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プラスチック・シュガー

 お湯を沸かしているあいだ、万記絵はまた煙草を吸っていた。高校生としてはどうかと思うほどの、ヘビースモーカーだ。やっぱり彼女は不良かもしれない。その口から吐き出されていく煙の輪っかをぼんやりと眺めながら、着替えてこようかどうか迷った。
「飯食っていく?」
「いや、着替えとりに来ただけだから、コーヒー飲んだら帰るよ」
「今日もこれから遊びに行くの?」
「もちろん。他にやることもないしね」
 たとえば若さが抱える漠然とした不安みたいなものがあるとして、僕は働くことで、万記絵は遊ぶことでそれを紛らわせようとしている。紛らわせること自体、正しいのかどうかわからない。本当は向き合わないといけないのかもしれない。けれど僕たちは、そこまで強くない。あるいはそこを乗り越えていく人間こそが強くなっていくのかもしれないけれど、そうするはじめの勇気さえ持っていない。もどかしい日々。
 万記絵が側頭部の枝毛をいじっていた頃、お湯が沸いた。テーブルを挟んで、僕らのあいだに温かいコーヒーが置かれる。僕は猫舌なので、少し冷めるのを待ってからではないと口にすることはできない。じっとマグカップを見つめる。
 必要なことを話し終えてしまえば、僕と万記絵のあいだに、それほどの話題はない。毎日通う場所、そしてそれ以外の時間の使い方、住んでいる世界が違うのだ。それゆえに話すことの新鮮さはあったけど、そう長くは続かない。
 なので、ふと話題を思いつくと、それを口にする。
「万記絵は、彼氏いるの?」
「いるよ、いっぱい。お兄ちゃんは?」
「いるよ、いっぱい」
 もちろん万記絵のは事実で、僕のは見栄だ。そのことは彼女もわかっている。万記絵の華麗なる恋人遍歴は、本格的にグレる前の中学生時代から続いている。これも結局「寂しいから」という理由に帰結するらしいけど、いくらでも人を好きになれる、そのエネルギーには感心させられる。
 会話はそれほど続かない。途切れ途切れ。例外もそれなりにあるけど、僕の話は万記絵が聞いていてつまらないだろうし、万記絵の話を僕が聞いたところでよくわからない。僕は中学もあまり行かなかったし、高校も半分の期間に到達する前に辞めてしまったので、グレるような余裕はなかった。学校はサボりまくっていたし、品行方正というわけでもなかった。それでも、万記絵が主に生きているような夜の世界は知らない。
 こいつ将来どうするんだろう、と心配になるけど、僕だって人のことは言えない。
 冷めてきたコーヒーを少しずつすすって、ポツポツと思いついた話題を口にする。万記絵の興味はすでに、僕よりも自分の枝毛に向かっている。仲が悪いわけではないけど、かといってお互いのことに興味があるわけでもないのだ。気楽と言えば気楽。
 マグカップに残っていたコーヒーを飲み干して、万記絵は帰っていった。出ていった、という表現のほうが正しいのだろうか。いつ帰ってくるのかも、また会うのかもわからない。空になったふたつのマグカップを洗う。これが終わったら、買ってきた本を読む。

 そんな生活を続けているうちに、その家のことをすっかり忘れていた。散歩中にたまに通りかかっても、なんとも思わなくなっていた。もちろん、だからと言ってデメリットがあるわけでもなく、日常は日常のまま過ぎていった。
 うちから一番近いコンビニは、うちとその家との延長線上にある。そのコンビニへ煙草を買いに行った。雨が降っていた。
 朝、しとしと降る雨のなかを、傘をさして歩いて行く。さして面白いハプニングもアクシデントもなく、いつものように買いものは終わり、家に帰ろうとしていた。
 そこではじめて、その家に人がいるのを見た。
 正確には駐車場で、大量にあるゴミ袋を整頓して、ゴミ捨て場に運んでいく女の人を見た。たしかに今日は燃えるゴミの日で、もう二、三十分もすれば収集車がやってくるだろう。それでもわざわざこんな日に、ずぶ濡れになりながらゴミを運ばなくてもいいじゃないか、と思った。
 近くでその様子をしばらく眺めていると、僕に気づいたのか、彼女は立ち止まってこちらを見てきた。小柄で、痩せていて、少しきついけれど、バランスの整った顔立ちをした女の子だった。年齢は僕と同じくらいか、少し若いくらいか。その家に住んでいたのが、こんなに若い女の子だとは思っていなかった。父の話にあった、引きこもっているという娘のほうだろう。まあ、この時点でもう引きこもってはいないわけだけど。
 僕たちは見つめ合う。彼女の大きな目は、強い眼差しをもってこちらに向けられる。目力があるというのだろうか。ただ、それ以外に表情の変化はない。一分くらいそうしていたのだと思うけど、それはとても長い時間に感じられた。立ち去るか、そうでなければ何か言わなければならないと思ったけど、うまく足と口が動かない。
 彼女は彼女で、僕のことなど無視すればいいのに、じっとこちらを見てくる。次第に不思議そうな表情に変わる。それはそうだ。僕だって不思議だ。
 さらに一分くらい経って、僕はなぜかこんなことを言った。
「手伝いましょうか?」
 べつに手伝う義理なんかないし、知らない人だ。でもなんというか、合計二分くらい見つめ合って、引っ込みがつかなくなったのだ。こうなると、もう関わらないでいるのも難しい。
「いいです」
 少し間を置いてから、彼女は目を伏せ、ボソッとつぶやくように、返事をしてきた。こもって、聴きとりづらい声質だった。ああ、そうですかと立ち去れるならよかった。けどすでに、引っ込みのつかない状況なのだ、僕にとっては。
「でも雨が降ってるし、大変そうだし。ふたりでやればすぐですから」
「そうですか。なら、お願いします」
 やっぱり少し間を置いてから、彼女は答えた。僕が手伝う、手伝わないについて、そんなに強い執着はないようだった。なにごともなかったかのようにゴミ運びを再開する。
 僕は持っていた傘をたたみ、ビニール袋と一緒に地面へ置いた。雨はそれほど強くなかったけれど、それでもじわじわと、頭や顔や服を濡らしていく。運ぶにしても、早く済ませたほうがいい。
 僕は駐車場に積まれた大量のゴミ袋の前に立つ。ざっと数えた感じでは、三十袋くらい。その大半が、カップラーメンなどの容器か衣類だった。どういう経緯があれば、こういうゴミの内容になるのだろう。四十五リットルのゴミ袋を両手にひとつずつ持って、三十メートルほど離れたゴミ捨て場へ運んでいく。そこにはすでに、彼女が捨てたと思しきゴミ袋が積み上げられている。
 僕と彼女は無言で、きわめてオートマティックに、駐車場とゴミ捨て場を往復した。それが終わる頃には僕もすっかりずぶ濡れになってしまっていたけど、どんな種類のものであれ、労働が終わったあとにはちょっとした爽快感が残る。
 とはいえさすがに寒くなったので、傘とビニール袋を拾って帰ることにする。彼女に軽くお辞儀をすると、意外なことに彼女のほうは深いお辞儀を返してきた。
「ありがとうございました。お礼にお茶でもいかがですか?」
「いえ、そんな。好きでやったことですし。それにこのままお茶なんか飲んだら、風邪引いちゃいますよ。お互いに」
「それもそうか」
 普通に話せる。特に声が小さかったり、聞こえづらいということはなかった。最初は警戒していたからああなったのだろうか。
 この家のなかがどんな風になっているのか興味はあったけど、僕だって残念ながら、自分の健康のほうが大事だ。他の多くの人がそうであるように。
「だからこれで、失礼します」
「そうですか、それじゃ」
 彼女はもう一度軽くお辞儀をして、僕に背を向けて家のなかに入っていった。名前や連絡先を聞かれることもなく。もう二度と会うことはないと思っているのだろうか。たしかに、もう一度会う必要なんてどこにもない。
 僕は僕で「きれいな顔の子だったな」という印象は残ったものの、人の顔を覚えるのが苦手なので、その記憶さえすぐにぼんやりしはじめた。彼女が家のなかに消えていくのを見送ると、雨にまみれた服の冷たさを感じながら家路についた。

 そういう出来事があったことをアルバイト先で、同じ日の夜勤に入っていた根本さんに何気なく話した。根本さんは「うーん」と軽くうなったあと、なぜかわずかな微笑をもって、僕に言った。
「どうでもいいね、それ」
 そうなのだ。この人は自分のやっているネットゲームのこと以外は、どうでもいいのだ。だからこそ話した。たいしたことじゃない、ということを、改めて認識したかったのだ。あとは根本さんとのシフトだと決まって訪れる、話題に困る時間を埋めるため。
 僕より一歳上の根本さんは、長崎からわざわざ上京して、狭いアパートにお兄さんと住んでいる。東京で何かをするでもなく、バイト以外の時間をゲームに費やしている。基本的には明るくて親切な人なのだけど、彼の関心はいつもパソコンの画面に向かっていた。そのスタンスが一度大きく揺らいでいるのを見たのは、僕が何気なく、自分もそのゲームをやってみようかな、と言った日のことだ。次の日には自分がシフトに入っているわけでもないのに、ゲームの攻略本や資料を携えて店にやってきた。そこで僕と進藤さんに向かってゲームの魅力を力説した。そのときの顔は、あまりにもキラキラしていた。ああ、本当に好きなんだな、愛しているんだな、と思った。
 結局、途中で面倒臭くなった僕はそのゲームをはじめることはなかったのだけど、根本さんは少し残念そうにしていた。自分が愛しているものを理解されないことほど、寂しいことはない。申し訳なくはあった。
 そのことに対するささやかな復讐、というわけではないと思うけど、僕の提供する話題のほとんどに彼は興味を示さなかった。ただ、なんでかはわからないけど、逆にそれが心地よくもあった。この人は僕に興味がない。ということがわかると、それで話せることもある。
 雨だったので、やってくるお客さんはいつもより少ない。根本さんは特に熱中することもなく漫画を流し読みしながら、思い出したように僕の顔を見た。
「それは、恋愛的な話?」
「いや、たぶん違います」
「よかった。そんなん言われても、俺わかんないから。じゃあ何、めんどうくさかった話として言ったの?」
「そういうわけでもないんですけど。あれ、なんで話したんでしょうね?」
「知らないよ。知らないけど、それなら自分でもよくわからなかったから、話してみたんじゃない? そういうことって、あるよ。たぶんだけど。もう一回会ってみたら、これがなんの話かわかると思うよ」
「そうですかね」
 人に興味がないからか、根本さんはときどき客観的で鋭い意見を言う。その点では、僕は彼を信頼していた。彼がそう言うなら、そうなのかもしれない。
 まあ世の中には、どんな話にも分類されない、どうでもいい出来事というのはある。だから雨のなかで出会ったゴミ捨て少女のことも、僕にとってさして重要なことではないと思っていた。けれど、どうでもいい、というわけでもない。なんとなく、気になったのはたしかだった。
 それがなんだか気恥ずかしくて、僕は根本さんの好きそうな話題を向けてみる。といっても彼の場合、それはひとつしかないのだけど。
「どうですか最近、ゲームのほうは」
 これが間違いだった。彼は素早い動きで漫画を閉じると、怒濤の勢いで話しはじめた。いかにレベル上げが大変か、周りとのコミュニケーションが楽しいか、そしてしんどいか。厳しい敵に、どう立ち向かうか。それを聞いて僕は、まるで人生みたいだと思った。現実の世界でもレベルを上げるのは大変だし、周りとのコミュニケーションは楽しくてしんどいし、厳しい敵に立ち向かうのは難しい。案外ゲームというのも、奥が深い。
「最終的には、どういう姿勢で向き合うかなんだよ、なんでも」
 廃人一歩手前のような生活をしているくせに、根本さんはやけにまともなことを言った。
 たしかに、どういう姿勢で立ち向かうかだ。
 そういう意味では、僕はきちんとした姿勢で向かい合っているとは言えなかった。生きることと。自殺未遂をして、引きこもって、アルバイトをはじめて、それにも慣れてきたけれど、未だになんで生きているのか、どう生きていけばいいのかわからない。誰にも言えないまま、日々だけが過ぎていく。
 だからと言って、悩んでいてもしかたないことはわかっている。生きるように生きていくしかない。
 というようなことを、根本さんの話を聞きながら考えていた。彼の話は明け方、シフトの上がりの時間まで続いた。

 根本さんに言われたから、というと単純だけど、僕はもう一度彼女に会ってみたくなった。あるいは、風邪を引くリスクを冒してでも、お茶の誘いに応じるべきだったのかもしれない。もちろんこの時点で恋でもなかったし、友情を育みたいわけでもなかった。ただ、気になったのだ。あの廃墟みたいな家に住む人が、大量のゴミを捨て、ニコリともせずお茶に誘ってきた。それだけのトピックが、充分不自然で印象的だった。どんな人なのだろう、という好奇心と言ってもいい。
 とはいえ、そうそう思い通りにことが運ぶわけもなく、しばらくのあいだ彼女に会うことはなかった。会おうと思って会えるような関係でもない。今までより少し頻繁に彼女の家の前を通りかかったりしてみたけど、それもなんだかむなしいような気がしたので、あまり意識しないようにした。インターホンを押せばすむ問題かもしれない。けど、肝心の用事がなかった。
 一度きれいになってからは、駐車場にゴミ袋が溜まることはなかった。道路にはみ出た草木は相変わらずボウボウで、朽ち果てたベンツも朽ち果てたままだったけど、なんとなく、人の住んでいる気配は醸し出していた。廃墟っぽさは残っていたのだけど、以前ほど煤けた感じは受けなくなった。僕がその家に、人が住んでいるのを知ったからというだけかもしれないけれど。
 彼女と再会したのは、季節が巡ろうとしている秋の終わり頃だった。
 煙草を買いに行った、彼女の家に近いコンビニでのことだ。考えてみれば彼女の家からも一番近いコンビニはそこなわけで、ほぼ二日に一回は買い物に行く僕と会う確率は決して低くない。彼女がコンビニを使う人間かどうかはわからなかったけど、もし使う人間だとしたら、今まで会わなかったのが不思議なくらいだ。
 僕が店のなかに入って商品を物色しようとしてうろうろしていると、彼女は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しているところだった。記憶のなかの顔がすでにぼんやりしていたせいで、一瞬誰だかわからなかった。間を置いて彼女だと思い出したとき、思わず声が出た。
「あ」
 彼女は僕のほうを振り返る。彼女は彼女で僕の顔を忘れているようで、わずかに首をかしげる。その目には警戒している光がある。
「あの、ゴミ出しのときの」
 そう言うと、彼女は僕を警戒したまま少し考え込んだあと、首を元の位置に戻し、つぶやくように言った。
「ああ」
 思い出したことに対して、特に興味はないようだった。表情が変わらない。それでも、軽く頭を下げてきた。
「その節はありがとうございました。助かりました」
「どうしたしまして。大丈夫でしたか?」
「何がですか?」
「その、風邪とかひかなかったかなと思って。雨だったし」
 彼女はこくりとうなずいた。それからもう一度頭を下げて、ペットボトルのコーナーを離れレジに向かった。それで会話が終了したと思った僕は、なんだかちょっと残念な気持ちを抱えたままカップラーメンと煙草を買い、店を出た。出たところで、彼女が待っていた。表情を変えないまま、彼女は言った。
「今日はどうですか? お茶」
 以前会ったときに応じられなかったお茶の誘いを、改めてしているのだ。彼女の思考回路がよくわからない。全然楽しくなさそうにお茶に誘ってくる人間を(そもそもお茶に誘われること自体が少ないとはいえ)はじめて見た。
 その日は休日で、特に予定もなかった。そうでなくても、一度話してみたかった相手に話すチャンスを与えられて、断る理由がない。僕は喜んで応じた。
 すると彼女は僕に背中を向けて、すたすたと歩きはじめた。それなりに速い。自然とその背中を追いかけるかたちになる。方向から言って、まず間違いなく彼女の家に向かっているのだろう。実際その通りで、三分も歩いたところで彼女の家に着いた。地面が落ち葉で埋まった駐車場を通り過ぎて、奥の玄関へ行く。彼女は鍵を取り出して、扉を開けた。それから「どうぞ」と言うように、ようやくこちらを振り返った。
「お邪魔します」
 おそるおそる玄関に足を踏み入れ、靴を脱ぐ。少しドキドキしていた。はじめてこの家を見たとき、まさか自分がそのなかで入ることになるとは思ってもみなかった。
 果たしてどんなものが飛び出してくるのだろう、と心配していたが、意外にも玄関から廊下、リビングまでの空間はきっちり片付けられていた。というか、最低限の家具が置いてあるだけで、余計なものがほとんどなかった。廃墟みたいな外観、ボロボロの車、うち捨てられていたゴミ袋、そのイメージから、正直もっと汚く散らかっていると思っていた。
 というようなことを素直に彼女へ伝えると、こともなげに返事をした。
「片づけたから」
 僕が来るから、という意味ではないだろう。再会するかどうかさえわからなかったのだから。とすると、彼女が自主的に片付けたのだ。そこにどんな事情や理由があるのかはわからないけど、彼女の家には余計なものがない、という事実だけが残った。
 お茶をするだけなら(駅前に出なければならないけど)喫茶店でこと足りる。わざわざこの家でするということは、こないだのやり直し、という意味合いがあるのだろうか。自宅に(ほとんど)知らない若い男を上げるというのは、やや不自然な気もする。
 彼女にすすめられるままに、リビングのテーブルにある椅子に腰をおろした。オープンキッチンの向こう側では、彼女がお湯を沸かしている。僕と彼女の距離はおおよそ二メートルほどで、話ができない距離ではない。
「お礼をしなきゃいけない、と思ってました」
 火にかかったやかんをぼんやりと見つめながら、彼女は言った。
「私、人に助けてもらったのってはじめてで。というか、家族以外の人と話したのもすごく久しぶりで。お礼はしたいし、でもうまく話せないし、名前も連絡先も知らないし。どうしたらいいか困ってました」
「そんな、お礼とかはいいですけど。でも僕も、もう一度会ってみたいと思っていました。でも、ほとんど初対面の男を家に上げるっていうのは不用心じゃないですか? 上がっておいて言うのもなんですけど」
 僕はさっき気になったことを言う。彼女は、うーん、とうなったあと、少し言いづらそうに返事をした。
「たとえば駅前に出たりすれば、いい店があるのかもしれませんけど。人の多いところは苦手なんです、まだ」
「まだ?」
「そう、まだ」
 人の多いところが苦手、というのはわかる。そういう人だってなかにはいるし、僕だってどちらかと言えば得意なほうではない。けど、彼女は「まだ」と言った。その意味がよくわからなくて、僕は首をかしげる。
 そこで、父から聞いた噂話を思い出した。
「引きこもりだったから?」
 僕が言うと、彼女はこくんとうなずいた。コンビニの前でもやっていた。こんなときになんだけれど、かわいい仕草だと僕は思った。
 お湯が沸いた。彼女は僕に、緑茶と紅茶とコーヒー、どれがいいかと聞いてきた。なので、コーヒーと答えた。彼女はコンビニで買ったのであろう一杯使い切りのドリップパックを開けてコーヒーカップにセットし、その上からお湯をそそぎはじめた。二杯分。
「うちのことをご存じですか?」
「噂程度なら」
 丁寧な手つきでお湯をそそぎ、コーヒーカップからはうっすらとした湯気がたちのぼる。インスタント以外のコーヒーを飲むのは久しぶりで、僕はそれだけでも胸が高鳴った。過剰な期待をしてはいけないのだろうけど、少し楽しみだ。
「噂話なんかじゃ、あてにならないでしょうね」
「でも実際にあなたはここにいて、実際に引きこもっていた。それは噂通りでしたよ」
「正確に言うと、引きこもりというのとはちょっと違うかもしれません」
 二杯のコーヒーが完成し、彼女はそれをコーヒーをトレイに載せてテーブルまで持ってきた。上に載せるともう一度キッチンに戻って、今度はクッキーなどの焼き菓子が載ったお茶うけの皿を持ってきた。
「どうぞ。でもよかったです」
「なにが?」
「うちにはコーヒーしかなくて。緑茶や紅茶って言われたら、どうしようかと」
「それなら聞かなきゃいいのに」
 この時点で彼女はまったく未知の人間だったけれど、とりあえずコーヒー党だということはわかった。大きいのか小さいのかよくわからない前進だった。
 彼女は僕に名前を聞いてきた。答えると、今度は名前だけでなく、色んなことを質問してくる。僕はおおむね嘘をつかずにそれらの質問に答えていった。コンビニで働いていること、休みは不定期であること、特技はいつでも眠れていつでも起きられること、趣味は散歩。近くの一軒家に住んでいること、など。
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