飛べないお姫さまのすべて
春日部知子の生まれた春日部家はその名の通り、埼玉県春日部市に土地を所有する地主で、その起源は鎌倉時代まで遡る。鎌倉幕府の御家人だった初代春日部兵衛尉実高から数十代、知子の父は分家筋だったが先祖代々の土地を堅実に運用し、ビルや駐車場にすることでそれなりに裕福な生活を営んでいた。子供は春日部知子と、兄と妹が一人ずつ。家は兄の貴之が継いだ。春日部知子は初めての女の子だったので両親から深い愛情を一身に注がれた。しかし他の子に比べ言葉がやや遅く、また必要最低限の愛想を見せたりもしなかったため、両親をはじめ親族は彼女を持て余すことが多かった。春日部知子本人は人並みに家族への愛情を抱いて育ったのだが、その表現をまったくしなかったので、驚くべきことに小学校に入る頃にはすでに、両親や兄との関係はぎこちなくなっていた。妹の幸子が生まれたのは彼女が二歳のときだ。妹のほうは姉が母親の胎内に置いてきた分と思われる愛想を過剰に振りまき、また要領よくふるまえる性格だったので、あっというまに家族の中心におさまった。春日部知子は見事なまでに家族から忘れ去られる存在になったが、意外なことに幸子が一番懐いたのがこの無愛想な姉だった。どちらかといえば古風な考え方をする春日部家で幸子が周囲の反対を押し切り、高校卒業と同時に結婚して澄を出産したときも唯一春日部知子だけがそのことを受け入れた。もっともその頃には彼女は秋山の愛人になっていたので、立場を悪くした幸子は勘当同然で家を出ることになったのだが。その後幸子は持ち前の愛想の良さを十二分に活用して春日部家への復帰が許されたが、春日部知子は愛人暮らしを続け、親族から陰口を叩かれる存在でありつづけた。姪の澄は母の幸子から春日部知子の性格を聞かされて育ったので、まったく人の評価を気にしない伯母のことが嫌いではなかった。母の命令で数か月に一度伯母の様子を見に行くことにもまったく抵抗はなかった。けれど、伯母の部屋で刃物を振りかざし、大声で謝っている男と目を輝かせてそれを見ている伯母の姿を見たとき、とんでもなく面倒くさいところに来てしまったと心のなかで後悔した。澄は面倒くさいことがきらいだった。
「え、誰?」
清島は哀しいくらいにうろたえて春日部知子に聞いた。まあうろたえるだろうな、と彼女は思う。
「ああ、姪っ子」
「誰も来ないって」
「たまに来る」
じゃあ誰も来なくない、と清島は思った。どうしてこう、うまくいかないんだろう。
「またにしようか?」
清島の今にも泣きそうな表情をうかがうようにして澄は言った。できればまたにしてほしい、と清島は言いかけたが、
「いいよ、気にしないで。何か用事あったっけ? あ、カレー食べる? とりあえず中はいって、座って」
と前のめるように言った春日部知子によってさえぎられた。
「用事は特にないよ、お母さんに元気にしてるか見てきてって言われた。カレーは食べない。お邪魔します。この人誰? 新しい彼氏?」
「彼氏がこんな馬鹿なことしないでしょう」
「彼氏でもなきゃこんな馬鹿なことしないでしょう」
「こんな馬鹿な彼氏いないでしょう」
「それくらいにしてもらっていいですか」
べつにやりたくてやってるわけじゃないのに、と清島は思った。もう家に帰ってしまいたかった。いや、家に帰ると危ないのでどこかに逃げてしまいたかった。
「もっと自然に考えてよ」
と春日部知子は言った。
「この不自然な状況を?」
と澄が言った。「強盗?」
「まあそんなようなものよ、ね?」
春日部知子は清島に向かって笑った。この人俺をどうしたいんだろう、と清島は思った。澄が「お茶が飲みたい」というので、春日部知子は「これ外して」と言って縛ったばかりのビニール紐を清島に外させ、急須と湯呑の乗った盆を用意し、そして当然のように手渡した。
「え、俺が淹れるんですか」
「他に誰がいるの」
いくらでもいるじゃないですか、とは言えない。しぶしぶ受け取ると、予想していなかった重さに清島は崩れ落ちそうになる。
「鉛が仕込んであるの」
「なんで?」
「五キロ」
「聞いてないですよ」
「言ってないもの」
「そういうことじゃないんですけど」
脇をしめて両腕でしっかり盆を抱えて、よろよろとした足取りで清島は部屋から出て行った。その様子に澄は同情に似たものを感じたが、果たして同情してもいい感じなのかそれもよくわからない。
「なんだか嬉しそうだね」
澄は素直に感じたままを言った。
「そう?」
「伯母さんがこんなに喋ってるの初めて見た」
「まあ相手がいないからね、いつもは。それに澄も来て、ねえ、この部屋に人間が三人いるのっていつ以来だと思う?」
「わからない。いつ?」
「私がこの部屋に住みはじめる前よ。たぶん、知らないけど」
「知らないのかよ」
と澄は思ったが、そう言った春日部知子の表情はなんだか自分より年下の少女のようで、友達が自分の家に遊びに来てくれたような気分でいるようだった。実際には友達がいなかった伯母に、そんなことはなかったのだろうと、母の幸子から聞いた話から澄は推測した。
「幸子は元気?」
「よかったね」
予期しなかった返答に春日部知子は少し戸惑った。
「なにが?」
「よくわからないけど、人がたくさんいて」
春日部知子はその言葉には答えず、かわりに扉が開いて清島が戻ってきた。相変わらず両手には急須と湯呑の乗った盆を抱えて、なんだかはぁはぁ言っていた。
「これ重い」
「どうしたの?」
「お湯ってここで沸かすんじゃないですか?」
清島は盆をゆっくり降ろしてコンロを見た。
「そうだね」
「なんで俺これ、こんな重いもの持って水道まで行ったんですか?」
「知らない」
「知らないってことはないでしょう。びっくりしましたよ、俺ここで何やるんだろうって思いましたもの。どうやってもお茶できないもの、あそこで。あ、やかんなんてあります?」
「あるよ」
春日部知子はこともなげにやかんを戸棚から取り出して、渡した。清島は何か言いたそうにしているが、結局何も言えずに再び、今度はやかんを持って出て行った。
「なんだか大変な人だね」と澄は言った。
「そう、なんだか大変な人なんだよ」
「お母さんは元気だよ」
「え? 急にどうしたの」
「伯母さんが聞いたんだよ」
「ああ、そう」
「興味ないのに聞くから」
「ないこともないけどね。澄は?」
「なに?」
「元気なの?」
「この流れで聞くの、それ」
「ごめんね、人と話すの慣れてなくて」
「……元気だよ。受験だし」
「ああ、受験だし」
「伯母さんは受験した?」
「ああ、どうだったかな、覚えてないや」
「そういうもの? 受験って」
「どういうものだったかな」
「忘れちゃっていいものなの?」
「忘れちゃったことは、忘れちゃっていいことよ、もちろん」
それは、大事なことは忘れないという意味なのか、大事なことも忘れてしまっていいという意味なのか、澄にはわからなかった。だから、
「伯母さんには、忘れられないことってあるの?」
と尋ねたのだが、その答えはやかんを持って戻ってきた清島のせいで、返ってくることはなかった。
「入れてきました」
と言って春日部知子のもとへ清島が行くと、コンロにのせろと仕草で示されたのでその通りにした。どうせ言われると思ったので火もつける。しかし意に反して春日部知子は、
「火はまだつけなくていいよ」と言い、
「どうして?」と清島が聞くと、
「お茶っ葉がないから」と答えた。
「え?」
「買ってきて」
「いや、全然いいんですけど、それ、それ言うタイミングって、もっと前にいくらでもなかったですか」
「なんか急いでた?」
「急いではいないから、全然いいんですけどね」
なんだか苛々しているのを必死に抑えながら、清島は言った。春日部知子は「あ、お金」と言ったが清島は「いいです、あとで」と断り、
「あの」
と切り出した。
「はい」
「逃げたくなったら、逃げてもいいですか」
「どこから、どこへ?」
「ここから、ここ以外のどこかへ」
「全然いいよ。なんで逃げないの?」
「まだ本当に逃げたくなってはいないからです」
なぜか清島はしてやったり、という顔になって、三度部屋から出て行った。
「なんだか変な人だね」と澄は言った。
「そう、なんだか変な人なんだよ」
大変な人と変な人ではずいぶん意味合いが違うな、と澄は思ったが、清島の場合はそんなに変わらないなとも思った。
「今あの人、なにかうまいこと言った? けっこう得意そうな顔で出て行ったけど」
「全然」
「変な人だね」
「変な人だよ」
春日部知子は、澄が物心ついたころにはもう、他の家族とはいっさい会わなくなっていたので、澄は彼女が自分以外の人間といるのを見た記憶がなかった。母に言われて伯母の様子を見に来るようになったのはここ二年くらいのことで、その記憶には、この部屋で澄には得体の知れない老人を待っている横顔がくっきりと残るばかりだ。この人は自分に興味がない、という実感は澄にとっては心地の良いものだった。春日部知子にシンパシーを感じている母の幸子は別にしても、春日部の一族は澄をより良く、立派に生きさせようとした。それが澄を苛立たせた時期があった。澄が春日部知子のもとへ通いだした頃のことだ。澄は春日部知子に聞いたことがある。
「私が優等生になったとして、それで誰が幸せになるの?」
「自分、と言いたいところだけど、そうとも限らないね」
「じゃあ、意味ないじゃない」
「この残念なくらい大きな宇宙で、自分がどう生きるか、なんてことにどれほどの意味があるっていうの」
「そうか、意味ないのか」
「それでも、人は自分以外の誰かの幸せを願うとき、果てしなく傲慢になれるのよ」
澄はその頃、学生としてはとんでもない馬鹿やろうで、中学入学の時点で九九は六の段から怪しかったし、三角形の内角の合計は720度だと思っていたし、アメリカは大阪の隣だと思っていた。小学校時代の遠足では、六年連続で迷子になり警察に保護されるという偉業を成し遂げた。それらは彼女が思っているより彼女の周りの大人を怒らせた。なんでかはわからないが、大人はそういうどうでもいいことが大事なのだ、と思い込みはじめていた矢先だった。澄は春日部知子のあまりにも物事に無頓着な姿勢に、ひそかに憧れたりもした。そのあとすぐに、この人そんなにちゃんとした人じゃない、と気づくのだが。
なんにせよ、春日部知子が自分以外の人といて、楽しそうに振る舞っているのが、澄には意味もなく、嬉しかった。
「伯母さん、バイトした?」
「え、いつ?」
「いつって、高校のとき」
「してない。高校のときは」
「じゃあ何してたの、高校のとき」
「高校のときは、先生に暗がりに連れてかれてやらしいことされてた」
「ごめん、聞く人を間違えたみたいだ」
「澄、バイトしたいの?」
「うん、高校に入ったら」
「べつにいつでもできるよ、バイトは」
「お金が欲しいの、お小遣いじゃないやつ」
「なにか欲しいの?」
「だから、お金。何に使うってわけでもないし、なんでかわからないけど、自由に使えるお金って、それが自由の量な気がするから」
「そんなことないよ」
「え?」
「まったくもって、そんなことはない」
「どうして?」
澄は聞いた。
「バイトはね、したの、大人になってから。最近だと、去年した。コンビニ。お金じゃなくて、自分のために使う時間が欲しくて。とりあえずアルバイトのお金は貯金しようと思って、半年でいくら、一年でいくらって計画立てたりして。で、まあ、思ってたよりつまらなくて、すぐやめちゃって、手元にはちょっとだけお金が残った。これで何買ったと思う?」
「わからない。なに?」
「チェロ」
「えー。どこ?」
「もうない。捨てちゃった」
「なんで、もったいない」
「チェロだけあっても、弾き方わからないし、教えてくれる人いないし。聴いてくれる人もいないし。何回かギコギコやって、捨てちゃった。お金でチェロは買えたけど、それで何かが変わったりはしないんだよね」
「チェロじゃなくてべつのものにすればよかったんじゃないの」
「でも、かっこいいなって思ったんだもん」
「友達とか、できなかったの?」
「できたよ。少しは。でもあれは、生ものなのね。冷蔵庫に保管して、こまめにまだ大丈夫だね、って確認しないと、溶けてなくなっちゃうの」
「そのたとえがよくわからないけど、冷凍庫に入れておけばよかったんじゃない」
「うん、私はたぶん、友達の保管が下手なんだろうね。で、また一人で、この檻に戻ってくる」
「……何の話だっけ?」
「だから、お金だけあっても、自由にはなれないよって話」
春日部知子はこの部屋を檻と表現した。愛してくれる人はいる。働かなくてもお金は入ってくる。時間も腐るほどある。新たに愛されることも、お金も、時間も必要としない彼女は、ちっぽけな部屋で少しも自由ではなかった。自由というのは、
「自由というのは、ないものを求める衝動をいう」
と春日部知子は言った。だから、欲しいものがない自分は自由にはなれないのだと。澄はだから、言った。
「ああいう人が欲しかったんじゃないの、伯母さんは」
「ああいう人?」
「あの、犯人みたいな人」
みたいな人、というより犯人そのものだった。春日部知子にはまったく関係ない事件の、ではあるが。清島はいま、すべてを持たざる人だった。それゆえに、すべてを求めていた。そんな清島を春日部知子は、少しだけ愛しく思った。
「そうかもしれない」
あの人は私にとって自由だった。と春日部知子は言った。扉の前に誰かが立った。澄は清島が戻ってきたのかと思ってそちらを見たが、扉が開いて入ってきたのは知らない男だった。
「え、誰?」
清島は哀しいくらいにうろたえて春日部知子に聞いた。まあうろたえるだろうな、と彼女は思う。
「ああ、姪っ子」
「誰も来ないって」
「たまに来る」
じゃあ誰も来なくない、と清島は思った。どうしてこう、うまくいかないんだろう。
「またにしようか?」
清島の今にも泣きそうな表情をうかがうようにして澄は言った。できればまたにしてほしい、と清島は言いかけたが、
「いいよ、気にしないで。何か用事あったっけ? あ、カレー食べる? とりあえず中はいって、座って」
と前のめるように言った春日部知子によってさえぎられた。
「用事は特にないよ、お母さんに元気にしてるか見てきてって言われた。カレーは食べない。お邪魔します。この人誰? 新しい彼氏?」
「彼氏がこんな馬鹿なことしないでしょう」
「彼氏でもなきゃこんな馬鹿なことしないでしょう」
「こんな馬鹿な彼氏いないでしょう」
「それくらいにしてもらっていいですか」
べつにやりたくてやってるわけじゃないのに、と清島は思った。もう家に帰ってしまいたかった。いや、家に帰ると危ないのでどこかに逃げてしまいたかった。
「もっと自然に考えてよ」
と春日部知子は言った。
「この不自然な状況を?」
と澄が言った。「強盗?」
「まあそんなようなものよ、ね?」
春日部知子は清島に向かって笑った。この人俺をどうしたいんだろう、と清島は思った。澄が「お茶が飲みたい」というので、春日部知子は「これ外して」と言って縛ったばかりのビニール紐を清島に外させ、急須と湯呑の乗った盆を用意し、そして当然のように手渡した。
「え、俺が淹れるんですか」
「他に誰がいるの」
いくらでもいるじゃないですか、とは言えない。しぶしぶ受け取ると、予想していなかった重さに清島は崩れ落ちそうになる。
「鉛が仕込んであるの」
「なんで?」
「五キロ」
「聞いてないですよ」
「言ってないもの」
「そういうことじゃないんですけど」
脇をしめて両腕でしっかり盆を抱えて、よろよろとした足取りで清島は部屋から出て行った。その様子に澄は同情に似たものを感じたが、果たして同情してもいい感じなのかそれもよくわからない。
「なんだか嬉しそうだね」
澄は素直に感じたままを言った。
「そう?」
「伯母さんがこんなに喋ってるの初めて見た」
「まあ相手がいないからね、いつもは。それに澄も来て、ねえ、この部屋に人間が三人いるのっていつ以来だと思う?」
「わからない。いつ?」
「私がこの部屋に住みはじめる前よ。たぶん、知らないけど」
「知らないのかよ」
と澄は思ったが、そう言った春日部知子の表情はなんだか自分より年下の少女のようで、友達が自分の家に遊びに来てくれたような気分でいるようだった。実際には友達がいなかった伯母に、そんなことはなかったのだろうと、母の幸子から聞いた話から澄は推測した。
「幸子は元気?」
「よかったね」
予期しなかった返答に春日部知子は少し戸惑った。
「なにが?」
「よくわからないけど、人がたくさんいて」
春日部知子はその言葉には答えず、かわりに扉が開いて清島が戻ってきた。相変わらず両手には急須と湯呑の乗った盆を抱えて、なんだかはぁはぁ言っていた。
「これ重い」
「どうしたの?」
「お湯ってここで沸かすんじゃないですか?」
清島は盆をゆっくり降ろしてコンロを見た。
「そうだね」
「なんで俺これ、こんな重いもの持って水道まで行ったんですか?」
「知らない」
「知らないってことはないでしょう。びっくりしましたよ、俺ここで何やるんだろうって思いましたもの。どうやってもお茶できないもの、あそこで。あ、やかんなんてあります?」
「あるよ」
春日部知子はこともなげにやかんを戸棚から取り出して、渡した。清島は何か言いたそうにしているが、結局何も言えずに再び、今度はやかんを持って出て行った。
「なんだか大変な人だね」と澄は言った。
「そう、なんだか大変な人なんだよ」
「お母さんは元気だよ」
「え? 急にどうしたの」
「伯母さんが聞いたんだよ」
「ああ、そう」
「興味ないのに聞くから」
「ないこともないけどね。澄は?」
「なに?」
「元気なの?」
「この流れで聞くの、それ」
「ごめんね、人と話すの慣れてなくて」
「……元気だよ。受験だし」
「ああ、受験だし」
「伯母さんは受験した?」
「ああ、どうだったかな、覚えてないや」
「そういうもの? 受験って」
「どういうものだったかな」
「忘れちゃっていいものなの?」
「忘れちゃったことは、忘れちゃっていいことよ、もちろん」
それは、大事なことは忘れないという意味なのか、大事なことも忘れてしまっていいという意味なのか、澄にはわからなかった。だから、
「伯母さんには、忘れられないことってあるの?」
と尋ねたのだが、その答えはやかんを持って戻ってきた清島のせいで、返ってくることはなかった。
「入れてきました」
と言って春日部知子のもとへ清島が行くと、コンロにのせろと仕草で示されたのでその通りにした。どうせ言われると思ったので火もつける。しかし意に反して春日部知子は、
「火はまだつけなくていいよ」と言い、
「どうして?」と清島が聞くと、
「お茶っ葉がないから」と答えた。
「え?」
「買ってきて」
「いや、全然いいんですけど、それ、それ言うタイミングって、もっと前にいくらでもなかったですか」
「なんか急いでた?」
「急いではいないから、全然いいんですけどね」
なんだか苛々しているのを必死に抑えながら、清島は言った。春日部知子は「あ、お金」と言ったが清島は「いいです、あとで」と断り、
「あの」
と切り出した。
「はい」
「逃げたくなったら、逃げてもいいですか」
「どこから、どこへ?」
「ここから、ここ以外のどこかへ」
「全然いいよ。なんで逃げないの?」
「まだ本当に逃げたくなってはいないからです」
なぜか清島はしてやったり、という顔になって、三度部屋から出て行った。
「なんだか変な人だね」と澄は言った。
「そう、なんだか変な人なんだよ」
大変な人と変な人ではずいぶん意味合いが違うな、と澄は思ったが、清島の場合はそんなに変わらないなとも思った。
「今あの人、なにかうまいこと言った? けっこう得意そうな顔で出て行ったけど」
「全然」
「変な人だね」
「変な人だよ」
春日部知子は、澄が物心ついたころにはもう、他の家族とはいっさい会わなくなっていたので、澄は彼女が自分以外の人間といるのを見た記憶がなかった。母に言われて伯母の様子を見に来るようになったのはここ二年くらいのことで、その記憶には、この部屋で澄には得体の知れない老人を待っている横顔がくっきりと残るばかりだ。この人は自分に興味がない、という実感は澄にとっては心地の良いものだった。春日部知子にシンパシーを感じている母の幸子は別にしても、春日部の一族は澄をより良く、立派に生きさせようとした。それが澄を苛立たせた時期があった。澄が春日部知子のもとへ通いだした頃のことだ。澄は春日部知子に聞いたことがある。
「私が優等生になったとして、それで誰が幸せになるの?」
「自分、と言いたいところだけど、そうとも限らないね」
「じゃあ、意味ないじゃない」
「この残念なくらい大きな宇宙で、自分がどう生きるか、なんてことにどれほどの意味があるっていうの」
「そうか、意味ないのか」
「それでも、人は自分以外の誰かの幸せを願うとき、果てしなく傲慢になれるのよ」
澄はその頃、学生としてはとんでもない馬鹿やろうで、中学入学の時点で九九は六の段から怪しかったし、三角形の内角の合計は720度だと思っていたし、アメリカは大阪の隣だと思っていた。小学校時代の遠足では、六年連続で迷子になり警察に保護されるという偉業を成し遂げた。それらは彼女が思っているより彼女の周りの大人を怒らせた。なんでかはわからないが、大人はそういうどうでもいいことが大事なのだ、と思い込みはじめていた矢先だった。澄は春日部知子のあまりにも物事に無頓着な姿勢に、ひそかに憧れたりもした。そのあとすぐに、この人そんなにちゃんとした人じゃない、と気づくのだが。
なんにせよ、春日部知子が自分以外の人といて、楽しそうに振る舞っているのが、澄には意味もなく、嬉しかった。
「伯母さん、バイトした?」
「え、いつ?」
「いつって、高校のとき」
「してない。高校のときは」
「じゃあ何してたの、高校のとき」
「高校のときは、先生に暗がりに連れてかれてやらしいことされてた」
「ごめん、聞く人を間違えたみたいだ」
「澄、バイトしたいの?」
「うん、高校に入ったら」
「べつにいつでもできるよ、バイトは」
「お金が欲しいの、お小遣いじゃないやつ」
「なにか欲しいの?」
「だから、お金。何に使うってわけでもないし、なんでかわからないけど、自由に使えるお金って、それが自由の量な気がするから」
「そんなことないよ」
「え?」
「まったくもって、そんなことはない」
「どうして?」
澄は聞いた。
「バイトはね、したの、大人になってから。最近だと、去年した。コンビニ。お金じゃなくて、自分のために使う時間が欲しくて。とりあえずアルバイトのお金は貯金しようと思って、半年でいくら、一年でいくらって計画立てたりして。で、まあ、思ってたよりつまらなくて、すぐやめちゃって、手元にはちょっとだけお金が残った。これで何買ったと思う?」
「わからない。なに?」
「チェロ」
「えー。どこ?」
「もうない。捨てちゃった」
「なんで、もったいない」
「チェロだけあっても、弾き方わからないし、教えてくれる人いないし。聴いてくれる人もいないし。何回かギコギコやって、捨てちゃった。お金でチェロは買えたけど、それで何かが変わったりはしないんだよね」
「チェロじゃなくてべつのものにすればよかったんじゃないの」
「でも、かっこいいなって思ったんだもん」
「友達とか、できなかったの?」
「できたよ。少しは。でもあれは、生ものなのね。冷蔵庫に保管して、こまめにまだ大丈夫だね、って確認しないと、溶けてなくなっちゃうの」
「そのたとえがよくわからないけど、冷凍庫に入れておけばよかったんじゃない」
「うん、私はたぶん、友達の保管が下手なんだろうね。で、また一人で、この檻に戻ってくる」
「……何の話だっけ?」
「だから、お金だけあっても、自由にはなれないよって話」
春日部知子はこの部屋を檻と表現した。愛してくれる人はいる。働かなくてもお金は入ってくる。時間も腐るほどある。新たに愛されることも、お金も、時間も必要としない彼女は、ちっぽけな部屋で少しも自由ではなかった。自由というのは、
「自由というのは、ないものを求める衝動をいう」
と春日部知子は言った。だから、欲しいものがない自分は自由にはなれないのだと。澄はだから、言った。
「ああいう人が欲しかったんじゃないの、伯母さんは」
「ああいう人?」
「あの、犯人みたいな人」
みたいな人、というより犯人そのものだった。春日部知子にはまったく関係ない事件の、ではあるが。清島はいま、すべてを持たざる人だった。それゆえに、すべてを求めていた。そんな清島を春日部知子は、少しだけ愛しく思った。
「そうかもしれない」
あの人は私にとって自由だった。と春日部知子は言った。扉の前に誰かが立った。澄は清島が戻ってきたのかと思ってそちらを見たが、扉が開いて入ってきたのは知らない男だった。
