伝承皇帝期略史

【第二代伝承皇帝『焔帝』アメジスト】



初代のジェラール帝以降、なかなか伝承法に適性を持つ者は現れず、為政帝による一帝統治時代が続く。
そんな中でやっと現れたのが、1154年に即位したアメジスト帝である。

彼女は元々両親の顔を知らぬ孤児で、嬰児の状態で孤児院に保護されたという。ただ、幼い頃から術法を繰る才能があった為、それを見込んだ院長の計らいで初代ルドン方面治安維持隊長・アンドロマケーの孫に当たるバイソン夫妻の養子となり、高名な師・アンタレスに付いて英才教育を受けていた。14歳で術士として従軍し、同時に一部の優れた術士にしか与えられない宮廷魔術師の称号も獲得している事から、相当な才女であったと伝えられる。実の両親は判明していないが、その能力の高さから、さる貴族の庶子なのでは、との説もある。

彼女の即位の切っ掛けとなったのが、前年に行われたモンスター狩りである。
100年近く態を潜め大人しくしていたルドン高原一帯のモンスター達の活動が活発化し始めた事で、時の為政帝ヘレンは一計を案じ討伐隊を組織する。本隊の他に数名の術士を含めた捕獲調査隊も作られ、帝国軍術法研究部に所属していた当時のアメジスト帝も其処に名を連ねていた。この際に彼女が使役した火属性の術法(彼女が火術を得意とした事が『焔帝』という諡の由来のひとつである)が当時はまだ珍しく、また有効な攻撃手段であった事から彼女の評判が高まり、軍高官の目に留まったのだという。それまで原則として術士は受ける事の出来なかった適性テストを受ける運びとなり、そこで伝承法適性が発覚し、即位に至る。

待ちに待った伝承皇帝の誕生とはいえ、庶民から皇帝が出る事に関しては、矢張り賛否両論あった。
即位そのものは、アンリ帝以下歴代為政帝が整えてきた法律や、彼女を推した軍高官らの鶴の一声などにより恙無く行われたようだ。しかし、実際に戦地へ向かう部隊においては特に、混乱や反発が多かったという。腹心として数えられる者が皆一様に宮廷・軍部との関わりが薄い者であった事からも、当時の様子が見て取れる。

即位翌年、アメジスト帝は先ず、ジェラール帝時代よりの悲願である運河要塞の攻略に着手する。
この際、それまで独立状態を保っていたシーフギルドが帝国への全面協力を宣言し、体制を翻している。当時のギルド代表・キャットはアメジスト帝の直前に伝承法を仮継承していた第五代運河要塞攻略部隊長・トラヴィスの娘であり、それが深く関係していたと見られる。
シーフギルドの協力を得たアメジスト帝は、ギルドの有志と数名の部下を使い陽動作戦を敢行。警備が手薄となった隙を突いて自ら要塞内部に侵入し、頭目と見られるモンスターを撃破。難攻不落と言われた運河要塞の攻略に成功する。
モンスターが討伐された運河要塞は取り壊され、跡地には慰霊碑が建設された。また、運河要塞という脅威の無くなったミラマーは新興住宅地として整備され、後年帝都アバロンに次ぐ人口を抱える程に発展する。
なおこれ以降、シーフギルドは私立組織ながらも斥候部隊として帝国軍本隊に劣らぬ活躍を見せるようになる。

運河要塞攻略の直後、古くから同盟関係を持っていた隣国・カンバーランドのハロルド王よりの招待が届く。これを受け、アメジスト帝はカンバーランド王都ダグラスへ渡った。
表向きは伝承皇帝誕生とヴィクトール運河の支配権奪還を祝う為の招待であったが、実際はカンバーランド国内の内情不和とその調停について相談を持ちかける為のものであったとされる。当時カンバーランドでは宰相であるサイフリートを中心とした一派が急激に力を付けてきており、他の臣下からそれを怪しむ声が出ていた。
王城で開かれた歓迎パーティの翌日、ハロルド王が急去。これをサイフリート一派による暗殺とにらんだアメジスト帝は、策略に乗る振りをしてハロルド王の長男・ゲオルグと長女・ソフィアの協力を取り付け、逆に急襲を仕掛けた。後に『カンバーランド内乱』と称されるこの騒乱はサイフリートの捕縛により終息し、王位は末子トーマが継承。トーマ王が支配権献上を申し出た為、アメジスト帝はカンバーランドを属国とし、トーマ王を同地における伝承皇帝名代としている。
なお、サイフリートが捕縛後に自害した為に真偽の程は不明であるが、彼の背後には七英雄が絡んでいた、との情報もあったようだ。サイフリート本人がそう語り、実は彼の死も自害ではなく他の大きな陰謀のひとつであったとする説もあるが、アメジスト帝はこの件について口を閉ざしている。

カンバーランド内乱の終息から数ヶ月後、今度はミラマー近隣の住人から帝国に苦情が入った。ロンギット海を拠点とする武装商船団が、帝国の規定に従わず違法な操業を続け迷惑しているというものだ。
ロンギット海周辺は厳密に言えば帝国領ではなく小規模な村落が点在する自治域であり、武装商船団も帝国と直接関係のある組織ではない。しかしロンギット海に程近いミラマーまで足を伸ばして勝手な行為を繰り返されては、帝国側としても黙っている訳にはいかなかった。
アメジスト帝は自らモーベルムまで下り、武装商船団の内情を探った。その後、本拠地のあるヌオノに乗り込み、団長のエンリケと対談。ロンギット海周辺の支配権を認める代わりに、帝国領内では帝国法に従い操業すること、帝国軍が周辺地域で活動する際には全面協力することを条件とし、同盟を締結している。
この際、商船団側は帝国傘下に降る準備もしていたと言われる。仮に武力抗争となった場合、帝国側に利があるのが火を見るより明らかであったからである。
それが実行されなかったのは、アメジスト帝および一部の軍高官が、現状以上の帝国軍拡大を避けた方が得策であると判断したためとされる。当時、継承問題なども関連し、帝国軍内部での派閥間競争意識が激しく、度々衝突が起きていた。自由度の高い外部協力組織としておく方が既存軍内部の混乱を避けられると考えたのだろう。

やっと情勢が落ち着き始めた事で、統治面での改革が始まった。先に挙げた軍内勢力同士の抗争を諫める目的で行われた派閥解体の他、特に有名なのが国立魔術研究所(通称『術研』)の設立である。
その切っ掛けはカンバーランド内乱であるとされる。バレンヌ本国においてはあまりメジャーではない術法がカンバーランドでは優遇され、かなり発展していた。自身も術士であるアメジスト帝は、自国内でも術法研究により力を入れる必要があるとし、術法研究部の組織拡大を決定。カンバーランドで組織された騎士集団・ホーリーオーダーの長となり術法研究の第一人者としても活躍していたソフィアを招き、自身も別途研究を開始している。
やがてアバロン北西に研究棟が完成すると、自身が初代所長に就任する意を表明し、為政補佐官となっていたヘレンに帝位を返上。1159年、即位から僅か5年目の出来事であった。

アメジスト帝の退位は、研究が進みモンスターに数年~数十年の活発活動周期がある事が発見され、その活動が終息しつつあったこと、また上記のように魔術研究所の所長として研究に専念する為というのが理由であったとされる。
しかしこれには他の見方もある。孤児院の出身者が帝国の頂点に君臨しているのを内心快く思っていない者も多く、また年若く自ら剣を取り常に抗争の先頭に立った彼女を『殺戮女帝』と揶揄する声もあり、それを知っていたアメジスト帝が自ら身を退いたというものだ。また、先述の派閥抗争・解体において、即位当時から続いていた一部保守派勢力との対立関係は終始平行線であった。そういった蟠りも退位後は落ち着きを見せている為に、退位そのものが派閥解体の一部であると受け取る事も出来る。
因みに、彼女のこうした行動・対応は後世で高く評価されており、伝承皇帝以前の時代を含めても珍しい女帝、且つ史上最年少の皇帝でありながら、『戦時における皇帝のあるべき姿』として模範とされる。

アメジスト帝は退位後、義兄であり進軍時の直属部隊員でもあったオライオンと結婚。三男二女に恵まれ、それぞれ軍人や術士として活躍している。特に次男・アンヴィルの家系は代々優秀な闘士を排出しており、そこから生まれたのが第七代伝承皇帝(終帝)・クラウディアの腹心として有名なディアネイラである。研究者となった長男・ベテルギウスの孫娘は旧皇家傍流の子息と結婚し、こちらからは第六代伝承皇帝・ベネディクト時代の為政帝ニコルと、その弟で『風魔師』の異名を取るキグナスが生まれている。
為政帝に復帰したヘレンが死去した際に賓客扱いで葬儀に参列したという記録を最後に、アメジスト帝の名は歴史上から見られなくなっている。没年は不明で、墓所も明かされていない。
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