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プラスチック・シュガー

 彼女は淡々と質問を重ねていった。今考えれば面白くもなんともない質問ばかりだったけど、彼女なりに話題を探した結果なのだろう。僕は自分の話をするのがあまり得意ではないので、僕自身に対する質問に答えつづけるのはちょっと居心地が悪かった。けど、彼女が淡々としながらも真剣に聞いてくれるので、ついつい正直に回答を口にしてしまう。
 とりあえず自殺未遂の話は伏せておいて、ある期間は僕も引きこもりだったことは伝えた。今は目の前にある生活にかまけて、未来に対する不安をやり過ごしていることも。僕が一通りのことを話し終わると、そこには疲労感が残った。
 最後に、へえ、と彼女は言った。僕の話を聞いているあいだ、彼女は少しも目をそらさなかった。それはなんというか、嬉しいことだった。
 そしてその頃には、僕たちは敬語を使わなくなっていた。親しくなった、というよりは、お互い丁寧に話すのが面倒臭くなってきたのだ。
「君のことは教えてくれないの?」
 二時間くらい話していただろうか。彼女は僕の話を聞き終わっても、自分のことを話そうとはしなかった。とっくに空になっていたコーヒーカップにおかわりを入れるため、再度キッチンに立つ。
 僕は彼女のことが知りたかった。真剣に僕の話を聞いてくれた彼女のことを。だから自分だけ話したというのはひどくフェアじゃない気がして、憮然とした気分になった。僕はまだ、彼女の名前さえ知らない。表札に「中島」とあったから、中島さんなのはわかるけど、それだけだ。僕らのあいだにはまだ、大きな大きな空白が横たわっている。
 それでも、僕が自分のことをこれだけさらけ出したのは、たぶん生まれてはじめてのことだった。かつて付き合っていた恋人にだって、ここまで説明したことはない。聞かれなかった、というのが大きな理由だけど、恥ずかしいは恥ずかしいとして、人に興味を持ってもらえるというのはこんなに心地良いものなのか。僕は人に興味を持ってもらえなかった。同時に、人に興味を持つこともなかった。そこには緊密な相関関係があると思う。けれど彼女は僕に興味を持ったし、僕は彼女に興味を持った。理由はない。あるとしてもそれは、とても感覚的なことだろう。雨のなか、ゴミを捨てる女とそれを手伝う男。不自然なシチュエーションで僕らは出会って、僕のなかでそのことはそれなりに強い印象があった。彼女もある程度同じだろう。
 そんなようなことを考えていると、再びコーヒーカップを持った彼女がリビングに戻ってきた。コーヒーをテーブルに置いて、それからなにも話そうとしなかったので、僕たちのいる空間には沈黙が訪れた。どうしていいかわからない。それまで手をつけていなかったお茶菓子のクッキーに手をつける。しっとりとしたタイプで、砂糖を使いすぎていないところがよかった。のだけど、お菓子の話なんかどうでもいい。
「今度会ったら、教えてあげる」
 それまで僕の質問を忘れていたかのように、彼女はふいに口にした。だから今日はなにも言わない、という意思の感じられる口調だった。彼女は実際、名前も連絡先も教えてくれなかった。というか、何も話さなかった。僕は僕で、もう話題が尽きていたので何も言えなかった。ふたりとも無言でお茶をすする。意外なことに、それほど気まずくはなかった。
 二杯目のコーヒーを飲み干し、僕は席を立った。もう帰ることを伝えると、彼女はまたこくりとうなずいて、玄関まで見送りに来てくれた。靴を履いて、彼女のほうを振り返る。にこりともせずに彼女はもう一度うなずいた。
「それじゃあ、また」
 という僕の言葉に、彼女はなんの反応も示さなかった。もうすでに、そのことにも慣れはじめていた。べつに、もう二度と会いたくないというわけではないようだ。もしもそうなら、彼女はきっとそういうふうに言う。
 そのようにして、僕たちの再会は終わった。

 僕の働いているコンビニの近くには私立の女子校があって、早朝のシフトに入れば飲みものだの昼食だのを買っていく女子高生の姿が拝める。抹茶色のブレザーはお世辞にもセンスが良いとは言えなかったけど、数人の友達グループでやって来る彼女たちはいつも楽しそうで、高校に行っていない僕としてはうらやましくもあった。まあ、僕の場合は自業自得でやめたのだけど。
 早朝のシフトは三時間と短い。午前の六時から九時。六時台に部活の朝練のためやってくる子もいるけど、大半はだいたい八時くらいに大挙して押し寄せる。他にサラリーマンや近所の病院の先生や看護師なども来るため、その時間はちょっとした戦場になる。
 その日は紀藤さんと同じシフトだった。彼女は僕より三つ年上で(二回浪人していて)、大学の一限目がない日の朝にバイトをしている。水泳をやっていたからなのか、やけに肩幅が広い人だ。それなりに仲が良く、それなりに美人だったのだけど、僕は姉のように思っていた。
 いつものように八時台になると来客のピークが訪れ、僕と紀藤さんはひたすらレジの裏で接客に専念した。それでも何分かに一回は、長蛇の列ができる。女子高の近くにはもうひとつコンビニがあるけど、そちらもこの時間は同じように混むのだろうか。さすがに慣れたもので、どれだけ列が伸びてもパニックになることはない。けど、ひっきりなしにレジ前に訪れる老若男女(おもに若女)に、少しだけうんざりする。この時間に来るのは基本的に常連客なので、スポーツ新聞を買っていくおばさんなどは混んでいようとなんだろうと軽い世間話をしてきたりする。さすがにちゃんと応じる余裕はないので、返答はおざなりになる。けれどおばさんは、満足して帰っていったりする。たぶん寂しくて、話相手が欲しいのだろう。勝手な想像だけど。人はみんな寂しい。
 そろそろ落ち着くかな、という時間だった。本当に混むのは八時からの三十分ほどで、あとは遅刻を覚悟した女子高生やサラリーマンがやたらのんびりと買いものをしていくのに応対するくらいだ。
 ふたり連れの女子高生がやってきて、レジ前に立った。特徴のない顔立ちで、いつも来ているのかもしれないけど見覚えがなかった。彼女たちはなんだかもじもじしながら、僕のほうを見てくる。他にレジへやってくる客はいなかった。
 あの、と彼女たちのうちひとりが話を切り出す。
「これ、友達に渡してって言われて」
 ひとりの女子高生が僕に向かって、一枚の便せんを差し出す。水色のベースに薄い黄色の水玉模様が入った、なかなかかわいい便せんだった。表に「くさなぎさんへ」と書いてある。僕の制服の胸のところには名札がかかっているのだけど、ひらがな表記なのだ。綺麗な字だった。
「ありがとうございます」
 と言って僕が受け取ると、彼女たちはお辞儀をして小走りで店から出て行った。買いものはしていかないのか。べつにそれはどうでもいいけど、便せんをどう扱っていいものか迷う。
 中華まんのメンテナンスをしていた紀藤さんが、便せんをじっと見つめている僕に気づいて寄ってきた。
「どうしたの?」
「こんなのもらっちゃいました」
 僕は便せんを見せる。
 紀藤さんはそれを奪い取ると、表と裏をまじまじと眺めた。なんでだかわからないけど、僕は少し恥ずかしい気持ちになる。
「モテるね、草薙くん。ラブレターでしょ、それ」
「そうなんですかね。どうしたらいいんでしょう、こういう場合」
「付き合っちゃえば」
 なんて無責任な人だろう。
 もちろんこんなことははじめての体験で、どうにもこうにも現実味がないというか、ピンとこなかった。誰かが僕に興味を持って、しかも恋愛感情を抱いている、という状況がうまく想像できない。とりあえず僕は、便せんをバックルームに置いてあった自分の鞄に入れた。そういえば、パック飲料の発注修正をしていない。発注端末を持って売り場に戻る。紀藤さんに断ってたくさんのパックが並ぶコーナーで端末をいじり、発注数を入れていく。この時間は女子高生が主な客層だからか、安いパックのジュースやお茶が飛ぶように売れる。
 そんな作業をしながら、僕は悩んでいた。もちろん、便せんのことで。どうやって断ればいいのだろうか、とそればかり考えていた。誰かに興味を持ってもらえて、嬉しい気持ちがないわけではない。新鮮な感覚だし、悪い気もしない。それでも、恋愛感情に対してどう応えるのかということなら、話はべつだった。
 自殺未遂をして、その頃付き合っていた恋人と別れて。それなりに時間は経ったと思うけど、その傷跡はまだ癒えていない。少なくとも、自分ではそう思っていた。死んでしまおうと思ったことを後悔はしていないし、恋人に対して未練があるわけでもないと思う。僕は生きていかなければいけないし、恋人にはどこかで幸せになってほしい。それでも、こうやってどうにかこうにか生きている自分が、他の誰かと恋愛をする姿は想像できなかった。
 この時点では廃墟に住んでいる中島さんに対しても、恋愛感情は持っていなかった。彼女の場合は、その生態が気になるだけ。もっと知りたいとは思うけど、たとえば付き合いたいとか、そういう気持ちは持っていない。
 発注修正を終えて、端末をバックルームに戻し、紀藤さんと適当な会話をして、シフトは上がりの時間になった。店長の吉川さんとパートの富岡さんと交代する。紀藤さんは授業があるのでさっさと帰ってしまい、バックルームには僕ひとりが残った。
 鞄を開けて、さっきの便せんを取り出す。封を切って手紙を広げると、そこにはこんなことが書かれていた。
「くさなぎさん、いつもお仕事お疲れさまです。私は国友学園三年生の高松ゆき絵といいます。毎朝くささぎさんに会うと、元気をもらえます。お話したいと思っています。アドレスを書いておくので、よかったらメールしてください」
 そしてその下には彼女の顔が写ったいわゆるプリクラが貼ってあり、携帯電話のメールアドレスが書いてあった。プリクラは、女の子にこういう表現をしていいのかわからないけど、アメリカ映画の『シュレック』にそっくりな顔と体格だった。
 顔で女の子を判断する気はまるでないけど、そのパンチのある存在感には思わず絶句した。見ようによっては愛嬌があるのかもしれない。ただ、僕にはそういう角度の見方ができないだけで。
 僕は手紙を再び便せんのなかにしまって、なるべく丁寧に鞄に入れた。少なくとも、生まれてはじめてもらったラブレターに違いはない。バックルームに吉川さんが戻ってきて、在庫の棚をごそごそといじりはじめた。元大学バレー部で、体格のいい店長。性格も豪快。僕ともなかなか馬が合ったのだけど、このことを話す気にはなれなかった。絶対にからかわれる。
「おつかれさまでした」
 と吉川さんに告げ、レジ前で小銭を数えていた富岡さんにも挨拶をして、僕は店を出た。朝の通勤時間を終えた駅前は閑散としていて、僕は穏やかな人波の隙間を歩く。

 うちに帰ってアルバイト用の服から私服に着替えると、唐突に海が見たくなった。潮の匂いがする空気で呼吸をしたくなる。ときどきそういう感覚になることが僕にはあって、その感覚には素直に従うことにしていた。いわば、いつもしている散歩の拡大版だ。
 あとから考えれば、僕はたぶん少し考えごとしたかったんだと思う。ぼんやりと。
 けれどそのときはそうと気づかず、誰かを誘うことにした。夜勤明けの進藤さんに電話をかけたら、彼はまさに眠りにつこうとしていたところで、当然断られた。友達という友達のいない僕は、それですべての選択肢を失った。根本さんがついてきてくれるわけはないし、紀藤さんは授業中だ。そもそも、この二人とはそういう関係にない。同い年の友人も、大抵は高校に行って、授業を受けている。
 財布と鍵は鞄に入ったままだ。着替えは終わって、時間もたっぷりある。あとは靴を履いて、玄関の扉を開けて鍵を閉め、駅に向かうだけだ。実際に僕は靴を履き、玄関の扉を開けて鍵を閉めた。そしてなぜか、中島さんの家に向かった。
 彼女の家は少しまともになったとはいえ、相変わらず鬱蒼としていた。おそらく、伸び放題の草木や蔦がそういう印象を与えているのだろう。どちらかというときれい好きな僕は、その草木を切って片付けたいという衝動に襲われたのだけど、今日じゃなくていいし、僕じゃなくていい。
 門についているインターホンを押す。ピンポーン、という音がして、僕はしばらく待つ。前に会ったとき「今度会ったら教えてあげる」と中島さんは言った。自分のことを。彼女のことを知りたいという思いもあった。一緒に海に行って、彼女の話を聞き、考えごとをまとめる。悪くないプランだと思った。
 けれど、それも中島さんが応じてくれた場合の話だ。出てきた彼女の顔が、無表情なのに超絶的に不機嫌そうで、その強い目力でもってこちらをにらみつけてくる表情を見て、僕はすべてをあきらめた。
 でも一応訊ねてみる。
「海を見に行かない?」
 中島さんの反応はない。僕は彼女の眉間にわずかに寄った皺を眺めていた。元々が少しきつい顔立ちなので、その顔には凄みがある。気後れした。
「寝てた」
 彼女は僕の質問には答えず、自分の状況を説明した。寝起きが悪いのか、と彼女のことをひとつ知る。彼女の着ている、駅前の安い衣料品店で売っていそうな水色のジャージは古ぼけていて、膝の部分がほつれている。長いこと使っている服なのだろう。とてもじゃないけどお洒落とは言えない。それでもどことなく品があるように見えるのは、単に彼女の整った顔のせいか。
「海に行かないかって言った?」
 彼女は言った。目が覚めてきたのか、いくぶん雰囲気が和らいでくる。
「言った」
「悪くない提案だけど、やめておく。寝起きだし、遠出は嫌いだし、一緒に遠出をするほど、親しいわけでもないし。それに、遠出は嫌いっていうか、出られないのよ」
「どうして?」
「引きこもりだから、私」
「こないだはコンビニにいたじゃないか」
「徒歩十分が限界。ここから駅まで行くには、ギリギリ十分以上かかるでしょ? 電車にもずいぶん乗ってないし。そこの古民家園でいいなら付き合うけど」
 悩んだ。僕は海を見に行きたかったのだ。しかし、彼女と一緒に過ごすアイデアというのも魅力的だった。どちらかを選択しなければならない。時間はたっぷりあるけど、すべてを実現するほどではない。いつだってそうだ。
「それか、うちでコーヒーでも飲んでいく?」
 中島さんの出てくる第三案。それも悪くない。悪くないけど、やっぱり彼女の思考回路が僕には読めなかった。僕のことは話させて、自分のことは話さない(引きこもり、ということは聞かせてもらったとはいえ)。一緒に遠出をするほど親しくはないから行かないと言い、近くの古民家園になら付き合うと言い、彼女のうちでお茶を飲むのもいいと言う。僕に対して、どこで線引きをされているのかわからなかった。打ち解けているようで、打ち解けていない。機嫌が悪そうでいて、実はそんなに悪くない。話していればわかる。
「悩むんだったら、そのあいだに着替えてくるけど」
「そうだね、僕が悩んでいようといなかろうと、着替えたほうがいい」
「ついでに顔を洗ってきていい?」
「もちろん。歯も磨いて、必要なら化粧をしてきてもいい」
「だいぶ長いこと悩む予定なんだね」
 そこで中島さんは薄く笑った。もしかしたらはじめて見た笑顔かもしれない。笑顔と言うには儚さすぎる気もしたけど、それが本当に品のいい表情だったので、僕は海に行けなくてもいいと思いはじめた。それでもまだ未練もあり、しばらく悩んでみることにする。
 彼女は玄関の扉を閉め、姿を消した。
 海に行きたい気持ちより、もう一度中島さんの笑顔を見たい気持ちが勝ちはじめている。まったく筋違いだとわかっていながら、僕は進藤さんを恨んだ。彼が僕の誘いに応じてくれていれば、シンプルに、かつスムーズに、海に行っておしまいだったのだ。僕は悩むことがあんまり好きじゃない。
 この時間の古民家園には、近所の老人がたむろしていることが多い。ひとりならともかく、ふたりで過ごすならコーヒーをご馳走になるほうが話しやすい。それに、これといって見るべきものが一度訪れた古民家園にあるわけでもない。
 中島さんが再び玄関の扉を開けたのは十五分くらい経ってからだった。彼女はほんの申し訳程度の化粧をし、控えめなデザインの白いブラウスに赤いカーディガンを羽織り、薄いベージュのスカートを履いていた。当たり前といえば当たり前だけれど、ジャージ姿のときとはまるで印象が違う。洗練されすぎない穏やかなイメージ。それでも上に乗っかっている顔はそのままだから、ある種の品の良さは変わらずに維持されている。
「どうするか決めた?」
 彼女は元の無表情に戻って僕に聞いた。僕は軽くうなずいてから、さっきまで皺の寄っていた眉間を見て(痕跡はどこにもなかった)、それから答えた。
「コーヒーをご馳走になろうかな、と思う」
「そう。いいよ」
 そう言って彼女は家のなかに入る。僕はあとに続き、玄関の扉を開ける。相変わらず質素な廊下、そしてリビング。カーテンが開いていて、窓からはまだ朝日と呼んでいい日光が差しこんでいる。穏やかな朝の風景。
 中島さんはキッチンに立って、お湯を沸かしはじめる。僕は視線で促されるままに椅子に座り、テーブルの前で彼女のことを待った。
「私、トーストを食べるけど。まだ朝ご飯を食べてないの。食べる?」
 僕は普段、朝食をとらない。というか、バイトのせいで生活が不規則なので、決まった時間に食事をとるという習慣がなかった。ということを彼女に伝えると、さして興味もなさそうにうなずいてみせる。べつにどちらでもかまわないようだった。
 彼女の行為にはまだ時間がかかりそうで、僕は所在なくリビングを見渡してみる。白い壁と天井。ひとり掛けのソファーと三人掛けのソファーが直角に置かれている。その前には、ガラスの天板がついたローテーブル。背の低いチェストがふたつあって、そのなかには雑誌や書類と思われる紙の束などが無造作に差しこまれている。上には海外ものっぽい小さな人形やボトルシップ、変な置物。おおよそ装飾品というものがない部屋のなかで、そこだけが少し華やかだった。
「面白いものないでしょう、この家」
 僕の動きを察知した彼女が言う。まあ装飾品はともかくとして、この家には他にもあるべきものがない気がした。なにかが欠落している。
 たとえば。
「君には親がいないの?」
「いない」
「頭のおかしいお母さんがいるって聞いたけど」
「どこで?」
「町内会の噂で」
「いたわよ、頭のおかしいお母さんが、ついこのあいだまで。死んじゃったけど」
 なるほど。
 頭のおかしい、の部分を否定しない。ということは、実際におかしかったことになる。僕としては勇気を出してかなり踏みこんだ言いかたをしたのだけれど、彼女は意にも介していないようだった。
 町内会の噂が正しければ、彼女のお父さんもすでに亡くなっていることになる。つまり、彼女には両親がいない。おそらくこの家に、ひとりで暮らしている。
 欠落している部分は他にもある。
「なんだかこの部屋には、生活感みたいなものがない気がするんだけど」
「私、普段は自分の部屋にしかいないから」
 なるほど。それも納得がいった。
 年頃の娘が、ほとんど外出もせず自分の部屋に閉じこもっていること。それなりに不自然ではあるけれど、彼女の場合は存在自体がすでにかなり不自然だ。ただ、今さらどうこう言うことでもないし、僕がどうこういうことでもない。
「今日は自分のこと、話してくれるんだね」
「また会ったら、って言ったでしょ。まさか押しかけてくるとは思わなかったけど。聞かれたことには答えるよ。さあ、私のなにが知りたいの? 言っておくけど、私はつまらないよ」
 大丈夫、僕もつまらなかっただろうから。と僕は心のなかで言う。そしていざ相対してみると、何を聞いていいかわからなかった。
 中島さんはコーヒーカップをふたつ持ってテーブルへやってきた。こないだと一緒だ。違うのは、彼女の前にはトーストの載った皿があること。僕にはまたお茶菓子が出された。彼女はバターとジャムを控えめに塗って、トーストにかじりつく。サクッ、という音がして、それはなんの変哲もないトーストがなんだかとてつもなく美味しいものなんじゃないか、という気にさせた。そのせいで僕もお腹が空いてきたような気がしたので、お茶菓子の皿に載っているマドレーヌをひとつ手にとって食べた。そしてそのマドレーヌはコーヒーとよく合った。
 こういうのどこで買ってくるの? と僕はどうでもいい質問をした。彼女はコンビニ、とシンプルに答えた。またトーストの表面が砕ける音がする。そういえば意識したことはないけど、僕の働いている店にもクッキーだのマドレーヌだのは売っている。売れているのを見たことはないけど、そうか、こういう人が買っているのか(こういう人ってどういう人かわからないけど)。
 どうでもいい質問でも、一度すると緊張がほぐれたのか、他の質問も思いついた。といっても、ごくごく基本的な情報からだ。
「君の名前は?」
「どうしても言わなきゃダメ?」
 頭のおかしいお母さんが亡くなったことや、普段部屋に閉じこもっていることは平気で答えたのに、名前のことになると彼女は言いづらそうにした。
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