君は一等星
バスルームへ茉弥が消えたあと、斑は枕を抱えて呟いた。
「無駄死にするな、かあ」
そんなつもりもないが、茉弥には自分がそう見えているのだろう。
それとは別に、キスを許している茉弥が、頑なにその先へ進もうとしないのも気になっていた。彼女の心の中には、何だか見えない壁が立ちはだかっているのではないかと斑には感じられた。
生真面目な茉弥が弁護士の娘だという話を聞いたとき、斑は腑に落ちた。茉弥の父親のことは珍しい苗字(自分もだが)であることもあり、比較的簡単に調べられた。
「アルカス法律事務所」という弁護士事務所の所長をしている茉弥の父、黒野尾 功は経済系の訴訟に強い弁護士だった。穏和な外見に反して、理詰めで勝負に出る。
茉弥の父親は、斑ではなく斑の父と因縁があった。幼馴染の深海奏太の実家の宗教のトラブルの最中に、信者の中で詐欺のようなことを働いた者を訴える被害者の会の弁護を引き受けていた。
「氷壁の黒野尾」の名でいくつもの難しい案件を解決している。
敵に回すと厄介な相手だと斑は思った。
「俺はいつもやりすぎて、大切なものを壊してしまうからなあ…」
誰に聞かせるわけでもなく、斑は呟いた。
「壊したくないなあ、あの子だけは…俺の、特別だから」
呟いて、斑はもう一度枕を抱えた。
茉弥がパジャマを着てバスルームから戻ってくると、斑は自分もバスルームへ向かった。今夜は多分泊ってもキスより先に進めないだろうと、髭を剃りながら斑は考えた。茉弥が自分を愛していることは偽りのない事実だが、それと体の関係を結ぶことはどうやら別の問題のようだ。
不用意に動くことで茉弥を傷つけ、壊すのは斑の本意とは違う。茉弥と唇を重ねるほどに、愛おしく、全てを求める気持ちが斑の中では募っていた。それは男の本能としても当然だし、愛する女性と結ばれたいという純粋な(斑自身は忘れたと思っていた)気持ちでもある。しばらくバスルームで葛藤していた斑は、結局今晩は「時期尚早」と結論づけ、紳士的に振る舞うことに決めた。
斑はパジャマに袖を通し、ボタンをかけて茉弥のいる部屋へ戻った。茉弥が言うとおり、着心地のよい素材に自分の身体を包むと、心を決めた分すっきりとした気分だった。
「お風呂上りの髪ってそうなってるんだ」
所在なさげにツインベッドの一方のへりに腰かけ、スマホの画面を見ていた茉弥が顔を上げた。
「髪?ああ」
「両サイドを編み込んで留めてるのって可愛いなあって思ってたんだけど、解くとそうなるのね」
「頭を洗う時は解くからなあ。そういえば茉弥さんは髪型を変えたんだったなあ」
茉弥は肩よりも長かった髪を顎のラインで切り揃えていた。
「ここまで切ったのって久しぶり。…どう、かな」
「うむ。良く似合うぞお」
他愛のない話をしながら、斑はあらかじめ冷蔵庫で冷やしておいたジンジャーエールを取り出して、茉弥に差し出した。
「飲むかあ?」
「うん」
よく売られているものよりもショウガの分量が多いものだ。品薄で珍しい、というのでコンビニで仕入れてきた。
「結構刺激が強いよ、これ。飲んでみて」
茉弥が飲みかけのペットボトルを差し出した。斑は笑顔で受け取り、一口飲んだ。
「どう?」
「ふむ…かなり辛口だなあ。悪くないが」
「全部飲んでいいよ」
斑は頷いて、ジンジャーエールを一気に飲み干した。
「茉弥さん」
斑に呼び止められ、茉弥は振り返った。
「おいで」
ツインベッドの片方に斑が上がり、手招きしている。茉弥は少し頬が染まるのを感じた。それっぽいホテルじゃなくて、ちゃんとした高級ホテルだが、やっぱり「お泊り」となると日常とまた別な気がする。
ベッドに乗り、斑の方へ近づくと、不意に肩を抱き寄せられた。
一瞬のうちに、斑の顔が近づき、唇が触れた。その瞬間、かちんという音とともに茉弥の瞳から一筋の涙が零れた。
「ごめ…今、音がした…」
斑はふっと笑いながら、茉弥の眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。
「勢いつけすぎたなあ。痛かったかあ?」
「…ちょっとだけ…」
「髪を切ったからかなあ、眼鏡を外した茉弥さんがとても可愛らしく見えるぞお」
そんなことを言われたら、どんな顔をして斑を見たらいいか分からない。茉弥の頬がほんのりと色づいた。
「仕切り直し…っと。こっち、向いて」
再び斑の顔が近づき、今度はくいっと茉弥の顎を引き上げ、上手く茉弥の唇をついばんだ。ちゅ、と言う音がして、斑の顔が離れた。微かにジンジャーエールのショウガの味が残った。
「ん…まだら、さん」
茉弥の普段より少し甘い声に、斑はたがが外れたように茉弥を強く抱き寄せた。
「口、あけて」
言われるままに茉弥が口を少し開けると、斑は自分の口をつけ、舌先で茉弥の口の中を蹂躙し、舌を絡めて何度も激しく吸った。
口を離すと茉弥の濡れた唇があり、戸惑うような視線が斑を捉えた。
「ごめんなあ、茉弥さんが可愛すぎて…歯止めがきかなかった」
「…う…」
「嫌だったかあ?いきなりでびっくりしたもんなあ」
「…ち、ちょっと…えっちだった…キスだけで…あんなふうに…」
「どんなふうに?」
「言わない!恥ずかしいからっ!!」
赤くなった茉弥に、斑は声を上げて笑った。
「ごめんなあ」
「だからっ!怒って、ないってば!…ちょっと、切なくて…胸が、こう、きゅん、として…」
「きゅん」
「しないの?斑さんは。男の人はきゅんってしない?」
真顔で自分を見つめる茉弥に、斑は正直に答えた。
「…茉弥さんが可愛くて、俺もきゅんとした」
すると、茉弥は笑顔を見せた。
茉弥が小さなあくびをして、斑は茉弥の顔を覗き込んだ。
「おやあ、茉弥さんもうおねむかあ?」
「普段ならまだ起きてる時間…斑さんと、お話、したいな」
斑はベッドから降り、サイドテーブルの灯だけを残して部屋の照明を消し、茉弥の横に滑り込んだ。
「プラネタリウムみたいだね。灯が1つ、星みたいね」
「君は俺の一等星だあ。きらきらと空に輝く」
「一等星は、斑さんの方だよ。大きくて、まばゆくて、絶対見落としたりしない」
斑は声を上げて笑った。
「そんないいもんじゃないぞお。俺はただでかいだけだあ」
「…わし座のアルタイル、こと座のベガ、はくちょう座のデネブ…」
茉弥がぶつぶつと何かを唱えはじめた。
「夏の大三角形、かあ…?昔習ったなあ」
「そう。じゃあこれは?おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウス…」
「冬の大三角形だあ。…茉弥さんひょっとして天体ファンかあ?」
「中学の時天文部だった。星座表を覚えて、学校に泊まって星の観察してた。知ってた?夏も冬も、大三角形を形作る星は一等星なんだよ。ユニットみたい」
その言葉に、斑の心がちくん、と痛んだ。
「ユニット、なあ」
茉弥は斑の顔を見て、笑った。
「MaMはソロユニットだから…北極星、かな?うん、一人でも輝く、でも多くの人を導く。そういう感じね」
一人で仕事をしている自分に気を使ったわけではない。茉弥はそういう人間ではない。ただ、感じたことを述べているだけだが、それが今の斑にはありがたかった。
「そうかあ。…じゃあ、そのうち星を見に行こうなあ。キャンプもいいなあ」
「キャンプもいいね。でも山は夜冷えたりするよ」
「寒かったら、俺が茉弥さんを温めてあげるぞお」
茉弥がくすくすと笑い、身を寄せてきた。斑は茉弥を抱き寄せた。パジャマを通して、茉弥の体温が感じられ、シャンプーの香りが微かにした。
「休み、取るから。一緒に、星を見に行こうなあ」
「うん、行きたい。斑さんと一緒なら、どこでも楽しい」
「ははは、茉弥さんの言うことはいちいち可愛いなあ」
斑は茉弥を抱きしめ、もう一度唇を重ねた。
「無駄死にするな、かあ」
そんなつもりもないが、茉弥には自分がそう見えているのだろう。
それとは別に、キスを許している茉弥が、頑なにその先へ進もうとしないのも気になっていた。彼女の心の中には、何だか見えない壁が立ちはだかっているのではないかと斑には感じられた。
生真面目な茉弥が弁護士の娘だという話を聞いたとき、斑は腑に落ちた。茉弥の父親のことは珍しい苗字(自分もだが)であることもあり、比較的簡単に調べられた。
「アルカス法律事務所」という弁護士事務所の所長をしている茉弥の父、黒野尾 功は経済系の訴訟に強い弁護士だった。穏和な外見に反して、理詰めで勝負に出る。
茉弥の父親は、斑ではなく斑の父と因縁があった。幼馴染の深海奏太の実家の宗教のトラブルの最中に、信者の中で詐欺のようなことを働いた者を訴える被害者の会の弁護を引き受けていた。
「氷壁の黒野尾」の名でいくつもの難しい案件を解決している。
敵に回すと厄介な相手だと斑は思った。
「俺はいつもやりすぎて、大切なものを壊してしまうからなあ…」
誰に聞かせるわけでもなく、斑は呟いた。
「壊したくないなあ、あの子だけは…俺の、特別だから」
呟いて、斑はもう一度枕を抱えた。
茉弥がパジャマを着てバスルームから戻ってくると、斑は自分もバスルームへ向かった。今夜は多分泊ってもキスより先に進めないだろうと、髭を剃りながら斑は考えた。茉弥が自分を愛していることは偽りのない事実だが、それと体の関係を結ぶことはどうやら別の問題のようだ。
不用意に動くことで茉弥を傷つけ、壊すのは斑の本意とは違う。茉弥と唇を重ねるほどに、愛おしく、全てを求める気持ちが斑の中では募っていた。それは男の本能としても当然だし、愛する女性と結ばれたいという純粋な(斑自身は忘れたと思っていた)気持ちでもある。しばらくバスルームで葛藤していた斑は、結局今晩は「時期尚早」と結論づけ、紳士的に振る舞うことに決めた。
斑はパジャマに袖を通し、ボタンをかけて茉弥のいる部屋へ戻った。茉弥が言うとおり、着心地のよい素材に自分の身体を包むと、心を決めた分すっきりとした気分だった。
「お風呂上りの髪ってそうなってるんだ」
所在なさげにツインベッドの一方のへりに腰かけ、スマホの画面を見ていた茉弥が顔を上げた。
「髪?ああ」
「両サイドを編み込んで留めてるのって可愛いなあって思ってたんだけど、解くとそうなるのね」
「頭を洗う時は解くからなあ。そういえば茉弥さんは髪型を変えたんだったなあ」
茉弥は肩よりも長かった髪を顎のラインで切り揃えていた。
「ここまで切ったのって久しぶり。…どう、かな」
「うむ。良く似合うぞお」
他愛のない話をしながら、斑はあらかじめ冷蔵庫で冷やしておいたジンジャーエールを取り出して、茉弥に差し出した。
「飲むかあ?」
「うん」
よく売られているものよりもショウガの分量が多いものだ。品薄で珍しい、というのでコンビニで仕入れてきた。
「結構刺激が強いよ、これ。飲んでみて」
茉弥が飲みかけのペットボトルを差し出した。斑は笑顔で受け取り、一口飲んだ。
「どう?」
「ふむ…かなり辛口だなあ。悪くないが」
「全部飲んでいいよ」
斑は頷いて、ジンジャーエールを一気に飲み干した。
「茉弥さん」
斑に呼び止められ、茉弥は振り返った。
「おいで」
ツインベッドの片方に斑が上がり、手招きしている。茉弥は少し頬が染まるのを感じた。それっぽいホテルじゃなくて、ちゃんとした高級ホテルだが、やっぱり「お泊り」となると日常とまた別な気がする。
ベッドに乗り、斑の方へ近づくと、不意に肩を抱き寄せられた。
一瞬のうちに、斑の顔が近づき、唇が触れた。その瞬間、かちんという音とともに茉弥の瞳から一筋の涙が零れた。
「ごめ…今、音がした…」
斑はふっと笑いながら、茉弥の眼鏡を外し、サイドテーブルに置いた。
「勢いつけすぎたなあ。痛かったかあ?」
「…ちょっとだけ…」
「髪を切ったからかなあ、眼鏡を外した茉弥さんがとても可愛らしく見えるぞお」
そんなことを言われたら、どんな顔をして斑を見たらいいか分からない。茉弥の頬がほんのりと色づいた。
「仕切り直し…っと。こっち、向いて」
再び斑の顔が近づき、今度はくいっと茉弥の顎を引き上げ、上手く茉弥の唇をついばんだ。ちゅ、と言う音がして、斑の顔が離れた。微かにジンジャーエールのショウガの味が残った。
「ん…まだら、さん」
茉弥の普段より少し甘い声に、斑はたがが外れたように茉弥を強く抱き寄せた。
「口、あけて」
言われるままに茉弥が口を少し開けると、斑は自分の口をつけ、舌先で茉弥の口の中を蹂躙し、舌を絡めて何度も激しく吸った。
口を離すと茉弥の濡れた唇があり、戸惑うような視線が斑を捉えた。
「ごめんなあ、茉弥さんが可愛すぎて…歯止めがきかなかった」
「…う…」
「嫌だったかあ?いきなりでびっくりしたもんなあ」
「…ち、ちょっと…えっちだった…キスだけで…あんなふうに…」
「どんなふうに?」
「言わない!恥ずかしいからっ!!」
赤くなった茉弥に、斑は声を上げて笑った。
「ごめんなあ」
「だからっ!怒って、ないってば!…ちょっと、切なくて…胸が、こう、きゅん、として…」
「きゅん」
「しないの?斑さんは。男の人はきゅんってしない?」
真顔で自分を見つめる茉弥に、斑は正直に答えた。
「…茉弥さんが可愛くて、俺もきゅんとした」
すると、茉弥は笑顔を見せた。
茉弥が小さなあくびをして、斑は茉弥の顔を覗き込んだ。
「おやあ、茉弥さんもうおねむかあ?」
「普段ならまだ起きてる時間…斑さんと、お話、したいな」
斑はベッドから降り、サイドテーブルの灯だけを残して部屋の照明を消し、茉弥の横に滑り込んだ。
「プラネタリウムみたいだね。灯が1つ、星みたいね」
「君は俺の一等星だあ。きらきらと空に輝く」
「一等星は、斑さんの方だよ。大きくて、まばゆくて、絶対見落としたりしない」
斑は声を上げて笑った。
「そんないいもんじゃないぞお。俺はただでかいだけだあ」
「…わし座のアルタイル、こと座のベガ、はくちょう座のデネブ…」
茉弥がぶつぶつと何かを唱えはじめた。
「夏の大三角形、かあ…?昔習ったなあ」
「そう。じゃあこれは?おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウス…」
「冬の大三角形だあ。…茉弥さんひょっとして天体ファンかあ?」
「中学の時天文部だった。星座表を覚えて、学校に泊まって星の観察してた。知ってた?夏も冬も、大三角形を形作る星は一等星なんだよ。ユニットみたい」
その言葉に、斑の心がちくん、と痛んだ。
「ユニット、なあ」
茉弥は斑の顔を見て、笑った。
「MaMはソロユニットだから…北極星、かな?うん、一人でも輝く、でも多くの人を導く。そういう感じね」
一人で仕事をしている自分に気を使ったわけではない。茉弥はそういう人間ではない。ただ、感じたことを述べているだけだが、それが今の斑にはありがたかった。
「そうかあ。…じゃあ、そのうち星を見に行こうなあ。キャンプもいいなあ」
「キャンプもいいね。でも山は夜冷えたりするよ」
「寒かったら、俺が茉弥さんを温めてあげるぞお」
茉弥がくすくすと笑い、身を寄せてきた。斑は茉弥を抱き寄せた。パジャマを通して、茉弥の体温が感じられ、シャンプーの香りが微かにした。
「休み、取るから。一緒に、星を見に行こうなあ」
「うん、行きたい。斑さんと一緒なら、どこでも楽しい」
「ははは、茉弥さんの言うことはいちいち可愛いなあ」
斑は茉弥を抱きしめ、もう一度唇を重ねた。