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プラスチック・シュガー

 僕が薬を大量に飲んで自殺未遂をしたとき、彼女は僕の入院している病院に来ることはなかった。自分でバカなことをやっておきながら、僕はそのことに怒っていた。僕のことを大事に思っているのなら、病院にだって来るはずだと。一週間の入院のあと、退院してまず彼女に連絡をとった。それはほとんど言いがかりに近いメールだった。なぜ来なかったのか。もう僕のことなんかどうでもいいのか。今思い出しても恥ずかしい内容だけれど、僕はそれを彼女にぶつけてしまった。彼女は返事をくれた。まず謝られた。本当は病院に行きたかったのだと。でもどんな顔をすればいいのかわからなかったのだと。今なら、それで納得できる。恋人が死のうとしたことは、彼女にとっても辛い出来事のはずだった。けれどあの頃の僕は、自分のことしか考えられなかった。見舞いにも来てくれない彼女をなじり、もう会いたくないと告げ、彼女が「わかった」と返事をすると、急に謝ってもう一度会いたいと言ったりした。自分でもわけがわからない。
 結果として、僕らがその後会うことはなかった。いつまでも現実と向き合おうとしない僕に成瀬夏美は愛想を尽かし、別れを告げた。僕は捨てられることに大きな恐怖心があったから、かなり食い下がった。けれど彼女の考えは変わらなかった。僕はあきらめるしかなくて、それ以来連絡もとれず、時間だけが経つ。今となっては、彼女がなにをしているのかも知らない。大学に進んで、なにかしらの部活に入ったということは今わかったけれど。
 あの日々の終わりかたを指して、成瀬夏美は自分を恨んでいるか聞いていた。僕は僕で、彼女にひどいことをしてしまった罪悪感をずっと抱えて生きてきた。お互いにあったのだ、罪悪感は。そのことに気づく。
「同じことを、僕も思ってたよ」
「草薙くんも?」
 成瀬夏美は驚いた表情をする。やっぱり、心底驚いているように見える。それを見て、僕は彼女が演劇をつづけているような気がした。どこか表現が過剰というか、わかりやすすぎるのだ。
「なんで僕が恨んでいると思ったの?」
「あのとき、草薙くんを助けられなかったから」
「それは違うよ。あんなの夏美さんにはどうしようもなくて、僕が自分で立ち直らなきゃいけなかったのに、僕は夏美さんに甘えたんだ。あの頃、夏美さんは言ったよ。『草薙くんは、私に逃げてる』って」
「たしかに言った。そう思ったし」
「実際そうだったんだよ。何をどうしていいかわからなくて、とりあえず手近にいる夏美さんに甘えた。それでどうしようもなくなって死のうとして、失敗して。それだけでも充分バカバカしいのに、さらにやつあたりしたりして。ひどいことをした。だから、僕が悪い。恨まれてもしかたないと思ってた。傷つけてしまったから」
「そんなこと」
 ないよ、と言いかけて、成瀬夏美はやめた。だってそんなことなくはないからだ。彼女は僕の知らないところでたくさん泣いたのかもしれない。それは想像するのに難くない。
「でもどこかで、僕の知らないところで、夏美さんが幸せになっててくれればいいとずっと思ってた。まさかこんなところへ泣きにくるとは思ってなかったけど」
「べつに泣きにきたんじゃないよ。考えごとしようと思っただけ。でもそうね、私も同じことを思ってた。もう私にはどうすることもできないけど、草薙くんが幸せになってくれたらいいなって。あとできれば、長生きして欲しいなって」
 成瀬夏美は笑った。あの頃みたいな満面の笑みではなく、どこか寂しげで、大人びた笑顔。お互いに、少しは大人になったのかもしれない。今なら、彼女を大事にできる気がした。
「もしどうしていいかわからないなら、僕のところに戻ってこない?」
 それで、言ってはいけないことを口にしてしまう。
 成瀬夏美の表情はみるみるうちに曇っていき、最後には小さな溜め息をついた。
「そういうことじゃないでしょ。もうあの頃には戻れないんだよ、草薙くん。思い出を現在と錯覚するなんて、みっともないよ」
 返す言葉がなかった。僕は恥ずかしくなって、彼女から目をそらす。
「なんてね。私だってそれ、今まで考えなかったわけじゃないよ。今会って、こうやって話して、そのことを思い出さなかったわけでもない。でも、私たちいい加減、前に進まなきゃ」
 僕は彼女の顔を見る。たぶん、僕はまだ、成瀬夏美のことを好きだったのだと思う。正確には、好きだった頃の幻影を追っていたのだと思う。ちゃんと終わりにすることができなかったから。最後に会って、こうして目を見て、さよならと言うことができなかったから。それはもしかしたら、彼女も一緒なのかもしれない。僕はみっともないことを言った。そして彼女も、みっともないことを考えていた。
 それでも、前に進まなきゃ。成瀬夏美は言った。僕は素直に、その言葉を受け入れられた。今の僕の世界や、トロの存在がそうさせたのだろうと思う。
 僕はうなずき、彼女も強くうなずき返した。それで、決定的に何かが終わったわけではない。あの頃の別れを、今できるわけでもない。ただ、その後悔に似た思いを抱えながら、前に進むしかない。
 視線で分かり合うこともあるのだな、と僕は思った。
「ねえ夏美さん、こういうとき、握手かなんかしたほうがいいのかな?」
「連絡先を交換したり?」
「そうそう」
「しないほうがかっこいいよね」
「うん、僕もそう思う」
 そう思ったから、僕らはここで別れることにした。もう少しここに残って考えごとをするという成瀬夏美を残して、僕は海岸をあとにする。せめてもの挨拶として、お互いに手を振った。結局自分の考えごとはできなかったけど、なんだかすっきりした気持ちになった。というか、考えたかったことが成瀬夏美のおかげでまとまった。
 たぶん恋というのは、きちんと終わらせなければ、またはじめることもできないのだ。
 なんていうことを考えながら帰りの電車に揺られ、今夜も夜勤をがんばろうと思う。

 進藤さんのライブに誘われたのは、彼がまた新しいCDを作った春の終わりのことだった。ライブはたいてい新宿か池袋、あるいは下北沢で行われるけど、うちから近い下北沢で行われるときに、進藤さんは僕を誘ってくれる。
 僕はいつも通り進藤さんからCDを五百円で買って、店のバックルームにあるCDプレーヤーで流していた。進藤さんは漫画を読みながら、僕の反応をうかがっている。相変わらず進藤さんのベースには疾走感があり、相変わらずボーカルの声はちょっと不快だった。ライブハウスではそれなりに人気を集めながらそこから先へ進めないのは、このボーカルのせいなのではないかと思う。言わないけど。
「いいですね」
 進藤さんのベースに限って、とも言わない。ただ、いいですねと言う。大人の対応。彼は僕の感想を聞くとホッとした顔をした。それで曲の説明をしてくれる。この曲は自分の家でゲームをしているときにふと思いついたんだ。この曲は根本くんの生活がテーマなんだ。あの根本さんの生活をテーマに曲を作れる感性はすごいなと思った。
 そして夜勤明け、ライブに誘われたことをトロに話した。あれからトロとは相変わらず朝の散歩で会い、つまらない話をしたり、黙って歩いたりしていた。関係には発展も変化も劣化もないままだ。僕は何をするにも時間がかかる。
 どうせダメだろうなと思いつつ、一緒に行くか聞いてみた。予想に反して、彼女は乗り気だった。
「行ってみようかな」
 トロの思考回路、というか信念にどういうきっかけがあったのか。僕はごく控えめに言って、とても驚いた。自分で聞いておいて。もちろん下北沢に行くには、十分以上かけて駅前まで歩いていかなければならないだけでなく、電車に乗って移動する必要がある。十分しか外にいられないちょっと長めのウルトラマンみたいなやつが、急にどうしたというのだろう。
 暑い季節に近づいていくにしたがって、空はちょっとずつ低くなっていく。雲が僕たちに迫る。その空のした、いつものコースをたどって古民家園に着く。キャスパーは散歩になるといつでもはしゃいでいる。リードはいつもトロが持つのだけれど、彼女のことをぐいぐい引っ張っていこうとする。トロはトロでほとんどキャスパーの行くがままに任せているから、歩くスピードはかなり速い。疲れてしまうほどではないのだけど。
 トロは一軒の古民家の縁側に腰をおろした。もちろん本当は、勝手に縁側に座ったりしてはいけない。のだけど、相変わらず管理人は管理人室で眠りこけている。促されて、僕もトロの隣に座った。キャスパーは息があがっていた。あがっているのに、リードの届く範囲でうろうろ歩いている。
「だいぶ外の世界になれてきたと思うの」
 トロは言った。
「豊くんとキャスパーと毎朝散歩に出るようになって、日常的に外に出られるようになった。それについては感謝してるのよ、本当に。それで、欲が出てきたって言うと変なんだけど、もっと先があるような気がしてきたのね。つまり、もっと遠くへ行けるんじゃないかっていう。今の生活にもの足りなくなってきた、って言えばいいのかな。少しずつでも、前に進みたい」
 僕の知らないところで、トロも考えている。あたりまえのことだ。それでもいつのまにか、彼女がそういう建設的な考えかたをもつようになったのは意外だった。こないだまで、このままでいいと言っていたのに。それが僕(とキャスパー)の存在によるものなのだとしたら、誇ってもいいことだ。けど僕は、なんとなく複雑な気持ちになった。複雑というのは、たぶんだけれど自分が同じようなところをぐるぐるしているあいだに、トロがさっさと前に進もうとしていることに対する戸惑いみたいなものだ。
「無理してるんじゃなくて?」
 僕は聞いた。
 トロは黙って首を横に振り、珍しくわずかに微笑んでみせた。彼女と過ごす時間が増えていくなかでも、あまり見ない表情だった。ただ、その表情自体に無理がある気がした。
「わからない。無理してるのかもしれない。だって、こんな気持ちになったのはじめてなんだもの。でも、わからないからとりあえずやってみようと思う」
「その姿勢は、すごくいいと思うけど」
「けど?」
「焦らないようにね、なんでも」
 人のことは言えない。ただ、トロは本来前向きな人間ではない。それはこの付き合いのなかでわかっている。あるいは僕が知っているトロのことなんて、彼女のほんの一面に過ぎないのかもしれない。けど、彼女にはゆっくりと立ち直って欲しかった。僕が目で追える程度に。もちろんエゴなのだけど。
 僕もうかうかしていられないな、と思った。大丈夫な人になろう、でも無理はできない、しないでおこう、でも立ち直ろう、でもできないことはできない。そんなところをぐるぐるしている。それでも成瀬夏美が言った、前に進もうという気持ちは持っている。トロが立ち直っていくのを支えられるくらいには、自分が強くなっていたい。
 と思ったこの時点で、僕はトロに恋をしていたのかもしれなかった。
 僕らは古民家から見える風景をぼんやりと眺めたあと、立ち上がって再び散歩ルートをたどり、トロの家に帰った。コーヒーを飲みながら、ライブ当日の待ち合わせなどを打ち合わせた。待ち合わせと言っても、僕がトロの家まで迎えに来て、駅へ行くだけだ。いきなり駅で待ち合わせるのはやっぱりまだ怖いと、トロは言った。
 次の日の散歩では「楽しみだね」と言っていた。その次の日の散歩では「楽しみだけどちょっと不安」とも言った。そして次の次の日にはライブについてなにも言わなかった。そして次の次の次の日がライブ当日だった。
 その日の朝は、僕のアルバイトが早朝から昼過ぎまでだったため、散歩には行けなかった。本当は休みだったのだけど、パートの富岡さんが急用だったので代打で担ぎ出されたのだ。こういうこと自体は珍しくない。けれど、ちょっとタイミングが悪かったなと思う。
 夕方の出かける時間になって、僕はトロの家に行った。トロは僕のはじめて見る、よそ行きの服を着ていた。この日のために、わざわざインターネットで買ったのだという。
「だって外で着る服なんて、持ってなかったから」
 たしかに、数年間の引きこもり生活のなかではそんなもの必要なかっただろう。これも前向きな兆候だ。彼女の着ていたワンピースは薄いピンク色をしていて、彼女のきつい顔立ちの印象をいくぶんか和らげていた。普段はパンツか丈の長いスカートなので、はじめて見る彼女の膝や、大きく開いた襟から見える鎖骨に少しドキドキしたりした。この頃になるともう意識していなかったのだけど、そういえば美人だったんだっけ、と思い出す。
 キャスパーの散歩ではない時間に会うのは久しぶりだった。言ってみれば今の僕たちの関係は、朝の散歩仲間だ。そんなカテゴリーが一般的にあるのか知らないけど、それ以外のなにものでもなかった。前と違って、変化を望んでいないわけではない。そう思うようになった。なっただけで、本当にそれだけなのだけど。
 僕たちはトロの家を出た。もうすぐ梅雨に入ろうとしている。今日見えるオレンジ色の夕焼けが嘘に思えるくらい、雨の日がつづくのだろう。並んで歩きながら、まだトロに出会って一年も経っていないことに気づく。たいしたことではないのだけれど、不思議な感じがした。もっとずっと前から知っていた気がするのだ。ゴミだらけの家の前で出会って、一緒にゴミを捨てて、原因も、あるべき速度もつかめないまま、少しずつ会うようになった。人間の愛情範囲というのは、半径一メートルくらいに絞られるのだという。つまり、日常的に会ったり、挨拶をしたり、話すようになったりして、それを繰り返すようになってはじめて、愛情の生まれるスペースができる。近しい関係になければ、親しくなりようがないのだ。そういう意味では、トロが以前言っていた親しさとその人に対する感情は比例しない、という考えかたとは反対なのである。僕たちには知らないことや、わからないことがいっぱいある。どちらが正解なのか、そもそも正解があるかどうかさえ知らない。
 駅へ向かうトロの足取りは、決して軽やかとは言えなかった。というか、時間が経つにつれどんどん鈍くなっていた。表情も心なしか重苦しくなっていくし、本当に嫌なのだということがわかった。
「無理しなくていいよ」
 と何度か僕は言った。けれど、その度にトロは首を横に振り、足を進めた。彼女がどういう思い、あるいは覚悟を持って駅までの道を進んでいるのかは想像しかできない。彼女なりの戦いなのかもしれない。なんの希望もなく生きること、その退屈さ。彼女の半生は退屈さとの戦いだったのだろう。永遠に近い時間を、お母さんとふたりっきりで過ごしてきた記憶。そういうものを背負って、彼女は一歩ずつ歩いているように見えた。
 駅にたどり着く。トロの家から二十三分。本来かかる時間は十分強というところだから、ほぼ倍の時間を費やしてやってきたことになる。こんなこともあろうかと待ち合わせの時間は早めに設定していたので、まだ余裕はあった。
 あったけど、ここが限界だったようだ。現時点での。いかにも苦しそうな表情で、彼女は言う。
「ごめん、今日はここまでみたい」
 駅からは帰宅のための通勤を終えた、サラリーマンやら学生やらが群れをなして出てくる。ちょっとした人ごみである。このなかを縫って駅のホームまで行くのは、僕だってちょっとうんざりする。まして今のトロには、それは不可能に思えたのだろう。
「いいよ、よくがんばったよ。どうする、家に帰る? 僕だけライブに行けばいいかな」
 トロの呼吸はわずかに彼女の肩を上下させている。
「できれば、一緒にいて」
 僕はうなずいた。進藤さんからは、すでにお金を払ってチケットをもらっている。もったいない気もしたし、申し訳ない気もしたけれど、僕のなかでの優先順位は決まっている。彼にはあとで謝るしかない。
「喉が渇いた」
 と彼女が言うので、駅前のロータリーから少し離れた喫茶店に入った。メインの通りからは外れたところにあって、いつでも空いている。僕は本を読んだり煙草を吸ったりするためにときどき利用するのだけれど、そのうち閉店するだろうな、と思えるくらい人が少ない。この日もふたり組の主婦らしき女性がすみっこのテーブル席に座っているだけで、あとはスポーツ新聞を読んでいるマスターがカウンターの向こう側でヒゲをいじっているだけだった。
 トロの今の状態で、果たして喫茶店はどうだろうと思ったけど、幸いこの店は大丈夫だったようだ。それだけでも、彼女にしてはたいした進歩だと思う。主婦の人たちとは反対側の、誰もいないテーブル席に座り、ブレンドコーヒーをふたつ注文する。
「本当にごめん」
 マスターに出されたおしぼりを広げもせずににぎりしめながら、トロは言った。無表情なのは相変わらずだけれど、先ほどに比べれば多少緩んだ雰囲気になっていた。そのことに僕は安心する。
「いいって。こうなるかもとは思ってたし。ちょっと焦りすぎたね」
「うん、そうかもしれない。無理はするもんじゃない」
「進藤さんには、あとで謝っておくから」
「今度また挑戦して、ライブに行くことができたら、私からも謝る」
 そうして、と僕は言って、ちょうどマスターの持ってきたコーヒーを口にする。正直に言えば、美味しくも不味くもない。値段的にもこんなものだろうという感じ。いつ来ても人が少ないことや、使い込まれた木を基調とする内装が清潔であることを含めれば、総合的にこの店は悪くない。
 トロもコーヒーを飲む。すると彼女には少し苦かったのか、珍しくミルクと砂糖をテーブルにあった入れものから出してカップへ入れた。そういえば、彼女の家で飲むコーヒーはもっと薄いというか、自己主張の少ない味をしている。
 コーヒーの味も、精神的にも少しは落ち着いたのだろう。トロは大きく息を吐いた。それから背中を思いっきり反らして、吐いた分だけ息を吸いこむ。そして、また吐く。
「たとえばさ」
 トロは言った。
「このミルクが白い絵の具で、この砂糖がプラスチックでできてたとしたら、どうする?」
「どうする、って?」
「わからないじゃない。もしかしたらミルクの味がする白い絵の具で、砂糖の味がするプラスチックなのかも」
「まあ、たしかにね。でもそれが?」
「なにを信じたらいいかなんて、わからないよねって話。誰かに嘘をつかれてたとしても、たいていの場合、たしかめようがない。誰にも、どこにも悪意がないなんて言えない以上。私はそれが怖い。人間が怖い。怖くて、外へ出ることができない。私の言ってること、わかる?」
「わかるよ、なんとなくだけど。だから傷つくのが怖くて、自分の世界に閉じこもっていたほうが楽ってことでしょ?」
「ちょっと違う。外には出たいの。自分の内側なんて、何もないから。でも、信じるものが欲しい。大丈夫、これはプラスチックじゃないんだよ、砂糖なんだよって教えてくれる人が欲しいの、私は。それなら、私は外へ出て行ける」
「それは、なかなか贅沢だね」
「豊君は、そういう人になってくれないの?」
 トロがそう言ってくれたことに、僕は喜んだ。素直に嬉しいと思った。できるならば、トロにとってそういう存在になりたい。けれど、大きな問題がある。問題なんか、いつだってあるけど。
「まだ、トロに話していないことがあるんだ」
「なに?」
「僕は、死のうとしたことがあるんだ」
 そして普段は記憶の奥に閉じ込めているものを取り出して、僕はトロに語りはじめた。

 進藤さんには、急遽ライブに行けなくなったことを謝った。さすがに鷹揚な人で、事情を話すと「いいよいいよ」と笑って許してくれた。
「いつかその子と会わせてね」
 という彼の言葉に、僕は苦笑いするしかなかった。
 それからトロとは、また会わなくなっていたからだ。最後に話したときの彼女の反応はともかくとして、僕のほうが会いにいけなくなった。アルバイトの忙しさを言い訳にしたりして。僕が会いにいかなければ、僕たちが会うことはない。結局、その程度の関係だったのだ。
 季節が梅雨になって、そしてそろそろ明けるかなという頃、僕は母と会った。厳密に言うと、父と万記絵と僕と母の四人での食事会があった。母の家に近い目黒の中華料理屋で、丸いテーブルを囲む。母に会うのは久しぶりで、この年に入ってからははじめてだった。万記絵もうちに帰ってくるようになったから、母はひとりで暮らすにはやや広すぎるマンションで気ままに過ごしている。だからと言って寂しくなるような性格なら、そもそもうちを飛び出したりはしないだろう。
 母のスケジュールによって不定期に開催される食事会だけど、今回の実施に至った直接の原因は、校則で禁止されている染髪を万記絵がやってしまったことにある。もともと厳しい学校だけにそれはおおごとになり、保護者として父が呼び出されることになった。ちょっと大袈裟だと思うけど父、万記絵、担任、学年主任、生活指導主任と五者面談が行われ、くたくたになった父と、スケジュールの合った母がお疲れさということで食事会を企画した、というのが経緯だ。
 たかが髪を茶色くしたくらいで、と思ったけど、それ以外にも万記絵の生活態度が問題になったらしい。いわく、遅刻が多い、授業はサボる、眠る、教師と喧嘩する。学校は真面目に通っていると思っていたけど、最近はそうでもなかったようだ。
 そのこと自体については、父も母も無頓着だった。父は温和だが頑固な人だから、一度決めたら最後まで自分の娘の味方をする。母は自分自身が不良と呼ばれる少女時代を過ごしたので、学校からの呼び出しくらいでは少しも動じなかった。結局、停学にもならず厳重注意で終わったことに対して、自分は悪いことをしたと思っていない万記絵は納得いってないようだったけど、端から聞いている僕としてはホッとしていた。
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