十九話
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
キロランケと尾形が持ち帰った情報によると、噂の日本人はスチェンカという賭け事の場に出没するそうだ。その状況次第では刺青の男本人が出場するそうで、一行はその会場へと足を運ぶことになったが、キロランケの顔はどこか浮かない。
「その、スチェンカっていうのは何なんですか?」
「まあ……見るのが手っ取り早いだろう。着いたぞ」
キロランケはナマエの問いにそう答えると、木造の大きな建物の扉を開けた。全員で中を覗いてみると、男達の怒号と汗の臭いがムッワァとなだれ込んで来た。
「うわっ……キロちゃんこれは一体!?」
「スチェンカだ。男どもが並んで殴り合う競技でな……刺青持ちはこれに出場するらしい。ただし、強い奴がいないと出てこないそうだ。つまり」
「俺たちが勝ち進んで、そいつを引っ張り出さなくちゃならんということか」
尾形が引き継ぐと、キロランケは そうだ、と頷く。そう言っている合間にも男達は激しく殴り合っていて、どちらかが倒れるたびに野太い歓声が上がる。ロシア人は身体が大きく、視界の端に見える殴り合いは大迫力だった。
「え?これに尾形さん出るんですか?」
「近接戦闘は俺の得意とする分野ではないが……何とかなるだろ」
尾形はどちらかと言うと殴られているイメージだったのでナマエは不安に思ったが、当の本人は薄く笑いながら外套や軍衣を脱いでいる。やがて筋肉質な白い上半身が現れて、尾形は体温の残る軍服をぬっと差し出した。持っていろ、ということらしい。
「尾形さん頑張ってください」
両手で服を受け取ったナマエにそう言われて、尾形は微かに頷くと準備を整えたキロランケの方へ向かう。
「おいシライシ、お前も出るんだぞ。さっさと脱げ」
「ええ!?キロちゃん冗談きついぜ……そういうのは戦争帰りでやってぇ?俺があの中に放り込まれて役に立つと思う?」
「俺だって不安だよ。でもしょうがないだろ、人数足りねぇんだから」
「分かったよ…… ナマエちゃん、アシリパちゃん、無事に帰れるように祈っててね」
「任せておけ白石!必ず勝つんだぞ!」
アシリパはハッパをかけると、ナマエに向き直って キロランケニシパ達に賭けるぞ、と言った。そういう訳で、ナマエとアシリパは観客席で勝負の行方を見守ることになったのだが……
「おい尾形ッ お前兵士だろッ立てッ」
「アシリパちゃんもう無理だよ!」
開始数分で白石は再起不能になり、尾形もボコボコに殴られてぐったりと壁に身を預けている。やはり殴り合いは彼にとって不利らしい。
「そうだな……尾形は日露帰りだしもうちょっと頑張れるかと思ったが…キロランケニシパいけッ!!」
残るはキロランケのみとなったが、彼も顔面にいい一発を食らって床に突っ伏したので、囚人を引っ張り出すことは叶わずに退場となってしまった。男達は傷付いた身体をよろよろと引きずって、熱気立ち込める室内から外へ出る。真っ暗な空には、ダイヤモンドを砕いてばら撒いたかのような星々が、無数に瞬いていた。ナマエは濡らしたハンカチで、尾形の腫れた頬をそっと押さえた。傷口があったのか、彼は一瞬痛そうに眉をひそめる。
「囚人は引っ張り出さないし金はするし散々だつたな……」
白石が鼻血のあとを拭きながら言うと、キロランケもやれやれと言うようにため息をつく。
「ほんとだな全く……だが、とにかくこの街に囚人がいるって分かっただけでも収穫だろ。……お、あそこに良いものがあるぞ」
そう言われて全員前を見てみると、小屋が一軒立っていた。キロランケによると、あれはバーニャといってロシア式の蒸し風呂だそうだ。男達はいそいそと中へ入ると、傷付いた身体を休めるのだった。
♢
翌日は現金を稼ぐ為、狩へ出かけることになったので一行は海岸へ来ていた。尾形とアシリパが協力して獲ったのは大きなトドで、早速解体が始まる。
「私達はトドをエタシペと呼んでいる。小樽でも獲れるんだぞ。エタシペの脂身は珍味といわれているんだ。食べてみろ」
アシリパは手際良く刃物を動かしながら言うと、作業を眺めていた三人に白っぽい切れ端を渡した。口に入れてみると、ヌチャヌチャニチャニチャとした食感で、臭いの強烈な脂身だった。何とか飲み込むが、尾形はヴェッと今まで聞いたことのない声を発している。
「ちょっと大きすぎたか。ヒンナか?」
アシリパは脂身の食べ過ぎで口をテカテカにしながら、ゔぇあッとえずきながらも作業を続け、やがて肉や内臓、皮というように解体された。少し休憩してからトド肉を現金に変えてくれるという狐の飼育場へと向かうと、開けた土地には無数の檻が作られていて、中には黒い狐が飼育されている。全て高級な毛皮としての商品であり、なかなか儲かっているようだ。キロランケはこの場所が、かつてウイルクの生まれ育った村があった土地であることをアシリパに伝えた。どうやら彼はこのようにして、北へ向かう道中にウイルクの痕跡をアシリパに見せていくらしい。
「この旅で父親の足跡を辿っていけば、いずれ鍵を思い出して俺たちに教える……というのがキロランケの計画だ。杉元も死んだ今、アシリパと親密になればより有利に事が運ぶ」
何やらキロランケと話していた尾形は、ナマエのところに来ると声を落として言った。ちらりとアシリパを見やると、彼女は静かに狐達を眺めていた。アイヌではカムイとされる狐が、かつて父親の村があった土地で養殖されている現実を、あの少女はどのように受け止めるのだろう。アシリパの事を知れば知るほど、背負うものの大きさにナマエの心は痛んだ。その重たさを一緒に持てる人が、彼女の側にいてくれたらと思うと、杉元の顔が蘇る。
「そうですね。……でも、杉元さんって本当に死んでしまったのでしょうか。この前アシリパちゃん達が話してたんですけど…あいつは不死身だからって。アシリパちゃんにとって杉元さんって、本当に大切な存在だと思うんです。だから生きてたら良いな、なんて……」
ナマエはそこで言葉を切ると、ハッとしたような顔で尾形を見返した。彼の黒い瞳は、普段より一層暗くなって、何も映していないように見えた。
「ごめんなさい尾形さん、確認したんですもんね」
「……杉元にそんなに生きていて欲しかったのか?殺されるのはそれなりの理由があるからだ。お前もそう思うよな?俺と同じ筈だ」
尾形は暗い表情でナマエに問いかける。それを見ていると、彼の手を取らずにはいられなかった。大きな掌は冷たかった。まるで深く暗い穴の底から、こちらを見上げるような目。尾形は放っておけば、一人でまた一歩深い場所に降りて行ってしまうだろう。自分の姿を見る事ができないほどの、真っ暗闇の中に。ナマエはその濃くなっていく黒い霧の中に手を伸ばす。大丈夫、私もそう思う。あなたは間違ってない。あなたを否定したりしない。だから一人になろうとしないで。そんな思いが湧き出て、尾形の無骨な手を包む。
「……はい。同じですよ。私の理由は尾形さんですから。知ってるでしょう」
尾形の目は相変わらず暗かったが、口の端を釣り上げるようにして笑うと、重ねられていたナマエの手を掴むようにした。手の甲を、ぐっと握られる感触がする。行くぞ。そう言ってナマエの手を引きながら歩き始めた尾形の背中は、いつものように白い外套が揺れていた。
「その、スチェンカっていうのは何なんですか?」
「まあ……見るのが手っ取り早いだろう。着いたぞ」
キロランケはナマエの問いにそう答えると、木造の大きな建物の扉を開けた。全員で中を覗いてみると、男達の怒号と汗の臭いがムッワァとなだれ込んで来た。
「うわっ……キロちゃんこれは一体!?」
「スチェンカだ。男どもが並んで殴り合う競技でな……刺青持ちはこれに出場するらしい。ただし、強い奴がいないと出てこないそうだ。つまり」
「俺たちが勝ち進んで、そいつを引っ張り出さなくちゃならんということか」
尾形が引き継ぐと、キロランケは そうだ、と頷く。そう言っている合間にも男達は激しく殴り合っていて、どちらかが倒れるたびに野太い歓声が上がる。ロシア人は身体が大きく、視界の端に見える殴り合いは大迫力だった。
「え?これに尾形さん出るんですか?」
「近接戦闘は俺の得意とする分野ではないが……何とかなるだろ」
尾形はどちらかと言うと殴られているイメージだったのでナマエは不安に思ったが、当の本人は薄く笑いながら外套や軍衣を脱いでいる。やがて筋肉質な白い上半身が現れて、尾形は体温の残る軍服をぬっと差し出した。持っていろ、ということらしい。
「尾形さん頑張ってください」
両手で服を受け取ったナマエにそう言われて、尾形は微かに頷くと準備を整えたキロランケの方へ向かう。
「おいシライシ、お前も出るんだぞ。さっさと脱げ」
「ええ!?キロちゃん冗談きついぜ……そういうのは戦争帰りでやってぇ?俺があの中に放り込まれて役に立つと思う?」
「俺だって不安だよ。でもしょうがないだろ、人数足りねぇんだから」
「分かったよ…… ナマエちゃん、アシリパちゃん、無事に帰れるように祈っててね」
「任せておけ白石!必ず勝つんだぞ!」
アシリパはハッパをかけると、ナマエに向き直って キロランケニシパ達に賭けるぞ、と言った。そういう訳で、ナマエとアシリパは観客席で勝負の行方を見守ることになったのだが……
「おい尾形ッ お前兵士だろッ立てッ」
「アシリパちゃんもう無理だよ!」
開始数分で白石は再起不能になり、尾形もボコボコに殴られてぐったりと壁に身を預けている。やはり殴り合いは彼にとって不利らしい。
「そうだな……尾形は日露帰りだしもうちょっと頑張れるかと思ったが…キロランケニシパいけッ!!」
残るはキロランケのみとなったが、彼も顔面にいい一発を食らって床に突っ伏したので、囚人を引っ張り出すことは叶わずに退場となってしまった。男達は傷付いた身体をよろよろと引きずって、熱気立ち込める室内から外へ出る。真っ暗な空には、ダイヤモンドを砕いてばら撒いたかのような星々が、無数に瞬いていた。ナマエは濡らしたハンカチで、尾形の腫れた頬をそっと押さえた。傷口があったのか、彼は一瞬痛そうに眉をひそめる。
「囚人は引っ張り出さないし金はするし散々だつたな……」
白石が鼻血のあとを拭きながら言うと、キロランケもやれやれと言うようにため息をつく。
「ほんとだな全く……だが、とにかくこの街に囚人がいるって分かっただけでも収穫だろ。……お、あそこに良いものがあるぞ」
そう言われて全員前を見てみると、小屋が一軒立っていた。キロランケによると、あれはバーニャといってロシア式の蒸し風呂だそうだ。男達はいそいそと中へ入ると、傷付いた身体を休めるのだった。
♢
翌日は現金を稼ぐ為、狩へ出かけることになったので一行は海岸へ来ていた。尾形とアシリパが協力して獲ったのは大きなトドで、早速解体が始まる。
「私達はトドをエタシペと呼んでいる。小樽でも獲れるんだぞ。エタシペの脂身は珍味といわれているんだ。食べてみろ」
アシリパは手際良く刃物を動かしながら言うと、作業を眺めていた三人に白っぽい切れ端を渡した。口に入れてみると、ヌチャヌチャニチャニチャとした食感で、臭いの強烈な脂身だった。何とか飲み込むが、尾形はヴェッと今まで聞いたことのない声を発している。
「ちょっと大きすぎたか。ヒンナか?」
アシリパは脂身の食べ過ぎで口をテカテカにしながら、ゔぇあッとえずきながらも作業を続け、やがて肉や内臓、皮というように解体された。少し休憩してからトド肉を現金に変えてくれるという狐の飼育場へと向かうと、開けた土地には無数の檻が作られていて、中には黒い狐が飼育されている。全て高級な毛皮としての商品であり、なかなか儲かっているようだ。キロランケはこの場所が、かつてウイルクの生まれ育った村があった土地であることをアシリパに伝えた。どうやら彼はこのようにして、北へ向かう道中にウイルクの痕跡をアシリパに見せていくらしい。
「この旅で父親の足跡を辿っていけば、いずれ鍵を思い出して俺たちに教える……というのがキロランケの計画だ。杉元も死んだ今、アシリパと親密になればより有利に事が運ぶ」
何やらキロランケと話していた尾形は、ナマエのところに来ると声を落として言った。ちらりとアシリパを見やると、彼女は静かに狐達を眺めていた。アイヌではカムイとされる狐が、かつて父親の村があった土地で養殖されている現実を、あの少女はどのように受け止めるのだろう。アシリパの事を知れば知るほど、背負うものの大きさにナマエの心は痛んだ。その重たさを一緒に持てる人が、彼女の側にいてくれたらと思うと、杉元の顔が蘇る。
「そうですね。……でも、杉元さんって本当に死んでしまったのでしょうか。この前アシリパちゃん達が話してたんですけど…あいつは不死身だからって。アシリパちゃんにとって杉元さんって、本当に大切な存在だと思うんです。だから生きてたら良いな、なんて……」
ナマエはそこで言葉を切ると、ハッとしたような顔で尾形を見返した。彼の黒い瞳は、普段より一層暗くなって、何も映していないように見えた。
「ごめんなさい尾形さん、確認したんですもんね」
「……杉元にそんなに生きていて欲しかったのか?殺されるのはそれなりの理由があるからだ。お前もそう思うよな?俺と同じ筈だ」
尾形は暗い表情でナマエに問いかける。それを見ていると、彼の手を取らずにはいられなかった。大きな掌は冷たかった。まるで深く暗い穴の底から、こちらを見上げるような目。尾形は放っておけば、一人でまた一歩深い場所に降りて行ってしまうだろう。自分の姿を見る事ができないほどの、真っ暗闇の中に。ナマエはその濃くなっていく黒い霧の中に手を伸ばす。大丈夫、私もそう思う。あなたは間違ってない。あなたを否定したりしない。だから一人になろうとしないで。そんな思いが湧き出て、尾形の無骨な手を包む。
「……はい。同じですよ。私の理由は尾形さんですから。知ってるでしょう」
尾形の目は相変わらず暗かったが、口の端を釣り上げるようにして笑うと、重ねられていたナマエの手を掴むようにした。手の甲を、ぐっと握られる感触がする。行くぞ。そう言ってナマエの手を引きながら歩き始めた尾形の背中は、いつものように白い外套が揺れていた。