ロ兄術廻戦
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静かな廊下を歩きながら、流星は深く息を吐いた。
特級相当呪霊の討伐任務。骨が軋むほど術式を多用したせいで、身体中に鈍い痛みが残っている。
「…つかれた」
誰に聞かせるでもなく呟いた瞬間。
「おかえり流星」
背後から、軽い声音が落ちてきた。
誰、なんてのは振り返らなくても分かる。
兄の悟だ。
廊下の窓際に寄りかかるように立つ姿はいつもと変わらない。悟は笑っていた。けれど、その笑顔の奥にあるものを流星は知っている。
「遅かったね」
「任務が長引いた」
「連絡くらいできたでしょ」
「スマホぶっ壊れたんだよ」
「あーあ。流星ってほんと、いくつになっても危なっかしい」
悟が近付いてくる。別にそれから逃げたいわけじゃない。
けれど、本能が一歩下がれと言っている。
兄は昔からそうだった。
優しい。甘い。誰よりも自分を守りたがる。
その癖、時々どうしようもなく怖い。
「怪我してるね」
悟の指先が、流星の頬を撫でた。
任務中についた切り傷だった。反転術式を使うまでもない、軽度の擦過傷なのに、悟はそこを見つめたまま眉を寄せている。
「誰にやられた?」
「呪詛師」
「殺した?」
「まさか。貴重な情報源なんだから生け捕りに決まってるだろ」
「…足りないな」
「何がだよ」
「流星を傷つける存在自体が気に入らない」
冗談みたいな口調だが、悟は本気だ。
昔から悟はこんな調子だった。小学生の頃だって、流星を泣かせた分家の男を半殺しにしたことがある。中学時代、流星に告白してきた女子の家系を調べ上げ、会うことを禁止したこともある。流星が高専に入ってからはもっと露骨になった。
流星に近づく人間を、悟は徹底的に排除する。男でも女でも関係ない。教師でさえ例外じゃない。幼い頃は過保護な兄だとばかり思っていた。だが最近、流星のその認識が揺らいでいる。
「…兄貴」
「ん?」
「なんで、そんなに怒るの」
悟は一瞬だけ目を細めた。
「何に?」
「誰かがおれに近づくとき」
沈黙。
夜風が窓を鳴らした。悟は笑った。
「そりゃあもちろん弟が可愛いから」
「それだけ?」
「寧ろそれ以上の理由ある?」
悟の軽い調子に、流星は誤魔化されない。悟の視線は、時々ひどく熱を帯びる。家族を見る目じゃない。もっと執着的で、もっと独占欲に満ち塗れた何か。
「…おれ最近考えるんだよ」
「何を?」
「兄貴ってさ」
喉が乾く。
言葉にしてしまえば、もう戻れない気がした。
それでも流星は続けた。
「家族以上の感情を、おれに持ってるんじゃないかって」
悟は何も言わない。サングラスの奥の瞳が見えないことが、こんなにも怖いなんて思わなかった。
数秒後、ふ、と悟が笑った。
「もしそうだったら?」
「冗談やめろよ。キツイ」
「流星には僕の言ってることが冗談に聞こえるんだ?」
近づいてくるが、逃げ場はない。
遂には壁際に追い詰められ、流星は息を呑んだ。
悟の腕が壁につく。完全に囲われている。
「ねえ流星」
低い声だった。
普段の軽薄さを全部削ぎ落としたような声。
「誰かと付き合いたいと思ったことある?」
「ん…ある、かもしれない」
「誰」
「は?」
「誰を好きになった?」
温度が消えた声。本能的にまずいと思った。
「別に、まだそういうわけじゃ」
「名前は」
「兄貴ってば」
「言えよ」
サングラスの奥から六眼が覗く。
その瞬間、ぞくりと背筋が震えた。
捕食者だ。
今、自分は完全に狙われている。
「…いない」
焦りで口の中がカラカラに乾いている。
悟はしばらく黙っていたが、やがて満足そうに微笑んだ。
「そっか」
「…」
「よかった」
その一言に、安堵ではなく恐怖を感じた。
悟は本当に、誰にも渡す気がない。
弟としてでさえない。
もっと別の形で、己を所有しようとしている。
「…兄貴、おかしいよ」
「うん。知ってる」
ようやく絞り出した答えがあっさり認められて、流星は言葉を失った。悟は昔から、自分の異常性に自覚的だった。自覚した上で、それを決してやめないのだ。
「君のことになると特にね」
「おれたち兄弟だぞ」
「うん」
「男だし」
「それって関係ある?」
「あるだろ普通!」
思わず声が大きくなる。
すると悟は少しだけ目を丸くしたあと、くすりと笑った。
「普通、ね」
その言葉には嘲りにも似た響きがあった。
最強。
生まれた瞬間から世界の理から外れた存在。
そんな男にとって、“普通”なんてものは最初から意味を持たないのかもしれない。
「兄貴は…」
流星は唇を噛む。
「兄貴はおれをどうしたいんだよ」
問いかけると、悟は少しだけ考えるように視線を逸らすと、静かに口を開いた。
「ずっと僕のそばにいてほしい」
その声音は驚くほど穏やかだった。
だからこそ怖い。
「結婚しないで」
「…は?」
「恋人も作らないで。なんなら今すぐにでも呪術師だって辞めてほしい。流星はずっとここにいて、僕だけ見てればいいよ」
狂ってる。
悟の瞳には、本気しかなかった。
冗談でも遊びでもない。純粋で、重くて、息苦しいほどの執着。
流星は昔を思い出す。
幼い頃、熱を出した夜。
悟は一晩中、自分の手を握っていた。
任務で死にかけた時、悟は屋敷を半壊させるほど暴れた。
誰かが自分に触れるたび、悟は不機嫌になった。
それは全部、兄から弟への無償の愛だと思っていた。
思いたかった。
「…そんなの、やっぱり普通じゃない」
「うん」
「間違ってる」
「そうかもね」
「判ってるならやめてくれよ!」
流星が叫ぶと、悟は一瞬だけ目を伏せた。
その表情は、ほんの少しだけ苦しそうだった。
「無理なんだよ」
ひどく静かな声。
「君が生まれた時から、ずっと君だけが特別だった」
流星の胸が痛む。
悟は孤独だった。
最強として持ち上げられ、恐れられ、人間扱いされなかった。
そんな兄が唯一執着したのが、自分だった。
それを理解してしまうから、拒絶しきれない。
「…おれは、どうしたらいい」
掠れた声で問う。
悟はそっと手を伸ばし、流星の頬を包んだ。
熱い手だった。
「簡単だよ」
顔が近い。
息が触れる距離。
「僕を嫌いになればいい」
「…」
「できるならね」
そんなのできるわけがなかった。どれだけ重くても、どれだけ歪んでいても、悟はずっと自分を守ってくれた兄だ。愛されていた記憶が、あまりにも多すぎる。流星が黙っていると、悟はクスリと小さく笑った。
「ほら」
その笑顔は、勝ち誇ったようにも、泣きそうにも見えた。
「君は優しいから」
次の瞬間。
悟の額が、そっと流星の肩に寄せられる。
現代最強の術師とは思えないほど静かな仕草だった。
「困らせたいわけじゃないんだ」
低い声が落ちる。
「ただ、流星が誰かのものになるくらいなら、壊してしまいたくなる」
流星は息を呑んだ。
この男なら本当にやる。世界ごと壊せる力を持っている。そして、その力を自分のために使うことを躊躇わない。
「…最低だ」
「知ってる」
「重い」
「うん」
「怖い」
「それでも僕から離れないでいてくれるでしょ」
言い返せなかった。沈黙が落ちる。遠くで風鈴が鳴った。
夏が近い。
悟はゆっくり顔を上げる。
六眼が真っ直ぐ流星を映した。その視線から逃れることはできない。
「ねえ、流星」
「…なに」
「君が誰かを好きになる前に」
悟は微笑む。
それはあまりにも綺麗だ。
「僕だけで満たしてあげる」
背筋が震えた。
拒絶しなければならない。そう思うのに、心のどこかで理解してしまう。この人はきっと、一生自分を離さない。そして自分もまた、その手を振り払えない。
兄弟だから。
それ以上だから。
壊れているのに、どこか幸福で。
誰にも理解されない関係のまま。
夜は静かに更けていった。
