久しぶりのときに久しぶりって言うくらいには、親しいつもりだけど。違う?」
 それならそれでいい。僕は促されてトロの家に上がる。相変わらず殺風景な内装ではあったけど、その雰囲気が僕を安心させた。リビングに電気はついていなくて、彼女がこの部屋にいなかったことを推測させる。あるいはまだ外がほのかに明るいから、この薄暗い部屋でひとりいたのかもしれない。ただ、それにしては生活感がなく、テーブルにはうっすらと埃が積もっていた。
「食事以外でこの部屋を使うのは久しぶり。前に豊くんが来たとき以来かな」
 そう言いながらトロはリビングの電気をつけた。そして前と変わらず、コーヒーを入れるためにキッチンへと立つ。僕は何も言われないままテーブルの前の椅子に腰をおろし、少し離れたところにいる彼女の後ろ姿を眺める。
 トロの態度は本当に、なにごともなかったかのようだった。実際なにごともなかったのだけど、前回少し気まずい感じで別れたので、どうなるか心配していたのだ。よかった、変わらなくて。僕は思う。けれど外観はともかくとして、時間の止まったようなこの家のなかで、彼女がやはり時間が止まったように変わらず暮らしているのだと思うと、なぜだか心苦しくもあった。
 トレイにコーヒーカップを載せたトロがリビングへ戻ってくる。コーヒーカップをそっとテーブルの上に置いて、トレイをしまいに再びキッチンへ行く。そして「あ」と小さな声を出した。
「なに?」
「お茶菓子がない」
「ちょうどよかった。お土産を持ってきたんだよ」
 僕はそう言って、床に置いていた紙袋をテーブルの上に置き直す。もちろんなかには最中が入っている。トロはうしろを振り返って、僕とその紙袋を見る。彼女は目が悪いのかもしれない、とこのときはじめて気づいた。少し離れているとはいえ、目をすがめてものを見るような距離ではなかったからだ。
 トレイをキッチンに置き、テーブルの前へやってきたトロは紙袋を手に取り、中身を出す。綺麗に、というか無難に包装された箱の紙を丁寧に開け、さらにふたを開ける。なかには最中が六個、当然のように整然と並んでいた。特に感動も感心も感嘆もなく、トロは言った。
「最中」
「うん、そう」
「なら緑茶を入れればよかった。コーヒーと最中の組み合わせって、なんか変じゃない?」
「べつに気にならないよ」
 というのは嘘だったけど、すでにコーヒーが入ってしまっている。最初に言えばよかったのか。まあ、コーヒーとの組み合わせでも食べられないことはないだろう。トロもそう思ったのか、僕の向かいの席に腰をおろす。
 それから最中の包装をとり、食べ、コーヒーを飲んだ。しばらくはおそるおそるといった感じだったけれど、次第にふたりともペースがあがった。
「意外と合うね」
 僕はそういうと、トロはこくんとうなずいた。たしかに、コーヒーとあんこの組み合わせは意外なほど相性が良くて(そうではない人ももちろんいるだろうけど)、しばらく僕たちは夢中になった。
「元気だった?」
 最中をひとつと半分くらい食べ終わったところで、トロが言った。
「まあまあかな。トロはどう? コンビニでも会わなかったけど」
「ああ、なんだか、少しでも外に出るのがめんどうくさくなって。買えるものはぜんぶインターネットで買ってた。それ以外は特に何もなく、元気だったよ」
 元気だったのはよかったけど、引きこもりは悪化していた。彼女が言うには、一日中部屋に閉じこもって本を読んだり、円相場を眺めたりしていたらしい。それらは以前と変わりなかったけれど、とても健康的な生活とは言えない。
 注文した荷物を持ってくる運送業者としか話していない、と彼女は言った。それは寂しくはないけれど退屈だ、とも。生きている以上やっぱり刺激は必要だし、自分から能動的に求めるのは嫌だけれど、誰かが面白いことを持ってきてくれたらいいのに。という、めちゃくちゃ自分勝手な理想をトロは語った。
「だから、もっとちょいちょい、うちに来てもいいよ」
「来ていいなら来るけど、その発想って人としてどうなの?」
 来てもいいと言われたことは素直にうれしかったけど、トロ本人は外に出る気がまるでないらしい。これで満足なのだ、と言わんばかりだ。珍しく薄い微笑を浮かべて首を横に振り、肩をすくめた。どこまでも受動的な人生。数年間ものあいだ監禁生活を強いた彼女の母親がそうさせたのかもしれない。だとしたら、彼女の人生にはどこまでも救いがない。
「ところで、表にある車って、どうにかならない?」
 トロは言った。
「どうにか、って?」
「いろんなものを片づけたけど、あれだけはどう処分していいのかわからないの。インターネットで調べても、難しいことばっかり書いてて」
「そうだな、さすがにもう動かないだろうし、車検も切れてるだろうし。どっかに頼んでレッカー移動して、廃車手つづきをとるしかないんじゃないかな。したいの? 処分」
「うん、あれはお父さんの車だったから、迷ったんだけど。使わないものをいつまでも持ちつづけるっていうのも、ねえ。でもそれって、お金かかるよね?」
「かかるだろうね。レッカー代とか。廃車手つづきにかかるかはわからないけど」
「まあ、お金はしかたないか。ねえ、またお願いしてもいい?」
「僕がやるの?」
「だってどうしていいかわからないんだもん」
 ゴミ捨て、外の手入れ、ときて、今度は車の処分。なんだか自分が便利屋になったような気分だった。もちろん面倒臭かったけど、それ以外に断る理由もなかった。
 僕にももちろん、詳しいことはわからなかった。けど、父に聞けば教えてもらえるだろう。運転免許も持っていない人間が、果たしてそんな複雑な手つづきを踏めるのかわからなかったけど、べつに免許を持っていても変わらないだろうな、という気もした。
 僕が肯定の意味で肩をすくめると、彼女はこくんとうなずいた。そしてふたつめの最中の残り半分を食べはじめた。考えてみれば、夕食まであまり間がない。トロが夕食をちゃんと食べられるか心配になったけど、トーストなら問題ないのかもしれない。
 日がとっぷりと暮れるまで、僕らはいろいろな話をした。といっても、刺激も変化もないトロの持っている話題は乏しく、もっぱら僕が話すことになる。僕にしてもうちとアルバイト先の往復しかしていないから、せいぜい家族のことか、仕事の話だ。
 進藤さんの話をしてはライブに行ってみたいと言い、根本さんの話をしては私もゲームしてみようかなと言い、万記絵の話をしては私もグレてみようかな、と言った。もちろん、彼女の場合は口だけだ。そんなにアクティブなことができるなら、引きこもったりはしないだろう。今度、進藤さんのCDは持ってくることにした。彼と知り合いでないトロがその音楽に対して、どのような評価を下すのか興味があった。
「豊くんはいいね、毎日がキラキラしてて」
「べつにそんないいものじゃないよ。キラキラなんてしてないし。だいたい、そう思うんなら外に出ればいいんだよ。トロならまだ学校だって行けるし、バイトに出ることだってできる」
「うーん、面倒臭いなあ」
 僕の提案には少しも心動かされないようだった。それでもなにか思うところがあるのか、トロは少しのあいだ考え込むような素振りを見せる。あごに手をあてて、いかにも考えていますよっていう感じのポーズ。どこまで真剣かはわからなかったけど、少なくともはじめて見る体勢ではあった。
「より良く生きるためにはね」
 あごから手を外して、トロは言った。
「より良く生きるためには、このままじゃいけないってことはわかってるの。それこそ豊くんが言うように、外に出てなにかをしなきゃ、このままゆっくりと腐っていくんだろうと思う。でも、今までそんなことをしてこなかったから、どうしていいかわからない。お母さんのせいにするんじゃないけど、やっぱり私にとって外の世界は遠いの。で、いろいろ考えているうちに、今はまだいいか、面倒臭いから、っていう結論になる。これでも悩んでいるのよ、たまに」
 たまに。たまにでも悩んでいるのならいいか。僕にはトロでも悩むことが意外だった。彼女は無表情に、淡々と、確信犯的態度で、日々を生きているのだと思っていた。やりたいことだけやって、やりたくないことはやらない。けれど彼女は、やりたいことがなんなのかわからない、と言った。何をやりたいとか、そんなことを考える余裕なんかなくて、ただありあまる時間を、一日を、乗り切ることにエネルギーを費やしてきたと。
 だから、僕は都合がいいのだろう。手軽に、手頃に、外の世界と繋がれる手段。僕は僕で彼女に単純な好意を抱いているから、この家に来るのが嫌ではない。外の世界に傷つき、惑い、この家へやってきては、世間から断絶しているトロに会って気持ちをリセットできる。そのへんの事情は見事に噛み合っていて、僕らはこの家において、お互いのしんどいところをかばいあっている。
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