伝承皇帝期略史

本頁では主に『伝承皇帝期』とも呼ばれる第三帝政期について記す為、それ以前・以後の時代については要点のみを掻い摘んで纏める。

一般に『先史時代』と言えば、帝国歴以前の時代全てを指す。
ごく簡易な狩猟・農耕が主流であり、文明と呼べる程のものは存在しないというのが定説であった為にこの名が付いたという。
ただ、各地の伝承には多かれ少なかれ古代文明とその滅亡に関する情報が含まれており、またその遺跡と思われるものも幾つか発見されている事から、近年活発に研究されるようになった。
発掘などが進んでいるが、それらについては専門家に一任しておく事にする。

バレンヌ最多の民族であるオレオン人は、今でこそ民族としての形態を確立しているが、バルバロイや混血児の成した生活共同体を元としている為、厳密に云えば本来一個の民族ではなかった。代わりに広義による集団としては他民族よりも遙かに規模が大きく、またいち早く国家としての機能を成立させている事がよく知られる。
帝国歴で表すならば前250年頃、オレオン人は現在のアバロンに大集落を建設。『本来同一民族ではない』という特色故か内部抗争も少なからずあり、やがて西方系人種と東方系人種に分裂したものの、西方系人種が大集落に残留して後のバレンヌ帝国の母体となった。そして時の酋長ガイウスが『皇帝』を名乗った事が帝国の始まりとされる。以降、身分制度や政治形態などが発展し、近代国家体制が開花する。

帝国歴300年を過ぎる頃になると、バレンヌは伝承法時代以前における最盛期を迎える。嘗ての大集落は帝都アバロンとして栄え、国土の南方拡大に伴う鉱山の獲得などで国有資産も潤沢であった。またこの頃、嘗て大集落を離れた東方系人種が建国していたカンバーランドと正式に和解し、同盟国となっている。
当時の皇帝の中でも特に有名なのが、ガイウスから数えてちょうど10代目に当たるヴィクトールである。彼はカンバーランドとの同盟を実際に締結に漕ぎ着けた他、各地に港を造り交通・外交の発展にも力を入れた事で知られる。南北バレンヌを繋ぐ運河は彼の命により着工したもので、後にその名を冠してヴィクトール運河と呼ばれるようになったそれは、完成後も延長や改修が何度も行われている事でも有名である。

しかし最盛期の好調はあまり長くは続かず、ヴィクトール帝没後には早くも緩やかな衰退が始まっている。世襲・貴族制度の定着により格差社会となり、国民の反発が増加していた事が原因の一端と考えられている。
内政が低迷していた帝国歴700年頃、こうした不満が爆発する事件が起こる。当時の皇帝グレゴリーには即位当初からその手腕を疑問視する声が多かったが、長年に渡る国費の私的流用が発覚した事(一説によれば着服した金は年若い愛人に貢ぎ続け、挙げ句彼女を無理矢理国の重要ボストに就けようとしたのだとも)を切っ掛けとし、遂にクーデターが発生。結果グレゴリーは追放され、ガイウスの直系は帝位から追われる事となった。代わりにクーデターを扇動した武官の首領格・ユリウスが帝位に就き、以降の皇家は此方に取って変わられている。この事件を境にして、以前を第一帝政期、以後を第二帝政期と呼ぶ。

皇家が変わった事で内政も変化した。
ユリウスがあまり格式に拘らない下級貴族出身だった事などもあり、格差社会の風潮は以前より薄れつつあったものの、事はそれだけでは解決しなかった。先述のクーデターに乗じるなどして地方の有力者が次第に国による支配を離れていき、地方分権以上の半独立状態となってしまった土地も多い。また折り悪く同時期に害獣やモンスターによる被害の増加なども見られ、国力の衰退は否めない状況であった。




【モンスターについて】


俗にモンスターと呼ばれる種族たちがいつ頃発生したのかは、今以て定かではない。
先史時代から存在していたとされるが、口伝以外に頼るべき記録が無く、化石化してしまうと他の動植物と見分けがつかない為に、なかなか研究が進まないのが現状である。

広義では害獣とほぼ同義だが、敢えてその違いを挙げるなら『比較的知能が高い』『能動的な植物型のものも存在する』という2点であろう。
特に前者の理由により術法を繰るものも少なからず存在する為、対処には難儀する。
また、繁殖によりその数を増やす以外にも、一般の動植物になにがしかが『取り憑いた』り、何らかの要因で『堕ちた』りする事によってモンスター化する場合もある点には、特に留意すべきである。

バレンヌに限らず、人類は屡々このモンスターに悩まされてきた。
第二帝政期終盤になりその数が目に見えて増え始めた事が、伝承法というシステムが取り入れられる切っ掛けのひとつであると言えよう。




【七英雄について】


七英雄とは、先史時代の伝説における英雄達の総称である。
モンスターを退け、人々に安寧をもたらしたという逸話は、再度語るべくもない。

第二帝政中~後期頃までは、宗教における神とほぼ同様の認識であり、度々実在が疑われる事もあったという。
しかし帝国歴900年代に入り、その一人であるクジンシーが姿を現した事で、その認識は徐々に変わっていった。
研究が進んだ現在では、嘗ての伝説も紛う事無き真実であると結論付けられる。

結局、彼等の目的が何だったのかはわからず仕舞いであるが、大なり小なり人々に害意を持っていた事は、伝承法時代の抗争その他で知られる通りである。
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