伝承皇帝期略史
【第三代伝承皇帝『名帝』ライブラ】
1259年、当時の国立魔術研究所所長・バイエルと、その妻であるカンバーランド出身の術士・アストレアとの間に、第二子となる男児が誕生する。
5年後に伝承法適性が発覚するこの男児こそが、『名帝』として名高い後のライブラ帝である。
彼は幼少時から天才として有名であった。通常よりも早く言葉を覚え、基礎的な術なら歩く前から繰る事が出来たと伝えられる。
僅か9歳で術研に研修生として所属、14歳の時には正式な術士称号を獲得し、術研設立後最年少の術士となった。当初こそ親の七光りを疑う声もあったようだが、彼の実力を見た者は皆一様に口を噤んだと言われる。研修歴5年での術士称号獲得という記録は今なお破られていない。
アメジスト帝の時代には冷遇されがちだった術士であるが、この頃にはその地位が格段に向上していた事もあり、この天才児に対する人々の期待は高かった。ただ、伝承法適性が発覚した当時まだ幼すぎたことと、本人が度々流行性感冒に罹るなど身体が弱かったことから、時の為政帝リカルドの提言により、即位はその成人を待ち、また本人の意志を汲み、士官学校にて通り一遍の武技を学んでから行われる運びとなっている。
1279年、満を持してライブラ帝が即位する。既に臣民人気は相当なもので、即位式の際には彼の晴れ姿を見ようと門の外まで市民が詰め掛けたという。
しかし、実際の門出はあまり晴れやかなものではなかった。即位直後、為政帝リカルドが数年に渡り国費を着服していた事が発覚。即位に際し引き継ぎ事項を整理していたライブラ帝が気付いた時には、国庫には書面上の半分程度の蓄えしか残されていなかった。リカルドは政治犯として投獄され、為政帝の位はその従妹であるアイリーンが継承。財政立て直しの為に宝石鉱山の国営化、公共交通機関の整備などに着手している。
なお、リカルドは後年改心し釈放され、ライブラ・アイリーン両帝の影参謀として仕えている。近年の研究で議事録に改竄が見られる事が判明しており、『過去の事件を彷彿とさせる不祥事を起こした為政帝の再登用』という、到底快くは受け入れられないであろう事実を、当時は秘匿していたものと思われる。
非常に名声の高いライブラ帝だが、実は大規模な進軍は2回しか行っていない。
これには彼自身のやや虚弱な体質が影響していたものと考えられる。実際、即位から僅か3年で羅病により静養生活に入っている。
1度目の進軍は、即位翌年に起こったモンスターによるテレルレバ制圧に関係する。
当時のテレルテバは在地の部族による自治都市であり、近隣諸国との関係をほぼ中立に保っていた。軍隊の存在しないテレルテバでは突如として起こった侵攻に対する反撃手段が希薄であった為、各方面に救援を要請する。
その中でいち早く立ち上がったのがカンバーランドだった。トーマ4世(アメジスト帝時代に即位したトーマ王の嫡孫)はテレルテバを解放すべく、ホーリーオーダーの長アガタを名代としてアバロンに派遣し、討伐対の結成と南征の開始を提言。これを受けたライブラ帝は自ら兵を率いて砂漠を渡り、同地民との共同戦線にてモンスターの排除に成功した。
なお、この際テレルテバを脅かしたモンスターはノエル配下であった事が判明している。しかしその後の捜索でも、ノエル本人の発見には至っていない。
2度目の進軍が、より有名なボクオーンの討伐である。
1282年、テレルテバ進軍時に友好関係を築いたステップ地方の遊牧民・ノーマッドからの一報で、同地を荒らす地上戦艦に七英雄の一人ボクオーンが関係していると判明。ライブラ帝は事態を重く受け止め、参謀長シゲンに命じて策を講じる。それを受けたシゲンは、アメジスト帝の運河要塞攻略をモデルとしたプランを組み、大掛かりな陽動作戦を敢行。地上戦艦に似せた帝国戦艦を建造して囮とし、隙を突いて地上戦艦に踏み込んだライブラ帝とその直属部隊員によって、ボクオーンを討ち取る事に成功した。
一見無謀とも思われた、この少数での地上戦艦駆逐及びボクオーン撃破が、病弱で、平素は心優しく柔和なライブラ帝が『苛烈帝』とも称される所以となっている。
ボクオーンの撃破によりステップを平定した直後(一説にはそれ以前からだとも)に羅病したライブラ帝は以後静養に入り、第一線を退いている。ただ、高い臣民人気から退位はせず、為政帝アイリーンと共に国政を動かし続けた。
ライブラ帝が成した政治的功績の中で最も評価されるのが、教育制度の改革である。
それまでのバレンヌでは、高等教育を受ける為には士官学校に入学、若しくは魔術研究所に研修生として所属する必要があり、軍人志望者や貴族、一部の裕福な家庭に生まれた者以外の多くは、幼年学校で簡単な読み書きと四則演算を学ぶに留まっていた。宝石鉱山の国営化などによる財源回復を見込んだライブラ帝は教育条例を施行し、幼年学校を義務教育とすること、並びに一部制度の無償化を決定。更に通常の学術研究を士官学校から切り離し、それを専門的に学ぶ事が出来る機関として国立大学を創設すると発表した。1281年に本校舎が完成するまでは宮廷と士官学校の一部を改築して仮校舎とし、学生の受け入れを開始している。
因みに、テレルテバ解放時に軍師として活躍したシゲンは、参謀職にありながらこの仮校舎に学生として通っていたという。また、当初大学への入学希望者は少なかったが、ライブラ帝自身が『日々学ぶ事を怠らぬように』と学生登録をした途端に願書が増えて窓口がパンクしかけたとの逸話がある。ライブラ帝の人気と信頼が如何ほどのものか、此処からも見て取る事が出来る。
余談になるが、この国立大学の初代学長はライブラ帝の実兄・シャルルである。
教育制度の改革に注目が集まる為に霞みがちだが、ライブラ帝は街道や市街地の整備にも力を入れている。
伝承皇帝期となってから新たに獲得した地域をアバロンやその衛生都市などと同様に整備。各地へ繋がる主要街道の拡大なども行い、人・物の往来効率が格段に向上。市場拡大や文化交流の活発化などにより、更なる発展を遂げる足掛かりとなった。また設置術式の開発により、市街地に結界が張られるようになったのもこの頃である。
建造物としては、それまで対岸へ渡る手段が船しか無かったヴィクトール運河に、キャラバンなどが隊列の組み直しや積み荷の上げ下ろしをせぬまま渡れるようにと架けられた橋が有名であろう。運河に橋を架けるには船舶の往来を妨げぬようにする点が問題であったが、有識者を集めた会議による提言を受け、城郭の堀に渡す跳ね橋を応用。必要に応じ中央から左右に分けて跳ね上げる構造にする事で、陸上と水上双方の交通に対応している。『国父』レオン帝の名を冠したこの橋は、ミラマーの観光名所としても有名である。
1291年、ライブラ帝は執務中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。僅か32歳、名君の早すぎる死に人々は悲嘆に暮れ、各地で追悼式典が行われたという。特に彼を救国の英雄として慕う者が多かったテレルテバでは、その姿を模し名を刻んだ像が造られ、今でも広場で人々を見守っている。
一説によればアガタと内縁関係にあったともいうが、彼は正式には結婚しておらず、直接その血を継いだ者は居ない。しかし皇帝である以前に偉大な術士であった彼は以後術士の鑑とされ、後進の多くは彼を目標にした。但し本人は決して傲る事は無く、『術士と言えども戦場に立つには武人と同じ気概と手腕が必要、後進は偉大なる先達アメジスト帝を目標とせよ』と語っている。ライブラ帝は男性術士には珍しく火術を得意としていた事でも有名だが、どうやらそれは先代のアメジスト帝に憧れて身に付けたものであるらしい(但し、伝承法により先代の能力そのものを直接受け継ぐ事が可能な為、実際はその効果によるものと思われる)。
生前の意向により、遺骸は火葬のち某所に散骨されたという。墓碑は大学構内広場の片隅にある。
1259年、当時の国立魔術研究所所長・バイエルと、その妻であるカンバーランド出身の術士・アストレアとの間に、第二子となる男児が誕生する。
5年後に伝承法適性が発覚するこの男児こそが、『名帝』として名高い後のライブラ帝である。
彼は幼少時から天才として有名であった。通常よりも早く言葉を覚え、基礎的な術なら歩く前から繰る事が出来たと伝えられる。
僅か9歳で術研に研修生として所属、14歳の時には正式な術士称号を獲得し、術研設立後最年少の術士となった。当初こそ親の七光りを疑う声もあったようだが、彼の実力を見た者は皆一様に口を噤んだと言われる。研修歴5年での術士称号獲得という記録は今なお破られていない。
アメジスト帝の時代には冷遇されがちだった術士であるが、この頃にはその地位が格段に向上していた事もあり、この天才児に対する人々の期待は高かった。ただ、伝承法適性が発覚した当時まだ幼すぎたことと、本人が度々流行性感冒に罹るなど身体が弱かったことから、時の為政帝リカルドの提言により、即位はその成人を待ち、また本人の意志を汲み、士官学校にて通り一遍の武技を学んでから行われる運びとなっている。
1279年、満を持してライブラ帝が即位する。既に臣民人気は相当なもので、即位式の際には彼の晴れ姿を見ようと門の外まで市民が詰め掛けたという。
しかし、実際の門出はあまり晴れやかなものではなかった。即位直後、為政帝リカルドが数年に渡り国費を着服していた事が発覚。即位に際し引き継ぎ事項を整理していたライブラ帝が気付いた時には、国庫には書面上の半分程度の蓄えしか残されていなかった。リカルドは政治犯として投獄され、為政帝の位はその従妹であるアイリーンが継承。財政立て直しの為に宝石鉱山の国営化、公共交通機関の整備などに着手している。
なお、リカルドは後年改心し釈放され、ライブラ・アイリーン両帝の影参謀として仕えている。近年の研究で議事録に改竄が見られる事が判明しており、『過去の事件を彷彿とさせる不祥事を起こした為政帝の再登用』という、到底快くは受け入れられないであろう事実を、当時は秘匿していたものと思われる。
非常に名声の高いライブラ帝だが、実は大規模な進軍は2回しか行っていない。
これには彼自身のやや虚弱な体質が影響していたものと考えられる。実際、即位から僅か3年で羅病により静養生活に入っている。
1度目の進軍は、即位翌年に起こったモンスターによるテレルレバ制圧に関係する。
当時のテレルテバは在地の部族による自治都市であり、近隣諸国との関係をほぼ中立に保っていた。軍隊の存在しないテレルテバでは突如として起こった侵攻に対する反撃手段が希薄であった為、各方面に救援を要請する。
その中でいち早く立ち上がったのがカンバーランドだった。トーマ4世(アメジスト帝時代に即位したトーマ王の嫡孫)はテレルテバを解放すべく、ホーリーオーダーの長アガタを名代としてアバロンに派遣し、討伐対の結成と南征の開始を提言。これを受けたライブラ帝は自ら兵を率いて砂漠を渡り、同地民との共同戦線にてモンスターの排除に成功した。
なお、この際テレルテバを脅かしたモンスターはノエル配下であった事が判明している。しかしその後の捜索でも、ノエル本人の発見には至っていない。
2度目の進軍が、より有名なボクオーンの討伐である。
1282年、テレルテバ進軍時に友好関係を築いたステップ地方の遊牧民・ノーマッドからの一報で、同地を荒らす地上戦艦に七英雄の一人ボクオーンが関係していると判明。ライブラ帝は事態を重く受け止め、参謀長シゲンに命じて策を講じる。それを受けたシゲンは、アメジスト帝の運河要塞攻略をモデルとしたプランを組み、大掛かりな陽動作戦を敢行。地上戦艦に似せた帝国戦艦を建造して囮とし、隙を突いて地上戦艦に踏み込んだライブラ帝とその直属部隊員によって、ボクオーンを討ち取る事に成功した。
一見無謀とも思われた、この少数での地上戦艦駆逐及びボクオーン撃破が、病弱で、平素は心優しく柔和なライブラ帝が『苛烈帝』とも称される所以となっている。
ボクオーンの撃破によりステップを平定した直後(一説にはそれ以前からだとも)に羅病したライブラ帝は以後静養に入り、第一線を退いている。ただ、高い臣民人気から退位はせず、為政帝アイリーンと共に国政を動かし続けた。
ライブラ帝が成した政治的功績の中で最も評価されるのが、教育制度の改革である。
それまでのバレンヌでは、高等教育を受ける為には士官学校に入学、若しくは魔術研究所に研修生として所属する必要があり、軍人志望者や貴族、一部の裕福な家庭に生まれた者以外の多くは、幼年学校で簡単な読み書きと四則演算を学ぶに留まっていた。宝石鉱山の国営化などによる財源回復を見込んだライブラ帝は教育条例を施行し、幼年学校を義務教育とすること、並びに一部制度の無償化を決定。更に通常の学術研究を士官学校から切り離し、それを専門的に学ぶ事が出来る機関として国立大学を創設すると発表した。1281年に本校舎が完成するまでは宮廷と士官学校の一部を改築して仮校舎とし、学生の受け入れを開始している。
因みに、テレルテバ解放時に軍師として活躍したシゲンは、参謀職にありながらこの仮校舎に学生として通っていたという。また、当初大学への入学希望者は少なかったが、ライブラ帝自身が『日々学ぶ事を怠らぬように』と学生登録をした途端に願書が増えて窓口がパンクしかけたとの逸話がある。ライブラ帝の人気と信頼が如何ほどのものか、此処からも見て取る事が出来る。
余談になるが、この国立大学の初代学長はライブラ帝の実兄・シャルルである。
教育制度の改革に注目が集まる為に霞みがちだが、ライブラ帝は街道や市街地の整備にも力を入れている。
伝承皇帝期となってから新たに獲得した地域をアバロンやその衛生都市などと同様に整備。各地へ繋がる主要街道の拡大なども行い、人・物の往来効率が格段に向上。市場拡大や文化交流の活発化などにより、更なる発展を遂げる足掛かりとなった。また設置術式の開発により、市街地に結界が張られるようになったのもこの頃である。
建造物としては、それまで対岸へ渡る手段が船しか無かったヴィクトール運河に、キャラバンなどが隊列の組み直しや積み荷の上げ下ろしをせぬまま渡れるようにと架けられた橋が有名であろう。運河に橋を架けるには船舶の往来を妨げぬようにする点が問題であったが、有識者を集めた会議による提言を受け、城郭の堀に渡す跳ね橋を応用。必要に応じ中央から左右に分けて跳ね上げる構造にする事で、陸上と水上双方の交通に対応している。『国父』レオン帝の名を冠したこの橋は、ミラマーの観光名所としても有名である。
1291年、ライブラ帝は執務中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。僅か32歳、名君の早すぎる死に人々は悲嘆に暮れ、各地で追悼式典が行われたという。特に彼を救国の英雄として慕う者が多かったテレルテバでは、その姿を模し名を刻んだ像が造られ、今でも広場で人々を見守っている。
一説によればアガタと内縁関係にあったともいうが、彼は正式には結婚しておらず、直接その血を継いだ者は居ない。しかし皇帝である以前に偉大な術士であった彼は以後術士の鑑とされ、後進の多くは彼を目標にした。但し本人は決して傲る事は無く、『術士と言えども戦場に立つには武人と同じ気概と手腕が必要、後進は偉大なる先達アメジスト帝を目標とせよ』と語っている。ライブラ帝は男性術士には珍しく火術を得意としていた事でも有名だが、どうやらそれは先代のアメジスト帝に憧れて身に付けたものであるらしい(但し、伝承法により先代の能力そのものを直接受け継ぐ事が可能な為、実際はその効果によるものと思われる)。
生前の意向により、遺骸は火葬のち某所に散骨されたという。墓碑は大学構内広場の片隅にある。