伝承皇帝期略史
【帝国から共和国への変遷・民主共和の時代へ】
アバロンへ帰還したクラウディア帝一行は、臣民から盛大に歓迎された。行われた式典は、それまでの何よりも規模が大きかったと言われる。
この時、恐らくは誰もが、うら若き乙女の姿をした『新たなる英雄』による大帝国の新時代を思い描いていた事だろう。しかし、実際そうはならなかった。
帰還直後、クラウディア帝は突如退位を表明。更には自身の退位をもって帝政をも終了すると発表した。
どうやら彼女は、即位時、若しくはそれよりも以前から、『七英雄完全討伐』という最大目標が達成されたその時には退位する、という決意を固めていたようだ。『武帝』を名乗り国政に深く関わらないようにしたのも、執政面で無用の混乱を引き起こすまいと考えた為だったとする手記もある。七英雄との決戦に勝利したとしても、その後も自身の命があるかどうかはわからない、といった部分もあっただろう。
ごく近しい人物に対しても、一部にしかこの決意を明かしていなかったとみられる。少なくとも、後に執政官となったハクゲンや、伯父ロレンス・双子の兄アルジャンの二人の為政帝には打ち明けていたであろうが、その他の側近達も退位表明に際しては相当に驚いたという。
この退位表明の理由とされるのが、以下のふたつの説である。
ひとつは、上記の決意通り、七英雄の完全撃破を成し遂げた事により自身の役目は終わったとして潔く辞し、政治的側面についてはそれまでと同じく為政帝に一任する事とした(共和制への移行は他者の意見を取り入れた結果である)、とする説。
もうひとつは、個人的な問題ではあるが、『核』破壊時に心身共に疲弊しきっており、最早大国を取り纏める主として立つだけの余力が無かった、とする説。
クラウディア帝自身が明確な理由を明かしていない為に推測の域を出ないが、これらについては、手記や演説である程度ほのめかされている為に、事実であると見て良いだろう。ただ、一部伝書によれば、最大の理由は別のところにあったようだ。
七英雄は強大すぎる力を持っていた為に、それを懼れた人々との間に亀裂が生じ、内紛を引き起こしたとされる。ともすれば伝承皇帝がその二の舞となりかねない事は、特に伝承法時代中期以降、主に政治学・心理学者の間では恒例の議題となっていた。武力面での逸話ばかりが目立つクラウディア帝ではあるが、聡明な彼女がこれを承知していなかったとは考えにくい。故に、伝承皇帝に頼りきりだった統治体制を解体し、自らは第一線を退く事が、無用の争乱を避ける為の必須事項であると考えたのではないだろうか。だからこそ即位時から己の進退について考えていた、とも推測出来る。
斯くてクラウディア帝は退位、伝承法と共に帝国としての時代も終焉を迎え、バレンヌは共和国として再出発する事となった。
共和制への移行後数年は最後の為政帝であったアルジャンが名目上のトップとして国を取り纏めていたが、行政が安定してくると次第に地方分権化が進み、移行後10年を迎える頃には個人としての首領は無く、理想的な民主共和の社会へと転化していく。嘗て併合された国家・民族が再び独立するなど分権による弊害とみなされる事態もあるにはあるが、少なくともこれまでに戦乱や目立つ国政悪化などは起きていない。
なお、クラウディア帝のその後であるが、退位直後にミラマー近隣へ移り住んだらしいという情報を最後に、人々の前から完全に姿を消している。移住もあくまで噂の域を出ず、非公式に国政に参加していたとする伝記もあるが、此方についても確証は無い。
晩年については、移住直後に早世したとも、未踏の地・アウストラスを越えて別の国へ渡ったとも言われる。双子の兄であるアルジャン帝は死後『最後の皇帝』として国葬が執り行われた上で霊廟に葬られたが、クラウディア帝の没年・墓所は不明で、兄の墓碑銘の横にその名が刻まれ、慎ましい記念碑が建つのみである。
アバロンへ帰還したクラウディア帝一行は、臣民から盛大に歓迎された。行われた式典は、それまでの何よりも規模が大きかったと言われる。
この時、恐らくは誰もが、うら若き乙女の姿をした『新たなる英雄』による大帝国の新時代を思い描いていた事だろう。しかし、実際そうはならなかった。
帰還直後、クラウディア帝は突如退位を表明。更には自身の退位をもって帝政をも終了すると発表した。
どうやら彼女は、即位時、若しくはそれよりも以前から、『七英雄完全討伐』という最大目標が達成されたその時には退位する、という決意を固めていたようだ。『武帝』を名乗り国政に深く関わらないようにしたのも、執政面で無用の混乱を引き起こすまいと考えた為だったとする手記もある。七英雄との決戦に勝利したとしても、その後も自身の命があるかどうかはわからない、といった部分もあっただろう。
ごく近しい人物に対しても、一部にしかこの決意を明かしていなかったとみられる。少なくとも、後に執政官となったハクゲンや、伯父ロレンス・双子の兄アルジャンの二人の為政帝には打ち明けていたであろうが、その他の側近達も退位表明に際しては相当に驚いたという。
この退位表明の理由とされるのが、以下のふたつの説である。
ひとつは、上記の決意通り、七英雄の完全撃破を成し遂げた事により自身の役目は終わったとして潔く辞し、政治的側面についてはそれまでと同じく為政帝に一任する事とした(共和制への移行は他者の意見を取り入れた結果である)、とする説。
もうひとつは、個人的な問題ではあるが、『核』破壊時に心身共に疲弊しきっており、最早大国を取り纏める主として立つだけの余力が無かった、とする説。
クラウディア帝自身が明確な理由を明かしていない為に推測の域を出ないが、これらについては、手記や演説である程度ほのめかされている為に、事実であると見て良いだろう。ただ、一部伝書によれば、最大の理由は別のところにあったようだ。
七英雄は強大すぎる力を持っていた為に、それを懼れた人々との間に亀裂が生じ、内紛を引き起こしたとされる。ともすれば伝承皇帝がその二の舞となりかねない事は、特に伝承法時代中期以降、主に政治学・心理学者の間では恒例の議題となっていた。武力面での逸話ばかりが目立つクラウディア帝ではあるが、聡明な彼女がこれを承知していなかったとは考えにくい。故に、伝承皇帝に頼りきりだった統治体制を解体し、自らは第一線を退く事が、無用の争乱を避ける為の必須事項であると考えたのではないだろうか。だからこそ即位時から己の進退について考えていた、とも推測出来る。
斯くてクラウディア帝は退位、伝承法と共に帝国としての時代も終焉を迎え、バレンヌは共和国として再出発する事となった。
共和制への移行後数年は最後の為政帝であったアルジャンが名目上のトップとして国を取り纏めていたが、行政が安定してくると次第に地方分権化が進み、移行後10年を迎える頃には個人としての首領は無く、理想的な民主共和の社会へと転化していく。嘗て併合された国家・民族が再び独立するなど分権による弊害とみなされる事態もあるにはあるが、少なくともこれまでに戦乱や目立つ国政悪化などは起きていない。
なお、クラウディア帝のその後であるが、退位直後にミラマー近隣へ移り住んだらしいという情報を最後に、人々の前から完全に姿を消している。移住もあくまで噂の域を出ず、非公式に国政に参加していたとする伝記もあるが、此方についても確証は無い。
晩年については、移住直後に早世したとも、未踏の地・アウストラスを越えて別の国へ渡ったとも言われる。双子の兄であるアルジャン帝は死後『最後の皇帝』として国葬が執り行われた上で霊廟に葬られたが、クラウディア帝の没年・墓所は不明で、兄の墓碑銘の横にその名が刻まれ、慎ましい記念碑が建つのみである。