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飛べないお姫さまのすべて

 鍋を焦がさないようにゆっくりとかきまぜるたび、スパイスのうっすらとした匂いが湯気を伴って部屋を満たしていく。秋山が好むので、春日部知子は好きでもないカレーライスをよくつくった。といっても秋山が彼女のつくった料理を食べることは滅多にない。去年の秋、腰を悪くしてしまってからは特に部屋を訪れることもほとんどなくなってしまった。それでも秋山からの援助が打ち切られることはなく、そうである以上、春日部知子も秋山がいつ部屋を訪れてもいいようにカレーライスをつくって待ち続けているのだ。形だけでも。
 春日部知子にとってカレーライスの匂いは、なつかしい。夕暮れの匂いだ。日が暮れて、友達が帰っていくのに合わせて自分も家に帰る。玄関先までたどり着くと、あたりにはカレーライスの匂いが浮かんでいる。春日部知子の母は料理は得意でなかったがこれだけは人並みにつくれたので、食卓に出た。だから春日部知子にとって家庭での味というとやはりカレーライスのイメージが強い。春日部知子が料理をできる年齢になった頃、彼女の母はもう彼女を愛していなかったので、つくりかたを教わるようなことはなかった。だから彼女のカレーライスは彼女の母がつくるカレーライスとはべつのものだ。それでも、その匂いを嗅ぐたびに、春日部知子は子供の頃に住んでいたあの家の玄関先に立っているような錯覚をする。家の扉を開けてなかに入っていくのが楽しみだった。
 春日部知子はなつかしいものがきらいだ。
 コンロの火を止めて、春日部知子は炊飯器から炊き上がった白米を少しだけ皿にのせた。元々ほとんど食べないので、味見と言って差し支えない量をよそう程度だ。カレーを少しだけかけて、一言も喋ることなく、咀嚼していく。白米のすりつぶされていく音が、聞こえるか聞こえないか。時間をかけることなく飲み込むと、納得したように頷き、鍋を冷蔵庫にしまった。こうして味見だけして冷蔵庫に貯蔵されていく無数のカレー鍋。つくりたてを秋山に食べてもらいたい、なんてことはまるでなく、ただこうでもしないと、膨大な一日という時間を消費しきれないのだ。
「退屈だ」
 と声に出して言ってみる。けれど事実は、空気のように揺らいではくれない。そんなことは知っているので、春日部知子は皿を洗うために部屋を出ていく。この部屋には水道がない。
 だから、春日部知子が勝手に部屋に入ってきた泥棒の清島と出会うのはきれいになった食器を抱えて、ということになった。
「うわああああっ」
 何に驚いたのか清島は春日部知子を見て後ずさった。
「誰?」
 と聞いたのは清島のほうだ、なぜだか。
「誰ってこともないでしょう、私の部屋で」
 春日部知子は自分の声を久しぶりに聞いた気がした。一人でいるときに声を出していないわけではないのだが、誰かに向かって初めて、声は声になるのかもしれないと彼女は思ったりした。
 清島は慌てて外へ走っていき、表札を確認した。そしてすごすご戻ってくると、
「すみません間違えました」
と言った。
「そう、それで、あなたは誰?」
 春日部知子は清島に聞いた。
「えっと、あの、誰っていうか、泥棒です」
「泥棒? この部屋に?」
「あ、いや、この部屋にっていうか、それはもう終わってて、これ」
 しどろもどろに答える清島がおずおずと黒いバッグを差し出した。春日部知子は受け取って中身を見るが、大量の札束について、お金に興味のない彼女の反応はさしてない。春日部知子は清島を見た。これ以上ない完璧な黒ずくめの服装の上に顔には黒い目出し帽をかぶっている。これは確かに、
「泥棒だわ」
 と春日部知子は思った。
「それで、その、それ盗んで、逃げてきて」
「ここに?」
「彼女のとこに」
「でもここは私のとこだよ」
「そうなんですよ」
「なんで?」
「なんででしょうね」
「どうするの?」
「どうしたらいいですか?」
「それ私に聞くの?」
「え、はい」
 ここまでを含めた清島に対する春日部知子の第一印象は「この人馬鹿なんじゃないのか」だった。なにせ人の金を盗んですぐ、まったく知らない人間の部屋で途方に暮れているのだ。バッグのなかに入っていた札束はかなりの金額だったが、よくこれだけのものを盗めたものだ。バナナの皮に滑って失敗でもしそうな男だ。
「滑りましたよ」
「あ、私、何か言ってた?」
「なんだかぶつぶつと」
「独り言かな」
「独り言でしょうね」
 しかしなんともこの切迫してない感じ、というのはどうなんだろうか。「変な人だ」と春日部知子は言い、「聞こえてますよ」と清島は言った。「聞こえるように言ったんだよ」と春日部知子は言い返した。
「あ、お腹空いてる?」
 と春日部知子は聞いた。
「そうですね、はい」
「カレー食べる、さっき作ったから、もう冷蔵庫入れちゃったけど、まだ温かいと思う」
「いいんですか」
「だって頭働いてないでしょ、明らかに。食べてからどうするか、考えたら」
「あ、それいいですね」
「でしょ」
 春日部知子は清島のために食事の準備をする。人のために何かをするのは久しぶりだ。ということに気づいたら、なんとなく指先がふわふわしているような感じがして、ああ今なんだか少し、嬉しいのかもしれないと思った。
「彼女に電話してみたら」
「あ、そうですね。そうします。あ、あの」
「なに」
「カレー、辛いですか」
「そうでもないけど。どうして?」
「あんまり辛いのダメなんです」
 ちょっと温めなおすよ、と春日部知子は言って、カレー鍋をコンロに置いた。清島は携帯電話を取り出して、直美にかけた。なかなか繋がらなくて、清島がおかしいなと感じた頃にようやく直美が出た。
「もしもし」
「あ、直美か」
「うん」
「今どこ」
「今? バイトしてる」
「バイトして電話してるの? え、バイト?」
「休憩中だから気にしないで」
「休憩とかは気にしてないけど、え、なんでバイト?」
「なんでってことはないけど」
「え、俺、今日、あのあれ、やるって言ったよね」
「あれって?」
「あの、金」
「…………」
「ねえ?」
「本当にやったの?」
「え、やるよそりゃ」
「ないない。ダメだってそれ。うわあ。無理」
「なにが」
「夏目さんのとこでしょ、お金」
「うん」
「殺されちゃうよ、キヨシ。ごめん無理」
「ごめんってなに?」
「ごめん、さよなら。付き合いきれない」
「そんな」
「じゃあ、なるべく長く元気でね」
「あ、待って、ねえ、メールに書いてたお前の住所違うんだけど」
「あ、ごめんそれ、超嘘ついた」
「なんで?」
「キヨシがそういうバカなことしたときに私に迷惑かかんないようにだよ」
「なるほど、頭いいなお前」
「じゃあね」
「なちょっ」
 電話は切れた。元々なにも繋がってなんかいない電話に切れた、という表現もおかしいが、冷たくて高くて硬い電子音を聞くと、ああ電話切れたなあと思う。
「なちょってなに?」
 春日部知子がご飯を盛った皿を片手に聞いた。清島は呆然とした頭を押さえながら、
「電話の切れる音です」
 と適当に答えた。まじかよ。
「ああ、いいね、なちょって切れる電話って。がちゃって切れる電話より明るい気がするね。どうだった?」
「びっくりするぐらい悪い結果になりました」
「そう、ご飯これくらいでいい?」
「あ、もう気持ち多めにしてもらっていいですか」
 そう言うと清島はうずくまって、亀のようになってしまった。隙間から、いっやあ、いっやあと、わけのわからないうめき声が聞こえる。
「なにしてるの?」
「絶望してるんです」
「カレーできたけど。食べられる?」
「大丈夫です」
 清島はゆっくりと起き上がって、目の前に出されたカレーライスをもそもそ食べはじめた。春日部知子は自分の料理を人に食べてもらうのが嬉しいので、その様子をじっと見ている。
「美味しい?」
「消しゴムみたいな味がする」
「なにそれ」
「全然まずいとかではないんですけど、消しゴムみたいな味がする」
「消しゴムみたいな味がするカレーはまずいよ、普通」
「や、でも、気を遣ったほうがいいかなって」
「まずいんだ?」
 清島は黙るしかない。まずいとかいう以前に、とにかく消しゴムみたいな味がするのだ。どう伝えていいのかわからないが。
「いいんだよ。べつに美味しくつくってないから」
「まずくつくるんですか? カレーを?」
「自分しか食べないからね」
「でも、美味しいほうがいいんじゃないですか」
「なんで?」
「なんでってことはないですけど」
 清島はそう言うと黙ってカレーを食べた。ものすごく消しゴムみたいな味がするが、消しゴムだって食べられないわけじゃないと思うと、なんとか食べられた。清島の頭のなかには前田くんの顔が浮かんでいた。小学校の同級生で、なぜだか消しゴムを食べるという一発芸で一時期クラスの人気を獲得した。卒業して以降会う機会はなかったが、ラーメン屋で働いているという噂を聞いた。少なくとも前田くんが生きているのだから自分も死にはしないだろう、と清島は自分を励ました。そして猛然と食べた。我慢して食べればそのうち皿は空になる。それを信じて。
「ごちそうさまでした」
 清島は律儀に両手を合わせてから、春日部知子を見た。
「彼女はなんて?」
「なるべく長く元気でね、だそうです」
「ああ、見捨てられたんだね」
「見捨てられましたね」
「そのお金、どうするつもりだったの?」
 春日部知子は聞いた。使い切るには、それなりに時間や手間がかかる量だ。お金に関しては、秋山から毎月振り込まれる額で充分過ぎるほど足りている春日部知子はまったく興味を抱かなかったが、清島は重たそうなバッグを大事そうに抱きしめた。
「これで、やりなおそうと思って」
「なにを?」
「全部、です」
「それは、無理だよ」
「無理ですか」
「そこまで万能じゃないよ、お金は。わかったでしょ、たった今」
 清島はため息を、つかざるをえない。
「一緒にやりなおそうって、言ってたんですけどね」
「彼女と?」
「はい」
「好きだったんだ?」
「もちろん」
「どこが?」
「おっぱいが大きいところ」
「ねえ、私がもしあなたの彼女で、私の知らないところで私を褒めるとき、おっぱいが大きいって理由だったらいやだよ」
「そりゃ、だってあなたは全然おっぱい大きくないじゃないですか」
「そういう話じゃねえよ」
「すいません」
 こいつはとんでもない馬鹿だ、と春日部知子は思った。最低だと思った。もう死ねばいいと思った。清島は春日部知子のおっぱいのあたりに目をやったが、そこでまたため息をついた。春日部知子は清島の鼻の下を前歯が突き出るくらい殴りたい衝動に駆られたが、それはもう切実な衝動だったが、すんでのところで踏みとどまった。そんな自分の鼻の下の危機など知るよしもなく、清島はのんきそうに聞いた。
「あの、煙草吸ってもいいですか?」
「ここではダメ。外に場所あるから」
「あ、はい」
「ついでにこれ、洗ってきて」
 春日部知子はそう言って清島が使った食器を指す。清島は本当に嫌そうな顔をして、
「まじですか」
 と言った。
「自分で使ったんだから」
「でも俺、食べたんですよ」
「だから、食べたんでしょ」
「あの消しゴムみたいなカレーを」
「だから?」
「そのうえ皿も洗うんですか?」
「で?」
「いやです」
「他に言うことは?」
「ないです」
「じゃあ、洗ってきて」
「……はい」
 あれ、と首をかしげながら清島は食器を持って出ていく。春日部知子は鍋を片づけたりしながら、相手の質、みたいなものは置いておいて、久しぶりに人と話すという行為に、少しだけ気分が高揚していた。
 春日部知子は、十九歳のときに高校時代の教師だった秋山の愛人になった。就職に失敗してあてもなくふらふらしていた彼女に、高校時代から目をつけていた秋山の申し出は魅力的だった。以来、秋山の契約したこの小さなアパートの一室で、定期的に振り込まれてくる生活費を糧に、時々やってくる秋山の相手をしながら、春日部知子は世の中から忘れ去られたようにひっそりと過ごした。秋山は柔和な顔をした紳士的な老人で、出世のために結婚して築いたという家庭に安らぎを見いだせず、春日部知子の若い肉体に愛情を注いだ。はじめの数年は三日と空けることなくこの部屋を訪れたが、年齢という物理的な事情もあり、少しずつその頻度は減っていった。春日部知子は待つことしかできなかったが、それでも月に一度は訪れる秋山の顔を見るたび、世界が自分を思い出してくれたような気がして嬉しかった。しかし去年の秋、階段から落ちて腰を痛めてしまったという手紙が来て以降、秋山はこの部屋を訪れていない。連絡もない。生活費の振り込みだけは続いているが、それもいつまで続くかわからないと彼女は思う。そこへ思い至ってようやく、秋山という出資者の他には何も持たない、三十五歳になった自分と向き合わざるをえないことに気づく。完全に手詰まりだった。秋山が元気な姿で姿を現してくれるのを願いつつ、ただこの生活が終わるのを待つしかなかった。自分の無力さを思うと、笑えた。
 洗い終わった食器を持って扉を開けると、春日部知子が爆笑していたので清島は不安になった。この人やばいんじゃないかと思ったのだ。何かがおかしくて笑っているようには見えなかった。
「どうしたんですか」
 清島はおそるおそる聞いた。春日部知子は何事もなかったかのように、
「考えたんだけど」
 と切り出した。「なんですか?」
「なにか武器持ってる?」
「武器ですか」
「泥棒だったら何か持ってるかなって」
「ああ、一応、ありますけど」
 と言って清島は懐から包丁を出した。刃先がタオルでぐるぐる巻きにされて、かたく縛られている。使うことは全然考えていなかったのだろうか。
「なにそれ、うちにもあるよ」
「そりゃ、うちにあるものでなんとかするしかないでしょう」
「どこから盗んだの、お金」
「あ、事務所です、組の」
「組?」
「俺、一応ヤクザなんで」
 こんな間抜けなヤクザがいるものか、と春日部知子は思った。声に出してしまったかもしれない。いや、清島の「え」というこれまた間抜けな相槌が聞こえたから、出してしまったのだろう。
「こっそりやったの?」
「はい?」
「誰かに見られたりしなかったの?」
「それはもう、誰もいないタイミングで。俺喧嘩弱いんで」
「協力してあげようか」
 という春日部知子の突然の提案に、清島はただ目を丸くした。この人やばいんじゃないかと思った。こんな短時間で二回もこの人やばいんじゃないかって思った記憶は、清島にはない。
「何言ってるんですか?」
「その包丁で、私を脅せばいい。ほとぼりが冷めるまで、ここにいればいいよ。ほとんど誰も来ないから、見つかる心配はないし。私は人質。その代わり、そのお金半分ちょうだい」
「この金で、どうするんです?」
「やりなおすの」
「なにを?」
「ええと、全部?」
「そこまでお金は万能じゃない、って言ってませんでした?」
「それでも、私を救うぐらいはできるでしょう」
「どうかなあ、あんまり信用しないほうがいいと思うけどなあ」
「どう?」
「質問があるんですけど」
「どうぞ」
「断ったら?」
「通報するよ、そりゃ」
「そうですよね。じゃあもうひとつ」
「なに」
「この場合、脅してるのはどっちなんでしょうね?」
「そっちでしょう、そりゃあ。武器もあるし」
「この部屋にもあるんでしょう」
「あるけど、使わないよ、私は」
 清島は足りない頭で何かを考え込んでいたようだが、やがて決断したように頷いた。
「あの、俺もさっき考えたんですけど」
「なに?」
「米をちゃんと研いでないんじゃないですかね」
「米?」
 春日部知子は何を言っているのかわからなかったが、清島はいたって真面目な顔をしている。といっても、目出し帽をかぶっているのでよくわからないのだが。
「あのカレー消しゴムみたいな味したけど、もしかしたら、米をちゃんと研いでないから、ぬかが残ってそれが消しゴムっぽい味になったんじゃないかと思って」
「……ああ」
「そういうのダメですって、たしかに栄養あるけど、カレーには合わないですよ。なんかなんかぬるぬるしてたもんなあ米。こういうこと言うの、あれですけど、やっぱり食材に対する敬意って必要だと思いますよ。ちょっと手間かけたら美味しくなるのに、横着して台無しにしちゃうっていうのはちょっと」
「ねえ」
「はい」
「それ今重要?」
「あ、じゃないですか?」
「全然」
「ええと、俺はどうしたらいいですか?」
「とりあえずそのタオル、はずしたら」
 春日部知子は包丁をくるんでいるそれを指さした。
「あ、もう話決まったことになってるんですね」
「私はべつに通報でもいいけど?」
 清島はタオルを剥がすしかない。
「できました」
「じゃあそれをこっちに向けて」
「え、はい」
「あ、危ないから刃先上に向けないで」
「あ、そうですね」
「なんか脅してみて」
「なんかって?」
「適当に」
「ええ……じゃあ、こらあ」
「こらあってなに。棒読みだし。やる気あるの?」
「そんなこと言われても」
「通報されたいの?」
「あの、全然脅してる気分じゃないんですけど」
「がんばってよ」
「これ必要あるんですか?」
「だって、ほら、雰囲気って大事でしょ?」
「それはもう無理だと思うんですけど」
「何事も経験よ。ほら」
 春日部知子は清島に来い、というジェスチャーを送る。清島はしかたなく「こらー」とか「手を挙げろ」とか脅し文句を並べてみるが、本来こういう場にあるべき緊張感がまったく欠落しているので、どうにも締まらない。
「大人しくしないと、あの、あれだぞ」
「あれってなによ」
「え、あの、怒るっていうか」
「ねえ」
「なんですか、せっかく今のってきたのに」
「のってない。さっきその覆面で皿洗いに行ったの?」
「ああ、とってないですね」
 想像してしまった。シュール過ぎる。黒ずくめの覆面男が、カレーのこびりついた皿を洗っている。日常とそうでないものの、最悪のミスマッチだ。春日部知子の顔がみるみるにやけだしたので、清島は気味が悪くなる。
「あの、なにかまずかったですか?」
「いや、もうしょうがないけど。それ、暑くないの?」
「暑いですね、すげえ蒸れます」
「もうとっちゃえば?」
「え、いいんですか?」
「べつにどっちでもいいけど」
「じゃあ、失礼します」
 そう言って清島は目出し帽を脱いだ。思っていたよりも若い顔立ちが、生地の内側の熱気で軽く上気していた。外の涼気にあたって息をついた。
「そんな顔してたんだ」
「すいません」
「謝ることはないでしょ」
「じゃあ、続けましょうか」
「あ、ねえ、こういうときって縛られたりするものかな」
「はい?」
「手足とか」
「ああ、そうかもしれませんね」
「どこかに紐あったかな」
 春日部知子はそう言って部屋のなかを探し始めた。たぶんそうだろうと思っていたが、もう間違いなく、この人はこの状況を楽しんでいる。清島は春日部知子の後姿を眺めながら、苦笑いした。ほどなくして戸棚からビニール紐を見つけてきて、清島に渡した。
「こんなんしかないけど、いい?」
「や、俺は全然」
「じゃあ、はい」
 と春日部知子は両腕を突き出した。清島は戸惑いながらもなんとかそれっぽく、腕に紐を巻きつけていく。ある程度動きを拘束された両腕に春日部知子は「おお、すごい」と無邪気にはしゃいでいるが、なにが嬉しいのかさっぱりわからない。続いて足も縛ろうとすると、
「ああ、足はいいよ」
 と言われた。
「え、どうして?」
「だって動けなくなるじゃない」
 いや、そうするためにやるんですけどね、とは思っても、清島は言えなかった。もうこの人に逆らっても無駄だ、というあきらめにたどりつきつつあった。
「じゃあ、引きつづき脅して」
「まだやるんですか?」
 清島はうんざり、という表情で問い返す。
「だって犯人と人質がいて、やること他にないでしょう」
「犯人って何の?」
「泥棒」
「そうだけど、ここで泥棒したんじゃないですよ」
「でも、したでしょう。ほら」
 えらいところに匿われてしまった、と清島は思った。けれど、味はどうあれ食事をご馳走になってしまったし、内容はどうあれ匿ってもらっているのも事実なので、相手が満足するまで付き合うしかない。誰もいなかったとはいえ、事務所の金庫から金を盗み出すのは相応のプレッシャーがあったし、直美にも見捨てられて、正直なところかなりくたびれていた。それでも、となけなしの気力を振り絞って、なんとか犯人っぽいイメージを演じてみようと体に力を入れた。
「食べちゃうぞお」
「それはなんか違わない?」
「すいません、今のは自分でもちょっと、間違えたと思いました」
「もっとなにか、重い過去を背負ってるといいんだけどねえ」
「それは今からだとちょっと無理です」
「じゃあもうむしろ、謝ってみたら。武器ふりかざして」
「……なんで?」
「逆転の発想、というか」
「まあ、やってみますけど」
 清島は大きく深呼吸をする。俺はいったい何をやっているんだろう、とは思わないことにした。思ってしまうと、多分、心が折れる。余計なことは考えないようにする。
「泥棒なんかしてすみませんでした」
 いややっぱりこれなんか違う、と言いかけたときに扉が開いた。中学生くらいと思しき制服を着た女の子が玄関に立ってこちらを見ている。清島は思ってしまった。俺は何をやっているんだろう。
「それ、何かのプレイ?」
春日部澄は言った。
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