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プラスチック・シュガー

 明日は日曜日なので、明日のうちに黒く染め直してくるように、という指令を受けた万記絵はうつむいて、今日限りの茶髪をもったいなさそうにいじくっている。前菜が運ばれてきて、それぞれが思い思いに取り分け、食べはじめる。万記絵は顔をあげて、言った。
「どうして誰も怒らないの?」
「怒られるようなことをしたの?」
 母が言った。
「してない」
「じゃあ、怒りようがないでしょ。お疲れさま」
 万記絵はうっすらと目に涙を溜めてから、蒸し鶏とくらげにかじりつく。何度か来たことのある店で、味がいいのは前から知っている。僕も万記絵に対してなにか思うでもなく、無心に前菜にありついていた。
「私はママみたいなデザイナーになりたいの。だからやったことないことを、いろいろ試してみたいの」
 と、万記絵が口にする。食事の箸を止めて、大きく息を吸ってからのことだった。前から思っていたことなのかもしれない。それでも、改めて口に出すのは勇気のいることだったのだろう。母はなにごともなかったかのように煙草に火をつける。この人は食事中だろうがなんだろうが、吸いたくなったらいつでも煙草を吸う。深く息を吸って、思いっきり吐き出してから、万記絵に向かって微笑んだ。
「好きにすればいいじゃない、あなたの人生なんだから。ただ、悪いことはバレないようにやりなさい。自分の夢を追いかける自由と、誰かに迷惑をかける自由は同じじゃないから。万記絵が人に迷惑をかけずに夢を追う気になったら、私の下で修行しなさい」
 基本的にデザイナーは、大学なり専門学校に通って技術と知識を習得してから誰かしら師匠についてキャリアをスタートさせる。らしい。ただ、まれに(母自身がそうだったのだけれど)そういった下積みを経ないで名を成す人もいる。意外と保守的なところのある万記絵は少し渋ったけど、「学校で教わるようなことは、現場でも覚えられるわよ」という母の一言によって、万記絵の高校卒業後の進路が決まった。
「いいんじゃないかな、うん。万記絵は万記絵のやりたいことやれば」
 父も特に反対したりはしない。もちろん僕にも、けちをつける理由がない。万記絵はすっきりとした表情で食事を再開した。人間、悩みとかの感情と食欲はけっこう比例するものだな、と思う。
 前菜が片付いて、エビチリだの酢豚だのメインディッシュが運ばれてくる。僕たちは母の仕事の愚痴や、父の町内会の愚痴を肴に食事を進めていく。愚痴が肴では食事はあまり美味しくなさそうなものだけど、ふたりともユーモアを交えて話してくれるので、それほど重苦しい雰囲気にはならなかった。むしろ箸を握ったまま笑うシーンのほうが多い。
「豊はなにかないの? したいこと」
 話の区切りがいいところで、母が唐突に聞いてきた。
「したいことって言ってもね。しいて言えば、まっとうに生きていけるようになりたい」
「それはもう、生きていってるじゃないの。アルバイトして、自分のお金で生活してるでしょ? そういうのじゃなくて、進路というかさ。今のお店に就職するの?」
 それはできない。できないけど、少し考えなければいけないことがあった。
 進藤さんのライブをすっぽかし、トロと会わなくなってからの決して長くはない日々のなかで、吉川さんからひとつの話をもらった。大田区を中心にスリーマートを経営しているオーナーが四号店を出すにあたって、新しい店長を探している。まだ若いけれど仕事はできるし、本部としてはナギを推薦したい、という話だった。
 もちろん光栄だった。自分なりに一生懸命働いてきたことを評価してもらったのだし、基準がわからなかったけど条件だってそう悪くないように見えた。
 ただ、躊躇する要素もある。同じ都内とはいえ、距離的に自宅からの通勤が難しいこと。まして店長ともなれば、かなりの時間を店で過ごすことになることは、吉川さんを見ていればわかる。それ嫌というわけではないけれど、覚悟のいることだった。うちを出て、店から近いところにアパートを借り、新しい生活をはじめる。まったく実家に帰ってこられないほどの遠さでもない。吉川さんや進藤さんには、会おうと思えば会えるだろう。そしてなにより、そうなれば僕にとっては前進だ。間違いなく。
 僕にとって新しい世界を持つということは、今までの世界を捨てるということだ。過去との訣別、と言ってもいい。すべてではないにしろ、なにかしら失うものがあるはずだからだ。今までの学校生活や、成瀬夏美とのことや、アルバイトのこと、家族のこと、トロのこと、そういうものにひとつの区切りをつけなければならない。そんなことをしたことがないから、僕はおそろしかった。
 僕は、迷っている。
 ということを、事情を交えながら母に説明した。
「ふーん」
 母はなぜだかニヤニヤしながら僕の話を聞いていた。父にも話していなかったので、驚きながら聞いている。万記絵は興味がないのか、黙々と酢豚を口に運んでいた。
「だいぶ立ち直ったんだね、豊は」
 母は言った。
 また煙草に火をつける。僕たちもけっこう吸うほうだけれど、この母ほどじゃない。あまり頻繁に吸うので、かなり広い店内なのに、このテーブルの周りだけ煙の白い膜ができたようになっている。
「ああいうことがあって、というかバカなことしでかして、それからずっと生きるの死ぬのって顔をしていたじゃない。いつだって深刻そうにさ。でも今は、生きることに意識が向いてる。きっといい時間の過ごしかたをしてきたんだろうね」
 そうなのかな、と思う。そうかもしれない。
「僕は、前に進みたいんだ」
 今は。いつのまにか、それが僕の本心になっていた。もちろん自分のため。そして、大丈夫になった姿を見てもらいたい人がいる。
 母はニヤニヤした笑いを引っ込めて、僕の顔を見た。さすがにその道で成功しているクリエイターだから、真剣になった顔にはどこか凄みがある。
「でも迷っているってことは、なにをするのが前に進むことなのかわかっていないんでしょう。好きにしたらいいと思うけど、やりたくないことをやるのが前に進むことではないからね。そこんとこ間違えないように。お父さんはどう思う?」
 急に話を振られたので、エビチリを食べていた父はむせた。盛大に唾を飛ばしたあと、なにくわぬ顔で紙ナプキンを手に取り、口の周りを拭く。
「豊のやりたいようにやればいいと思うよ。お父さんは味方だから」
 なんてありがたい人たちだろう。
 と僕は思った。万記絵を見ると、まだ酢豚をほおばりながら、わずかにこちらへ向いてうなずいた。根拠はないけれど、これなら僕は大丈夫。そう思った。もし失敗しても、またやり直すことができる。いろんな人に助けられて。
 いい雰囲気のなか食事が終わり、デザートの杏仁豆腐をつついているとき、唐突に母が言った。
「豊は、好きな人でもできたの?」
「なんで、急に?」
「豊って本来、後ろ向きな人間だから。前に進みたいって言い出すとしたら、恋でもしてなきゃおかしいなって思って」
 鋭い、と言えばいいのかなんなのか。僕は返答につまった。今、胸のうちにある感情を、なんと呼べばいいのか。
「よくわからないんだ、そのへん、自分でも」
「まあ、そんなこともあるわよね」
「母さんにもあった?」
「そりゃあ、そんなことの二十や三十」
「桁が多い気がするんだけど」
「わかったら教えてね」
 わかったら真っ先に教えるよ、と言って、残っていた杏仁豆腐を一気に平らげる。母も食べ終わると、一足先に煙草に火をつける。父もつづいたので、僕もそれにならった。何かの儀式のようだった。僕らの円卓の上に、白い煙が立ちこめる。万記絵は年齢的な意味でも外見的な意味でも外で煙草が吸えないので、不満顔だ。
「現実はきびしく私たちは若いけれど要求は唐突で思い切るという手もあるかもしれない」という、めちゃくちゃ長いタイトルの戯曲がある。たまたま手にとった戯曲の雑誌に載っていたのを読んだことがあった。言いたいことをすべてタイトルで言ってしまっている鈴江俊郎のこの本は、しかしそのタイトルだけで勇気づけられる。
 僕はまだ若く、現実は厳しい。そして要求はいつも唐突。そんななかで僕たちには、思い切るという手もある。というか、思い切るしか手がない。いつだって、思い切るしかないのだ。それか、あきらめるか。
 あきらめたくないのなら、思い切るしかない。デザートのあとの煙草を吸い終わるまでに、僕は決心をしようと思った。

「海を見に行かない?」
 門の前に立って、インターホンを鳴らし、二分ほど待って、出てきたトロに向かって僕はそう言った。
 母たちとの食事会から、三日が経っていた。アルバイトに勤しんだり、吉川さんに店長のお誘いに対する返事をしたり。なかなか都合がつかなかったのだけど、夜勤のシフトを根本さんに代わってもらって時間を作った。朝の散歩を一緒にしなくても、きっとトロはその時間には起きているだろう、と思った。そして来てみたら、果たしてその通りだった。彼女は眠たいのか怒っているのかいつにもまして無表情で、そのことに僕は少しだけ不安を覚えたけれど、目はそらさなかった。
「なかなか勝手な言い分だね。散歩の約束を黙ってすっぽかして、そのまま私を放置していた人が」
 やっぱり怒っているようだった。それはそうだ。あの日、僕が「死のうとしたことがあるんだ」と言った日、トロは僕の話を聞いて「そう」としか言わなかった。べつに拒絶でもなんでもなかったのに、僕のほうが拒絶してしまった。いつもの散歩の時間にトロの家に行かなかった。それが何日もつづいて、現在に至る。トロはそのあいだ、ずっと用意をしていたのだろう。そして僕(とキャスパー)を待っていたのだろう。表情からは読みとりづらいけれど、僕にはトロが怒っているのが、そしてちょっと喜んでいるのがわかる。
「今から、電車に乗って?」
 トロは言った。
「今から、電車に乗って。まだこの時間なら、電車は空いてるよ」
「乗れないかもしれないよ、私」
「それだったら、こないだの喫茶店でもいい。ここから少し離れたところに行って、話をしよう」
「ねえ、前に私を『海には誘わない』って言ってたよね?」
「言ったかもしれない。今のところは、って」
「それで、どういう意味があって今、私を誘うの?」
「そういう意味だよ」
 この時点で、僕はすでに思い切っていた。もしかしたら、これが最後になるかもしれないとも思っていた、トロとの。僕は一度彼女を拒絶してしまったのだから、今度は彼女に僕を拒絶する権利がある。ただ、終わりにするなら、それなりの終わりかたがあるだろう。最後になるなら、お互いに少しでも前に進んだ場所で最後にしたかった。つまり、ここよりも少し離れたところで。
 トロは僕の言った「そういう意味」という言葉のそういう意味について、自分なりに咀嚼しているようだった。久しぶりに、彼女の眉間に皺が寄っているのを見た。腕を組んでいる。彼女が着ていたのは動きやすい白のカーゴパンツと、スカイブルーの半袖ブラウス。もうすぐ夏になる、その気配を感じさせる服装だった。相変わらず整っている顔立ちからはちょっとした苦悩がうかがえる。僕は開かれていない門の外から、じっとその様子を眺めていた。やがてトロは腕組みを解いて、いつもの雰囲気に戻る。
「朝ご飯くらい、ゆっくり食べていきたいところだけど」
「いいけど、それだと電車が混みはじめるよ」
「そしたら、また空く時間までここで過ごしましょう」
 海に行くこと自体は了承してくれたらしい。トロはなにごともなかったように僕を家に招き入れた。家のなかに入りながら、また少し周りの草木が伸びているのが気になる。そろそろ手入れをしなければならないだろうか。いや、そもそも僕がしなければならないのだろうか。お金を出せばやってくれる業者はいるし、彼女が前に進みはじめているのなら、ことさら僕が親切にする必要はないのかもしれない。ひとりでもう、できるはずだ。ただ彼女の事情はどうあれ、僕が彼女に優しくしたいと思う気持ちは罪でもないと思う。
 こないだまでと同じように、コーヒーとトーストをご馳走になった。食事のあいだ、僕らは少しも口をきかなかった。お互いに元々会話で盛り上がる性格でもない。それでも、ポツポツと思い出したように話題が出てくることもある。
 トロは進藤さんのライブに行けなかったことについて改めて残念がり、彼がトロに会いたがっていることを伝えると「私も直接謝りにいきない、いつか」と答えた。会話らしい会話といえば、それくらいだろうか。
 トーストを食べ終わり、二杯目のコーヒーを飲み終わろうとしているところで、トロは唐突に言った。
「時間もあるし、私の部屋でも見てみる?」
 もちろんトロの部屋に入ったことなんてなくて、この家に来ればいつもリビングで過ごしていた。特に見てみたいとも思わなかったし、彼女も見せようとは思っていなかっただろう。それが、このタイミングでこんなことを言い出す。そこにはどんな意味があるのか。
 驚きはしたけど、断る理由もなかった。先導するトロに従って、二階に上がり、すぐ目の前にあった部屋に入る。女の子特有の、あるいはトロ特有の甘い体臭がかすかに匂った。そして、彼女の部屋はまるで子ども部屋だった。
 トロ自身が小柄だとはいえ、それでも明らかにサイズの合わない子ども用のベッド。その上や、壁にはおびただしい数のぬいぐるみが並べられている。部屋の隅に置いてある白い勉強机は小学生用のものだろう。実際その頃から使っているのか、子どもっぽいシールや小さな落書きが引き出しや天板に散らばっている。その机から少し離れた床に直置きされた、そこだけ異質に感じられる黒いノートパソコン。
「本棚は、お父さんとお母さんのだった部屋にあるやつを使ってるの」
 ノートパソコンの横には、四、五枚のCDケースが無造作に縦積みされている。子どものイメージが強い内装と、そこに暮らしている十八歳のトロ。そのちぐはぐな感じ。僕はわけがわからなくなって、尻込みしてしまう。
 座って、とトロは言った。言われた通りにする。彼女も僕の向かいに座って、それから見たこともない、すっきりとした笑顔を見せた。
「お母さんは、ずっと私に子どもでいてほしかったのね。どんなにお願いしても大きいベッドは買ってもらえなかったし、ぬいぐるみを片づけることも許してくれなかった。このぬいぐるみの並び、ぜんぶお母さんが決めたのよ。監禁される前の話だけど」
 ずっと昔から。僕の思っていたよりずっと昔から、トロはお母さんに支配されていたのだ。ここで僕はわかった。彼女は、その事実を僕に見せるためにこの部屋に呼んだということを。
「監禁されてからどれくらい経った頃だったか、お母さんが私に、欲しいものをひとつだけ買ってあげる、って言ったの。私は迷わずに、パソコンが欲しいって答えた。それがあれば、少しでも外の世界と繋がっていられると思ったから。そんな簡単でもなかったけどね。円相場を見てたのは、お父さんがよく見てたから。意外と面白かったからよかったけど、やっぱり変だよね。ベッドは狭すぎるから、丸まって寝るの。しんどいとかはないよ、だってずっとそうしてきたから。でもよかった、見せられて」
「見せたかったの?」
「というか、見せられなかったの。いつか見て欲しいと思いながら。私の内側にあるもの。一階はね、ぜんぶ片づけてきれいにしたの。手伝ってもらったもんね。でも二階は、この部屋とお父さんお母さんの部屋だけは、お母さんが死んでからそのまんま。なんでだろうね、自分でもわからないんだけど」
 そう言って、今度は暗い表情になる。今までとは打って変わって、表情の豊かな人間に見えた。そのことに心のなかで驚く。
「忘れたくないんでしょ」
 僕は何気なく言った。何気なく言ったのだけれど、トロは驚いたような表情をする。
「ここにあるものまで捨てたら、そのうちぜんぶ忘れてしまうから。ものって思い出だもんね。トロの生きてきた環境がどれだけいびつなのかはわからないけど、それでもトロなりに、お父さんやお母さんを愛していたのはわかるよ。このぬいぐるみは、お母さんとトロにとってのバリケードなんでしょ。厳しい現実から、自分たちを守る」
「そうなのかな。私は、忘れたくないのかな?」
「どっちでもいいと思うよ、そんなに変わらないし。忘れていいことは忘れられるし、忘れられないものは忘れちゃいけないことだ。それはこの先の時間が教えてくれるよ。前に進みたいんでしょ?」
「うん」
「僕もだよ」
 トロは今度は、いきなり目に涙を溜めはじめた。と思ったら、それを流しはじめた。透明な液体が頬を伝う。表情は変わらない。だから、これが悲しみなのか喜びなのかそれ以外の感情なのかはわからない。たぶん本人もわかっていないんだろう。
 泣かせるにまかせておいた。というか、僕にできることはそれ以外になかった。トロの表情が乏しいのは、意識的に(あるいは無意識的に)自分の内側を見せないようにするための防御策だったのだろうな、と思った。本来は、笑ったり驚いたり、泣いたりできる人なのだろう。ただ、これだけの時間が必要だったのだ。
 意外なことに、トロはそれから一時間以上泣きつづけた。声も出さず、表情も変えず。僕は一階のリビングにティッシュがあったことを思い出し、一度下りてそれをとってきた以外は彼女の目の前で彼女が泣くのを見届けた。僕から受け取ったティッシュで彼女は定期的に頬を拭い、それ以外はきわめて機械的に泣いていた。泣くことで、自分のなかで留保していた情報を処理しているように見える。前に進むには、こういう方法もあるのか、と密かに僕は感心した。
「豊くんが自分のことを話してくれたから。だから私も、この部屋を見せることができた」
 いつ終わったのかわからない静かな号泣のあとで、トロは言った。
「なんのこと?」
「死のうとしたことがある、って言ったこと。あれは、私を信頼してくれたんでしょ? 内容はもう、私にはどうすることもできないから。だから、そう、って言った。まさかそれで会いにこなくなるとは思わなかったけど」
「本当に申し訳ございませんでした」
「そんなことはいいのよ、結局会いにきてくれたから。それで、だから私も、今度会ったらこの部屋を見せようと思ったの。で、お願いしようと思って」
「なにを?」
「片づけるのを手伝ってほしいって。片づけても、大丈夫だと思う? 私。これから先、生きていけると思う?」
「思う。大丈夫だよ、それは」
「って、言ってほしかったの。『大丈夫、これはプラスチックじゃないよ、砂糖だよ』って」
「うん。トロが僕にそうなって欲しいなら、僕はそうなる努力をするよ。できる限り」
「ありがとう」
「とは言っても、僕が大丈夫って言えることってそんなにないんだけど」
「大丈夫、これから増えていくから」
「って、トロも言ってくれるのか」
「そういうのって、悪くないと思わない?」
 思う。僕たちが生きていかなくてはいけない、この世界はあまりにしんどい。しんどくて、ときどき生きていく自信を失くす。そんなとき、大丈夫、と言ってくれる人が必要なのだ。どうにかこうにか生きていくためには。あるいは、プラスチックを砂糖と間違えて飲んでしまうときもあるかもしれない。かもしれない、というよりそんなことばっかりだろう。そこでまた、大丈夫、と言ってくれる人が必要になる。僕らはお互いに、そういう存在になれるかもしれない、とトロは言っているのだ。たしかに、悪くない。
「僕は、生きている価値のない人間なんだと思ってた。今でもちょっと思ってる。だから死のうとしたし、今もどう生きていいのかわからない。トロに必要とされることで、生きていてもいいと思えるのなら、僕にとってそれは大きなことなんだ」
「うん、大丈夫。生きて。生きていいよ」
 と、言ってほしかった。誰かに。ずいぶんわがっままで、不躾で、みっともない願いだったけれど、僕はそこで、はじめて生きていることを許されたような気がした。ただ、それは長い長い時間を、決意と共に過ごしていくということだ。死ねと言われて死ぬほうが、
きっと全然楽だろう。でも、僕は生きていることを許されたかった。できれば、トロに。その願いは、とりあえず叶ったことになる。とりあえずというのは、先のことなんか誰にもわからないからだ。誰かに許されつづけるというのは、簡単なことではない。
 泣こうと思えば、泣けた。そうしてもよかったのだけれど、そろそろいい時間になっていた。朝の通勤ラッシュが終わり、再び電車が空きはじめる頃合いだ。このままここで話をして、過去を整理するのもありだと思う。けれどそれで一日を終えるには、僕らはまだあまりに若い。
「行こう」
 トロが簡単に準備を終えるのを待って、家から出発する。一度来た道だからか、彼女の足取りは前回より軽かった。駅に着く。計ったら、十六分。なかなかいいタイムだ。
 江ノ島までの切符を買って、ホームで電車を待つ。待っているあいだ、トロが僕の袖をにぎり、少しだけ引いた。彼女と触れあうのはそれがはじめてだった。
 電車がくる。ドアが閉まるギリギリのタイミングで、トロは電車に乗った。電車が走り出す。海に着いたら、これからの話をするのだ。
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