伝承皇帝期略史
【第五代伝承皇帝『憂帝』クワワ】
ガルタン帝の没後、約80年の間を置いて即位した第五代伝承皇帝も、異民族の出身者であった。歴代で最もミステリアスと言われるクワワ帝である。
ハンター一族頭領の末子として生まれた彼は、生来の腕を生かす為、15歳で上京し弓兵として帝国軍に所属していた。若年でありながら、その強弓ぶりと実戦での気転の利く立ち回りは、歴戦の猛者にも引けを取らなかったという。
上京から3年後に伝承法適性が発覚し即位、東国ヤウダの内紛を調停した事で同地を併合し国土を広げ、更に数年後には七英雄の一人ダンターグの撃破という功績も上げている。政治面では主に社会福祉事業を推奨しており、また側近の一人であるマチルダが残した手記に『自身の不益・苦痛を省みない、馬鹿正直とも言える程のお人好し』と評した記述が見られる事などから、子供向けの伝記読本などでは善人の代名詞として描かれる場合が多い。
しかし困った事に、このクワワ帝、如何にせん関連資料が少なく、在位中の詳細や逸話はほぼ全て口伝に頼っているのである。これこそがミステリアスと言われる所以で、学者や歴史家は大いに頭を悩ませている。
後年になって第七代伝承皇帝(終帝)・クラウディアが伝承法による記憶に基き纏めた『伝承皇帝録』により、ヤウダの内紛に介入した経緯とダンターグ撃破前後の足跡はある程度明らかとなったものの、それでも17年の在位期間には空白が目立つ。ただ、クラウディア帝が『謎のままで終わらせた方が良い事もある』と同書で語っている通り、あまり深くまで追求せぬ方が彼の名誉の為となるのかも知れない。
ヤウダの内紛に武力介入した切っ掛けは、移民・帰化人による署名活動だったとされる。伝承皇帝期になり着々と国土を広げていたバレンヌは、優秀な人材を幅広く登用する為に彼等を多く受け入れるようになっていた。反面、ヤウダは1300年代末期頃から断続的にワグナスによる襲撃を受け始めた事により国力が衰退し、自国外に安住の地を求める者も少なくはなかった。そこへ権力者の横暴が重なった為に、帝国及び伝承皇帝の力に頼る事にしたのだという。
内紛調停後、統治権の禅譲を受け、ヤウダは帝国領となった。但しワグナスによる襲撃についてはあまり状況が変わらず、ベネディクト帝の時代まで持ち越される事となる。
ダンターグとの遭遇は全くの偶然で、先代ガルタン帝のロックブーケ撃破に近い状況であったらしい。視察に向かったナゼール地方で現地民から迷子の話を聞き及び、放ってはおけないからと探しに出た先での出来事という辺りに、クワワ帝の人柄を感じる。一国を預かる者としては些か軽率に過ぎる行動だが、如何にも『お人好し』らしい、人好きのする行動である。
唯一、その死については国政を巻き込む騒動となった為か、割合はっきりとした顛末が判明している。
1607年、アバロン市街からやや離れた場所にある帝国軍の訓練所が突如爆発するという事故が起こる。まだ開発中で実験許可の下りていなかった魔術式を誤って使用した事が原因と見られ、未完成な式の暴走により被害が拡大。クワワ帝が沈静に向かったところで建物が倒壊し、それに巻き込まれてしまったのだという。
但し、これには疑問点も多い。開発中の術式を扱えるのは術研に所属する研究者のみであり、門外不出である筈の未完成な術式の誤使用が、術研の実験棟ではなく帝国軍の訓練所で起きたという事がそもそも異常である。その性格を鑑みればクワワ帝自ら沈静に向かう事は決して不自然ではないにしても、優秀な軍人でもあった彼が、燃え盛り倒壊の危険もある建物に、何の備えも無くいきなり足を踏み入れたりするだろうか。更に言えば、訓練所は倒壊からそう間を置かずして再建されており、費用の出所も疑わしい。
当時からそれらの点については物議を醸していたようだが、当のクワワ帝が実際に行方不明となっている事から、遺体の発見が出来ぬまま死亡という扱いになっている。形式としての国葬が行われ、軍事施設各所に記念碑が建てられた。
本来ならばこの時点で更なる追調査が行われるべきところだが、直後に焚書運動が起きた為に有耶無耶なままとなってしまったようだ。
この焚書運動は、元よりクワワ帝に不満を抱いていた一派が、在位時の進軍・視察に関する資料を一斉に破棄した事に始まる。反乱にも等しい行為である事から、時の為政帝ヴィンセントが対応し関係者を処分。騒動そのものは短期間で終息したが、これが原因で貴重な資料が失われる結果となり、多くの事象が謎に包まれているのである。
一説によれば、これを扇動したのはクワワ帝の側近としても活躍した遊撃隊長・パーシアスであるという。しかし彼自身も直後に消息不明となっている為、事の真偽、並びに彼がクワワ帝に対しどのような思いを抱いていたのかは、不明なままとなっている。
史実的な懐疑点の多さ故に、作家や脚本家による脚色では『クワワ帝生存説』の人気も高い。事故に見せかけた暗殺騒動から辛うじて逃れ、身分を偽りつつも幸せな余生を送った、というのが一般的な筋書きである。
出生地サバンナでは此方を定説としており、事件後に一度だけ帰郷したとされる。但し直後に去っていたと言われ、此方でも矢張りその後は不明である。
ガルタン帝の没後、約80年の間を置いて即位した第五代伝承皇帝も、異民族の出身者であった。歴代で最もミステリアスと言われるクワワ帝である。
ハンター一族頭領の末子として生まれた彼は、生来の腕を生かす為、15歳で上京し弓兵として帝国軍に所属していた。若年でありながら、その強弓ぶりと実戦での気転の利く立ち回りは、歴戦の猛者にも引けを取らなかったという。
上京から3年後に伝承法適性が発覚し即位、東国ヤウダの内紛を調停した事で同地を併合し国土を広げ、更に数年後には七英雄の一人ダンターグの撃破という功績も上げている。政治面では主に社会福祉事業を推奨しており、また側近の一人であるマチルダが残した手記に『自身の不益・苦痛を省みない、馬鹿正直とも言える程のお人好し』と評した記述が見られる事などから、子供向けの伝記読本などでは善人の代名詞として描かれる場合が多い。
しかし困った事に、このクワワ帝、如何にせん関連資料が少なく、在位中の詳細や逸話はほぼ全て口伝に頼っているのである。これこそがミステリアスと言われる所以で、学者や歴史家は大いに頭を悩ませている。
後年になって第七代伝承皇帝(終帝)・クラウディアが伝承法による記憶に基き纏めた『伝承皇帝録』により、ヤウダの内紛に介入した経緯とダンターグ撃破前後の足跡はある程度明らかとなったものの、それでも17年の在位期間には空白が目立つ。ただ、クラウディア帝が『謎のままで終わらせた方が良い事もある』と同書で語っている通り、あまり深くまで追求せぬ方が彼の名誉の為となるのかも知れない。
ヤウダの内紛に武力介入した切っ掛けは、移民・帰化人による署名活動だったとされる。伝承皇帝期になり着々と国土を広げていたバレンヌは、優秀な人材を幅広く登用する為に彼等を多く受け入れるようになっていた。反面、ヤウダは1300年代末期頃から断続的にワグナスによる襲撃を受け始めた事により国力が衰退し、自国外に安住の地を求める者も少なくはなかった。そこへ権力者の横暴が重なった為に、帝国及び伝承皇帝の力に頼る事にしたのだという。
内紛調停後、統治権の禅譲を受け、ヤウダは帝国領となった。但しワグナスによる襲撃についてはあまり状況が変わらず、ベネディクト帝の時代まで持ち越される事となる。
ダンターグとの遭遇は全くの偶然で、先代ガルタン帝のロックブーケ撃破に近い状況であったらしい。視察に向かったナゼール地方で現地民から迷子の話を聞き及び、放ってはおけないからと探しに出た先での出来事という辺りに、クワワ帝の人柄を感じる。一国を預かる者としては些か軽率に過ぎる行動だが、如何にも『お人好し』らしい、人好きのする行動である。
唯一、その死については国政を巻き込む騒動となった為か、割合はっきりとした顛末が判明している。
1607年、アバロン市街からやや離れた場所にある帝国軍の訓練所が突如爆発するという事故が起こる。まだ開発中で実験許可の下りていなかった魔術式を誤って使用した事が原因と見られ、未完成な式の暴走により被害が拡大。クワワ帝が沈静に向かったところで建物が倒壊し、それに巻き込まれてしまったのだという。
但し、これには疑問点も多い。開発中の術式を扱えるのは術研に所属する研究者のみであり、門外不出である筈の未完成な術式の誤使用が、術研の実験棟ではなく帝国軍の訓練所で起きたという事がそもそも異常である。その性格を鑑みればクワワ帝自ら沈静に向かう事は決して不自然ではないにしても、優秀な軍人でもあった彼が、燃え盛り倒壊の危険もある建物に、何の備えも無くいきなり足を踏み入れたりするだろうか。更に言えば、訓練所は倒壊からそう間を置かずして再建されており、費用の出所も疑わしい。
当時からそれらの点については物議を醸していたようだが、当のクワワ帝が実際に行方不明となっている事から、遺体の発見が出来ぬまま死亡という扱いになっている。形式としての国葬が行われ、軍事施設各所に記念碑が建てられた。
本来ならばこの時点で更なる追調査が行われるべきところだが、直後に焚書運動が起きた為に有耶無耶なままとなってしまったようだ。
この焚書運動は、元よりクワワ帝に不満を抱いていた一派が、在位時の進軍・視察に関する資料を一斉に破棄した事に始まる。反乱にも等しい行為である事から、時の為政帝ヴィンセントが対応し関係者を処分。騒動そのものは短期間で終息したが、これが原因で貴重な資料が失われる結果となり、多くの事象が謎に包まれているのである。
一説によれば、これを扇動したのはクワワ帝の側近としても活躍した遊撃隊長・パーシアスであるという。しかし彼自身も直後に消息不明となっている為、事の真偽、並びに彼がクワワ帝に対しどのような思いを抱いていたのかは、不明なままとなっている。
史実的な懐疑点の多さ故に、作家や脚本家による脚色では『クワワ帝生存説』の人気も高い。事故に見せかけた暗殺騒動から辛うじて逃れ、身分を偽りつつも幸せな余生を送った、というのが一般的な筋書きである。
出生地サバンナでは此方を定説としており、事件後に一度だけ帰郷したとされる。但し直後に去っていたと言われ、此方でも矢張りその後は不明である。