伝承皇帝期略史
【第六代伝承皇帝『義帝』ベネディクト】
帝国歴1600年前後はモンスターの活動が少なく、その点においては比較的穏やかな時代となっている。脅威に悩まされる事の少なくなった人々はより豊かさを求め、生活環境は向上し、文明もこの頃が一番の発展期とされる。
そんな時代の終盤に登場したのが、第六代伝承皇帝・ベネディクトである。
ベネディクト帝は、父親に元帝国歩兵団長・フェルディナント、母親に術研の嘱託研究員であるアイリスを持ち、自身も両親から受け継いだそれぞれの才に優れており、カンバーランドでホーリーオーダーとなった頃から既に一歩抜きん出た者として注目を集めていたようだ。即位直前には為政帝の近衛部隊に選抜されている事からも、その能力の高さが覗える。
即位時27歳という年齢は、歴代伝承皇帝の中で最も高い。伝承法にはいまだ謎が多いが、適性を持つ者が10代の若者(時にはライブラ帝やクラウディア帝のような幼子)である場合が多い事から、能力を発現させる為にある程度若い者の方が好ましいと考えられる。20代で適性発覚・即位した者はこのベネディクト帝と、25歳で即位した第四代伝承皇帝・ガルタンの2名のみであり、やや珍しいと言えよう。
比較的平和な時代という事もあってか、ベネディクト帝は歴代で最も国政を重要視した伝承皇帝として知られる。
施政そのものは為政帝ニコルに一任している為に功績としては少ないものの、当代における発案の多くはベネディクト帝自身のものであるとされる。その中でも注目すべきは、内閣の発足と軍事システムの再構築の二点であろう。
それまでのバレンヌは、伝承皇帝若しくは為政帝による独裁体制が基本であり、必要に応じて公聴会を開くという政治形態を取っていた。
国土の拡大と人口増加に伴い、より公聴会の重要性が増すと考えたベネディクト帝は、伝承皇帝や為政帝に次ぐ権限を持つ議会の組織を提案。これを受け、為政帝ニコルがバレンヌ・カンバーランド貴族から5名、各民族や地方組織の代表者から5名、学者・研究者から3名、その他一般市民有志から7名の計20名体制で第一次内閣を組閣した。
時代によって多少人数バランスや組織編制に差はあるが、この内閣制度は帝政の終了まで続いており、共和制への移行後も代表者会議及び国家運営組織の基本形態として受け継がれている。また、第四次内閣以降には下部組織として常議会が設置されるなど、一般市民が直接政治に関わる場が出来た事により、意識向上や文化的発展にも一役買っている。
軍事システムの再構築も、発展に伴う軍組織そのものの肥大化が理由とされる。一度組織を組み直す事で帝国への帰属意識を末端まで行き渡らせ、反乱や内部抗争を未然に防ぐのが目的である。
特に重要視されたのが海軍であった。当時のバレンヌ海軍は本来の帝国軍とは異なる立場にあり、武装商船団の中にある小隊グループだった。そもそも内部抗争の多かった武装商船団という組織の性格を鑑みて、より念入りに手を入れる必要があったのであろう。
また、地方においては駐屯隊と自警団との協力条例を施行し、各地の伝統的な流儀を重んじた政策を奨励した事も有名である。ベネディクト帝が各種伝統を重んじる性格であった事も知られる通りで、これにより文化教育なども盛んとなっている。
このような大々的な改革がベネディクト帝の名義となっていないのは、彼自身が在位期間の殆どを行軍に費やした結果であると言える。
比較的安穏とした時代にあって、唯一殺伐とした雰囲気を纏っていたのがヤウダ地方であった。同地は以前から七英雄の一人ワグナスと交戦状態にあり、それがクワワ帝時代に起きたヤウダ憂乱の一因ともなっている。当時のヤウダ君主・アト王が統治権の禅譲を申し出た事で同地が帝国領となって以降もワグナスによる侵攻は収まらず、人々は侵攻の度に近隣の町へ避難する生活を余儀なくされていた。幸い侵攻と言ってもあまり程度の酷いものではなかったようだが、旧王朝時代の城の陥落や長引く避難生活など、金銭・精神的被害は年々増える一方であった。
ベネディクト帝は即位前からこの問題について心を痛めていたという。そして即位後の1680年、遂にワグナス討伐を掲げた大遠征を開始する。
実は、この遠征の前年にも、ベネディクト帝はヤウダへ渡っている。表向きは被災地慰問という名目であったが、ワグナスの元へ密使を遣わし、内密に対談しているのである。
そもそも、ワグナスの侵攻には『一般市民を直接傷付けない』という特徴(『ヤウダ遠征録』においては『侵略者らしい荒っぽさが見受けられない』とも表現されている)があった。此処に着目したベネディクト帝は、ワグナス側の目的が武力による制圧ではないと考え、真意を問う為に一度会談の場を設ける事にしたのだという。
ワグナスはこれに応じたものの、侵攻の目的については最後まで明かさなかった。一貫してヤウダ地方とその近隣地域の支配権、及び帝国側の不干渉を要求し、金銭などの対価には一切譲歩の姿勢が無かったという。結果、交渉は決裂した。
ベネディクト帝も勿論だが、ワグナスの態度に最も腹を立てたのは護衛として付いていたテッシュウであると言われる。彼はヤウダの出身であり、郷里を脅かし続けるワグナスを相当憎んでいたのであろう。
それを受けての討伐遠征である。ベネディクト帝は当時主な標的となっていたリャンシャンへ軍を向け侵攻の足止めを試みると同時に、各所から精鋭を集めた少数の親兵隊を連れ、隙を見てワグナスの繰る空中城砦、通称『浮遊城』へと昇った。親兵隊の中にはテッシュウも居り、全体にヤウダ出身者を重用した形になっていたという。
城砦内部での戦いは、地上の侵攻とは比べものにならない程、困窮を極めたと言われる。
苦戦の末にワグナス討伐は成り、ヤウダにも平穏が訪れた。遠征の開始から2年、侵攻開始からはおよそ300年後の出来事であった。
ワグナスの討伐後もベネディクト帝は度々ヤウダへ赴き、復興に尽力している。またアバロンへの帰還後はヤウダ憂乱とワグナス討伐遠征について纏めた『ヤウダ遠征録』を編纂し、戦乱の記憶を忘れぬようにと原典をヤウダ筆頭家へ寄贈した。
この中では、ワグナスについて『敵意無き者には刃を振るわぬ、一本筋の通った気概の持ち主』と評している。これには賛否両論あったようだが、ワグナスが嘗て多くの人々を救った英雄であった事もまた事実なのである。
1687年、ベネディクト帝は『自身の使命はヤウダに他地域と同等の平和をもたらす事であり、最早それは成っている』として、惜しまれながら退位した。国政参加の続投を望む声もあったというが、その後はカンバーランドへ戻り一介の騎士として一生を終えた。
ホーリーオーダーへの復帰後には結婚し一女をもうけ、子孫は今でもカンバーランドに住んでいる。
死去に際しては国葬が執り行われ、カンバーランドと出生地ソーモンに分骨、双方に記念碑が建てられている。
帝国歴1600年前後はモンスターの活動が少なく、その点においては比較的穏やかな時代となっている。脅威に悩まされる事の少なくなった人々はより豊かさを求め、生活環境は向上し、文明もこの頃が一番の発展期とされる。
そんな時代の終盤に登場したのが、第六代伝承皇帝・ベネディクトである。
ベネディクト帝は、父親に元帝国歩兵団長・フェルディナント、母親に術研の嘱託研究員であるアイリスを持ち、自身も両親から受け継いだそれぞれの才に優れており、カンバーランドでホーリーオーダーとなった頃から既に一歩抜きん出た者として注目を集めていたようだ。即位直前には為政帝の近衛部隊に選抜されている事からも、その能力の高さが覗える。
即位時27歳という年齢は、歴代伝承皇帝の中で最も高い。伝承法にはいまだ謎が多いが、適性を持つ者が10代の若者(時にはライブラ帝やクラウディア帝のような幼子)である場合が多い事から、能力を発現させる為にある程度若い者の方が好ましいと考えられる。20代で適性発覚・即位した者はこのベネディクト帝と、25歳で即位した第四代伝承皇帝・ガルタンの2名のみであり、やや珍しいと言えよう。
比較的平和な時代という事もあってか、ベネディクト帝は歴代で最も国政を重要視した伝承皇帝として知られる。
施政そのものは為政帝ニコルに一任している為に功績としては少ないものの、当代における発案の多くはベネディクト帝自身のものであるとされる。その中でも注目すべきは、内閣の発足と軍事システムの再構築の二点であろう。
それまでのバレンヌは、伝承皇帝若しくは為政帝による独裁体制が基本であり、必要に応じて公聴会を開くという政治形態を取っていた。
国土の拡大と人口増加に伴い、より公聴会の重要性が増すと考えたベネディクト帝は、伝承皇帝や為政帝に次ぐ権限を持つ議会の組織を提案。これを受け、為政帝ニコルがバレンヌ・カンバーランド貴族から5名、各民族や地方組織の代表者から5名、学者・研究者から3名、その他一般市民有志から7名の計20名体制で第一次内閣を組閣した。
時代によって多少人数バランスや組織編制に差はあるが、この内閣制度は帝政の終了まで続いており、共和制への移行後も代表者会議及び国家運営組織の基本形態として受け継がれている。また、第四次内閣以降には下部組織として常議会が設置されるなど、一般市民が直接政治に関わる場が出来た事により、意識向上や文化的発展にも一役買っている。
軍事システムの再構築も、発展に伴う軍組織そのものの肥大化が理由とされる。一度組織を組み直す事で帝国への帰属意識を末端まで行き渡らせ、反乱や内部抗争を未然に防ぐのが目的である。
特に重要視されたのが海軍であった。当時のバレンヌ海軍は本来の帝国軍とは異なる立場にあり、武装商船団の中にある小隊グループだった。そもそも内部抗争の多かった武装商船団という組織の性格を鑑みて、より念入りに手を入れる必要があったのであろう。
また、地方においては駐屯隊と自警団との協力条例を施行し、各地の伝統的な流儀を重んじた政策を奨励した事も有名である。ベネディクト帝が各種伝統を重んじる性格であった事も知られる通りで、これにより文化教育なども盛んとなっている。
このような大々的な改革がベネディクト帝の名義となっていないのは、彼自身が在位期間の殆どを行軍に費やした結果であると言える。
比較的安穏とした時代にあって、唯一殺伐とした雰囲気を纏っていたのがヤウダ地方であった。同地は以前から七英雄の一人ワグナスと交戦状態にあり、それがクワワ帝時代に起きたヤウダ憂乱の一因ともなっている。当時のヤウダ君主・アト王が統治権の禅譲を申し出た事で同地が帝国領となって以降もワグナスによる侵攻は収まらず、人々は侵攻の度に近隣の町へ避難する生活を余儀なくされていた。幸い侵攻と言ってもあまり程度の酷いものではなかったようだが、旧王朝時代の城の陥落や長引く避難生活など、金銭・精神的被害は年々増える一方であった。
ベネディクト帝は即位前からこの問題について心を痛めていたという。そして即位後の1680年、遂にワグナス討伐を掲げた大遠征を開始する。
実は、この遠征の前年にも、ベネディクト帝はヤウダへ渡っている。表向きは被災地慰問という名目であったが、ワグナスの元へ密使を遣わし、内密に対談しているのである。
そもそも、ワグナスの侵攻には『一般市民を直接傷付けない』という特徴(『ヤウダ遠征録』においては『侵略者らしい荒っぽさが見受けられない』とも表現されている)があった。此処に着目したベネディクト帝は、ワグナス側の目的が武力による制圧ではないと考え、真意を問う為に一度会談の場を設ける事にしたのだという。
ワグナスはこれに応じたものの、侵攻の目的については最後まで明かさなかった。一貫してヤウダ地方とその近隣地域の支配権、及び帝国側の不干渉を要求し、金銭などの対価には一切譲歩の姿勢が無かったという。結果、交渉は決裂した。
ベネディクト帝も勿論だが、ワグナスの態度に最も腹を立てたのは護衛として付いていたテッシュウであると言われる。彼はヤウダの出身であり、郷里を脅かし続けるワグナスを相当憎んでいたのであろう。
それを受けての討伐遠征である。ベネディクト帝は当時主な標的となっていたリャンシャンへ軍を向け侵攻の足止めを試みると同時に、各所から精鋭を集めた少数の親兵隊を連れ、隙を見てワグナスの繰る空中城砦、通称『浮遊城』へと昇った。親兵隊の中にはテッシュウも居り、全体にヤウダ出身者を重用した形になっていたという。
城砦内部での戦いは、地上の侵攻とは比べものにならない程、困窮を極めたと言われる。
苦戦の末にワグナス討伐は成り、ヤウダにも平穏が訪れた。遠征の開始から2年、侵攻開始からはおよそ300年後の出来事であった。
ワグナスの討伐後もベネディクト帝は度々ヤウダへ赴き、復興に尽力している。またアバロンへの帰還後はヤウダ憂乱とワグナス討伐遠征について纏めた『ヤウダ遠征録』を編纂し、戦乱の記憶を忘れぬようにと原典をヤウダ筆頭家へ寄贈した。
この中では、ワグナスについて『敵意無き者には刃を振るわぬ、一本筋の通った気概の持ち主』と評している。これには賛否両論あったようだが、ワグナスが嘗て多くの人々を救った英雄であった事もまた事実なのである。
1687年、ベネディクト帝は『自身の使命はヤウダに他地域と同等の平和をもたらす事であり、最早それは成っている』として、惜しまれながら退位した。国政参加の続投を望む声もあったというが、その後はカンバーランドへ戻り一介の騎士として一生を終えた。
ホーリーオーダーへの復帰後には結婚し一女をもうけ、子孫は今でもカンバーランドに住んでいる。
死去に際しては国葬が執り行われ、カンバーランドと出生地ソーモンに分骨、双方に記念碑が建てられている。