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飛べないお姫さまのすべて

「怪しい! 伯母さん、怪しい男が入ってきた」
 澄は叫んだ。流れ的に知らない男が入ってくる感じじゃなかったからだ。
「あれ、もしかして澄ちゃん?」怪しい男が言った。
「伯母さん、すごい、私の名前知ってる! 怪しい!」
「仕事暇になったから遊びに来た」
「ほんと?」春日部知子は顔見知りなのか、平然としている。
「ごめん超嘘ついた。ただのサボり。お土産あるよ」
「なに?」
「うなぎ。冷凍だけど」
 怪しい男の怪しさは、全体的に澄の理解を超えていた。まだ肌寒さの残る季節にリゾート感たっぷりのアロハシャツと短パン。そして決め手となる麦わら帽子。なんで、ここハワイ? と思ったが呆気にとられて声にならない。
「ああこれ、彼氏」
 春日部知子はしごく当然のように男を紹介した。
「彼氏って、あれ、あの?」
「ああ、秋山先生じゃないよ」
「猿淵です。サブって呼んで」
「彼氏いんのかよ」
 およそ一年前、春日部知子がアルバイトをしていたコンビニエンスストアの常連客だったのが猿淵だ。仕事がないのか、仕事はあるけどやる気がないのか一日に最低六回は店に姿を見せる猿淵と二日に一回レジの前でぼうっと突っ立っていた春日部知子は必然的に一週間のうち何度も顔を合わせることになったが、そのうちに猿淵がとんでもないしかめっ面でレジを打つ春日部知子に興味を持ち話しかけ続け、結果的に気づいた頃には交際していることになっていたという。
 というような説明を受けたが澄にはさっぱり意味がわからなかった。
「いや全然溶けないね、うなぎ」と猿淵は冷凍うなぎをカチカチ叩いたりしている。春日部知子のほうも、
「カレーならあるけど」
 と言ったりして、「カレー? いらない」なんて返されてなぜか満足そうに頷いている。「伯母さん、この人のどこがよかったの?」
と澄が聞いても、
「どこがいいというのは、特にないけれど」
 と答えるばかりで、澄には大人というものがよくわからなくなった。
 あ、でも、と春日部知子は猿淵のほうを見る。
「べつに私を好きじゃないところはいい」
 春日部知子と猿淵の関係が付き合う、というかたちに落ち着いた頃、春日部知子は猿淵になんで自分と付き合おうと思ったのか、聞いたことがある。猿淵の答えは、
「いや、なんか……いたから」
 だった。山があったら登るタイプの人なのだろうか。秋山が腰を悪くする少し前のことだ。彼との関係を春日部知子が打ち明けたのは付き合い始めて少し経ってからのことだった。
「え、それは、俺とは付き合えないということ?」
「そういうわけじゃないけど」
「ならいいよ」
 実に泰然としたもので、そのとき初めて春日部知子は猿淵に好感を持った。初めてこの部屋を猿淵が訪れたのは去年の冬が始まる頃で、秋山の訪問が途絶えてからしばらく経ってからだった。特に長いわけではなかったその期間で春日部知子はアルコール中毒になりかけており、すがるものを失う恐怖に心をさらしていた。
「眠れないの。時間を持て余して、しかたなくお酒で潰したりして」
「よくないね」
「ねえ、私に恋愛感情はないよね?」
「ええと、どう答えたらいいの?」
「ないって言って」
「うん、ない」
「じゃあ、一緒に寝て。添い寝してくれたら、眠れるかもしれない」
「ああ、うん」
 電気の消えた部屋で、春日部知子は眠れた。猿淵はその様子を眺めながら、とりあえず春日部知子の髪を撫でたりして夜を過ごした。愛ではないのだろう、と猿淵は思った。自分が欲しいのも、この女が欲しいのも。それは人の体温であり、交わされる言葉であり、眠れる夜だった。そしてそれらを、恋愛感情と呼ぶのか猿淵にはわからなかったが、元来ものを深く考える性質ではなかったので、まあいいかと思った。
「外、雨が降ってるね」
 ある雨の夜、横たわったまま春日部知子は言った。
「春日部さんはさ」
 猿淵は春日部知子のことをこう呼んだ。
「なに」
「この檻から出たいの、出たくないの」
「わからない。もう全然」
「そう」
「でもこのままじゃいけないっていうのだけは、わかる」
「うん」
「だからとりあえず、怖がっているだけ、私は」
「そしたら、一緒に暮らそうか」
「猿淵くん」
 春日部知子は猿淵のことをこう呼んだ。
「それは絶対にいやだ」
「そう言うと思った」
 扉が開いて、今度こそ清島が戻ってきた。
「また知らない人が増えてる」
 清島は本当にここから逃げたくなった。どんどん目撃者が増えていく。
「この人、私を人質にしている犯人」
 あそう、と猿淵は泰然としたものだ。
「俺、犯人って会うの初めて。よろしく」
「あ、どうも。犯人やってる清島です。よろしく」
「へえ、犯人って本名を名乗るものなんだ。あ、偽名?」
「いや、本名です。なんだかもうどうでもよくて」
「春日部さんはなんでこの人の人質になってるの? というか全然人質っぽくないんだけど人質なの?」
「ん、まあ、なりゆきで、なんとなく、ね」
 と春日部知子は清島に同意を求めるが、彼が答えるより早く澄が、
「なんとなくにもほどがあると思うけど」と言うので、そちらに同意した。
「そう、その通り」
 春日部知子はいやな顔をして、
「いいじゃない、べつにそういう、かたち的なものにはこだわらなくてもさ」
 と言った。
「でもさ、あ、もし趣味でやってるんだったらごめんね」
 と猿淵は清島に言う。
「趣味でやるわけないじゃないですかこんなの。で、なんですか?」
「ふつう人質って何か目的があってとるものじゃない。なにか目的あるのかなって」
「それは、一応、逃げるために」
「何から逃げるの」
「組の金盗ったんで、組から」
「へえ、何があったの?」
 猿淵はそのことに興味を持ったのか、清島が今までの経緯を説明するのをうんうんと聞いていた。澄も知らなかったので驚きをもって聞いていたが、春日部知子はこのくだりに関してはもう飽きたのか鼻くそなどをほじっていた。
「そうかあ。彼女にも逃げられて。はあ、なるほど」
 と猿淵はひとしきり感心して見せた。あまりにも大げさなのでちょっと嘘くさいほどだった。
「そんなことよりさ」
「そんなことよりさってことがあるか」清島がさすがに憤慨する。
「キヨシだよね?」
 猿淵がいきなり言い出したその呼び方に、澄も春日部知子も怪訝な表情を浮かべる。それは清島も同様だったが、すぐに何かを噛みしめたような顔になった。
「もしかして、と思ってたんださっきから」
 清島はひとつ深呼吸をする。猿淵はそんな清島を優しい眼差しで見つめている。
「……前田くんか」
「違う」
 さっき食べた消しゴムカレーの味が頭に残っていたのか、消しゴムを食べる一発ネタの持ち主だった前田くんの名前が口から出てしまった。けれど清島にとって、それは忘れるはずのない名前だった。
「……サブ」
「十年ぶりだな」
「いや、十五年ぶりだ」
「懐かしいな、バレー部」
「うん、野球部だ」
 清島の父は彼が生まれる前に強盗致死罪で逮捕され、刑務所で服役していた。女手ひとつで育ててくれた母も恋人と蒸発し、清島が児童養護施設に入ったのは彼が五歳のときだ。彼には、五歳より前の記憶がない。幼いころの思い出は愛されて初めて残りうるからだ。それでも清島は他人に心を開かないかわりに精一杯聞き分けよく振る舞い、なんとか幼少期を乗り切った。そんな清島が初めて心を開いたのが、中学入学と同時に知り合った猿淵だった。三年間同じクラスだった上に部活も同じ野球部に所属していたので必然的に一緒にいる時間は長かったが、一年生の夏にはお互いにサブ、キヨシと呼びあうくらいに打ち解けていた。人を信用できない清島にとって、信じる信じない以前に細かいことを気にしない猿淵は一緒にいてとても居心地のいい相手だった。野球部でも早くからゴールデンコンビとして有名で、運動神経だけは良かった清島はエースで四番、猿淵は卒業までルールが覚えきれなかったので補欠だった。それでも一緒の高校に行って、甲子園を目指そうと誓い合った。そんな関係が唐突に終わりを迎えたのは三年生に上がって、急に猿淵がクラスでも部活でもいじめられはじめた頃だった。いじめていたのはクラスでも部活でも一部で、そのどちらでも清島は首謀者ではなかったが、止めることはなく、猿淵との距離もとるようになっていた。そのまま卒業を迎え、当然のように二人は同じ高校に進学することもなく、清島は高校で大麻を売って退学になったのをきっかけに人生を転がり落ち、ヤクザの下っ端になりはや三十歳になった。十五年ぶりに会った元親友の、目を見て話せない現在と、現実だ。
「三中のエースがヤクザの下っ端か。人生ってわからんな」
「元気だったか?」
「俺か、うん、元気だったよずっと」
「そうか、よかった」
「気にしてたのか?」
「え?」
「俺を裏切ったこと」
「ああ、うん、してた。恨んでるか、俺を」
「そりゃあ、もちろん」
「そっか、そうだよな」
「でも、会えてうれしいよ」
「ああ、俺もうれしいよ。今なにしてるんだ?」
「俺か、俺はな」
 澄がトイレに行こうと立ち上がったのと、猿淵が腰から拳銃を出して清島に向けたのがほぼ同時だった。
「警察だ。手を挙げろ。あれ、澄ちゃんどうしたの」
「トイレ行こうと思って」
「あ、いいよいいよ行ってらっしゃい」
「あ、これ、いま行っていい空気?」
「大丈夫大丈夫」
「じゃあ、行ってきます」
 澄がなりゆきを気にしながらも、扉を開けて出ていった。清島は呆然と銃口を見つめているが、むしろ春日部知子のほうが驚いた表情を浮かべている。
「俺は手、挙げたほうがいいんだよね」
 と清島がとんちんかんな質問をしている。
「いいよべつに、言ってみたかっただけだから」
 と猿淵のほうも拳銃をしまってしまう。なんだったんだこのやりとりは。
「警察なのか」
「ああうん、巡査部長。一昨年かな、刑事になったの」
「さっき犯人会うの初めてって」
「実は、嘘だ」
「刑事ってそういう恰好していいのか」
「だって俺、スーツ似合わないから」
「そういう問題なのか」
「猿淵くん、刑事だったの」
 ようやく衝撃から抜け出して、春日部知子が言った。
「ああうん、言ってなかったっけ」
「文房具メーカーの営業だって言ってた」
「ああごめん、超適当に言ったかも。というか、こんな文具屋の営業いないでしょ」
「そんな刑事だっていないよ」
「そんなおかしい?」
「おかしさを絵に描いたようだよ。清島くんを逮捕するの?」
 清島が猿淵の顔を見る。その顔はどこか安心したような感情が滲んでいた。しかし、猿淵は首を横に振った。
「やだよ面倒くさい。だって俺、ここに仕事サボりに来たんだよ? マル暴じゃないし。なんていって説明するのさ捕えたとして」
「そういう問題なのか」
 清島も展開についていけないのか、困惑しているようだ。
「俺、サブに捕まるんだったらそっちのほうがいいと思ったんだけど」
「知らないよそんなこと。俺いま全然仕事したくないもん。捕まりたいなら自分で捕まってよ」
「よく刑事なれたな」
「そんなことよりさ」
「そんなことよりさってことがあるか」
「謝らないのか、今なら特別に許してやってもいいぞ」
「何をだよ」
「俺をいじめたこと」
「俺はいじめてない」
「一緒だよ。他のどうでもいい連中がいじめて来たことより、お前が助けてくれなかったことのほうが俺は傷ついたな。いいじゃん、ここで一発謝ってすっきりしようよ。楽になるよー。どうせお前は、ずっと自分でも傷ついてきたんだろ、そのことで」
「……謝らないよ。いま謝れるくらいだったら、あの頃のお前を守ってたよ」
 清島の言葉に、猿淵はなぜか嬉しそうだった。そう言ってほしかったんだといわんばかりの表情だった。
「相変わらず不器用なんだな。人間関係。お前らしいよ」
「悪かったな」
「じゃあ、俺が一方的に許すっていうので、いいか?」
「なんで聞くんだよ。いいよ」
「じゃあ許した」
「べつにいいけど、なんで?」
「え?」
「なんで許したの?」
「なんでってこともないけど。十五年会わなくても、キヨシはキヨシなんだなって思ったからだよ。それに、許せないよりは嬉しいじゃん、俺もさ。許せたほうが」
「それは知らんけども」
「春日部さん、お茶飲みたい」
「ああ、せっかくお茶っ葉買ってきてもらったしね」
 と春日部知子が応じて、お茶を淹れる用意をはじめる。慣れた手順で準備していく頭には、秋山の顔が浮かんでいた。その後ろでは、
「サブは春日部さんと知り合いなの?」
「や、彼女」
「彼女?」
 というやりとりを猿淵と清島がしていた。
「猿淵くん」
 春日部知子は言った。
「私は誰かに許されたいのかな」
「ごめん、全然わかんない」
「うん、聞いた私が馬鹿だった」
「謝りたい相手がいるんですか?」
 と聞き返したのは清島だ。
「わかんない。でも、罪悪感だけはある」
「それは、何に対して?」
「たぶん、誰も幸せにしてないから」
「それは神様にだって無理ですよ」
「そうかな」
「俺はいま、幸せな気持ちですけど、それはサブのおかげですよ」
「そっか。なんだか君たちの関係ってさ」
「はい」
「気持ち悪いよね」
「他にもっと言いようはないんですか」
「ああ、違うな。誰も幸せにしてないのに、みんな私に優しいからだ、罪悪感があるのは」
「そうでもないよ」
 と口にしたのは猿淵だ。溶け始めたうなぎをぐねぐねさせていて気味が悪い。
「人は春日部さんが思ってるほど優しくないし、春日部さんは自分が思ってるほど悪くもないよ」
「ごめん、何言ってるかよくわかんない」
「わかんなくてもいいよ」
「秋山は、私のこと忘れると思う?」
「春日部さんはどっちがいいの?」
 猿淵の質問は、春日部知子にとって、愛してるのに愛されていないのと、愛されているのに愛していないのとどちらがいいのかという選択に感じられた。だから春日部知子は、
「どっちもいやだ」
 と答えた。
「じゃあ、会いに行ってみれば」
「それはダメって言われてる」
「春日部さんが思ってるほどダメじゃないよたぶん」
「会って、なんて言えばいいの?」
「私のこと忘れるのって」
「で、どうしたらいいの?」
「さあ。でもいちいち言葉にしてみるのって意外と悪くないよ。さっきの見てたでしょ?」
 そういうものだろうか、と春日部知子は納得しかけ、
「優しい人っていうのはいないけど、人には大体、優しいところもあると思います」
 と清島が呟き、
「あ、ウンコしてえ」
 と猿淵が告白したときに、扉が開いて澄が帰ってきた。
「おかえり、すっきりした?」と猿淵が聞く。
「超すっきりした。話はまとまったの?」と澄が言う。
「ほどよく、適当に」と春日部知子。
「そう、よかったね。じゃ私はそろそろ帰るかな」
「今お茶淹れるから、それ飲んでからにしなよ」
 と春日部知子が行ってお茶を淹れはじめたので、澄もなんとなく座る。それぞれお茶が入った湯呑を持ち、静かに飲む。清島が言った。
「俺、これ飲んだら、金返してきます」
「ほんと? 殺されちゃうんじゃない」と春日部知子。
「まあ、それならそれで」と清島。
「俺一緒に行ってやろうか」と猿淵。
「ほんとか?」と清島。
「うん。ヤクザの事務所って見てみたいし」と猿淵。
「べつに面白くもなんともないけどな」と清島。
「じゃあ俺もこれ飲んで、キヨシの事務所行ったら仕事するか」と猿淵。
 黙ってお茶を飲む四人。
「私もこれ飲んで、秋山のところ行こうかな」と春日部知子。
「俺一緒に行ってやろうか」と猿淵。
「いいよ、仕事しなよ」と春日部知子。
「そうだな、たまには」と猿淵。
 黙ってお茶を飲む四人。
「澄はこれ飲んでどうするの」と春日部知子。
「普通に帰って宿題するけど」と澄。
「普通っていいな。いま思ったけど」と清島。
「あとここにいる大人たちみたいにならないようにする」と澄。
「ああ、そのほうがいいよ」と猿淵。
「猿淵さんも含まれてるけど」と澄。
「ああ、だよね」と猿淵。
「そんなに悪いとも思わないけどね」と澄。
「なにが?」と春日部知子。
「おばさんたちみたいな大人が」と澄。
 黙ってお茶を飲む四人。やがて湯呑は空になる。それじゃお先に、と猿淵が立ち上がり、促されて清島も立ち上がって目出し帽をかぶろうとする。
「それはもういいんじゃない」と春日部知子に言われてやめ、また来てもいいですかと言った。春日部知子が頷いたのを見届けると、猿淵と一緒に扉を開けて出て行った。
「私、お姫さまになりたかったの」と春日部知子は言った。
「そう、意外。なれたの?」と澄が言う。
「なれなかった。なったつもりだったけど」
「ここがお城?」
「そのつもりだった。檻だったけど」
「じゃあ、秋山先生が王子さまのつもりだったんだ」
「うん。違ったけど」
「王子さまっていうかジジイだしね」
「私はお姫さまじゃないから、王子さまはいらない」
 また来るね、と言って澄は帰っていった。またひとりぼっちになった部屋を春日部知子は座ったまま見渡す。澄が、清島がまた来たときに、わたしはまだこの部屋にいるのだろうか。秋山はなぜ、この部屋を、この小さな世界を私に与えたのだろうと考えてみる。そこに意味なんかないのはわかってはいたが。「退屈だった」と春日部知子は声に出してみる。その退屈さが春日部知子は嫌いではなかった。この部屋にあったもの。それをなんと呼べばいいのか春日部知子にはわからないが、その何かを終わらせなくてはいけないと思った。いつか思い出と呼ぶのだろうか、この日々を。はやくなつかしくなればいいと思った。
 春日部知子はひとつ大きな深呼吸をする。小さくて退屈な世界の最後の空気だ。
「さて」
 春日部知子は立ち上がって、その瞬間に飛べなかったお姫さまの物語は終わった。
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