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プラスチック・シュガー

 それから一息ついて、パックジュースの発注にとりかかった。メールを返さなかったことについては、大きな問題にならなくてよかった。というか、高松さんが怒っていなくてよかった。今日のアルバイトが終われば返事を書かなくてはならないだろうけど、昨日に比べればだいぶ気分は軽い。
 お客さんのいないタイミングを見計らって、進藤さんがわざわざ僕の元へやってきた。にやにやした表情のまま、僕の肩に手を置いてきた。
「どうだったの?」
「友達になりました」
「そう。いいねえ、青春だねえ」
 その会話だけで、進藤さんはまたレジへ戻っていった。なぜだか、進藤さんのほうが嬉しそうだった。彼の手によって、たぶん今日の夜には、紀藤さんや根本さんにもこのことが知れ渡っているだろう。それはべつにかまわないのだけど、明日以降からかわれたりするのが憂鬱だった。
 時間がきて店長の吉川さんたちと交代し、休んでいたせいで溜まっていた本屋部分の仕事を消化する。返本、発注、陳列。僕の他には店長しかやらない仕事で、しかも店長がやりたがらないから、僕がサボればサボった分だけ仕事は溜まる。それだけ責任がある、ということでもあったし、それはどちらかというとうれしいことだったけれど、アルバイトにして重い仕事だな、とも思う。ともあれ僕は手を動かしながら、高松さんに送るメールの返事を考えていた。

 秋が完全に終わり、冬の頭に入っていた。世間にはクリスマスのムードが立ちこめ、バイト先でもその雰囲気が隙間隙間に入りこんできた。特に誰も口には出さないけど、クリスマスには独特のルールがある。本質的には誰もわかっていないけど、みんなが手探りでそのルールを守ろうとしている。守れない者には、無言のプレッシャーがかかる。誰から? それもわからない。ただ説明不能の世界が誕生するわけだ。期間限定で。
 僕は今年もすっかりそのルールに乗り遅れ、いつもと変わらない日常を過ごしていた。変わった出来事としては、一度進藤さんと秋葉原に行ったことくらいだ。彼が古いゲーム機を欲しがり、買いにいくのに付き合った。お礼にカレーをおごってもらった。高松さんとはときどきメールをする。結局、「恋愛感情に応えられないと言っていましたが、それはなぜですか?」という質問にも、「どんな音楽を聴くんですか?」という質問にも答えなかった。答えなかったけれど、それで問題なかったようだ。彼女はその日にあった出来事をメールに書き、僕がそれに対して何らかのリアクションをする。ときどき質問がくる。僕はそれに対して適当に答えるか、はぐらかす。それで成立していた。さらにときどき「私と付き合ってみませんか」という主旨の告白めいた文面が見られるが、原則としてそういうのは見なかったことにしている。
 父はいつも通り仕事と町内会のイベントで忙しく、万記絵は家に帰ってこず、母はたまにメールを寄こしてきた。だいたいそんな日々のなか、僕はトロの家に行っていなかった。シフトが合わなかったということもあるし、天気が合わなかったということもあるけど、タイミングを計っているうちに見失ってしまったのだ。タイミングというのは重要で、一度失うとなかなか取り戻すができない。ということを不本意にも学んでしまった。
 ともあれ、もうすでに冬に片足を突っ込んでいる。家の外に伸びている草木を切るなら、寒くなりきる前のほうがいいだろう。たまたま夜勤と早朝のロングシフトを終えたらそのあとの予定がなにもない日があり、僕はトロの家に行くことにした。朝九時半に帰宅し、シャワーを浴びて、着替え、仮眠をとったら昼の十二時過ぎだった。まだ少し眠たかったけど、出かける準備をする。物置にあった植木ばさみを持って、一時前にトロの家の門前に立った。
 ちらりと脇を見れば、伸び放題の草木。冬の頭なので葉の分量はやや寂しくなり、地面にも色づいた葉がそれなりに落ちていた。これはこれで、葉をかいくぐる手間がない分だけ、作業がしやすいかもしれない。家のなかをまったくきれいに片づけるあたり、トロは本来綺麗好きなのだろう。けれど、その範囲が家の外まで及んでいない。それを僕が助けるのは筋違いかもしれないけど、あとは美的感覚の問題だ。このまま放っておくことが、僕にはできない。
 インターホンを押す。しばらく待つ。トロはすぐには出てこない。コーヒーを入れたりするときにも、彼女は必要以上に時間をかけている気がする。丁寧といえば丁寧。これまでの生活で、なにかに急ぐ必要というのがなかったのだろう。ひとりきりの時間がいくらでもあるのだから。彼女といると、待つのが得意になりそうだ。
 三分ほど待つと、ようやく玄関からトロが出てきた。
「いつも急に来るよね。前もって連絡するとかできないの?」
 こんにちは、でも、ひさしぶり、でもなくトロはそう言った。
「連絡先も知らないしね」
「じゃあ教えるよ、家の電話番号」
「携帯は?」
「携帯電話なんか持ってないよ、必要もなかったし」
 それはそうだ。携帯電話はあくまで携帯するものであって、家の外に出ないのであれば必要のないものだろう。メールだって、パソコンがあればこと足りる。それも、メールをするような相手がいればの話だけど。
 トロは僕を家のなかに招き入れる。植木ばさみは玄関の横に立てかけておいた。リビングのテーブルには(たぶんトーストであろう)食後の皿がそのまま置いてある。ちょうど昼食をとっていたのだろう。僕がその向かいのいつもの席につくと、彼女は皿を片付け、コーヒーを入れるためにキッチンに立った。
「久しぶり」
 僕は言った。
「久しぶり、っていうほど会ってたわけじゃないじゃない」
 それもたしかに。なぜかトロといると長い付き合いの友人みたいな気がするけど、家に来たのは三回目で、会ったことも四回しかない。お互いのことをある程度知っているけど、それは他に話題がなかったからで、さほど親しいというわけでもない。
 コーヒーが入り僕の前に置かれると、さっそくそれを一口飲んだ。僕はどちらかといえば猫舌なのだけれど、頭をしゃっきりさせたかった。実際まだ少し眠たかった頭が少しだけ回転を上げたようだ。向かいに座ったトロの顔がよく見える。今日は(昼過ぎだから当たり前だけれど)すでに顔を洗ったり歯を磨いたりして、薄い化粧も済ませていたようだ。彼女に限らず、容姿が優れているというのはひとつの美点だろう。容姿の悪い人間に罪があるわけではないけど、美しい人間は見ているだけで気分がよくなる。不快な気持ちにならない。ひとつの絵画みたいな、とそこまで言うと彼女の場合は少し大袈裟だけど、優れた美術は人を幸福な気持ちにさせる。
 僕たちは無言でコーヒーを飲んだ。無理に会話をする必要がない、というのもトロといて楽な点だ。彼女にしても会話や音のない状態がデフォルトなのだろう。沈黙を苦にしない人間は、一緒にいて気が楽。僕もあまり会話が得意ではないので、ありがたかった。
 一方で、一度火がつくととめどなく喋る、というのがこの手のタイプの特徴かもしれない。もちろんそうでない人もいるだろうけど、僕も彼女も一度会話が盛り上がればそのあとはスムーズに話が進む。この家に来ると、しばしばそうなる。だから僕らはお互いのことをある程度知っているし、それを自然なことだと思っている。
 コーヒーを半分ほど飲み進めたところで、トロはそのことに気づき、キッチンからお茶菓子を持ってきた。この家で食べるお茶菓子はなんでだか美味しい。選ぶ彼女のセンスがいいのかもしれないけど、ついつい手を伸ばしてしまう。深夜の弁当以降食事をとっていなかったので、皿の上に出されたものをすべて食べてしまった。
「もっといる?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
 そして僕らはコーヒーを飲み終わる。僕がもう一度お礼を言うと、彼女はうなずいた。窓の外を見るとよく晴れていて、窓辺はほのかに暖かそうで、庭仕事をするには絶好の日和に見えた。
「それで、今日は木を切ってくれるの?」
「うん。この家のなかは綺麗に片付いていてきれいだけど、外から見た感じははっきり言って最悪だ」
「はっきり言ったね」
「僕が言わなければ、他に誰が言うのさ?」
「それは、その通りだけど。やってくれるっていうのを断る理由もないしね。それじゃあ、お願いできる?」
 僕たちはテーブルを立った。トロにゴミ袋はあるか聞くと、キッチンから大量のゴミ袋を抱えて戻ってきた。これなら足りなくなるということはないだろう。外に出る。家のなかからは気持ちのいい陽射しに見えたけど、外に出るとやっぱり少し肌寒かった。
 玄関に立てかけておいた植木ばさみを手にとり、駐車場を経由して家の外縁を回る。あまりにもワイルドな容貌をしていて、正直どこから手をつけていっていいかわからなかった。僕のうちは一軒家だったし、父がまめに手入れをしていたので、僕が植木ばさみを扱ったことはほとんどない。せいぜい二、三度、頼まれてちょっと伸びた木を切ったくらいだ。ようするに僕は素人で、頭のなかにイメージするような美しい状態に持っていける保証はどこにもなかった。
 というようなことをトロに伝えると、彼女は鼻で笑った。
「私のほうが素人だよ。そんなに過剰な期待はしてないから、やっちゃって」
 と言うと道路へ歩いていき、家から少し離れたところでしゃがみこんだ。どうやらそこから見学するらしい。僕も腹を決めて、とりあえず手探りで草木をチョキチョキと切りはじめた。硬い手応えとともに、バサバサとものが落ちていく音がする。どう表現していいかわからないけど、ちょっとした快感があった。意外と楽しいのかもしれない。そう思うと不思議なもので、慣れるに従ってどんどん草木を切るスピードが速くなっていく。
 とはいえ数年、下手をすれば十数年のあいだ伸ばしっぱなしになっていた草木は、想像を超える量だった。簡単に言ってしまうと、切っても切っても減らない。一時間ほど格闘してみたが、外から見てさほどスマートになったとは言えなかった。そのあいだトロはしゃがみこんで、僕の努力をじっと見つめていた。と思ったら急に立ち上がり、スタスタと玄関まで歩いていき家のなかに入ってしまった。飽きたのだろうか。まあ、見ていて楽しいものじゃないのはたしかだ。見られていたからといって、効率やスピードが上がるわけでもない。僕は気にしないで作業を進めていくことにした。
 ずっと身体を動かしていると、この季節でも徐々に暑くなってくる。手にはめた軍手のなかには熱がこもり、背中と首筋にうっすらと汗が滲んでくるのを感じた。それが冬の風によって冷やされ、ちょうど心地良い刺激になった。
 それから二、三十分もやっていただろうか。地面を見ると結構な量の草木が落ちていたので、一度まとめることにした。意外とかさばるものなのか、新しくおろしたゴミ袋がみるみるうちに埋まっていく。四十五リットルのゴミ袋が四袋消費された。まだ二十袋以上あるから大丈夫だとは思うけど、もしかしたら足りなくなるかもしれない。そんなことを想像させる草木の、ゴミ袋のなかと家の周りのボリュームだった。
 まとめたゴミ袋を駐車場の脇に置いて、小休止することにした。少しだけ息があがっている。片づけてあげるなんて、気軽に言うんじゃなかった、と後悔する。言ってしまったものはしかたないからやるしかないし、たとえば今日中に終わらなかったりしたら僕としては恥ずかしい。誰にもわかってもらえないかもしれないけれど、プライドの問題だ。つまり僕は必ず、今日中に、この作業を完了させなければならなかった。
 立ったまま休憩をとっていると、再び玄関の扉が開いてトロが戻ってきた。手には魔法瓶の水筒が握られている。目が合うと、なぜかふたりでうなずきあった。
「休憩してるんなら、ちょうどよかった。これ、麦茶」
「わざわざ作ってくれたの?」
「豊くんががんばってくれてるから、これくらいはね」
 彼女は僕のことを豊くんと呼ぶ。滅多に呼ばれることはないし、いつからそうなったのかわからないけど(僕が彼女のことをトロ、と呼ぶようになってからかもしれない)、その分だけ距離が縮んだような気はする。トロは魔法瓶のフタを開け、そこに茶色の液体を流し込む。手渡されると、僕はそれを一気に飲み干した。
「ああ、冷たい」
「でしょうね。また欲しくなったら言って」
「ありがとう。おいしい」
「どう? まだまだかかりそう?」
「厳しいね。いかんせん量が多すぎる。まあ今日中には終わるんじゃないかな、わからないけど」
「わからないけど。ねえ、男の人がわからないけど、なんて責任のあやふやな言葉を使うのってどうなの? あんまりかっこよくないと思うんだけど」
「絶対に、今日中に終わらせる」
 よろしい、とトロは言った。そしてさっきまで立っていた道ばたの彼女のポジションに戻り、再びしゃがみこんだ。ちょうどいい頃合いだったので、僕も休憩を切り上げることにした。
 そこからはもう、ひたすらに単調な作業だった。切って、まとめて、駐車場の脇に置く。一時間に一度休憩をとって、トロから麦茶をもらった。慣れれば慣れるほど切っていくスピードは上がっていき、比例するようにゴミ袋の数も増えていった。背中がゆらゆらとした熱気を放ち、日が暮れはじめた時間、ようやく作業が終わった。所要時間約六時間の大仕事。まとめられたゴミ袋は実に二十八袋。最初にもらったゴミ袋を、ちょうどすべて使い切った。
 だいぶすっきりしたトロの家の外観は、スマートとはいかないまでも、充分見られるものになっていた。僕はどちらかというと不器用なほうなのだけれど、同時に凝り性でもある。結果的には、それがいい方向に出たようだ。
 やはりイメージ通りにいかなかったことで若干の不満はあったけど、僕は素人だ。誰から文句を言われる筋合いもないし、ごく控えめに言って、かなりがんばった。なので、満足感や達成感のほうが大きかった。あとは、苦行から解き放たれた解放感。
 すべてのゴミ袋を駐車場の脇に積み上げたあと、彼女は珍しくこちらがわかるくらいに表情を変化させ、満足げにうなずいた。
「こうしてみるとさっぱりするね。なんでもっと早くやらなかったんだろう」
「なんでもっと早く僕にやらせなかったんだろう、っていう意味?」
「もちろん。あ、お腹空いてない?」
 そう言われて僕は、自分がすっかりお腹を空かせていることに気づく。作業に熱中していたときはわからなかったけど、そういえばお茶菓子以降は何も食べていない。
「空いた」
「じゃあ夕飯を食べていきなよ。お礼っていうわけじゃないけど」
 僕はうなずいた。そしてうれしかった。労働には対価が必要だ。ただ一度シャワーを浴びたかったので、うちに帰ると言った。トロは、それなら準備をしておくと言う。もう一度来る頃にはできているだろうと。
 待つ分にはかまわないけど待たせるのは申し訳なかったので、急いでうちに帰った。急いでシャワーを浴びて、急いで着替える。思っていたより時間はかからなかった。煙草を吸って、トロの待つ家に戻った。
 歩いて三分の道のり。その道すがら、すっかり日が暮れているのに気づく。ダークグレーの上空は低く、冬の訪れを感じさせた。シャワーを浴びてほのかに湿る髪の毛が冷たい。暖まっていたはずの身体も一気に冷えた。作業をしていたときから着ていたジャンパーの生地の隙間をかいくぐるように、風が吹いている気がする。これでまだ冬のはじまりだというのだから、深まればどれだけ寒くなるのだろう。これでも息が白くなる時期ではない、ということが信じられなかった。これからの季節は、朝晩が冷える。トロとトロの家は大丈夫なのだろうか。暖房的な意味で。
 携帯電話を見たら、高松さんからメールが着ていた。ほぼいつも通りの内容。期末テストが近いらしい。僕にはよくわからないのだけれど、受験を控えたこの時期に期末テストはあるものなのだろうか。いや、高松さんがあると言っているのだからあるのだろう。彼女は大学の一般入試を受けるらしく、それは二月に集中しているのだという。相変わらず「だから付き合ってくれませんか?」という文面の、だから、という部分は意味不明だった。
 あとで返信すればいいか。そう思い、携帯電話をジャンパーのポケットにしまう。
 トロの家に着き、インターホンを鳴らす。例によって、少し待たされる。寒いので軽く身体を動かしながら立っていると、インターホンの向こうからガチャ、という音がしてトロの声が聞こえた。
「勝手に入って」
 と言われれば、勝手に入るしかない。玄関の扉を開けてなかに入ると、意外なほど暖かかった。暖房を入れてくれたのだろう。テーブルではすでにトロが待っていて、その上には湯気の立つコーヒーと、皿に載ったトーストがあった。トースト?
「ねえ、僕の記憶が間違ってなければ、トロは昼にもトーストを食べていた気がするんだけど」
「食べてたね。ちなみに昨日の夜も昼もトーストを食べたよ」
「昨日の朝は?」
「なにも食べてない」
「トースト以外のものを食べると死んでしまうの?」
「そういうわけじゃないけど、もちろん。なにを食べるか考えるの、面倒臭くて」
 トーストの脇にはバターと、ジャムが四種類(いちご、マーマレード、りんご、ブルーベリー)。彼女がトーストを食べているときにはいつも一種類しか見なかったから、これが彼女なりの精一杯のもてなしなのだろう。それにしても、トーストだけの偏った食生活といい、それでかまわないという意識といい、この人大丈夫なのだろうか。
 トロに座るように促され、しかたなく彼女の向かい側に座る。まさか(かたちだけとはいえ)夕食に招待され、(お礼ではないとはいえ)トースト一枚を出され、僕はどういう表情をしていいのかわからなかった。郷に入っては郷に従え、というのが正解なのだろうか。考えても答えが出る種類の問題ではなかったので、もう悩まないことにした。皿の上に置かれたバターナイフを手に取り、バターとジャムをトーストの表面に塗っていく。せめてもの贅沢だと、かなりたっぷりめに乗せてみた。そしてかじりつく。驚く。
 パンもバターもジャムも相当いいものを使っているのか、正直に言って今まで食べたトーストのなかでも、群を抜いて美味しかった。ほどよい焼き加減のカリッとした表面と、なかのフワッとした食感がすばらしい。だからなんだと言われればなんでもないのだけど、僕は感動してしまった。
「美味しいでしょ、これ。わざわざ取り寄せてるのよ、インターネットで」
「本当に美味しいよ。そりゃ、こればっかり食べたくなるよね」
「本当にそう思ってる?」
「まさか。あのね、信じられないかもしれないけど、この世界にはトーストより美味しいものがたくさんあるんだよ」
「まさか」
 ある食べものがいくら美味しかったとしても、そればっかり食べていていいことなんてひとつもない。この世界を支えているものは間違いなく多様性だ。トースト以外口に入れないなんて排他性が、あってはならない。僕のくだらない持論だけど。
「なんてね。知ってるよ、そんなこと。ただ、面倒臭いの。食べるものも着るものも考えなきゃいけないこと、ぜんぶ」
 そう言って、トロは自分のトーストにバターを塗りはじめた。べつに理解してほしいわけではない、という顔だった。いちごジャムを塗って、うつむきながら食べる。特に美味しそうでもない顔。本当に彼女は、なんにも興味を持っていないのではないか、と思った。
「ベジタリアン、ってわけじゃないんだよね?」
「違うよ。あればなんでも食べるよ。自分じゃ用意しないだけで」
「生きていて楽しい?」
「なんでそんなこと聞くの?」
 なんとなく。僕は黙ってトーストを食べた。少しずつ冷めていくにしたがって、最初の美味しさから反比例するように味気なくなっていく気がする。
 あまり楽しいとは言えない食事だった。会話が続かない。改めて、そういえば僕らはそれほど親しい関係にはないのだったと思い出す。最初に比べればだいぶ距離は縮まった気はするけど、友達でも、もちろん恋人でもなく、僕らの関係は形容する言葉がない。黙々と食パンを咀嚼していく状況が、それを象徴しているようだった。
 食べることは人生の楽しみのうち、三分の一を占めている。と言った人がいた。誰かは知らないが。べつにそこまででなくてもいいとは思うけど、実際食べることは人生の大きなファクターだと思う。コンビニで売っているものを主食にしている僕がえらそうに言えることではないけど、そこには希望がなくてはいけない。
「今度、なにか美味しいものを持ってくるよ」
「いい、いらない。私には、これで充分」
 にべもない。そして、僕になにかを強制する権限はない。トロがそれでいいというのなら、いいのだろう。僕にはこれ以上なにも言えない。
 僕らはトーストを食べ終わり、コーヒーを飲み干し、まるで朝食のような夕食を終えた。

 トロの連絡先は教えてもらったが、外の草木を切り、家の外観が整ってしまえば、電話をかけるような用事もなかった。この時点で、僕らは友達ですらなかった。僕の彼女に対する興味は高まっていたけれど、かといってどうすることもできないし、する気も起きなかった。正確に言えば、めんどうくさかったのである。
 ようするに、それから僕らはしばらく疎遠になった。クリスマスのケーキ売りを終え、正月のおせち売りを乗り越え、それ以外の日常をこなした。元旦には珍しく父と万記絵と家族三人が揃い初詣に行ったのだけど、僕がその日に夜勤だったこともあり、充分なコミュニケーションをとることもなかった。縁の薄い家族。
 年が明けて、僕はうちを出ることを考えはじめていた。かつての同級生たちも次の春で高校を卒業し、新しい生活に臨むことになる。それにあてられた、というわけではないけど、僕も新しい生活をして、それでもやっていけるという手応えみたいなものが欲しかった。少しずつ、大人になっていかなければならない。望むと望まざるに関わらず。
 そんなようなことを、ある日夜勤で一緒になった根本さんに話した。彼の場合は会社員のお兄さんと一緒ではあるけれど、親元から離れて立派に生活している。
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