二十話
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翌朝、ウイルタの衣装を借りた一行は、橇に乗り込むと硬い表情で出発した。毛皮をふんだんに使った衣服を着た尾形は、軍服のシャープなイメージからは少し変わって見えて新鮮であった。流石に寒くなってきたと見え、民族衣装のミトンの下には黒い革手袋をはめている。尾形を先頭にして、アシリパを中に挟みナマエを最後に載せた橇は、猛スピードで国境へと進んでいった。
「国境標石だ」
尾形が鋭く叫ぶと、目の前に木枠で囲まれた標石がぐんぐん近付いてくる。側面には、天第ニ號 明治三十九年 と刻まれているのが見えた。
「ロシア領に入ったぞ」
少々の安堵が混じる声でキロランケが言った時だった。銃声が響き、ウイルタのお父さんが橇から落ちていく。ナマエは息を飲んで、落ちて行った彼の姿に釘付けになった。
「トナカイを止めるなッこのまま行け」
尾形が素早く銃を構えながら言ったが、橇は急停止する。
「チッ…伏せろアシリパ、ナマエ。橇のかげに!かなりの距離から撃ってきやがった。手練れの狙撃手だ」
ナマエは身を隠しながら、恐怖に身を縮めた。こんな開けた場所で、尾形が手練れと認めるほどの狙撃手を相手にしなければならないとは、なんたる不運だろうか。しかし、尾形は冷静に遠くの森を見やると敵の姿を発見する。
「モシンナガンの銃身が少し見えた。ロシアの国境守備隊だろう…三八を怪しんだか?それにしても乱暴だな」
こうしている間にも、負傷した父を呼ぶ悲痛な声が響き、ナマエは祈るような思いだった。白石が馴鹿達を進ませようとするも、なっちもさっちも行かない。やがて、何を思ったのかキロランケが悠然と進み出ると、お父さんを抱えて戻ってくる。恐怖など微塵も感じさせない、堂々とした姿だった。
「いまだッ行け!!」
発砲するや否や、尾形が合図した。馴鹿たちは再びかけ始め、尾形はナマエを引っ張り上げるとしっかりと腕に包む。
「ははッ」
遠くなっていく森を横目で見ながら、尾形は短く笑う。その顔を斜め下から見上げながら、ナマエはやっと安堵するとほっと息を吐いた。
身の安全が確保できる距離まで辿り着くと、橇を止めてお父さんの傷の具合を確認する。帽子のお陰で命が助かり、ナマエはうっすら涙が滲むほど安心した。しかしなぜあのように狙われたのかが不可解で、アシリパがキロランケに問いかけたが、彼の青い瞳は何も語らない。
「奴らから直接聞き出すさ。日露戦争延長戦だ」
尾形はそう言うと、外套のフードを被って銃を手に取る。
「ナマエはこいつらと待ってろ」
「……分かりました」
もしかしたら死ぬかもしれない、そんな戦いに出発しようとしている尾形を見送るのは辛いことだった。しかしナマエにはそうすることしか出来ないし、信じて待つことが尾形にとって一番良いことなのだと言い聞かせる。
「安心しろ。必ず戻る」
尾形はナマエにしか聞こえないような声で言い残すと、振り返らずに森へ入って行った。白い外套が見えなくなるまで、ナマエはその場に立ち尽くす。
「…… ナマエ、こっちにきて少し休め。尾形なら絶対大丈夫だ、あいつより銃が上手い人間なんてそういない」
少し離れた場所にいたアシリパは近くにやって来ると、励ますように言った。ナマエは頷くと、お礼を言ってキロランケ達の元へ戻る。
♢
キロランケ……ユルバルスの皇帝殺し、ウイルクとの関わり。森の中で発見した瀕死のロシア兵から明かされたそれらの事実は、アシリパ達に衝撃を与えた。ナマエも同じであったが、尾形の事が気がかりだった。一睡もできぬうちに、夜が薄らと明けて辺りに日光がさす。その時、遠くの方からターンと数発の銃声が響いた。ナマエは勢い良く立ち上がると、アシリパから双眼鏡を借りて周辺を見回す。
「橇の方に戻ってみるか」
キロランケに言われて、ナマエははやる気持ちを抑えながら雪を踏みしめた。橇に近づいてから再び双眼鏡を覗き込むと、外套にくるまって座る人影が見える。
「尾形さん、帰ってきてます」
ナマエはいても立ってもいられずに駆け出すと、尾形の顔を覗き込んだ。色白の肌は普段より青ざめて顔色が悪い。もしやと思って額に触れてみると、驚くほど体温が高かった。
「尾形さん、熱が……」
「……約束通り、帰ってきたぜ…少し雪を口にしすぎただけだ……こんな熱どうってことな…」
そこまで言うと、尾形は不自然に言葉を止めた。ますます体調が悪化したように思われて、
ナマエは追いついたアシリパ達の方を慌てて振り返る。
「尾形さんが高熱を出していて…すぐに休まないと」
「本当だ、すごい熱だな」
アシリパも驚いたように言う。しかしここに留まるのは危険だったので、ナマエは尾形の身体を支えるようにすると橇に乗った。汗をかき、ふらついて歩く尾形は視線もぼんやりとして、意識が遠いところにありそうだった。
「尾形さん、落ちないで下さいね」
ナマエは小さな声で尾形の背中に呟くと、彼の重たい身体にそっと手を添える。橇は慌ただしく出発して、雪景色がぐんぐん後ろへ通り過ぎていった。やがて天幕が立ち並ぶ地点にたどり着くと、橇がゆっくりと停止する。この家は従兄弟の家族が住んでいるそうで、中に入れてもらえる事になった。暖かい空気が身体を包み、ナマエは尾形をゆっくりと座らせる。アシリパがスワシという苦い灌木を取り出すと、鍋に熱湯を用意して枝をグツグツと煮た。
「湯気に蒸されて沢山汗をかけ。ヤイスマウカレという治療法だ」
「ありがとう、アシリパちゃん」
二人で尾形に外套を被せながらお礼を言う。俯いた彼は、顔色が真っ青で呼吸も荒い。ナマエが尾形の背中をさすって、時折白湯を飲ませたりして看病していると、ドンと太鼓の音がする。
「いとこはサマなんだそうだ」
キロランケによると、サマとはシャーマンのようなもので、祈祷によって病気の治療も行う。病人には悪い化け物が憑いていると考えられていて、太鼓や歌で神と対話して取り去ってもらうのだそうだ。賑やかにすればするほど良いと聞き、アシリパと白石は渾身の演奏をする。
「音楽は霊的なものであり、「無意識」に深く影響する。患者に取り憑いてある「なにか」との因果を明らかにするんだ」
尾形が うるせぇ、と言った通り、天幕の中は太鼓やら金属音やら振楽器やらの音でとても騒がしい。これで熱が下がるのか、ナマエには正直分かりかねたが、熱気と音楽でなんとなく頭がぼうっとしてくるような感じがする。その時だった。ごく小さな声で、尾形が何かつぶやいた。聞き間違えでなければ、勇作殿、と言った。
「……え?勇作殿…?」
恐る恐る聞き返すが、尾形は魘されているようでナマエの質問には答えない。勇作さん。大雪山を越える時に、鹿の体内で聞いた名前が再び胸に蘇る。本妻との間に生まれた男児、腹違いの弟、尾形が殺した男。彼は弟に囚われているのだろうか。キロランケが言った、「患者に取り憑いている何か」という言葉が頭をかすめる。ナマエは物思いに耽っていて、アシリパ達が席を外した事に気が付かなかったので、彼らが外で緊迫したやりとりをしていた事は知る由もなかった。
尾形の熱は徐々に下がり、ウイルタの鉢巻やお守りなどをもらう。ナマエは横たわる尾形を見やると、少し顔色が良くなっている事に安堵した。極寒の樺太で一晩中雪を口にするなど、随分無茶をしたものだ。やがて、尾形は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。黒い瞳は真っ暗で、何の光も映していないように見えた。その暗い眼でアシリパを見上げる。その表情にただならぬものを感じたが、ハッキリとした理由は分からなかった。もしかしたら勇作さんが関係しているのかもしれないが、面と向かって聞く勇気は出そうにもない。それほどまでに、尾形の目は暗かった。
「尾形目が覚めたか」
アシリパの声かけには答えず、黒い瞳をゆっくりとナマエに向ける。そっと彼の指先を握ってみると、僅かに握り返される感触がした。
「良かった、尾形さん」
尾形は手を離すと、もぞもぞと身を起こした。まだ寒気がするらしく、毛皮をもう一枚借りて防寒する。全く本調子ではないとみえ、一点を見つめてじっとしている尾形は、軍病院に入院していた頃のように大人しい。
「これから俺たちのことを占ってくれるんだとよ」
キロランケがサマの親戚を見ながら言った。馴鹿の肩甲骨を焼いて、表面に現れた亀裂の具合で色々なことを占うそうだ。なんとなく、インカラマッの占いと似たものを感じる。結果は、後方から人が来る だった。誰か追手がくるということだろうか。ナマエは杉元のことをちらりと思い出したが、アシリパは占いをあまり信用していないのか、冷静な目で馴鹿の骨を眺める。
「不吉な亀裂が出なくてよかったぁ」
白石がホッと胸を撫で下ろしたところで、夜も遅くなってきたので眠る事にする。アシリパ達は眠りが深いタチらしく、消灯すると間もなく寝息が響いた。ナマエは隣に眠る尾形にそっと身を寄せると、掌を額に当てた。熱はもう下がったようで、安堵しながら手を離す。
「ナマエ」
暗闇の中で名前を呼ばれた。はい、と返事をすると、こっちに来いと言われる。
「寒い」
「大丈夫ですか?私の毛布使って下さい」
そう言って、ナマエは掛けてあった毛布を持ち上げようとしたが、尾形は腰のあたりに手を伸ばすと引き寄せるように力を込める。二人で一枚の毛布に一緒に寝る状態になって、ナマエは胸の鼓動が早まるのを感じた。二人分の体温で、毛布の中はゆっくりと温まっていく。
「大丈夫ですか?寝辛くないですか?」
「平気だ」
「じゃあ、もう早く寝ましょう。あんなに具合悪かったんですから、悪化したら大変ですよ」
そう言ってナマエは目を閉じたが、急に唇が塞がれて暗い中で目を凝らす。
「尾形さん…何やってるんですか。寝ないと」
「こうした方があったまるだろ」
そう言うと、尾形はもう一度唇を押しつけてからナマエを腕に包んだ。やがて規則正しい寝息が聞こえて、彼が眠ったと分かる。ナマエは尾形の胸元に頭を預けると、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
あくる朝、尾形の体調も回復したので一行は道を急ぐ事にした。ウイルタの一家は馴鹿を一頭貸してくれる。たくさん迷惑をかけたというのに、親切にしてもらってナマエは胸が一杯になった。彼らの生活様式が守られることを願わずにはいられない。しかし白石が抜けると言う話になって、ナマエは驚いて彼の顔を見た。
「命あっての物種ってな。俺とアシリパちゃんでは背負ってるもんが違うわ」
「白石さん……」
「おっとナマエちゃん、そんな悲しそうな顔しちゃダメだぜ。好きになっちゃうから」
白石は戯けて見せると、4人の姿を見送る。ナマエはしんみりとした気持ちで、尾形の隣を歩いた。尾形としては、こんな事でいちいち感傷的になるなと言いたいところだったが、この女は甘ったれだったと思い直して何も言わない事にする。
「しばらく先へ行くとニヴフ民族の集落があるんだってよ」
キロランケがそう言った時、アシリパが何かに気がついて後ろを振り向く。ナマエも背後に視線をやると、誰かが走ってくるのが見えた。
「シライシだ!!」
「なんだ?気がかわったのか?」
白石はゼエゼエと息を上げながら、金髪のおネエちゃんと遊ぶ計画を生き生きと語る。彼らしい発言に、ナマエは肩の力が抜けて思わず笑ってしまった。
「あれ?なんかナマエちゃん、俺が戻ってきてすごく嬉しそう……やっぱり俺のこと、結構良いって思ってるんじゃない?」
「おい白石。調子に乗るなよ」
「尾形ちゃんごめんって」
尾形に睨まれて、白石はいつもの調子で謝った。やはり脱獄王がいると場の空気が明るくなって良いなとナマエは思ったが、尾形がムッとしそうなので黙っておく。
アシリパに性病の心配をされつつ、白石は旅の仲間へと戻って来たのだった。しかしこの時、占いの骨に不吉な亀裂が刻まれていることを彼らは知らない。死の予言はひっそりと、その背後に忍び寄るのだった。
「国境標石だ」
尾形が鋭く叫ぶと、目の前に木枠で囲まれた標石がぐんぐん近付いてくる。側面には、天第ニ號 明治三十九年 と刻まれているのが見えた。
「ロシア領に入ったぞ」
少々の安堵が混じる声でキロランケが言った時だった。銃声が響き、ウイルタのお父さんが橇から落ちていく。ナマエは息を飲んで、落ちて行った彼の姿に釘付けになった。
「トナカイを止めるなッこのまま行け」
尾形が素早く銃を構えながら言ったが、橇は急停止する。
「チッ…伏せろアシリパ、ナマエ。橇のかげに!かなりの距離から撃ってきやがった。手練れの狙撃手だ」
ナマエは身を隠しながら、恐怖に身を縮めた。こんな開けた場所で、尾形が手練れと認めるほどの狙撃手を相手にしなければならないとは、なんたる不運だろうか。しかし、尾形は冷静に遠くの森を見やると敵の姿を発見する。
「モシンナガンの銃身が少し見えた。ロシアの国境守備隊だろう…三八を怪しんだか?それにしても乱暴だな」
こうしている間にも、負傷した父を呼ぶ悲痛な声が響き、ナマエは祈るような思いだった。白石が馴鹿達を進ませようとするも、なっちもさっちも行かない。やがて、何を思ったのかキロランケが悠然と進み出ると、お父さんを抱えて戻ってくる。恐怖など微塵も感じさせない、堂々とした姿だった。
「いまだッ行け!!」
発砲するや否や、尾形が合図した。馴鹿たちは再びかけ始め、尾形はナマエを引っ張り上げるとしっかりと腕に包む。
「ははッ」
遠くなっていく森を横目で見ながら、尾形は短く笑う。その顔を斜め下から見上げながら、ナマエはやっと安堵するとほっと息を吐いた。
身の安全が確保できる距離まで辿り着くと、橇を止めてお父さんの傷の具合を確認する。帽子のお陰で命が助かり、ナマエはうっすら涙が滲むほど安心した。しかしなぜあのように狙われたのかが不可解で、アシリパがキロランケに問いかけたが、彼の青い瞳は何も語らない。
「奴らから直接聞き出すさ。日露戦争延長戦だ」
尾形はそう言うと、外套のフードを被って銃を手に取る。
「ナマエはこいつらと待ってろ」
「……分かりました」
もしかしたら死ぬかもしれない、そんな戦いに出発しようとしている尾形を見送るのは辛いことだった。しかしナマエにはそうすることしか出来ないし、信じて待つことが尾形にとって一番良いことなのだと言い聞かせる。
「安心しろ。必ず戻る」
尾形はナマエにしか聞こえないような声で言い残すと、振り返らずに森へ入って行った。白い外套が見えなくなるまで、ナマエはその場に立ち尽くす。
「…… ナマエ、こっちにきて少し休め。尾形なら絶対大丈夫だ、あいつより銃が上手い人間なんてそういない」
少し離れた場所にいたアシリパは近くにやって来ると、励ますように言った。ナマエは頷くと、お礼を言ってキロランケ達の元へ戻る。
♢
キロランケ……ユルバルスの皇帝殺し、ウイルクとの関わり。森の中で発見した瀕死のロシア兵から明かされたそれらの事実は、アシリパ達に衝撃を与えた。ナマエも同じであったが、尾形の事が気がかりだった。一睡もできぬうちに、夜が薄らと明けて辺りに日光がさす。その時、遠くの方からターンと数発の銃声が響いた。ナマエは勢い良く立ち上がると、アシリパから双眼鏡を借りて周辺を見回す。
「橇の方に戻ってみるか」
キロランケに言われて、ナマエははやる気持ちを抑えながら雪を踏みしめた。橇に近づいてから再び双眼鏡を覗き込むと、外套にくるまって座る人影が見える。
「尾形さん、帰ってきてます」
ナマエはいても立ってもいられずに駆け出すと、尾形の顔を覗き込んだ。色白の肌は普段より青ざめて顔色が悪い。もしやと思って額に触れてみると、驚くほど体温が高かった。
「尾形さん、熱が……」
「……約束通り、帰ってきたぜ…少し雪を口にしすぎただけだ……こんな熱どうってことな…」
そこまで言うと、尾形は不自然に言葉を止めた。ますます体調が悪化したように思われて、
ナマエは追いついたアシリパ達の方を慌てて振り返る。
「尾形さんが高熱を出していて…すぐに休まないと」
「本当だ、すごい熱だな」
アシリパも驚いたように言う。しかしここに留まるのは危険だったので、ナマエは尾形の身体を支えるようにすると橇に乗った。汗をかき、ふらついて歩く尾形は視線もぼんやりとして、意識が遠いところにありそうだった。
「尾形さん、落ちないで下さいね」
ナマエは小さな声で尾形の背中に呟くと、彼の重たい身体にそっと手を添える。橇は慌ただしく出発して、雪景色がぐんぐん後ろへ通り過ぎていった。やがて天幕が立ち並ぶ地点にたどり着くと、橇がゆっくりと停止する。この家は従兄弟の家族が住んでいるそうで、中に入れてもらえる事になった。暖かい空気が身体を包み、ナマエは尾形をゆっくりと座らせる。アシリパがスワシという苦い灌木を取り出すと、鍋に熱湯を用意して枝をグツグツと煮た。
「湯気に蒸されて沢山汗をかけ。ヤイスマウカレという治療法だ」
「ありがとう、アシリパちゃん」
二人で尾形に外套を被せながらお礼を言う。俯いた彼は、顔色が真っ青で呼吸も荒い。ナマエが尾形の背中をさすって、時折白湯を飲ませたりして看病していると、ドンと太鼓の音がする。
「いとこはサマなんだそうだ」
キロランケによると、サマとはシャーマンのようなもので、祈祷によって病気の治療も行う。病人には悪い化け物が憑いていると考えられていて、太鼓や歌で神と対話して取り去ってもらうのだそうだ。賑やかにすればするほど良いと聞き、アシリパと白石は渾身の演奏をする。
「音楽は霊的なものであり、「無意識」に深く影響する。患者に取り憑いてある「なにか」との因果を明らかにするんだ」
尾形が うるせぇ、と言った通り、天幕の中は太鼓やら金属音やら振楽器やらの音でとても騒がしい。これで熱が下がるのか、ナマエには正直分かりかねたが、熱気と音楽でなんとなく頭がぼうっとしてくるような感じがする。その時だった。ごく小さな声で、尾形が何かつぶやいた。聞き間違えでなければ、勇作殿、と言った。
「……え?勇作殿…?」
恐る恐る聞き返すが、尾形は魘されているようでナマエの質問には答えない。勇作さん。大雪山を越える時に、鹿の体内で聞いた名前が再び胸に蘇る。本妻との間に生まれた男児、腹違いの弟、尾形が殺した男。彼は弟に囚われているのだろうか。キロランケが言った、「患者に取り憑いている何か」という言葉が頭をかすめる。ナマエは物思いに耽っていて、アシリパ達が席を外した事に気が付かなかったので、彼らが外で緊迫したやりとりをしていた事は知る由もなかった。
尾形の熱は徐々に下がり、ウイルタの鉢巻やお守りなどをもらう。ナマエは横たわる尾形を見やると、少し顔色が良くなっている事に安堵した。極寒の樺太で一晩中雪を口にするなど、随分無茶をしたものだ。やがて、尾形は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。黒い瞳は真っ暗で、何の光も映していないように見えた。その暗い眼でアシリパを見上げる。その表情にただならぬものを感じたが、ハッキリとした理由は分からなかった。もしかしたら勇作さんが関係しているのかもしれないが、面と向かって聞く勇気は出そうにもない。それほどまでに、尾形の目は暗かった。
「尾形目が覚めたか」
アシリパの声かけには答えず、黒い瞳をゆっくりとナマエに向ける。そっと彼の指先を握ってみると、僅かに握り返される感触がした。
「良かった、尾形さん」
尾形は手を離すと、もぞもぞと身を起こした。まだ寒気がするらしく、毛皮をもう一枚借りて防寒する。全く本調子ではないとみえ、一点を見つめてじっとしている尾形は、軍病院に入院していた頃のように大人しい。
「これから俺たちのことを占ってくれるんだとよ」
キロランケがサマの親戚を見ながら言った。馴鹿の肩甲骨を焼いて、表面に現れた亀裂の具合で色々なことを占うそうだ。なんとなく、インカラマッの占いと似たものを感じる。結果は、後方から人が来る だった。誰か追手がくるということだろうか。ナマエは杉元のことをちらりと思い出したが、アシリパは占いをあまり信用していないのか、冷静な目で馴鹿の骨を眺める。
「不吉な亀裂が出なくてよかったぁ」
白石がホッと胸を撫で下ろしたところで、夜も遅くなってきたので眠る事にする。アシリパ達は眠りが深いタチらしく、消灯すると間もなく寝息が響いた。ナマエは隣に眠る尾形にそっと身を寄せると、掌を額に当てた。熱はもう下がったようで、安堵しながら手を離す。
「ナマエ」
暗闇の中で名前を呼ばれた。はい、と返事をすると、こっちに来いと言われる。
「寒い」
「大丈夫ですか?私の毛布使って下さい」
そう言って、ナマエは掛けてあった毛布を持ち上げようとしたが、尾形は腰のあたりに手を伸ばすと引き寄せるように力を込める。二人で一枚の毛布に一緒に寝る状態になって、ナマエは胸の鼓動が早まるのを感じた。二人分の体温で、毛布の中はゆっくりと温まっていく。
「大丈夫ですか?寝辛くないですか?」
「平気だ」
「じゃあ、もう早く寝ましょう。あんなに具合悪かったんですから、悪化したら大変ですよ」
そう言ってナマエは目を閉じたが、急に唇が塞がれて暗い中で目を凝らす。
「尾形さん…何やってるんですか。寝ないと」
「こうした方があったまるだろ」
そう言うと、尾形はもう一度唇を押しつけてからナマエを腕に包んだ。やがて規則正しい寝息が聞こえて、彼が眠ったと分かる。ナマエは尾形の胸元に頭を預けると、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
あくる朝、尾形の体調も回復したので一行は道を急ぐ事にした。ウイルタの一家は馴鹿を一頭貸してくれる。たくさん迷惑をかけたというのに、親切にしてもらってナマエは胸が一杯になった。彼らの生活様式が守られることを願わずにはいられない。しかし白石が抜けると言う話になって、ナマエは驚いて彼の顔を見た。
「命あっての物種ってな。俺とアシリパちゃんでは背負ってるもんが違うわ」
「白石さん……」
「おっとナマエちゃん、そんな悲しそうな顔しちゃダメだぜ。好きになっちゃうから」
白石は戯けて見せると、4人の姿を見送る。ナマエはしんみりとした気持ちで、尾形の隣を歩いた。尾形としては、こんな事でいちいち感傷的になるなと言いたいところだったが、この女は甘ったれだったと思い直して何も言わない事にする。
「しばらく先へ行くとニヴフ民族の集落があるんだってよ」
キロランケがそう言った時、アシリパが何かに気がついて後ろを振り向く。ナマエも背後に視線をやると、誰かが走ってくるのが見えた。
「シライシだ!!」
「なんだ?気がかわったのか?」
白石はゼエゼエと息を上げながら、金髪のおネエちゃんと遊ぶ計画を生き生きと語る。彼らしい発言に、ナマエは肩の力が抜けて思わず笑ってしまった。
「あれ?なんかナマエちゃん、俺が戻ってきてすごく嬉しそう……やっぱり俺のこと、結構良いって思ってるんじゃない?」
「おい白石。調子に乗るなよ」
「尾形ちゃんごめんって」
尾形に睨まれて、白石はいつもの調子で謝った。やはり脱獄王がいると場の空気が明るくなって良いなとナマエは思ったが、尾形がムッとしそうなので黙っておく。
アシリパに性病の心配をされつつ、白石は旅の仲間へと戻って来たのだった。しかしこの時、占いの骨に不吉な亀裂が刻まれていることを彼らは知らない。死の予言はひっそりと、その背後に忍び寄るのだった。
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