夜明けを告げる星~Morning Star~
斑がのちに冗談めかして「隠れ家」と呼んだ、ニューディ事務所借り上げの高層マンションの一室。これからしばらくこの部屋で過ごすことになり、茉弥はソファに腰かけた。
不意に斑のスマホが鳴り、電話に出るために斑は玄関へ移動した。手持ち無沙汰な茉弥は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターしか入っていないのを見て呆れた。作り付けの食器棚にほとんど食器が入っていないのも異様だった。
斑がここで食事をしているとは思えない。茉弥はため息をついて、食器棚を閉じた。
茉弥が斑と出会ってから、将来について話をしたのは今日が初めてだった。身も心も結ばれながら肝心なところでは自分を開示せず、抱え込んだものが多かった斑が選んだ道が、自分と人生を共にすることであった、そのことに、茉弥は感慨深いものを感じた。一旦交わった道が離れていく可能性もあったからだ。
朝、家を出て職場に向かう時は、こんな未来が開けていくなど想像もできなかったが、これは現実だ。
茉弥はソファに腰かけ、溜息をついた。
(斑さん、忙しそうだな…。私は何も出来ることはない、か)
窓からは見えないが、張り込んでいる記者がまだいるようだ。斑は何度か電話をかけていた。相手はつむぎだったり、茉弥がまだ会ったことがないニューディの所長だったりしたようだ。
夕方、インターホンが鳴った。つむぎと宙が荷物を届けにきたのだ。斑は茉弥を残し、下に降りて荷物を受け取りに行った。
「とりあえず今日の夜から明日の昼までの差し入れと、あんずさんから頼まれたクロさんの着替えを持ってきました」
「宙は飲み物を持ってきました。ししょーと宙から差し入れです」
宙はペットボトルに入ったお茶や紅茶、コーヒーなどを入れた袋を斑に渡した。中にハーブティのティーバッグが入っているが、おそらく夏目からだろうと斑は想像した。夏目のハーブティは茉弥のお気に入りだった。
「済まないなあ」
「明日の夕方、クロさんのマンションの鍵をお借りしに来ますね。荷物は少しずつ夜中に運びます」
「すっかり世話になってしまうなあ」
「三毛縞くんはもっと人を頼ってもいいと思いますよ。…仕事を抱え込んじゃう俺が言うことじゃないかもしれませんけど。クロさんによろしく」
斑は荷物を持って部屋に戻って来た。
「おにぎりとお蕎麦が入ってる。ハーブティは…夏目くん?」
「うむ、差し入れだそうだあ。助かったなあ、そういえば飲まず食わずで時間が経ってしまったなあ」
「冷蔵庫を見たけど何も入ってないわよ」
「こっちに戻ったときのために借りてもらったのが1か月前、だからなあ。そりゃ何も入っていなくても当然だあ」
茉弥は再びソファに座って息を吐いた。冷蔵庫も洗濯機も電子レンジもあるのに、生活を感じさせるものが一切ない。
「茉弥さんはしばらくここから出ない方がいい。不自由をさせてしまうが、嗅ぎつけられてあることないこと書かれるのは避けたい」
斑の言葉に、茉弥は頷いた。火種になるような週刊誌の記事があるのに、わざわざ火をつけるような行動は控えなければならない。斑は呟いた。
「こそこそしたくはないんだが、根回しをするまでは耐えてほしい」
「…わかった。気がかりなのは私の職場だけなんだ。写真が出たらバレるだろうし、しばらく外出できないんでしょ、私」
「ああ、それは考えなければならないなあ」
茉弥はため息をついた。
「学生時代のバイトからお世話になってて、いい職場だったけど…。潮時かも。斑さんはうちの職場でもファンが割と多いの。私が恋人だと分かれば記者が来て迷惑をかけるだろうし、やっかまれるかもしれない。ESの仕事が増えてきて悩んでたんだけど、やっぱりスクールは退職したほうがいいよね」
「だろうなあ」
「仕事を続けたいと思っているんだけど、どうかしら」
茉弥が尋ねると、斑は即座に答えた。
「それは、続けてほしい。君はいい仕事をするし、俺も仕事で家を空けることが多くて、寂しい想いをさせてしまうからなあ」
「家でずっと待っていられると負担?」
「そんなことはないが勿体なくてなあ。せっかく演出の勉強も始めたんだし、茉弥さんがいい仕事をすれば、俺のライブを演出するっていう夢にも近づくから応援するぞお」
「ありがとう。…こういう話も、今迄あんまりしなかったね」
すると、斑は少し考えて、言った。
「これからは、そういう話をすることが大切なんだろうなあ」
今迄の、ただ好きで一緒にいるのとは違う責任がある関係を作っていく、その重みを斑は改めて感じた。基本的な能力が全体的に高めな自分の、不足している部分は誰かと半永久的な関係を築くことなのではないかと斑は初めて気づいた。
「何だか疲れたなあ。お風呂に入ろうかあ」
バスタブにお湯をためてきた斑が、茉弥を振り返って言った。
「どうぞ先に入って」
「いや、その…一緒に、入りたい、なあ」
珍しく斑は下を向いて顔を赤くしている。自然に茉弥も顔が赤く染まった。
「え、…一緒に、って…」
「この部屋のお風呂なら、ふ、二人で入っても、大丈夫、だあ」
斑はどうやら以前の「一人用の湯船では壊れる」を気にしているような口ぶりだが、茉弥にとっては一大事だった。
「まだ一緒にお風呂に入ったことはなかっただろう?」
「斑さんは、…私と、お風呂に入りたい、の?」
ソファに座っている茉弥が斑を見上げると、斑は顔を赤くしたまま頷いた。そういえば一緒にお風呂に入った経験はない。ただでさえ求婚されたことでもう胸がいっぱいな茉弥は、新たな試みをするのに耐えられるだろうかと思った。
「そ、その、本当に一緒にお風呂に入るだけ、だあ…」
「…分かったよ…。私が先に入る。斑さん、後から来て…」
茉弥はあんずが用意した新品の部屋着と下着を用意し、そそくさと浴室に駆け込んだ。
「茉弥さああああん!入るぞお」
茉弥がお湯の温度を確かめながらたし湯をしていると、大声がして裸になった斑が入って来た。全く前も隠さない開けっ広げな態度に、茉弥は溺れそうになった。
「びっくりさせないでよ、溺れるじゃない」
「はははは~。ごめんごめん」
笑いながらも、湯船には入ってこない斑に茉弥は首を捻った。
「茉弥さん、これを見てほしい」
斑はおもむろに茉弥に背を向けた。背中の方から左の脇腹にかけて傷口が見えた。
「昼間に話した、俺の傷痕だあ」
切り傷は何針か分からないが、縫い合わせた跡がある。その傷が痛々しい。
生々しさは薄れていたが、それでも大き目な傷を見て、茉弥は思わず小さな悲鳴を上げた。
「この脇腹の傷から、弾丸が3発出た。そのうちの1つは深いところに食い込んでいて、取り出すために切開したからこんな傷になった。そうだなあ…2か月…2か月半か、それくらい前の話だあ」
「まだ痛いの?」
「前は衣服を着ると布の繊維が擦れて痛みがあった。今はそれはないが、押さえると痛むなあ」
「そんな目に…ひどい」
「それと、撃たれる前に頭を打った。幸い脳波に異常はなかったが、頭の天辺…ちょうどこの辺りだなあ、切れて、血が出た」
「うそ!…嫌…怖い」
「こんなことで嘘をつくほど悪趣味じゃないぞお。今探しても傷は綺麗になっているから分からないくらいだが」
「そんな恐ろしいことを、そんな…なんでもないみたいに言わないで…」
恐ろしさに震える茉弥の頬を斑は両手で包み込んで微笑んだ。
「もう、済んだ話だあ」
「でも…!」
一体どれほどの死闘を繰り広げたのか、茉弥は恐ろしくて聞く気にもなれなかった。それなのに随分酷いことも言ってしまった。ただ、今目の前に斑が生きているということが茉弥には大切だった。
「どのみち裸になったら見えてしまうが、いきなりじゃなくてちゃんと見せておこうと思ったんだあ。驚かせて済まなかった」
「うん、驚いた…」
「うむ。…入るぞお」
斑は湯船に入り、手を伸ばして茉弥を抱き寄せ、額に口づけた。
「俺の世界一可愛い大好きちゃん」
「まだら、さん…」
「泣かないでくれえ。君が泣いてると俺も悲しくなる」
茉弥が小さく頷くと、斑は茉弥の顎を引き上げ、唇を重ねた。
「ほら、泣き止んだ」
斑がニッと笑うと、茉弥も笑顔を見せた。
「茉弥さんの笑顔はやっぱりいいなあ」
斑は茉弥を引き寄せて、囁いた。
「まだ傷がつれるから、今晩は俺が上になってもいいかあ?」
「…何で今その話」
「確認しただけだあ。茉弥さんが嫌なら今晩はやめておくが」
「…嫌じゃないけど、疲れてるからぐっすり安眠コースかもよ」
「洗おうかあ。綺麗にしてあげよう」
「どさくさに紛れてえっちなことをしようなんて企んでませんか」
「…俺ってそんなに信用ないのかあ…?」
それから斑は、念入りに時間をかけて茉弥を全身洗った。つん、と尖った胸の先端を斑の指先が触れた時だけ、茉弥は微かに「あ」と声を上げた。だがそれで欲情をそそられることなく、斑は丁寧に茉弥の身体を洗い、自分の背中を流し、頭を洗ってくれと頼んだ。普段は三つ編みにして束ねている両サイドの髪は解かれており、癖はあるが指通りのよい髪を洗うのは茉弥にとっても心地よかった。
「何だか今日は初めてばっかり」
「んんん?そうかあ?」
「週刊誌に写真載っちゃうし、こんなすごいマンションに連れて来られるし、いきなりプロポーズされて挙句の果てに一緒にお風呂に入ってる」
茉弥が肩を竦め、斑は笑った。
「ずっと一緒にお風呂に入る日を待ち望んでいたんだぞお」
「本当に入ってどうでしたか?」
茉弥が尋ねると、斑はまた声を上げて笑い、言った。
「可愛い茉弥さんと一緒で、俺は大満足だあ」
スエット素材のかぶるタイプの部屋着を着て茉弥がリビングへ行くと、斑はTシャツにジャージ姿でくつろいでいた。
「あれ、そのジャージって」
「ああ、陸上部の時のだなあ。まだ使えるから部屋着にしている。こういう姿を茉弥さんに見せるのは初めてだなあ」
「なんか新鮮な感じ。シャンプーの香りも一緒になったし」
「これから一緒に暮らすといろいろあるかもしれないが、お互い擦り合わせていこうなあ」
「そうね。いろんな話をして…一緒に暮らすってそういうこと、だもの」
斑がぽんぽんとソファの自分の横を打ち、茉弥を呼んだ。茉弥は頷いて横に座った。
「あんな記事が出なかったら、もっと違う形で君を迎え入れるつもりだった」
苦悩に満ちた表情の斑を見上げ、茉弥は胸が痛んだ。
「これから、どうするの?」
「ほとぼりが冷めるまで茉弥さんは外に出ないほうがいいからなあ…。俺はいくつか、話をつけなきゃいけないことがあるし、まず明日出かけるぞお」
「出かけるって…どこへ」
「ニューディの事務所とか、まあ、いろいろ、だなあ」
「いろいろって」
「いろいろだなあ。俺のバイクを預かってくれてる人のところに行ったり。ああ、つむぎさんが君の部屋の鍵を貸してほしいそうだあ。荷物を運び出すのを手伝ってくれるらしい。帰ってきたら俺も一緒に行くから、それまで待っててくれえ」
「私が昼間に出かけるのは?」
「俺がここに出入りする分にはあまり心配ない。このマンションはニューディ借り上げの部屋がいくつかあって、何とでも言い訳できる。だが君は…。だからお留守番をしていてほしい」
「うん…」
「そのうちちゃんとご両親に結婚の報告に行こうなあ」
茉弥は頷いた。本当に自分の出る幕はしばらくなさそうだった。
「おなか、すきませんか?」
斑は顔を上げて笑った。
「そうだなあ。せっかくおにぎりを差し入れてもらったしなあ」
「湯呑がないから、ペットボトルのお茶になっちゃうけど」
「それは妥協するかなあ」
茉弥は袋からおにぎりをいくつも取り出し、間に合わせのコップにお茶を注いだ。
「オムライスのおにぎり?ビビンバ?焼肉ばくだんおにぎり?随分変わったものが入っているんだなあ」
「オムライスのおにぎりは案外美味しいよ。多分それ、宙くんのチョイス。ビビンバはわかんない。司くんが好きそうだけど一緒に買いに行ってくれたのかなあ。焼肉ばくだんおにぎりは初めて見た。定番の梅とか塩むすびとかもあるし」
「好きなのを取っていいぞお」
「じゃあ梅と和風ツナかな?オムライスおにぎりぜひ食べてみて」
「それじゃあ俺はオムライスと焼肉ばくだんおにぎりをいただこうかあ」
「温めると美味しいみたい。レンジ、借りるね」
「ほんとに…疲れた」
「急にいろいろ動いたからなあ…。茉弥さんはつむぎさんから聞いた話だと、休みなく仕事をしてきたようだから、思いがけず得た休暇だと思ってのんびりしてほしい」
茉弥は笑った。
「確かに、ちょっと休みたかったからちょうどいいかも」
「俺もしばらくは国内の仕事ばかりだからそんなに家を空けることもないし、出来るだけ問題を早く解決して、茉弥さんとお出かけできるようにするからなあ」
「うん。…ね、斑さんのバイクの後ろに載せて」
「おやあ、怖がらないんだなあ」
「斑さんと一緒なら怖くないよ。楽しみに、してるから」
にこにこと笑顔を向ける茉弥に斑も笑顔を返した。
「それにしても静か、だなあ」
斑が息を吐いた。時計は夜10時近くになっていた。
「ちょっと眠くなってきた」
「そうだなあ」
「朝からあんまりにもいろんなことがあったから…」
「たった1日のこととは思えないほど、濃い時間だったなあ」
「…ね、斑さん。もし記事が出なくても私にプロポーズするつもりだった?」
斑は頬杖をついて少し考えた後、茉弥を見て言った。
「茉弥さんを俺だけのものにしておくためには、結婚を申し込むのが一番理にかなっていると思った」
「それ、どういう意味?」
「…正直に答えるが、近いうちに申し込む気持ちはあった。流石に今日するとは俺も思ってなかったけどなあ」
茉弥は笑顔で斑の顔を見つめた。
「…ひとめぼれだった。他の誰とも違う君に惹かれた…。こんな気持ちは産まれて初めてだった。君の心も体も全部俺だけのものにしておきたいと思った。でも君は檻に閉じ込めておけるような人ではなくて…。俺のやって来たことを思うと、君の傍にいていいのかって…」
「またそんなことを…」
「いや、俺は本当に悔やんだ。元気で笑顔を届ける、純粋にアイドルだけをやって来たかったって…手を汚してもいいなんて思ってなかった…それは、君があんまり優しくて、暖かくて、俺のことを一途に見つめてくれて…俺は君に相応しくないのかもしれないって…だけど手放せなかった。
君とは心も体も本当に相性がよかったからなあ…」
項垂れた斑の声が珍しく湿ったものに感じられた茉弥はそっと斑の顔を見て、頬が濡れているのに気づいた。
「だから、言った…私、斑さんがどんな人でも、悪人だったとしても、ずっとそばにいる。私だけは、斑さんの味方でいるって」
「うむ」
「結婚、するんだよ、斑さん」
茉弥は斑に寄り添い、そっと背中に手を回した。
「あなたの世界一可愛い大好きちゃんは、ずっとあなたの腕の中にいるから」
「茉弥さん…」
「これからは二人で歩いていく。そう、決めたでしょう?」
「決めた、なあ」
「よろしくね、斑さん」
斑は顔を上げて笑顔の茉弥を見た。こみあげる愛おしさとともに、斑は茉弥と唇を重ねた。
不意に斑のスマホが鳴り、電話に出るために斑は玄関へ移動した。手持ち無沙汰な茉弥は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターしか入っていないのを見て呆れた。作り付けの食器棚にほとんど食器が入っていないのも異様だった。
斑がここで食事をしているとは思えない。茉弥はため息をついて、食器棚を閉じた。
茉弥が斑と出会ってから、将来について話をしたのは今日が初めてだった。身も心も結ばれながら肝心なところでは自分を開示せず、抱え込んだものが多かった斑が選んだ道が、自分と人生を共にすることであった、そのことに、茉弥は感慨深いものを感じた。一旦交わった道が離れていく可能性もあったからだ。
朝、家を出て職場に向かう時は、こんな未来が開けていくなど想像もできなかったが、これは現実だ。
茉弥はソファに腰かけ、溜息をついた。
(斑さん、忙しそうだな…。私は何も出来ることはない、か)
窓からは見えないが、張り込んでいる記者がまだいるようだ。斑は何度か電話をかけていた。相手はつむぎだったり、茉弥がまだ会ったことがないニューディの所長だったりしたようだ。
夕方、インターホンが鳴った。つむぎと宙が荷物を届けにきたのだ。斑は茉弥を残し、下に降りて荷物を受け取りに行った。
「とりあえず今日の夜から明日の昼までの差し入れと、あんずさんから頼まれたクロさんの着替えを持ってきました」
「宙は飲み物を持ってきました。ししょーと宙から差し入れです」
宙はペットボトルに入ったお茶や紅茶、コーヒーなどを入れた袋を斑に渡した。中にハーブティのティーバッグが入っているが、おそらく夏目からだろうと斑は想像した。夏目のハーブティは茉弥のお気に入りだった。
「済まないなあ」
「明日の夕方、クロさんのマンションの鍵をお借りしに来ますね。荷物は少しずつ夜中に運びます」
「すっかり世話になってしまうなあ」
「三毛縞くんはもっと人を頼ってもいいと思いますよ。…仕事を抱え込んじゃう俺が言うことじゃないかもしれませんけど。クロさんによろしく」
斑は荷物を持って部屋に戻って来た。
「おにぎりとお蕎麦が入ってる。ハーブティは…夏目くん?」
「うむ、差し入れだそうだあ。助かったなあ、そういえば飲まず食わずで時間が経ってしまったなあ」
「冷蔵庫を見たけど何も入ってないわよ」
「こっちに戻ったときのために借りてもらったのが1か月前、だからなあ。そりゃ何も入っていなくても当然だあ」
茉弥は再びソファに座って息を吐いた。冷蔵庫も洗濯機も電子レンジもあるのに、生活を感じさせるものが一切ない。
「茉弥さんはしばらくここから出ない方がいい。不自由をさせてしまうが、嗅ぎつけられてあることないこと書かれるのは避けたい」
斑の言葉に、茉弥は頷いた。火種になるような週刊誌の記事があるのに、わざわざ火をつけるような行動は控えなければならない。斑は呟いた。
「こそこそしたくはないんだが、根回しをするまでは耐えてほしい」
「…わかった。気がかりなのは私の職場だけなんだ。写真が出たらバレるだろうし、しばらく外出できないんでしょ、私」
「ああ、それは考えなければならないなあ」
茉弥はため息をついた。
「学生時代のバイトからお世話になってて、いい職場だったけど…。潮時かも。斑さんはうちの職場でもファンが割と多いの。私が恋人だと分かれば記者が来て迷惑をかけるだろうし、やっかまれるかもしれない。ESの仕事が増えてきて悩んでたんだけど、やっぱりスクールは退職したほうがいいよね」
「だろうなあ」
「仕事を続けたいと思っているんだけど、どうかしら」
茉弥が尋ねると、斑は即座に答えた。
「それは、続けてほしい。君はいい仕事をするし、俺も仕事で家を空けることが多くて、寂しい想いをさせてしまうからなあ」
「家でずっと待っていられると負担?」
「そんなことはないが勿体なくてなあ。せっかく演出の勉強も始めたんだし、茉弥さんがいい仕事をすれば、俺のライブを演出するっていう夢にも近づくから応援するぞお」
「ありがとう。…こういう話も、今迄あんまりしなかったね」
すると、斑は少し考えて、言った。
「これからは、そういう話をすることが大切なんだろうなあ」
今迄の、ただ好きで一緒にいるのとは違う責任がある関係を作っていく、その重みを斑は改めて感じた。基本的な能力が全体的に高めな自分の、不足している部分は誰かと半永久的な関係を築くことなのではないかと斑は初めて気づいた。
「何だか疲れたなあ。お風呂に入ろうかあ」
バスタブにお湯をためてきた斑が、茉弥を振り返って言った。
「どうぞ先に入って」
「いや、その…一緒に、入りたい、なあ」
珍しく斑は下を向いて顔を赤くしている。自然に茉弥も顔が赤く染まった。
「え、…一緒に、って…」
「この部屋のお風呂なら、ふ、二人で入っても、大丈夫、だあ」
斑はどうやら以前の「一人用の湯船では壊れる」を気にしているような口ぶりだが、茉弥にとっては一大事だった。
「まだ一緒にお風呂に入ったことはなかっただろう?」
「斑さんは、…私と、お風呂に入りたい、の?」
ソファに座っている茉弥が斑を見上げると、斑は顔を赤くしたまま頷いた。そういえば一緒にお風呂に入った経験はない。ただでさえ求婚されたことでもう胸がいっぱいな茉弥は、新たな試みをするのに耐えられるだろうかと思った。
「そ、その、本当に一緒にお風呂に入るだけ、だあ…」
「…分かったよ…。私が先に入る。斑さん、後から来て…」
茉弥はあんずが用意した新品の部屋着と下着を用意し、そそくさと浴室に駆け込んだ。
「茉弥さああああん!入るぞお」
茉弥がお湯の温度を確かめながらたし湯をしていると、大声がして裸になった斑が入って来た。全く前も隠さない開けっ広げな態度に、茉弥は溺れそうになった。
「びっくりさせないでよ、溺れるじゃない」
「はははは~。ごめんごめん」
笑いながらも、湯船には入ってこない斑に茉弥は首を捻った。
「茉弥さん、これを見てほしい」
斑はおもむろに茉弥に背を向けた。背中の方から左の脇腹にかけて傷口が見えた。
「昼間に話した、俺の傷痕だあ」
切り傷は何針か分からないが、縫い合わせた跡がある。その傷が痛々しい。
生々しさは薄れていたが、それでも大き目な傷を見て、茉弥は思わず小さな悲鳴を上げた。
「この脇腹の傷から、弾丸が3発出た。そのうちの1つは深いところに食い込んでいて、取り出すために切開したからこんな傷になった。そうだなあ…2か月…2か月半か、それくらい前の話だあ」
「まだ痛いの?」
「前は衣服を着ると布の繊維が擦れて痛みがあった。今はそれはないが、押さえると痛むなあ」
「そんな目に…ひどい」
「それと、撃たれる前に頭を打った。幸い脳波に異常はなかったが、頭の天辺…ちょうどこの辺りだなあ、切れて、血が出た」
「うそ!…嫌…怖い」
「こんなことで嘘をつくほど悪趣味じゃないぞお。今探しても傷は綺麗になっているから分からないくらいだが」
「そんな恐ろしいことを、そんな…なんでもないみたいに言わないで…」
恐ろしさに震える茉弥の頬を斑は両手で包み込んで微笑んだ。
「もう、済んだ話だあ」
「でも…!」
一体どれほどの死闘を繰り広げたのか、茉弥は恐ろしくて聞く気にもなれなかった。それなのに随分酷いことも言ってしまった。ただ、今目の前に斑が生きているということが茉弥には大切だった。
「どのみち裸になったら見えてしまうが、いきなりじゃなくてちゃんと見せておこうと思ったんだあ。驚かせて済まなかった」
「うん、驚いた…」
「うむ。…入るぞお」
斑は湯船に入り、手を伸ばして茉弥を抱き寄せ、額に口づけた。
「俺の世界一可愛い大好きちゃん」
「まだら、さん…」
「泣かないでくれえ。君が泣いてると俺も悲しくなる」
茉弥が小さく頷くと、斑は茉弥の顎を引き上げ、唇を重ねた。
「ほら、泣き止んだ」
斑がニッと笑うと、茉弥も笑顔を見せた。
「茉弥さんの笑顔はやっぱりいいなあ」
斑は茉弥を引き寄せて、囁いた。
「まだ傷がつれるから、今晩は俺が上になってもいいかあ?」
「…何で今その話」
「確認しただけだあ。茉弥さんが嫌なら今晩はやめておくが」
「…嫌じゃないけど、疲れてるからぐっすり安眠コースかもよ」
「洗おうかあ。綺麗にしてあげよう」
「どさくさに紛れてえっちなことをしようなんて企んでませんか」
「…俺ってそんなに信用ないのかあ…?」
それから斑は、念入りに時間をかけて茉弥を全身洗った。つん、と尖った胸の先端を斑の指先が触れた時だけ、茉弥は微かに「あ」と声を上げた。だがそれで欲情をそそられることなく、斑は丁寧に茉弥の身体を洗い、自分の背中を流し、頭を洗ってくれと頼んだ。普段は三つ編みにして束ねている両サイドの髪は解かれており、癖はあるが指通りのよい髪を洗うのは茉弥にとっても心地よかった。
「何だか今日は初めてばっかり」
「んんん?そうかあ?」
「週刊誌に写真載っちゃうし、こんなすごいマンションに連れて来られるし、いきなりプロポーズされて挙句の果てに一緒にお風呂に入ってる」
茉弥が肩を竦め、斑は笑った。
「ずっと一緒にお風呂に入る日を待ち望んでいたんだぞお」
「本当に入ってどうでしたか?」
茉弥が尋ねると、斑はまた声を上げて笑い、言った。
「可愛い茉弥さんと一緒で、俺は大満足だあ」
スエット素材のかぶるタイプの部屋着を着て茉弥がリビングへ行くと、斑はTシャツにジャージ姿でくつろいでいた。
「あれ、そのジャージって」
「ああ、陸上部の時のだなあ。まだ使えるから部屋着にしている。こういう姿を茉弥さんに見せるのは初めてだなあ」
「なんか新鮮な感じ。シャンプーの香りも一緒になったし」
「これから一緒に暮らすといろいろあるかもしれないが、お互い擦り合わせていこうなあ」
「そうね。いろんな話をして…一緒に暮らすってそういうこと、だもの」
斑がぽんぽんとソファの自分の横を打ち、茉弥を呼んだ。茉弥は頷いて横に座った。
「あんな記事が出なかったら、もっと違う形で君を迎え入れるつもりだった」
苦悩に満ちた表情の斑を見上げ、茉弥は胸が痛んだ。
「これから、どうするの?」
「ほとぼりが冷めるまで茉弥さんは外に出ないほうがいいからなあ…。俺はいくつか、話をつけなきゃいけないことがあるし、まず明日出かけるぞお」
「出かけるって…どこへ」
「ニューディの事務所とか、まあ、いろいろ、だなあ」
「いろいろって」
「いろいろだなあ。俺のバイクを預かってくれてる人のところに行ったり。ああ、つむぎさんが君の部屋の鍵を貸してほしいそうだあ。荷物を運び出すのを手伝ってくれるらしい。帰ってきたら俺も一緒に行くから、それまで待っててくれえ」
「私が昼間に出かけるのは?」
「俺がここに出入りする分にはあまり心配ない。このマンションはニューディ借り上げの部屋がいくつかあって、何とでも言い訳できる。だが君は…。だからお留守番をしていてほしい」
「うん…」
「そのうちちゃんとご両親に結婚の報告に行こうなあ」
茉弥は頷いた。本当に自分の出る幕はしばらくなさそうだった。
「おなか、すきませんか?」
斑は顔を上げて笑った。
「そうだなあ。せっかくおにぎりを差し入れてもらったしなあ」
「湯呑がないから、ペットボトルのお茶になっちゃうけど」
「それは妥協するかなあ」
茉弥は袋からおにぎりをいくつも取り出し、間に合わせのコップにお茶を注いだ。
「オムライスのおにぎり?ビビンバ?焼肉ばくだんおにぎり?随分変わったものが入っているんだなあ」
「オムライスのおにぎりは案外美味しいよ。多分それ、宙くんのチョイス。ビビンバはわかんない。司くんが好きそうだけど一緒に買いに行ってくれたのかなあ。焼肉ばくだんおにぎりは初めて見た。定番の梅とか塩むすびとかもあるし」
「好きなのを取っていいぞお」
「じゃあ梅と和風ツナかな?オムライスおにぎりぜひ食べてみて」
「それじゃあ俺はオムライスと焼肉ばくだんおにぎりをいただこうかあ」
「温めると美味しいみたい。レンジ、借りるね」
「ほんとに…疲れた」
「急にいろいろ動いたからなあ…。茉弥さんはつむぎさんから聞いた話だと、休みなく仕事をしてきたようだから、思いがけず得た休暇だと思ってのんびりしてほしい」
茉弥は笑った。
「確かに、ちょっと休みたかったからちょうどいいかも」
「俺もしばらくは国内の仕事ばかりだからそんなに家を空けることもないし、出来るだけ問題を早く解決して、茉弥さんとお出かけできるようにするからなあ」
「うん。…ね、斑さんのバイクの後ろに載せて」
「おやあ、怖がらないんだなあ」
「斑さんと一緒なら怖くないよ。楽しみに、してるから」
にこにこと笑顔を向ける茉弥に斑も笑顔を返した。
「それにしても静か、だなあ」
斑が息を吐いた。時計は夜10時近くになっていた。
「ちょっと眠くなってきた」
「そうだなあ」
「朝からあんまりにもいろんなことがあったから…」
「たった1日のこととは思えないほど、濃い時間だったなあ」
「…ね、斑さん。もし記事が出なくても私にプロポーズするつもりだった?」
斑は頬杖をついて少し考えた後、茉弥を見て言った。
「茉弥さんを俺だけのものにしておくためには、結婚を申し込むのが一番理にかなっていると思った」
「それ、どういう意味?」
「…正直に答えるが、近いうちに申し込む気持ちはあった。流石に今日するとは俺も思ってなかったけどなあ」
茉弥は笑顔で斑の顔を見つめた。
「…ひとめぼれだった。他の誰とも違う君に惹かれた…。こんな気持ちは産まれて初めてだった。君の心も体も全部俺だけのものにしておきたいと思った。でも君は檻に閉じ込めておけるような人ではなくて…。俺のやって来たことを思うと、君の傍にいていいのかって…」
「またそんなことを…」
「いや、俺は本当に悔やんだ。元気で笑顔を届ける、純粋にアイドルだけをやって来たかったって…手を汚してもいいなんて思ってなかった…それは、君があんまり優しくて、暖かくて、俺のことを一途に見つめてくれて…俺は君に相応しくないのかもしれないって…だけど手放せなかった。
君とは心も体も本当に相性がよかったからなあ…」
項垂れた斑の声が珍しく湿ったものに感じられた茉弥はそっと斑の顔を見て、頬が濡れているのに気づいた。
「だから、言った…私、斑さんがどんな人でも、悪人だったとしても、ずっとそばにいる。私だけは、斑さんの味方でいるって」
「うむ」
「結婚、するんだよ、斑さん」
茉弥は斑に寄り添い、そっと背中に手を回した。
「あなたの世界一可愛い大好きちゃんは、ずっとあなたの腕の中にいるから」
「茉弥さん…」
「これからは二人で歩いていく。そう、決めたでしょう?」
「決めた、なあ」
「よろしくね、斑さん」
斑は顔を上げて笑顔の茉弥を見た。こみあげる愛おしさとともに、斑は茉弥と唇を重ねた。