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プラスチック・シュガー

トーストを食べる手を止め、少しうつむき、上目遣いでこちらを見てくる。と言うとなかなかかわいらしい仕草だったけど、実際にはそれを眉間に皺を寄せてやってきたため、ちっともかわいくなかった。
「できれば教えてくれると助かるな。なんて呼べばいいかもわからないし」
「中島でいいのに。表札がかかってたでしょ?」
「僕の名前だけ君が知っているというのは、フェアじゃない気がするんだ」
「トロ」
「はい?」
「トロ。中島トロ。それが私の名前。満足?」
 トロはものすごい秘密を打ち明けたように、脱力して椅子の背もたれに体重をかけた。それから何秒かして、なにごともなかったかのようにトーストを食べるのを再開する。そしてトーストを食べ終わるまで、ぽつりぽつりと名前の由来について話してくれた。
 まあ、シンプルなことだ。つまらないと言ってもいい。彼女のお母さんが、お寿司のトロが大好きだったらしい。命名の際、もちろんお父さんは反対したが、大好きなものに大好きなものの名前をつけてなにが悪い、という強烈な論法で押し通した。彼女は無事トロという名の女の子になり、小学校では名前によってからかわれることは日常茶飯事だった。最悪だった、と彼女は言った。中学は? と聞くと、中学には行っていないと答えた。
 その理由も気になったけど、まずは基本的なことを押さえていこうということで、とりあえず年齢を聞いてみる。僕より一歳下だった。なので同い年の連中はいま高校二年生になっているはずだ。けど、彼女は高校にも行っていなかった。
「それじゃあ普段は何をしてるの?」
「何も。ただ部屋にいて、テレビを観たり、本を読んだりしてる。たまにコンビニに行って、生活に必要なものを買ってくる。あとはインターネットで円相場を見るとか」
「円相場? なにかやってるの?」
「まさか。なんだかね、一秒ごとに変わっていくグラフを見ていると、心が落ち着くの。心臓の鼓動みたい。たしかめて、ああ私は生きているなって確認するの」
 わかってはいたが、この子は変な子だ。日中じっとして、円相場を眺めている女の子がこの国にどれだけいるのだろうか。
 それからも、トロは僕のした質問に素直に答えてくれた。それが真実か嘘かはたしかめる術がないけれど、そんなの僕だって一緒だ。僕たちには、真実が真実だということを説明する技術がない。
 彼女が雨のなか、ゴミの捨てていたあの日。お母さんが亡くなって、葬儀と通夜が終わった翌日だったそうだ。それまでお母さんが溜めに溜めこんでいたゴミをすべて捨てたくなって、通夜が終わってから夜通しまとめていたのだという。彼女はお母さんの生きていた痕跡を消したかったのだ。それはなぜか。
「監禁されていたの」
 彼女は耳慣れない、そして衝撃的な言葉を使った。
 中学校に上がって間もなくお父さんが亡くなって、精神に異常をきたしたお母さんは外に一切出なくなった。お父さんを愛していたから、というだけではなく、彼を救えなかった自分を、周りの人間が笑っているような気がしたからだ。そして家のなかに引きこもることを、トロにも強制したらしい。買い物はすべてインターネット。ゴミを出すことさえせず、もちろん玄関や庭先の手入れなどしない。天井と壁と床の揃っていないところに、お母さんは決して出ようとはしなかった。だからトロの、部屋にいてテレビを観たり本を読んだり円相場を見ている生活は、お母さんが死ぬ前から変わっていないらしい。
 お金は、お父さんが残した遺産と保険のおかげで、これからも苦労することはおそらくないのだという。
「未成年後見人っていう制度があって、ようするにその人が私の面倒を見なきゃいけないんだけど、それが私の叔父さんでね、お金に困ってたの。だからお父さんのお金をいくらか渡して『私のことは放っておいて』って言ったの。叔父さんにとっても私のことなんかどうでもよかったから、ふたつ返事で了承してくれた。お母さんが死んで、そう、私があの日にゴミを捨て終わってからは連絡もない」
 トロは叔父さんのことをどう思っているのだろうか。あるいは、自分に手を貸すことのない外の世界についてどう思っているのだろうか。恨んでいるのか。それともただ単に無関心なのか。まさか好んではいないだろうけど。彼女の表情からはその一切が読み取れなかった。
「トロは」
「ねえ、どうしてもその名前で呼ぶ?」
「代わりに僕のことを好きなように呼んでいいよ」
「交換条件になってないんだけど」
 トロはこれから先、どうやって生きていきたいのだろうか。結局聞けなかったけど、たぶんそれもこれから考えていくのだろう。ある意味で彼女はもう一度この世界に生まれ落ち、裸同然のまま、誰も頼る人のいない状況のなか生きていかなければならない。一応両親が生きていて、健在の僕からは想像しかできなかったけれど、それはなかなか過酷な環境だという気がした。
 その日の会話で、彼女のことがだいぶわかった。もちろんすべてではないし、すべてわかるのは不可能だけれど。彼女は僕に心を開いてはいない。というか四、五年のあいだ、お母さんとしか過ごしてこなかった人間だから、その方法を持っていない。お母さんに対して心を開いていたのかはわからないけれど、彼女の言葉からお母さんに対する愛情みたいなものは感じられなかった。長いこと、彼女は孤独なまま生きてきたことになる。
 なぜだろう、その孤独は、僕を慰めた。僕だけじゃなかったのだ、という感覚。
 僕のなかには小さい頃、母に捨てられたという思いがあった。愛されていなかったわけじゃない、ということは今ならわかる。僕が小学校三年生のときに母が家を出てから父は男手ひとつで僕と万記絵を育ててくれたし、そこに愛情がなかったとは思えない。それでも幼かった僕は、自分が愛される資格のない人間だと思っていた。僕がもっとうまく子どもをしてあげていれば、父と母は別れることはなかったんじゃないか、と、どこかで感じていた。子どもなんて無力で、それでなくてもダメなときはダメなんだってことも今は知っている。けど、僕はそう思っていた。彼らは僕が嫌いだから、別れる道を選んだのだと。
 幼かった僕は孤独だった。孤独を抱えたまま大人になろうとして、パンクして、一度ダメになった。今は少しずつ立ち直っている段階だけど、それでも不安がつきまとっている。 そんな重みが、彼女の孤独によって少し軽くなった気がしたのだ。
 僕は彼女に感謝をしようと思う。
 彼女にしてあげられることはないだろうか。少し考えたけれど、すぐには思いつかなかった。なにより、今の彼女は僕のできることを求めてなんかいない。彼女が前向きになってくれたらいい、と思うけれど、今もべつに後ろ向きではないし、彼女なら自分でなんとかしてしまう気がした。それで思いついたのは、本当につまらないことだった。
「話は全然変わるんだけど」
「いいよ。なに?」
「外の草木、切っちゃわない?」
 ああ、と彼女は言った。庭や軒先で伸び放題になっている、あの草木のことだ。すでに家の外にせり出して、人の交通の妨げになっている。これをそのままにしておくことは、お母さんのものを捨て去った彼女のポリシーに反するのではないか。
「たしかに邪魔なんだよね。本当は早く切りたかったんだけど、自分ではできないしどうしようかと思ってたの」
「うちに植木ばさみがあるから、今度切ってあげるよ」
「本当? 助かる。じゃあ今度来たときにお願い」
「また来てもいいんだ?」
「できれば、ちゃんと起きてる時間にね」
 それがその日の最後の会話だった。僕たちはまた会って草木を切る約束をし、別れた。僕はうちに帰ろうとする。上を見れば、秋の終わりの夕方になりかけていて、遠くの空ではすでにほのかなオレンジ色が広がっていた。これから海に行けるかもしれない。僕は思った。今から出れば日が暮れる直前には着けるだろうし、夜の海というのも悪くない。僕は好きだ。
 うちに帰るのをやめ、そのまま駅に向かい、切符を買って(普段電車に乗らないから、切符が必要なのだ)、電車に乗った。
 そして海に着いてから、好きなだけいろいろなことを考えた。そして帰りの電車のなかで、僕はラブレターの返事を書いた。

 夕方に行った海が思いのほか寒くて、僕は帰ってからしっかり風邪をひいた。微熱程度なら、普段はいつも通り働く。フリーターは時給制の世界なので、休むと収入の低下に直結するのだ。けれどその夜には三十九度近くまで熱があがり、身動きがとれなくなった。進藤さんや紀藤さんたちに頼んで、シフトを代わってもらった。次の日に病院へ行って、それから三日間寝込んだ。
 そのあいだに万記絵が一度帰ってきて、僕のために氷枕を作ってくれた。少し話したような気がするのだけど、頭がぼーっとしていたのでよく覚えていない。いずれにせよ、前みたいなくだらない話だと思う。今の彼女の頭には、夜の街で遊ぶことしかない。
 父も心配そうではあったけれど仕事もあったし、寝込んでいる僕に干渉してくることはなかった。それでも冷蔵庫にはレトルトのおかゆとかゼリーとか胃に優しい食べものが入っていて、それはありがたかった。小分けにして、ゆっくりと食べた。
 高松さんからラブレターの返事に対する返事も携帯電話に返ってきていたけど、それを返すこともできないでいた。というか、その返事に対する返事の内容がやたらアグレッシブで、僕はうんざりしていたのだ。
 ちなみに、僕はラブレターの返事にこう書いた。
「高松さん、お手紙ありがとうございました。スリーマートの草薙豊です。高松さんは、僕と同い年なんですね。お返ししないのも失礼かと思い、メールさせていただきました。お話はぜひ、お店でさせてください。もし高松さんが抱いていらっしゃるのが恋愛感情なら、僕は応えることができません」
 ごくごくシンプルに、簡潔に書いたつもりだった。接客業をしているから、敬語の使いかたにだって自信がある。恋愛感情に応えられないのは、相手がシュレックみたいな女の子だからではなく、今は誰ともそういうことをする気持ちになれないからだ。それも書こうかと思ったけど、やめておいた。
 これであきらめてくれればいいな、という僕の思いはしかし、高松さんから返ってきたメールによって粉々に砕かれることになる。
「草薙さん、連絡ありがとうございます! 同い年なんですね、なんだかうれしいです。ぜひお話させてください! これからもよろしくお願いします。草薙さんは恋愛感情に応えられないと言っていましたが、それはなぜですか? これからもっとお互いのことを知って、仲良くなれたらと思っています。だから、これからもよろしくお願いします。ときどきメールさせてください。私は音楽が好きなのですが、草薙さんはどんな音楽を聴きますか?」
 という文面に、カラフルな絵文字がふんだんに使われた女の子らしいメールだった。それを読んで、ただでさえ痛かった頭がさらに重くなった。ところどころ敬語がおかしいし、二回もこれかもよろしくお願いしますって書いてあるし、聞いて欲しくないことを聞いてくるし、ときどきメールをするとまである。何より(進藤さんがくれるCDを除けば)ほとんど音楽なんて聴かない僕に対して、好きな音楽まで聞いてあった。
 とりあえずそのメールを、僕は見なかったことにした。とても返信できるような状態ではなかったし、その内容を考えるのも面倒だった。たまに必要な食事、水分補給、トイレなどの行為以外の時間を、僕は泥のように眠って過ごした。
 ようやく熱が下がり、起き出せるようになった夜、携帯電話を見ると紀藤さんからメールが着ていた。
「大丈夫? 今朝やたら体格のいい女の子が『草薙さんどうかしたんですか?』って聞いてきたから、『風邪みたいです』って答えたよ。あれが手紙の子かな? がんばってね」 なにをがんばればいいのかさっぱりわからなかったけど、納得がいった。紀藤さんの他に、進藤さんから一通、高松さんから六通のメールが着ている。そのすべてが僕の体調を心配する内容ではあったのだけど、問題は質より量だ。いつだって。
 僕は紀藤さんと進藤さんにメールの返事を書き、明日からは普通に出勤できることを伝えた。そして高松さんから着た六通分、まだ返していない分も合わせて七通分の返事を考えるために頭を抱えた。なんと返せばいいのかわからない。
 まだ父は帰ってきていない。ひとりきりのリビングで、寝込んでいるあいだは吸えなかった煙草を吸った。ニコチンが身体に染みわたって、脳みそがリラックスしていくのを感じる。主に熱が下がったからだと思うけれど、身体も少し軽くなった。それからコーヒーを入れようと思い、やかんに水を入れ火にかける。汗をかいていたからシャワーを浴びたかったけれど、もう一服してからでいいだろう。
 ほどなくしてやかんのなかの水が沸騰し、インスタントコーヒーを入れる。テーブルに戻って、一口飲む。当たり前かもしれないけど、トロの家で飲むちゃんとしたコーヒーのほうが美味しかった。その味をなつかしく思う。
 こういう状況でなら、トロはどうするだろう。
 彼女は外界との接触をほとんど持っていないから、この前提自体が成立しないのだけど、ふとそう思った。たとえば、ひとりの相手に七通分のメールの返信をしなくてはいけなくて、しかもしれがよく知りもしない、好きでも嫌いでもない相手だったときには。
 トロなら返さないかもしれないな、と思った。やりたくないことはやらなさそうだ。どうせ明日、店のレジの前で会うだろうし、そのときに考えればいいかという結論に達する。
「もはや愛してくれない人を愛するのはつらいものだ。けれど、自分から愛していない人に愛されるほうがもっと不愉快だ」ジョルジュ・クールトリーヌはそう言った。不愉快、というのはいささか強すぎる表現だと思うけど、僕もおおむね同じ気持ちだ。最初にラブレターを受け取ったとき、正直に言って悪い気はしなかった。こんな僕を見てくれている人がいた、ということがうれしくさえあった。けれど、それだって相手による。グイグイくるこの感じ。外見のことはさておき、高松さんは僕がもっとも苦手とするタイプの女の子だった。
 いったい僕のどこを気に入ってくれたのかわからないけれど、中途半端な態度をとると面倒なことになりかねない。きっぱりと断りたいところだけど、相手は職場のお客さんでもある。しかも大きなお得意さんである女子高の生徒だ。悪い噂が立って、それで営業に響くようなことでもあれば僕は店にいられなくなる。というのは大袈裟かもしれないけど、どうしてもナーバスになってしまう。でもそんなことは明日考えよう。けどもし対応を間違えば。でもそんなことは明日。などという思考がループし、まだ微熱の残る頭に負担をかけた。
 眠ってしまおう。そう考えた。明日は朝六時からのシフトだ。たくさん眠ってしまったから、もう一度眠れるか不安だけれど、五時に起きて準備をする。そして僕は、僕の日常に戻ろう。あとのことは些細なことだ。
 そう決めて二階の自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。意外にもすんなりと眠りにつけた。眠りに落ちる直前、クールトリーヌの言葉がもう一度頭をよぎった。もはや愛してくれない人。僕は成瀬夏美のことを考えながら意識を溶かしていった。

 次の日は出勤から気が重かった。熱はすっかり下がっていたし、身体のだるさもなくなっていたけど、高松さんにメールを返さなかった言い訳を、どのようにすればいいのかということでだ。明日考えよう、と思っていた明日になると、結局慌てるはめになる。なんで昨日のうちに考えておかなかったのだろう。
 その日は夜勤からのロングシフトで残っている進藤さんとのコンビだった。離脱していたことを謝ると、そんなことはいいけどもう大丈夫なの、と心配してくれた。いい人だ。彼の柔和な雰囲気に触れていると気持ちが少し楽になる。ことの経緯を紀藤さんあたりから聞いていたのか、店のほこりっぽいバックルームで、ラブレターのことについて聞かれた。どうしたものか悩んでいる、ということを説明する。断りたいのだけれど、なんとか相手を傷つけることなく、穏便にかたをつけることはできないだろうか。店にも迷惑をかけるかもしれないし。というような言葉で説明をしめくくると、進藤さんは煙草に火を点けて苦笑した。
「そんなことできないよ」
 進藤さんは言った。
「誰かを拒絶したり断ったり、ああ同じ意味か、とにかくそういうことをするときに、誰も傷つけないっていうのは不可能だよ。というか、人と人が関わって、そのあいだにある関係のことを人間っていうんだけど、人間関係を持った以上誰かは必ず傷つくんだ。あるいは本人も気づかないうちにね。それを避けて構築できる関係はない。ナギちゃんの言ってるのは、自分が傷つきたくない、っていう話でしょ?」
 さすがに僕より十年も長く生きているだけある。言われるまで気づかなかったけど、その通りだった。高松さんを傷つけたくないというのは僕の弱さで、その弱さは自分が傷つきたくないという意識と結びついている。もしかしたら、恋愛関係を持ちたくないということさえ、その弱さと結びついているのかもしれない。ようするに、僕は傷つきたくないのだ。ううむ。僕はうなる。
「それに、店に迷惑どうこうは考えすぎだよ。仮にそうだったとしても、ナギちゃんが深刻に考える必要はないよ。バイトなんだから」
 進藤さんは、自分がアルバイトであるという立場を崩さず、つねに店そのものには明確なラインを引いて臨んでいる。ただ、バンドという本職がある進藤さんはともかく、僕にとっては貴重な居場所なので、なかなかそうやって割り切ることはできない。そこの部分では、進藤さんとはわかりあえない。べつに大した問題ではないけど。
「進藤さんなら、こういうときどうしますか?」
「俺なら、付き合うね。どんな容姿をしていようが、どんな性格をしていようが、女は女だよ」
 さすがロックンローラー、と言っていいのかどうか。こういうところでも、僕と進藤さんはわかりあえない。べつに大した問題ではないのだけど、参考にはならなかった。
 お客さんがレジにやってくる。進藤さんはまだ煙草を吸っていたので、僕が接客に出る。会計が終わってまた店内が無人になると(六時台は暇なのだ)、なんとなく考えごとがしたくなっておにぎりや弁当の陳列を直しに行く。
 僕なんかに興味を持ってもらったのに、断るのは申し訳ない、という気持ちもあった。それがどんな相手であれ。僕のことをよく知りもしないのに(高松さんは本当に、僕の外見と名前しか知らないのに)そうなるのは意味がわからなかったが、たとえそうであれ。「自分の中身を誰かの外見と比べるな」とはハフ・マクロードの言葉だけど、彼女の場合はまさにそのケースにあてはまる。たとえば彼女はあたりまえのように音楽が好きで、あたりまえのように僕がそのことに興味を持つと思っている。彼女は自分の中身と、僕の外見を比べている。そこに違和感があるといえば、ある。
 僕の知っている限り、国友学園は進学校だ。僕と同い年の高松さんは受験生だろう。大学受験がどれだけ大変か僕は知らないし、たぶんこれから知ることもないけど、他人と恋愛なんかしている場合なのだろうか。あるいは、そういうのが励みになるのかもしれない。もしくは、恋愛なしでは生きていけないタイプの人がいるのかもしれない。そういうのに巻き込まれるのはたまったものじゃないけど、僕が彼女を理解してあげられることは、おそらくない。おそらくない以上、進藤さんの言うとおり、傷つけてでも変な望みを与えてはいけないのだろう。
 少しずつお客さんが増えてくる時間になって、僕と進藤さんは揃って接客に出る。いつもよりお客さんが多いくらいだった。あっというまに八時台になり、女子高生たちが大挙して押し寄せてくる。なかなか高松さんは現われなかった。かわりに大学登校前の紀藤さんがやってきて、朝食なのか昼食なのかわからないサンドイッチを買っていった。もう大丈夫? と僕の身体を心配し、「がんばってね」というやっぱり謎の励ましを残して。
 朝のラッシュが終わりに近づいて、レジ前の行列が途切れがちになった頃、高松さんが現われた。こないだ僕に手紙を渡してきた友達ふたりをともなっている。
 彼女はおずおずと、レジ台の上に紙パックのジュースを置いた。上目遣いで僕を見てくる。彼女はよく見るとシュレックだけでなく、カバにも似ていた。そう考えればどことなく愛嬌のある顔、なのだろうか。
 見た感じで、恥ずかしがっているのはすぐにわかった。手紙やメールでぐいぐいくる姿勢と、あまりにもギャップがあるので戸惑う。そういえば彼女は中高一貫の女子高の生徒だ。男性に興味はあっても、接したことはあまりないのかもしれない。
「おはようございます」
 高松さんは言った。こころなしか、顔が赤い。そういう顔をされると、こっちまでなんだか恥ずかしくなってしまう。
「おはようございます。ごめんなさい、メールまだ返せていなくて」
「いえあの、いいんです。返せるときで。手紙、読んでくれてありがとうございます。それで、あの、急にあんな手紙出して、申し訳ないなって思ったんです。でもあの、よかったらお友達になってくれませんか?」
 なんだ、もしかして、いい人なのか? 発言の内容に「あの」がやや多いけど、しおらしく、謙虚で、メールの文面とは違う彼女の顔だった。僕は、そのことについては好感を持った、と言ってもいい。
 僕はジュースのバーコードをスキャンして、高松さんに値段を告げた。彼女は慌てて財布を取り出し、小銭をレジ台の上に置いた。僕はそれを手にとってレジに入れ、おつりを
手渡す。そのときかすかに手が触れて、彼女はますます恥じらいの表情を見せる。ふと横を見ると、進藤さんがにやにやしながらこっちを見ている。たまにお客さんが来ると、うまいこと自分のレジに誘導している。僕らに話す時間を作ってくれているのだろう。正直言って大きなお世話だった。
「お友達でいいなら、喜んで」
「ありがとうございます。あ、風邪はもう、大丈夫ですか?」
「ええ、はい、なんとか」
「よかった。それじゃあ、また。メール、待ってます」
 高松さんはぺこりと頭を下げると、小走りで店を出ていった。と思ったら、また小走りでレジに戻ってきた。なぜかと言えば、彼女の連れふたりがまだ買い物を済ませていなかったからだ。彼女の連れふたりの会計をすると、三人は揃って店を出ていく。その後ろ姿を見送りながら、そういえば連れのふたりは一言も発しなかったな、と思った。どうでもいいけど。
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