君は一等星
あれはまだ、夢ノ咲学院に入って半年も経っていない頃だった。
斑はある時、電車の中の忘れ物を拾って届けたことがある。
「忘れ物?」
「ああ、忘れ物だあ」
「何なの、その忘れ物って」
茉弥の質問に、斑は即答した。「傘だ」
あの傘はちょっと珍しいものだった。
竹の持ち手がついていて、藤色の地に白いドットの模様だ。
赤や紺色に白のドット、というのは、傘の模様として珍しくない。細かいドットならありふれているし、1円玉程度のドットでもそれほど目立たない。
傘の色として、色紙の紫のような色もあまり見かけないが、斑がその傘を目に留めたのはまさに、「藤色」だったからかもしれない。淡い青味を帯びた紫色の地に、10円玉大の白いドットが散らばっている。もっとも、傘は閉じた状態で手すりに下がっていたから、完全に斑の想像だ。
忘れ物を届けようと思った理由は大したことじゃない。
あの頃の自分は「流星隊」で、それなりに真面目に、アイドルとしての活動を行っていた。斑の中にある正義感が、困っている人を助けたいという気持ちに働いたのだった。
何かの移動だろう、あまり乗らない線の電車の座席に座り、何となく路線図を眺めていた斑は、向かい側の手すりにひっかかっていたその傘を見とがめた。
(ここに座っていたのは…)
ブラウス、あるいはセーラーの夏服を着た少女のはずだった。彼女が電車を降り、出口に吸い込まれるのを見咎めた斑は、膝に置いたリュックと手すりに引っかかっていた傘を持って立ち上がり、電車を降りて少女の後ろ姿を追った。
20人くらいの乗客が降りる駅で、少女の背中を追うことは思ったより困難だった。彼女が小柄であることもあったが、改札口までの狭い連絡通路が、行く手を阻んだのだ。
息を切らせながら、斑は少女の背中に呼び掛け、肩を叩いた。
「これ、傘を、忘れてませんか」
振り返った少女はポニーテールに眼鏡をかけた大人しそうな女子高生だった。
「あ」
少女は声をあげ、「私のです」と小さな声で言った。
「どこでこの傘を」
「座席の手すりにかかっていたでしょう。俺、向かいに座ってて偶然見つけたんです」
「よかった…なくさないで。大事な、傘だったから」
「じゃあ、俺はこれで」
「あの…!」
ホームへ戻る斑に、少女が呼び掛けた。
「ありがとう、ございました!」
少女の白襟のセーラー服の襟とポニーテール、胸元の水色のリボンが風に揺れた。
その話を黙って聞いていた茉弥は、自分の傘を斑の方に突き出した。
「その傘、これかな」
斑は目を見張った。あの時少女に渡したものより少し年季が入っているが、傘自体は色褪せておらずあの頃の藤色のままだ。
「どうしてこれを茉弥さんが持っているんだあ?」
「多分だけど、斑さんが傘を届けてくれたのは、私、だと思う」
「ほう」
それは驚くべきことだった。
「今より斑さんも髪の毛短かったからわからなかった。名前も聞かずに終わったしね。ただ、でっかい男の子だなあって言うことだけ覚えてたの」
「なるほど。奇怪なこともあるもんだなあ」
「その時連絡先とか交換してたら、どうなってたかしらね」
「さあなあ。俺は声も体もでかくて、女の子には怖がられたりうるさがられたりしてばかりだったしなあ」
「嘘嘘、モテモテだったんじゃないの?」
「アイドルとしてモテるのと、高校生男子としてモテるのは別だぞお」
「まあそういうことにしておきましょうか。ともあれ、不思議なこともあるものね」
「人生は謎ときのようなものかもしれないからなあ。俺と茉弥さんは、そんな時から繋がっていたんだと思うと、感慨深いものがあるなあ」
出会いの縁は不思議なものだ。
「ところで、以前に届けた時にも思ったんだが」
「なに?」
「珍しい傘だなあ」
飴色になった竹の持ち手、藤色に白のドット。女性が持つには少し大振りだ。その傘は、茉弥の祖母の形見だという。
「おばあちゃんが、斑さんに会わせてくれたのかな」
「だといいなあ」
期待をしないで善行をすると、たまに思いがけぬ形で帰ってくるのだと斑は思った。
「雨、やまないね」
「そうだなあ」
「美味しいチーズケーキのお店があるんだけど、どうする?」
「うーん。いつまでもこの待合室にいても仕方がないしなあ」
「駅からそんなに離れてないから大丈夫だよ。傘もあるしね」
茉弥は傘を差しだした。斑は傘を広げ、茉弥を手招きした。大きな傘だから、二人でも入れる。
肩を濡らさないように、寄り添いながら藤色の傘に入る恋人たちは、街へ消えていった。
斑はある時、電車の中の忘れ物を拾って届けたことがある。
「忘れ物?」
「ああ、忘れ物だあ」
「何なの、その忘れ物って」
茉弥の質問に、斑は即答した。「傘だ」
あの傘はちょっと珍しいものだった。
竹の持ち手がついていて、藤色の地に白いドットの模様だ。
赤や紺色に白のドット、というのは、傘の模様として珍しくない。細かいドットならありふれているし、1円玉程度のドットでもそれほど目立たない。
傘の色として、色紙の紫のような色もあまり見かけないが、斑がその傘を目に留めたのはまさに、「藤色」だったからかもしれない。淡い青味を帯びた紫色の地に、10円玉大の白いドットが散らばっている。もっとも、傘は閉じた状態で手すりに下がっていたから、完全に斑の想像だ。
忘れ物を届けようと思った理由は大したことじゃない。
あの頃の自分は「流星隊」で、それなりに真面目に、アイドルとしての活動を行っていた。斑の中にある正義感が、困っている人を助けたいという気持ちに働いたのだった。
何かの移動だろう、あまり乗らない線の電車の座席に座り、何となく路線図を眺めていた斑は、向かい側の手すりにひっかかっていたその傘を見とがめた。
(ここに座っていたのは…)
ブラウス、あるいはセーラーの夏服を着た少女のはずだった。彼女が電車を降り、出口に吸い込まれるのを見咎めた斑は、膝に置いたリュックと手すりに引っかかっていた傘を持って立ち上がり、電車を降りて少女の後ろ姿を追った。
20人くらいの乗客が降りる駅で、少女の背中を追うことは思ったより困難だった。彼女が小柄であることもあったが、改札口までの狭い連絡通路が、行く手を阻んだのだ。
息を切らせながら、斑は少女の背中に呼び掛け、肩を叩いた。
「これ、傘を、忘れてませんか」
振り返った少女はポニーテールに眼鏡をかけた大人しそうな女子高生だった。
「あ」
少女は声をあげ、「私のです」と小さな声で言った。
「どこでこの傘を」
「座席の手すりにかかっていたでしょう。俺、向かいに座ってて偶然見つけたんです」
「よかった…なくさないで。大事な、傘だったから」
「じゃあ、俺はこれで」
「あの…!」
ホームへ戻る斑に、少女が呼び掛けた。
「ありがとう、ございました!」
少女の白襟のセーラー服の襟とポニーテール、胸元の水色のリボンが風に揺れた。
その話を黙って聞いていた茉弥は、自分の傘を斑の方に突き出した。
「その傘、これかな」
斑は目を見張った。あの時少女に渡したものより少し年季が入っているが、傘自体は色褪せておらずあの頃の藤色のままだ。
「どうしてこれを茉弥さんが持っているんだあ?」
「多分だけど、斑さんが傘を届けてくれたのは、私、だと思う」
「ほう」
それは驚くべきことだった。
「今より斑さんも髪の毛短かったからわからなかった。名前も聞かずに終わったしね。ただ、でっかい男の子だなあって言うことだけ覚えてたの」
「なるほど。奇怪なこともあるもんだなあ」
「その時連絡先とか交換してたら、どうなってたかしらね」
「さあなあ。俺は声も体もでかくて、女の子には怖がられたりうるさがられたりしてばかりだったしなあ」
「嘘嘘、モテモテだったんじゃないの?」
「アイドルとしてモテるのと、高校生男子としてモテるのは別だぞお」
「まあそういうことにしておきましょうか。ともあれ、不思議なこともあるものね」
「人生は謎ときのようなものかもしれないからなあ。俺と茉弥さんは、そんな時から繋がっていたんだと思うと、感慨深いものがあるなあ」
出会いの縁は不思議なものだ。
「ところで、以前に届けた時にも思ったんだが」
「なに?」
「珍しい傘だなあ」
飴色になった竹の持ち手、藤色に白のドット。女性が持つには少し大振りだ。その傘は、茉弥の祖母の形見だという。
「おばあちゃんが、斑さんに会わせてくれたのかな」
「だといいなあ」
期待をしないで善行をすると、たまに思いがけぬ形で帰ってくるのだと斑は思った。
「雨、やまないね」
「そうだなあ」
「美味しいチーズケーキのお店があるんだけど、どうする?」
「うーん。いつまでもこの待合室にいても仕方がないしなあ」
「駅からそんなに離れてないから大丈夫だよ。傘もあるしね」
茉弥は傘を差しだした。斑は傘を広げ、茉弥を手招きした。大きな傘だから、二人でも入れる。
肩を濡らさないように、寄り添いながら藤色の傘に入る恋人たちは、街へ消えていった。