十四話
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ナマエと尾形は、二人で1頭の鹿に入っている。窮屈な上に臭気が漂うが、外の寒さを凌げると考えれば遥かにましだった。何より、ナマエの背中を包むようにしている尾形の存在に安心する。思えばこのように二人きりになったのは久しぶりだった。外で吹き荒れる風の音を聞きながら、ナマエは夕張で自分がした告白を思い出していた。後ろにいるこの男に、あの言葉はどう響いたのだろうか。それを考えていると無性に気まずくなり、寝たふりを決め込む。
「……おい。起きてんだろ」
「え?あぁ、はい……起きてます」
唐突に声をかけられ、ナマエは閉じていた目を開けた。視線を落とすと、背後から回された尾形の手が見える。三本線の袖章から覗く手の甲。
「……お前がいた場所は、どんな所だった」
「現代ですか。そうですね……」
尾形からこの手の質問をされたのは初めてで、少し戸惑っていると 教えろよ、と耳元で言われたので、ナマエはゆっくりと口を開いた。
「私がいた場所は……物も情報も溢れていて、便利な物が沢山あって…何もかもが、明治より早く進んでいましたね」
背後にいる尾形はじっと黙っているので、現代での生活を思い返しながら口を開く。
「私もその中で仕事をしたり、友達に会ったり…良いことも嫌なこともありながら、それなりに楽しく毎日過ごしていましたよ」
ナマエはそこまで言って口を噤んだが、尾形は相変わらず言葉を発しないので沈黙が二人を包んだ。
「……戻りたいか」
呟くような声に、え?とナマエが聞き返すと、尾形は回した手に力を込めながら、戻りたいのか、とふたたび問う。
「お前はどうせいなくなる」
柊子もそうだった。幼心に、大切にしたいと思った存在はいなくなってしまった。子どもだった自分にはなんの力もなかった。嫁いで行く柊子の後ろ姿を、ただ見送ることしか出来なかった。愛を求めて、祝福を求めて、しかし誰一人として自分の側には残らなかった。ナマエが他の人間と違うとどうして言い切れる。この女とて、自分の前からいなくなるに違いない。暗い靄が心を覆っていくのを感じていると、ナマエの手がそっと尾形の手の甲へ重ねられる。寒さのせいで冷えている女の指先は、ナマエが確かに存在しているという証だった。
「戻りません」
「……馬鹿を言え。全てを捨てられるのか。親も、これまでの暮らしも全部だぞ」
ナマエはじっと黙ったままだ。鼻先に当たる髪からは、女の甘い匂いがする。ナマエの背中から伝わってくる体温、腕の中に収まる身体。俺は一体どうすればいい。どうしたらお前を引き止められる。どうしたらお前を手に入れられる。一体何を差し出せばいいのだろう。何をやったら、俺の元に留まるのだろう。見つからない答えを求めていると、ナマエがゆっくりと口を開いた。
「……私、決めたんです。戻りたくないんです。前に尾形さん、親殺しは巣立ちの通過儀礼って言ってましたよね。私は殺してはいないですけど……もう二度と会わない覚悟です。親とは死に別れたと思って、私はここに残ります」
重ねられていた手は、いつのまにか尾形の手の甲を握っていた。切々と訴えるように力がこもる。
「私の時代は、豊かで便利でした。家族も友達もいました。でも……もう尾形さんがいない世界には戻れません。私の居場所はあなたなんです」
言い切ると、ナマエが俯いたのがわかる。尾形は手の甲を包む指先を握り返すと、掌にすっかり包んだ。ナマエの言葉は、心を揺り動かすような力と、ひたひたと沁み入るようなものがある。その異質さに戸惑いがあるが、不思議と嫌ではなく、むしろ心地良さを感じていることに自分でも驚く。
「……お前は俺のものだ、ナマエ」
勝手は許さん、そう囁いてから耳たぶに唇をつける。ナマエは何も差し出さなくともそばを離れない。この女には、そんな事をしなくていいのだ。幼い頃、母のために鳥を撃ち続けたこと、父が自分を想うのか知りたくて勇作を撃ったことなどが蘇る。彼らは俺では駄目だった。しかしナマエは違った。ナマエは俺でないと駄目だと言う。他の全てを捨てても、俺を選ぶという。これが愛なのか。
「あの。尾形さんは私のことをどう思っているんですか」
「……分からんのか。鈍臭い女だ」
尾形はそう言うと、ナマエに回している腕に力を込めた。できるだけ優しく、包むようにする。
「もうお前はどこにも行けないな。俺が居場所なんだろ?ずっと一緒にいて下さいって言えよ」
尾形はナマエの首筋へ唇を落とす。ナマエは消え入るような声で、はい、と返事をして、唇を押し当てた女の耳朶が熱を帯びているのがわかって、彼は満足した。
「……これはお前が持ってろ」
おもむろに手へ握らされた感触にナマエは驚いて視線を下げると、懐かしい手鏡があった。出会った時に、尾形が取り上げたものだった。
「これ、柊子さんとの思い出なんじゃないですか」
「勘違いするなよ。俺がそれを柊子にやったのはガキの頃の話だ。お前が言ってるような思い入れがある訳じゃない」
「……でも、大切なものなんじゃ」
「元々お前が持ってた物だろ、それを返しただけだ。……鏡は魔除けの効果もあるらしいしな」
魔除けだなんて珍しい事を言うと思ったら、それに気づいたのか 婆ちゃん曰くな、とややバツが悪そうに付け加える。どうやらお守りのような意味合いで返すと言っているらしく、ナマエはそっと鏡を受け取った。外には相変わらず風の音が寒々と聞こえるが、二人の間にはこれまでになく満たされた空気が漂っているように思われた。
「……尾形さんの話も聞いていいですか」
しばらくの沈黙のあと、ナマエがぽつりと尋ねると、後ろの尾形は なんだ、と返事をする。
「尾形さんの家族のこと……もし嫌じゃなかったら。私も、尾形さんのことをもっと知りたいんです」
ナマエは真剣な声色で言うと、尾形が言葉を発するのを辛抱強く待っている。やがて、彼は口元に薄く笑みを浮かべると、感情の籠らない声で切り出した。
「俺の父は……第七師団長の花沢幸次郎中将、母はその妾で浅草の芸者だった。本妻との間に男児…勇作殿が生まれると、母の元にはめっきり姿を現さなくなったそうだがな」
彼は淡々と幼少期の事を話している。鮟鱇鍋、おかしくなっていく母。その合間に柊子に鳥を撃った話も出てきて、懐に入れた鏡を思った。幼い彼が、精一杯に柊子へ贈った場面を想像すると、胸が詰まりそうになる。
「……203高地で勇作殿の頭を撃ち抜いたのは俺だ。父上が、俺を思い出すのか知りたかったのさ。結果、俺に祝福は無かったと分かった訳だ」
尾形は自嘲気味に笑うと、それきり口を閉ざした。ナマエは尾形の心まで閉じていってしまう気がして、彼の手を強く握らずにはいられない。冷たく大きい、尾形の掌。
「私は尾形さんに会えて良かったですよ。心からそう思います。尾形さんが産まれてきてくれて、生きていてくれて、本当に良かった」
熱い涙が頬を伝うのを感じて、ナマエは急いで指先で拭う。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
ナマエが震える声で言うと、尾形は黙ったままだった。でもそれでいい、言葉がなくても身体を包む彼の腕は、ナマエを抱きすくめて離さなかった。二人は互いを離すまいとするかのように、手を取り合って眠る。やがて吹き荒れる風の音がだんだんと遠ざかってゆき、背中に温もりを感じながら、ナマエは眠りに落ちていった。
「……おい。起きてんだろ」
「え?あぁ、はい……起きてます」
唐突に声をかけられ、ナマエは閉じていた目を開けた。視線を落とすと、背後から回された尾形の手が見える。三本線の袖章から覗く手の甲。
「……お前がいた場所は、どんな所だった」
「現代ですか。そうですね……」
尾形からこの手の質問をされたのは初めてで、少し戸惑っていると 教えろよ、と耳元で言われたので、ナマエはゆっくりと口を開いた。
「私がいた場所は……物も情報も溢れていて、便利な物が沢山あって…何もかもが、明治より早く進んでいましたね」
背後にいる尾形はじっと黙っているので、現代での生活を思い返しながら口を開く。
「私もその中で仕事をしたり、友達に会ったり…良いことも嫌なこともありながら、それなりに楽しく毎日過ごしていましたよ」
ナマエはそこまで言って口を噤んだが、尾形は相変わらず言葉を発しないので沈黙が二人を包んだ。
「……戻りたいか」
呟くような声に、え?とナマエが聞き返すと、尾形は回した手に力を込めながら、戻りたいのか、とふたたび問う。
「お前はどうせいなくなる」
柊子もそうだった。幼心に、大切にしたいと思った存在はいなくなってしまった。子どもだった自分にはなんの力もなかった。嫁いで行く柊子の後ろ姿を、ただ見送ることしか出来なかった。愛を求めて、祝福を求めて、しかし誰一人として自分の側には残らなかった。ナマエが他の人間と違うとどうして言い切れる。この女とて、自分の前からいなくなるに違いない。暗い靄が心を覆っていくのを感じていると、ナマエの手がそっと尾形の手の甲へ重ねられる。寒さのせいで冷えている女の指先は、ナマエが確かに存在しているという証だった。
「戻りません」
「……馬鹿を言え。全てを捨てられるのか。親も、これまでの暮らしも全部だぞ」
ナマエはじっと黙ったままだ。鼻先に当たる髪からは、女の甘い匂いがする。ナマエの背中から伝わってくる体温、腕の中に収まる身体。俺は一体どうすればいい。どうしたらお前を引き止められる。どうしたらお前を手に入れられる。一体何を差し出せばいいのだろう。何をやったら、俺の元に留まるのだろう。見つからない答えを求めていると、ナマエがゆっくりと口を開いた。
「……私、決めたんです。戻りたくないんです。前に尾形さん、親殺しは巣立ちの通過儀礼って言ってましたよね。私は殺してはいないですけど……もう二度と会わない覚悟です。親とは死に別れたと思って、私はここに残ります」
重ねられていた手は、いつのまにか尾形の手の甲を握っていた。切々と訴えるように力がこもる。
「私の時代は、豊かで便利でした。家族も友達もいました。でも……もう尾形さんがいない世界には戻れません。私の居場所はあなたなんです」
言い切ると、ナマエが俯いたのがわかる。尾形は手の甲を包む指先を握り返すと、掌にすっかり包んだ。ナマエの言葉は、心を揺り動かすような力と、ひたひたと沁み入るようなものがある。その異質さに戸惑いがあるが、不思議と嫌ではなく、むしろ心地良さを感じていることに自分でも驚く。
「……お前は俺のものだ、ナマエ」
勝手は許さん、そう囁いてから耳たぶに唇をつける。ナマエは何も差し出さなくともそばを離れない。この女には、そんな事をしなくていいのだ。幼い頃、母のために鳥を撃ち続けたこと、父が自分を想うのか知りたくて勇作を撃ったことなどが蘇る。彼らは俺では駄目だった。しかしナマエは違った。ナマエは俺でないと駄目だと言う。他の全てを捨てても、俺を選ぶという。これが愛なのか。
「あの。尾形さんは私のことをどう思っているんですか」
「……分からんのか。鈍臭い女だ」
尾形はそう言うと、ナマエに回している腕に力を込めた。できるだけ優しく、包むようにする。
「もうお前はどこにも行けないな。俺が居場所なんだろ?ずっと一緒にいて下さいって言えよ」
尾形はナマエの首筋へ唇を落とす。ナマエは消え入るような声で、はい、と返事をして、唇を押し当てた女の耳朶が熱を帯びているのがわかって、彼は満足した。
「……これはお前が持ってろ」
おもむろに手へ握らされた感触にナマエは驚いて視線を下げると、懐かしい手鏡があった。出会った時に、尾形が取り上げたものだった。
「これ、柊子さんとの思い出なんじゃないですか」
「勘違いするなよ。俺がそれを柊子にやったのはガキの頃の話だ。お前が言ってるような思い入れがある訳じゃない」
「……でも、大切なものなんじゃ」
「元々お前が持ってた物だろ、それを返しただけだ。……鏡は魔除けの効果もあるらしいしな」
魔除けだなんて珍しい事を言うと思ったら、それに気づいたのか 婆ちゃん曰くな、とややバツが悪そうに付け加える。どうやらお守りのような意味合いで返すと言っているらしく、ナマエはそっと鏡を受け取った。外には相変わらず風の音が寒々と聞こえるが、二人の間にはこれまでになく満たされた空気が漂っているように思われた。
「……尾形さんの話も聞いていいですか」
しばらくの沈黙のあと、ナマエがぽつりと尋ねると、後ろの尾形は なんだ、と返事をする。
「尾形さんの家族のこと……もし嫌じゃなかったら。私も、尾形さんのことをもっと知りたいんです」
ナマエは真剣な声色で言うと、尾形が言葉を発するのを辛抱強く待っている。やがて、彼は口元に薄く笑みを浮かべると、感情の籠らない声で切り出した。
「俺の父は……第七師団長の花沢幸次郎中将、母はその妾で浅草の芸者だった。本妻との間に男児…勇作殿が生まれると、母の元にはめっきり姿を現さなくなったそうだがな」
彼は淡々と幼少期の事を話している。鮟鱇鍋、おかしくなっていく母。その合間に柊子に鳥を撃った話も出てきて、懐に入れた鏡を思った。幼い彼が、精一杯に柊子へ贈った場面を想像すると、胸が詰まりそうになる。
「……203高地で勇作殿の頭を撃ち抜いたのは俺だ。父上が、俺を思い出すのか知りたかったのさ。結果、俺に祝福は無かったと分かった訳だ」
尾形は自嘲気味に笑うと、それきり口を閉ざした。ナマエは尾形の心まで閉じていってしまう気がして、彼の手を強く握らずにはいられない。冷たく大きい、尾形の掌。
「私は尾形さんに会えて良かったですよ。心からそう思います。尾形さんが産まれてきてくれて、生きていてくれて、本当に良かった」
熱い涙が頬を伝うのを感じて、ナマエは急いで指先で拭う。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
ナマエが震える声で言うと、尾形は黙ったままだった。でもそれでいい、言葉がなくても身体を包む彼の腕は、ナマエを抱きすくめて離さなかった。二人は互いを離すまいとするかのように、手を取り合って眠る。やがて吹き荒れる風の音がだんだんと遠ざかってゆき、背中に温もりを感じながら、ナマエは眠りに落ちていった。