十話
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日泥と馬吉の緊張状態は限界まで張り詰め、遂に全面抗争へと発展していった。妾と刺青の交換を、例の理髪店の前で行うことになったようだ。尾形は火の見櫓の上から狙撃をすると言うことなので、ナマエも着いて行こうとしたところ、尾形に止められる。
「お前はダメだ、また流れ弾に当たるかもしれんぞ。ナマエは日泥の鰊番屋に隠れていろ。あそこの女将は随分がめついらしいからな、取引に刺青人皮を持ってこない可能性もある…そうなれば探す場所はそこしかない。こっちが片付いたら行くから待ってろ」
尾形にそう言われて、ナマエは頷くと櫓に登る彼を尻目に鰊番屋の方へと向かった。ここいら辺で一番豪華な作りの建物だったので、一目で見つけることができる。その立派な建物の裏手には物置があり、ナマエはそろりと中に入ると物陰で息を潜めた。
薄暗い物置の片隅で縮こまって、どれくらいの時間が経っただろうか。慌ただしい足音が聞こえてきて、そっと外の様子を伺うと尾形が走ってくるのが見えた。ナマエも物置を抜け出すと、尾形さん、と声をかける。
「案の定、女将は刺青人皮を隠してやがる。ナマエ、物置に火をつけるぞ」
煙を見た女将は、飛んで帰ってきて刺青人皮を持ち出すだろう、と言うのが尾形の作戦のようだった。慌ただしい展開に緊張しながら頷くと、包帯が巻かれた腕が目に入る。
「尾形さん、撃たれたんですか?大丈夫ですか?」
「これぐらいどうって事ない。早く火をつけるぞ」
そう言うと、ナマエが先程まで隠れていた物置にズカズカと入っていき、紙類や藁などに火のついたマッチを投げ入れて行く。数カ所に同じことをすると、じわじわと火の手が広がって煙が立ち上ってきた。
「よし、こんなもんだろ。あとは鰊番屋で待つだけだな」
そう言うと、尾形はついて来いと言うようにナマエを見やってから歩き始めたので、急いで後を追った。鰊番屋は例の騒ぎで人が出払っていて、難なく侵入できそうだ。番屋は大きな天井の高い建物で、太い梁が張り巡らされているのが見える。尾形は狙撃のためだろう、梯子階段を上って二階部分に行き、部屋全体を見渡せる場所に座って銃を構えた。ナマエもその少し後ろで、緊張した面持ちで周囲を眺めた。
それからいくらも経たないうちに、尾形の予想通り日泥一家が現れて、長方形の箱を持った女将と息子が座敷の方から現れたのが見えた。
「尾形さん、きっと持ってますね、いれ……」
ナマエは最後まで言葉を言うことができなかった。日泥の親父が、女将の頭を鈍器でかち割ったからだ。ナマエはあまりのことに口で手を覆って、目を背けた。どうやら父と子は血が繋がっていなかったようで、激しく罵り合っている。激昂する親父は女将の体の下にあった拳銃を取り出すと、息子に銃口を向けようとした。その瞬間、隣にいる尾形がすっと立ち上がり、流れるような動作で引き金を引く。
「親殺しってのは……巣立ちのための通過儀礼だぜ。テメェみたいな意気地の無い奴が一番むかつくんだ」
ナマエは顔を上げて、そっと尾形の表情を見やった。暗く冷淡な顔が、冷ややかに下を見下ろしている。ナマエは尾形の むかつく、と言う言葉が少し意外だった。彼はあまり自分の心情を表現しないので、感情をその口からはっきりと聞いたのは初めてかもしれない。そして、親殺しは通過儀礼という言葉。そういえば、尾形の家族はどんな人達なのだろう。二人はお互いに自分の家族の話を一度もしたことがなかった。ナマエは帰れない身の上で家族を思い出すのが辛く、なるべく考えないようにしていたからだったが、尾形はどうなのだろう。先ほどの話ぶりからして、彼はもう巣立っているのか。何故、どうしてそんな事になったのだろう。彼の暗い目の理由は、この辺りにあるのかもしれない。ギシリと階段を軋ませながら下へ降りて行く尾形の背中を見ながら、ナマエは彼の内面へ思いを巡らせる。下にいた息子は尾形を見ると身を竦ませて、一目散に番屋から逃げて行った。尾形はフンと息を吐くと、床に転がっている箱を拾い上げて中を改める。
「こいつは本物だな。正真正銘、人間の皮だ」
そう言いながら中身を取り出すと、床に胡座をかいて座ったので、ナマエは不思議に思って口を開いた。
「出なくていいんですか?私達以外にも、それを探してる人がいるってさっき言ってましたけど」
「じきここに来るだろうよ。そいつと少し話しがしたいもんでね」
そうですか、と返事をすると、ナマエも彼の近くに腰を下ろす。物置に放った火が燃え広がっているのだろう、焼ける臭いや煙が微かに鰊番屋の中にも漂ってきていた。
「……あの、さっき通過儀礼って言ってましたけど」
ナマエは正座した膝を眺めながら、呟くように聞いた。尾形は銃に触れたまま、じっと黙り込んでいる。
「尾形さんも……」
言いかけて、ナマエは口を噤んだ。あまりにも、彼の内面に踏み込み過ぎた話題だと感じたからだ。しかし尾形は口元に薄い笑みを浮かべると、ナマエの方へ顔を向ける。
「だったらどうする」
彼の真黒い、猫のような目がナマエをじっと見つめた。この感じには覚えがある。軍病院に入院していたとき、ナマエが鶴見中尉に自分を売ったか訊いてきたときの様子と同じだった。試すような、探るような暗い瞳。
「……どうもしませんよ。そりゃあ、びっくりはしましたけど…尾形さんには、きっとそうするだけの理由があったんでしょう」
二人とも黙ったので、部屋はしんと静かだった。ナマエは自分が明治に来た理由は、もしかするとこれかもしれないとぼんやり考えた。尾形を放っておけない。たまに子供のような顔をしたり、人を試したりするようなこの男を、一人にさせられないと思った。面倒を見てもらっているのは自分の方なのだが、何故だかナマエはそう感じたのだった。
「一丁前に、生意気だな」
そう返事をした尾形の顔は、棘のある言葉とは少し違った。ひっそりとした、影のような笑みを頬に浮かべて、視線を遠くに向けるようにした。
「……私が一つ思っているのは、その理由をもしいつか…言ってもいいと思う時が来たら、聞かせてほしいな、ということですかね。あ、もちろんずっと言わなくてもいいですから」
「ずっと、ねぇ…」
尾形は口元だけで笑うと、体を傾けて出し抜けに唇を重ねる。お前はずっと俺の隣に居るつもりなのか。いつか消えてしまうのではないのか。そんな言葉が出かかるが、声にはならなかった。そういう会話をするのは、得意ではなかった。だから舌先に感じるナマエの体温を、目を閉じた暗闇の中で求めた。もっと、この女の存在を確かめたい。そう思ったら自然に手が動きそうになるが、状況を考えて辞めにする。 二人の唇が離れた時、外から足音が聞こえて来て、彼らは扉に視線を向けた。入ってきたのは二人の老人で、一人は銀色の長髪をなびかせ、もう一人はつるりとした頭をしている。しかし眼光は射るように鋭く、素人目にもこの二人が只者ではない事がわかった。
「どんなもんだい」
尾形はおもむろに頭に乗せた刺青人皮を指差して、得意げな調子で言った。坊主頭の男が、ヤレヤレ、と言うと、尾形に狙いは何かと尋ねる。
「茨戸まで来たのは刺青の噂を偶然耳にしたからなんだがね。床屋の前であんたらを見てすぐにわかった。俺は鶴見中尉の下で働いてたから良く知ってるぜ、土方歳三さん」
土方歳三、と聞いてナマエは弾かれたように顔を上げると、目の前の銀髪の老人を見やった。
「腕の立つ用心棒はいらねえかい」
そう言うと、尾形は刺青人皮を手にとって、彼らに差し出すようにする。尾形の目的はこれだったのかと初めて合点がいったが、あの土方歳三の用心棒とは何という展開だろう。函館で死んだとされている土方歳三が生きていたとは。ナマエは正直、興味津々だった。
「……いいだろう、ついて来い。そちらのお嬢さんも」
そう言うと、土方さんはナマエに紳士的な笑みを向ける。そのスマートな振る舞いに、つい一瞬ぼうっとしてしまったが、慌てて何でもないフリをすると頷いた。その様子を、尾形はつまらなそうに横目で見る。実際、気に入らなかった。ついさっきまで自分とあんな事をしていたのに、このジジイが一体何だというのか。
それぞれの思いを胸に、尾形とナマエは土方歳三らと共に鰊番屋を後にした。
「お前はダメだ、また流れ弾に当たるかもしれんぞ。ナマエは日泥の鰊番屋に隠れていろ。あそこの女将は随分がめついらしいからな、取引に刺青人皮を持ってこない可能性もある…そうなれば探す場所はそこしかない。こっちが片付いたら行くから待ってろ」
尾形にそう言われて、ナマエは頷くと櫓に登る彼を尻目に鰊番屋の方へと向かった。ここいら辺で一番豪華な作りの建物だったので、一目で見つけることができる。その立派な建物の裏手には物置があり、ナマエはそろりと中に入ると物陰で息を潜めた。
薄暗い物置の片隅で縮こまって、どれくらいの時間が経っただろうか。慌ただしい足音が聞こえてきて、そっと外の様子を伺うと尾形が走ってくるのが見えた。ナマエも物置を抜け出すと、尾形さん、と声をかける。
「案の定、女将は刺青人皮を隠してやがる。ナマエ、物置に火をつけるぞ」
煙を見た女将は、飛んで帰ってきて刺青人皮を持ち出すだろう、と言うのが尾形の作戦のようだった。慌ただしい展開に緊張しながら頷くと、包帯が巻かれた腕が目に入る。
「尾形さん、撃たれたんですか?大丈夫ですか?」
「これぐらいどうって事ない。早く火をつけるぞ」
そう言うと、ナマエが先程まで隠れていた物置にズカズカと入っていき、紙類や藁などに火のついたマッチを投げ入れて行く。数カ所に同じことをすると、じわじわと火の手が広がって煙が立ち上ってきた。
「よし、こんなもんだろ。あとは鰊番屋で待つだけだな」
そう言うと、尾形はついて来いと言うようにナマエを見やってから歩き始めたので、急いで後を追った。鰊番屋は例の騒ぎで人が出払っていて、難なく侵入できそうだ。番屋は大きな天井の高い建物で、太い梁が張り巡らされているのが見える。尾形は狙撃のためだろう、梯子階段を上って二階部分に行き、部屋全体を見渡せる場所に座って銃を構えた。ナマエもその少し後ろで、緊張した面持ちで周囲を眺めた。
それからいくらも経たないうちに、尾形の予想通り日泥一家が現れて、長方形の箱を持った女将と息子が座敷の方から現れたのが見えた。
「尾形さん、きっと持ってますね、いれ……」
ナマエは最後まで言葉を言うことができなかった。日泥の親父が、女将の頭を鈍器でかち割ったからだ。ナマエはあまりのことに口で手を覆って、目を背けた。どうやら父と子は血が繋がっていなかったようで、激しく罵り合っている。激昂する親父は女将の体の下にあった拳銃を取り出すと、息子に銃口を向けようとした。その瞬間、隣にいる尾形がすっと立ち上がり、流れるような動作で引き金を引く。
「親殺しってのは……巣立ちのための通過儀礼だぜ。テメェみたいな意気地の無い奴が一番むかつくんだ」
ナマエは顔を上げて、そっと尾形の表情を見やった。暗く冷淡な顔が、冷ややかに下を見下ろしている。ナマエは尾形の むかつく、と言う言葉が少し意外だった。彼はあまり自分の心情を表現しないので、感情をその口からはっきりと聞いたのは初めてかもしれない。そして、親殺しは通過儀礼という言葉。そういえば、尾形の家族はどんな人達なのだろう。二人はお互いに自分の家族の話を一度もしたことがなかった。ナマエは帰れない身の上で家族を思い出すのが辛く、なるべく考えないようにしていたからだったが、尾形はどうなのだろう。先ほどの話ぶりからして、彼はもう巣立っているのか。何故、どうしてそんな事になったのだろう。彼の暗い目の理由は、この辺りにあるのかもしれない。ギシリと階段を軋ませながら下へ降りて行く尾形の背中を見ながら、ナマエは彼の内面へ思いを巡らせる。下にいた息子は尾形を見ると身を竦ませて、一目散に番屋から逃げて行った。尾形はフンと息を吐くと、床に転がっている箱を拾い上げて中を改める。
「こいつは本物だな。正真正銘、人間の皮だ」
そう言いながら中身を取り出すと、床に胡座をかいて座ったので、ナマエは不思議に思って口を開いた。
「出なくていいんですか?私達以外にも、それを探してる人がいるってさっき言ってましたけど」
「じきここに来るだろうよ。そいつと少し話しがしたいもんでね」
そうですか、と返事をすると、ナマエも彼の近くに腰を下ろす。物置に放った火が燃え広がっているのだろう、焼ける臭いや煙が微かに鰊番屋の中にも漂ってきていた。
「……あの、さっき通過儀礼って言ってましたけど」
ナマエは正座した膝を眺めながら、呟くように聞いた。尾形は銃に触れたまま、じっと黙り込んでいる。
「尾形さんも……」
言いかけて、ナマエは口を噤んだ。あまりにも、彼の内面に踏み込み過ぎた話題だと感じたからだ。しかし尾形は口元に薄い笑みを浮かべると、ナマエの方へ顔を向ける。
「だったらどうする」
彼の真黒い、猫のような目がナマエをじっと見つめた。この感じには覚えがある。軍病院に入院していたとき、ナマエが鶴見中尉に自分を売ったか訊いてきたときの様子と同じだった。試すような、探るような暗い瞳。
「……どうもしませんよ。そりゃあ、びっくりはしましたけど…尾形さんには、きっとそうするだけの理由があったんでしょう」
二人とも黙ったので、部屋はしんと静かだった。ナマエは自分が明治に来た理由は、もしかするとこれかもしれないとぼんやり考えた。尾形を放っておけない。たまに子供のような顔をしたり、人を試したりするようなこの男を、一人にさせられないと思った。面倒を見てもらっているのは自分の方なのだが、何故だかナマエはそう感じたのだった。
「一丁前に、生意気だな」
そう返事をした尾形の顔は、棘のある言葉とは少し違った。ひっそりとした、影のような笑みを頬に浮かべて、視線を遠くに向けるようにした。
「……私が一つ思っているのは、その理由をもしいつか…言ってもいいと思う時が来たら、聞かせてほしいな、ということですかね。あ、もちろんずっと言わなくてもいいですから」
「ずっと、ねぇ…」
尾形は口元だけで笑うと、体を傾けて出し抜けに唇を重ねる。お前はずっと俺の隣に居るつもりなのか。いつか消えてしまうのではないのか。そんな言葉が出かかるが、声にはならなかった。そういう会話をするのは、得意ではなかった。だから舌先に感じるナマエの体温を、目を閉じた暗闇の中で求めた。もっと、この女の存在を確かめたい。そう思ったら自然に手が動きそうになるが、状況を考えて辞めにする。 二人の唇が離れた時、外から足音が聞こえて来て、彼らは扉に視線を向けた。入ってきたのは二人の老人で、一人は銀色の長髪をなびかせ、もう一人はつるりとした頭をしている。しかし眼光は射るように鋭く、素人目にもこの二人が只者ではない事がわかった。
「どんなもんだい」
尾形はおもむろに頭に乗せた刺青人皮を指差して、得意げな調子で言った。坊主頭の男が、ヤレヤレ、と言うと、尾形に狙いは何かと尋ねる。
「茨戸まで来たのは刺青の噂を偶然耳にしたからなんだがね。床屋の前であんたらを見てすぐにわかった。俺は鶴見中尉の下で働いてたから良く知ってるぜ、土方歳三さん」
土方歳三、と聞いてナマエは弾かれたように顔を上げると、目の前の銀髪の老人を見やった。
「腕の立つ用心棒はいらねえかい」
そう言うと、尾形は刺青人皮を手にとって、彼らに差し出すようにする。尾形の目的はこれだったのかと初めて合点がいったが、あの土方歳三の用心棒とは何という展開だろう。函館で死んだとされている土方歳三が生きていたとは。ナマエは正直、興味津々だった。
「……いいだろう、ついて来い。そちらのお嬢さんも」
そう言うと、土方さんはナマエに紳士的な笑みを向ける。そのスマートな振る舞いに、つい一瞬ぼうっとしてしまったが、慌てて何でもないフリをすると頷いた。その様子を、尾形はつまらなそうに横目で見る。実際、気に入らなかった。ついさっきまで自分とあんな事をしていたのに、このジジイが一体何だというのか。
それぞれの思いを胸に、尾形とナマエは土方歳三らと共に鰊番屋を後にした。