君は一等星
スタジオでの時間を、斑は思い出していた。
不思議な感覚だった。
黒野尾 茉弥。それが彼女の名前だ。自分が差し出した手を握り返した彼女の手の力は、小柄な割に力強かった。生きている、という感じがした。
あんずや後輩たちに抱くような「庇護欲」のようなものと、茉弥に感じる感情は少し違う。そのことに気づいたのは、彼女とスタジオ近くの地下鉄の駅で別れ、彼女の背中を見送った後だった。
茉弥が持ってきた曲のデモテープから、使えそうなものを選ぶという「宿題」を自分に課し、その返事をするために三毛縞はもう一度彼女と会った。
長身の自分と並ぶと、頭が自分の肩のところで止まる。思わず腕の中に抱きかかえたいほどだ。くせ毛だと言っていたが肩の少し下で先がくるんとカールした暗めのブラウンの髪。丸いリムの眼鏡の奥にあるダークブラウンの瞳には知的なものを感じた。話していても浮ついたところがないのも好感が持てる。
茉弥は小柄で愛らしい女性でもあるが、特に編曲のセンスがよく、その点での才能と歌声の魅力は、自らも歌を歌う彼にとって得難いものだと分かった。彼女の作曲の才能と声が欲しい。
いや、本当に欲しいのはそれだけなのだろうか。
(こんな気持ちは初めてだなあ)
三毛縞が黙り込んでいるので、茉弥は心配そうに声をかけた。
「…まさん、みけじまさん」
「はっ?!あ、な、何か言ったかなぁ?」
「どれか使えそうな曲はありました?」
「そうだなあ。この間のデモテープもよかったが、新しいこの曲はよかったなあ。それで」
改めて、三毛縞は茉弥と向かい合った。
「上に掛け合ってみるが多分君の曲は採用されると思う。専属とはいかないけれど、これからも作品を書いてもらえるとありがたいなあ」
「頑張ります。学生なので、学業と半々になってしまいますが」
そこで初めて、三毛縞は茉弥の音楽活動について詳しい話を聞いたのだった。
幼いころからピアノのコンクールに出ていた。高校は大学進学のために普通の高校へ進んだが、夢をあきらめきれずに音大受験をしたという。
だが大学入学後、レッスンでは弾けても、人前で弾くことがいつしか怖くなった。そのため、学内オーディションも芳しい結果は出ず、ますます人前で弾けなくなった茉弥は、大学の教官から勧められて曲を作り始めたのだという。
「今でも、人前で弾くのは怖いです。手が、震えます」
沈んだ表情の茉弥の姿に、三毛縞も口を閉じた。
「だから、仮歌がやっとなんです。誰もいないところで歌うだけだから…コーラスのプロでもないですし。
実はこの間家に帰って調べたんです。三毛縞さんって、MaMなんですよね」
懐かしい名前に、三毛縞は耳を止めた。捨てたわけでもないが、その名を聞くことはこのところ減っていた。
「MaMの俺を知ってるのかあ?」
「はい。私、アイドル曲のコンペに応募したくせに全然アイドルのこと知らないんです。ネットラジオで聞いたMaMの曲だけが好きで聞いてたんです。三毛縞斑と言う名前と、MaMが結びついたときは驚きました」
静かに微笑む茉弥が、しかし次に発した言葉は三毛縞の胸を刺した。
「音大の受験の時、逃げ出したかった私を救ってくれたのは、三毛縞さんの声でした。私、あんなふうに人に力を与えられるかどうかわからない」
苦しそうな表情の茉弥を見下ろし、三毛縞は心が締め付けられるようだった。自分が無理な願いを彼女に託したのかと思い、三毛縞の表情も沈んだ。
「私、MaMの曲大好きです。三毛縞さんの声も。私の曲を拾ってもらえてうれしかった。ですからもっといろんな曲を書いてみたいな、って思いました」
「なるほどなあ」
「クラシックは好きですけど、自分を変えたくて。もし本当にこの曲を採用してくださるなら、ありがたいことだと思います」
「そうかあ」
「あ、そんな顔しないでください。三毛縞さん直々にお誘い受けたことは嬉しかったですし、その、ありがたかったっていうか」
「んんん?」
茉弥は微妙に三毛縞から視線をそらし、呟いた。
「私の曲が気に入ってもらえたら、また、三毛縞さんに会えるっていうか」
「んんんん?」
「その、三毛縞さんのお手伝いが出来たら、嬉しいっていうか、またお会いしたいっていうか」
「茉弥さんは、また俺と会ってもいいのかあ?」
三毛縞が尋ねると、茉弥の頬が少し染まった。
「はい。お会いしたい、です。…っていうか」
「何だあ?」
「私、三毛縞さんのこと好き…みたいです」
振り返った茉弥の視線が三毛縞のそれにぶつかった。戸惑いながら頬を染めて自分を見つめる瞳に、三毛縞は動揺した。
(嘘だろ…まさか、そんな)
「茉弥さん?」
「ひとめ惚れなんて信じてなかった。だけど三毛縞さんに会ったとき、なんていうかな…心に、灯がともった…」
真剣すぎるその眼差しに、三毛縞の心は射抜かれたようだった。
自分が求めるより、もっともっと強く、彼女が自分を求めるなど予想外だった。
「気持ちはありがたいが、俺は後ろ暗いこともしてきた。君に相応しい男かどうか」
「知ってる」
茉弥の眼差しはまっすぐ、三毛縞の瞳を貫いた。大人しそうでいて、意思の強い瞳だった。
「Double Faceの役目はニューデイの事務所で聞きました。ここに来る前に。それでもいい。三毛縞さんが悪党だとしても、根っからの悪党だとは思えない。でも、もしそうなら」
「君は、…」
もう抑えきれなかった。三毛縞は茉弥を抱き寄せた。
「その時は一緒に地獄に落ちます、私も」
「本当に俺でいいのかあ?」
「斑さん、が、いいです」
「おおおう!名前呼びか?!…責任重大だあ」
「何がですか」
三毛縞は茉弥を抱きしめ、ふっと息を吐いて言った。
「いや、普段単独で行動してるとなあ、人と深く関わるのが怖い部分もあるんだあ。それと」
その後は、誰に聞かせるともなく呟く。
「そんな大事な気持ち俺がもらっちゃって、上手く扱えるかどうか…珍しいな、怖いんだよ、俺は」
「私も、怖いです」
茉弥が三毛縞を見上げた。
「でも、私は三毛縞さんが…斑さんが、欲しいんです。こんなこと、普段は言わない。だけど…」
「ありがとう。君のその気持ちに応えたい。それに何より俺が、君のことを欲しいと心の中で願ってしまった」
そして、次の瞬間、茉弥は耳元で、一番欲しい言葉を聞いた。
「君が好きだ」
不思議な感覚だった。
黒野尾 茉弥。それが彼女の名前だ。自分が差し出した手を握り返した彼女の手の力は、小柄な割に力強かった。生きている、という感じがした。
あんずや後輩たちに抱くような「庇護欲」のようなものと、茉弥に感じる感情は少し違う。そのことに気づいたのは、彼女とスタジオ近くの地下鉄の駅で別れ、彼女の背中を見送った後だった。
茉弥が持ってきた曲のデモテープから、使えそうなものを選ぶという「宿題」を自分に課し、その返事をするために三毛縞はもう一度彼女と会った。
長身の自分と並ぶと、頭が自分の肩のところで止まる。思わず腕の中に抱きかかえたいほどだ。くせ毛だと言っていたが肩の少し下で先がくるんとカールした暗めのブラウンの髪。丸いリムの眼鏡の奥にあるダークブラウンの瞳には知的なものを感じた。話していても浮ついたところがないのも好感が持てる。
茉弥は小柄で愛らしい女性でもあるが、特に編曲のセンスがよく、その点での才能と歌声の魅力は、自らも歌を歌う彼にとって得難いものだと分かった。彼女の作曲の才能と声が欲しい。
いや、本当に欲しいのはそれだけなのだろうか。
(こんな気持ちは初めてだなあ)
三毛縞が黙り込んでいるので、茉弥は心配そうに声をかけた。
「…まさん、みけじまさん」
「はっ?!あ、な、何か言ったかなぁ?」
「どれか使えそうな曲はありました?」
「そうだなあ。この間のデモテープもよかったが、新しいこの曲はよかったなあ。それで」
改めて、三毛縞は茉弥と向かい合った。
「上に掛け合ってみるが多分君の曲は採用されると思う。専属とはいかないけれど、これからも作品を書いてもらえるとありがたいなあ」
「頑張ります。学生なので、学業と半々になってしまいますが」
そこで初めて、三毛縞は茉弥の音楽活動について詳しい話を聞いたのだった。
幼いころからピアノのコンクールに出ていた。高校は大学進学のために普通の高校へ進んだが、夢をあきらめきれずに音大受験をしたという。
だが大学入学後、レッスンでは弾けても、人前で弾くことがいつしか怖くなった。そのため、学内オーディションも芳しい結果は出ず、ますます人前で弾けなくなった茉弥は、大学の教官から勧められて曲を作り始めたのだという。
「今でも、人前で弾くのは怖いです。手が、震えます」
沈んだ表情の茉弥の姿に、三毛縞も口を閉じた。
「だから、仮歌がやっとなんです。誰もいないところで歌うだけだから…コーラスのプロでもないですし。
実はこの間家に帰って調べたんです。三毛縞さんって、MaMなんですよね」
懐かしい名前に、三毛縞は耳を止めた。捨てたわけでもないが、その名を聞くことはこのところ減っていた。
「MaMの俺を知ってるのかあ?」
「はい。私、アイドル曲のコンペに応募したくせに全然アイドルのこと知らないんです。ネットラジオで聞いたMaMの曲だけが好きで聞いてたんです。三毛縞斑と言う名前と、MaMが結びついたときは驚きました」
静かに微笑む茉弥が、しかし次に発した言葉は三毛縞の胸を刺した。
「音大の受験の時、逃げ出したかった私を救ってくれたのは、三毛縞さんの声でした。私、あんなふうに人に力を与えられるかどうかわからない」
苦しそうな表情の茉弥を見下ろし、三毛縞は心が締め付けられるようだった。自分が無理な願いを彼女に託したのかと思い、三毛縞の表情も沈んだ。
「私、MaMの曲大好きです。三毛縞さんの声も。私の曲を拾ってもらえてうれしかった。ですからもっといろんな曲を書いてみたいな、って思いました」
「なるほどなあ」
「クラシックは好きですけど、自分を変えたくて。もし本当にこの曲を採用してくださるなら、ありがたいことだと思います」
「そうかあ」
「あ、そんな顔しないでください。三毛縞さん直々にお誘い受けたことは嬉しかったですし、その、ありがたかったっていうか」
「んんん?」
茉弥は微妙に三毛縞から視線をそらし、呟いた。
「私の曲が気に入ってもらえたら、また、三毛縞さんに会えるっていうか」
「んんんん?」
「その、三毛縞さんのお手伝いが出来たら、嬉しいっていうか、またお会いしたいっていうか」
「茉弥さんは、また俺と会ってもいいのかあ?」
三毛縞が尋ねると、茉弥の頬が少し染まった。
「はい。お会いしたい、です。…っていうか」
「何だあ?」
「私、三毛縞さんのこと好き…みたいです」
振り返った茉弥の視線が三毛縞のそれにぶつかった。戸惑いながら頬を染めて自分を見つめる瞳に、三毛縞は動揺した。
(嘘だろ…まさか、そんな)
「茉弥さん?」
「ひとめ惚れなんて信じてなかった。だけど三毛縞さんに会ったとき、なんていうかな…心に、灯がともった…」
真剣すぎるその眼差しに、三毛縞の心は射抜かれたようだった。
自分が求めるより、もっともっと強く、彼女が自分を求めるなど予想外だった。
「気持ちはありがたいが、俺は後ろ暗いこともしてきた。君に相応しい男かどうか」
「知ってる」
茉弥の眼差しはまっすぐ、三毛縞の瞳を貫いた。大人しそうでいて、意思の強い瞳だった。
「Double Faceの役目はニューデイの事務所で聞きました。ここに来る前に。それでもいい。三毛縞さんが悪党だとしても、根っからの悪党だとは思えない。でも、もしそうなら」
「君は、…」
もう抑えきれなかった。三毛縞は茉弥を抱き寄せた。
「その時は一緒に地獄に落ちます、私も」
「本当に俺でいいのかあ?」
「斑さん、が、いいです」
「おおおう!名前呼びか?!…責任重大だあ」
「何がですか」
三毛縞は茉弥を抱きしめ、ふっと息を吐いて言った。
「いや、普段単独で行動してるとなあ、人と深く関わるのが怖い部分もあるんだあ。それと」
その後は、誰に聞かせるともなく呟く。
「そんな大事な気持ち俺がもらっちゃって、上手く扱えるかどうか…珍しいな、怖いんだよ、俺は」
「私も、怖いです」
茉弥が三毛縞を見上げた。
「でも、私は三毛縞さんが…斑さんが、欲しいんです。こんなこと、普段は言わない。だけど…」
「ありがとう。君のその気持ちに応えたい。それに何より俺が、君のことを欲しいと心の中で願ってしまった」
そして、次の瞬間、茉弥は耳元で、一番欲しい言葉を聞いた。
「君が好きだ」