二話
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「……柊子、もうわかっただろ。何があったかは知らんが、お前は少し療養した方がいい。今すぐには無理だが、脳病院にでも連れて行ってやるよ」
尾形は落ちた双眼鏡を拾って自らの首にかけてから、数分は固まっている女に言った。
やはりこの女は柊子なのだ。見た目は随分若いが、未来から来たと言われるよりは、見た目が変わらないという方が格段に現実的だ。
何か記憶障害のようなものを負ったのだろうと推測する。
彼女はしばらく黙った末に、ゆっくりと顔を尾形の方へ向けた。
目は激しい動揺を示していて、唇は不安げに青ざめる。
「私……じゃあ私、100年前に来ちゃったんだ。何で……」
次第に身体も震え出して、それが精神的な要因なのは明らかだった。
「おい、柊子。落ち着け。俺のことを思い出せ。100年前なんかじゃない、たった20年前くらいだ」
「私、柊子じゃない。ナマエです。……幽霊は、私の方だったんですね」
この明治時代に、ナマエの存在を証明するものは何もなかった。
この身一つしかない。唯一自分の存在を知るこの男は、顔がそっくりらしい柊子という女を見ている。
私を知るものは誰もいない。それは幽霊と同じだった。自我は確かにあるのに、幻になってしまったようだった。
彼女の瞳から、涙が一粒落ちて行く。
その雫を見て、尾形はありし日を思い出す。
幼い自分は、柊子のために毎日鳥を撃とうと思ったのだ。
そんな風に人のことを想ったことが、確かにあったのだ。
あの日の柊子とそっくりな泣き顔で涙をこぼすナマエを、尾形はじっと見つめた。
「尾形さん、私、生きてるんですかね。もしかして、とっくに死んでいたりして……」
震える声で、女は訴えた。
彼はほとんど無意識に、腕を伸ばして女の肩を両手で包んだ。
「こうして触れる。お前は確かに存在している」
柊子、と呟くように言うと、女は尾形の手を振り払おうとした。
違う、私は柊子じゃない、と苦しそうに言う。
彼はそれを無理矢理封じると、荒っぽく唇を塞いだ。
なんだかそうしないと、女が消えてしまうような気がした。何故だかは分からないけれど。
「お前は柊子なのかナマエなのか…どっちなんだ。まあいい。そんなに不安なら、俺が存在を感じさせてやるよ」
怯えた瞳が尾形を見上げる。
それは扇情的で、彼は口元に笑みを浮かべると、再び女の唇を奪った。
舌先が痺れるように甘い。溶けるようだった。
抵抗が弱まったので女の顔を見てみると、はらはらと涙を流していて、抜け殻のように俯いている。
それを見ると、彼の中で急激に育った性欲の芽が萎れていくのを感じて、女の肩を掴んでいた手を離した。
「……泣くなよ」
「…すいません。ちょっと驚いたので」
二人は木の枝の陰に座り込むと、しばらく沈黙する。
それを破ったのは、ナマエの抑揚のない声だった。
「尾形さん、私と寝ますか」
「あぁ?」
「寝たら、私のこと独りぼっちにしないですか」
「……一回寝たくらいで、男を縛れると思ってんのか?だいたい、一人ではないだろ。茨城に帰ればいい。」
「私はたぶん、この時代の人間ではないんです。だから帰る場所なんてないんです」
ナマエはぽつりと呟くように言った。
その表情は悲壮なものがあって、尾形はもしかしたらこの女は本当の事を言っているのかもしれないと思った。
やがて女は彼の顔を正面から見据える。
独りにしないで。
そう言った彼女の声は、ぞっとするほど寂しかった。
今この女は絶望の中にいるらしい。
その暗さを、尾形は好いと思った。
幼い頃に失ったひと。そのひとの気配を感じるこの女。
そんな女を手中に出来るのはいいかもしれない。
そして何より、柊子にそっくりな女を、彼は結局見捨てられないのだった。
鮟鱇鍋を嫌いになれなかったように。
「いいだろう。だが俺は適当に抱かれる女と寝る趣味は無いんでね」
抱いてください、だろ。尾形は真正面にある女の顔を、じっと見返しながら言った。
彼女が何か堪えるような顔になったのを見て、暗い満足感が広がる。
「さあ、どうする。お前の存在を証明できるのは俺だけだ」
この女の言動を、全て信じることは出来ない。
未来から来た、など荒唐無稽な話を受け入れることは難しかった。
一つ確かなことは、彼は女を気に入ったと言うことだ。