十話
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日が暮れる前に野営する場所を決めると、尾形が獲ってきた鳥や街で調達した食材を使って夕食を摂った。やがて夜の帳が下りると、ナマエは移動に疲れたのか瞼を重たげにしている。尾形が見かねて横になるように言うと、ナマエはあっさり眠ったのだった。最初に会った頃は、野宿と聞いて驚くような有様だったのに、随分慣れたものだと思う。そう言うわけで、彼は寝ている女の横で一人薪をくべているのだった。パチパチと木が燃える安らかな音、揺らめく橙色の灯り。それに照らされたナマエの寝顔を見ながら、尾形は日中のやり取りを思い出していた。死んだら元に戻るかも。ナマエがそう言った時、なんだか嫌なものが胸に広がった。動揺、と表現しても良かったかも知れない。頭の隅では分かっていた筈だが、この女には帰る場所があるのだ。ナマエを望んで、待っている者がいるのだ。ここで死んだら、彼らの元へ戻って行くのだろうか。跡形も無く、忽然と。ナマエと交わした言葉や、指先に残る感触は全て失われてしまうのか。
もしや、元の場所に戻るために、わざと死を選ぶような事をするのではあるまいか……
尾形はじっと火を見ながら、それは避けたい、と考える。嫁いで二度と会えなかった柊子、自分を見てくれなかった母、正妻との息子ばかりに愛情をかけた父、そして残酷なほど清廉潔白な弟。彼の清らかさに、尾形自身の欠陥を見せつけられているような気がした。両親から愛を受け取れなかった故の、癒えない欠陥を。もっと悪いのは、勇作殿にはそんな悪意が一切ない事だった。兄様、と屈託無く微笑む口元を、今でも思い出す。
そんな欠陥を、ナマエは埋めてくれるかもしれない。存在があやふやな愛の輪郭に、自分も触れる事ができるかもしれない。尾形はそんな事を考えながら、手を静かに伸ばして角巻を掛け布団がわりにしているナマエに手を乗せてみた。規則正しい呼吸を感じる。
「……俺はお前を帰す気なんてねぇんだぜ」
そう呟くと、尾形もごろりと横になる。小銃の負い革を手に持ったまま、静かに目を閉じた。
♢
翌朝、早くから出発した二人は昼頃に、河港の街である茨戸へ到着した。以前より慣れたとはいえ、やはりナマエは山より街が好きだった。人の生活感に心が安らかになる。馬は目立つからと、街に降りる前に放してしまった。
「疲れましたね、尾形さん。……ところで、結構髭が伸びてますね」
ナマエに言われて、あ?と返事をしながら尾形は手を顎へと持っていくと、確かに伸びた髭の感触がある。通りを見ると、ちょうど山本理髪店、と看板が見えたので彼らはそこに入る事にした。
「じゃあ私は、前みたいに表で待ってましょうか?」
「ダメだ。お前また豆菓子買って無駄遣いするつもりだろ」
そんなつもりは無かったが、尾形に急かされてナマエも彼に続いて店に入った。坊主頭にマスク姿の店主が二人を迎え入れて、早速尾形の顔に剃刀を滑らせる。
「あんたらこの町の人間じゃないね。兵隊さんは用心棒でもして稼ぎに来たのかい。どっちに売り込む気だ?」
「用心棒?」
ナマエは尾形の隣の座席に座って、店主の言葉を聞き返した。すると、茨戸で起こっている諍いの経緯を説明してくれる。日泥と馬吉が賭場の縄張り問題で小競り合いをし、最近では殺し合っている上に、警察所が馬吉に肩入れしているので、ここいらは無法地帯だという話だった。
「…署長は馬吉に、この宿場町の賭博の縄張りを奪わせて賄賂をいただこうって話かい?」
髭を整えた尾形が店主に尋ねると、彼は首を振った。
「狙いはそれだけじゃなさそうなんだよ。署長は日泥一味が持っている何かが欲しいんだとか…」
尾形は無言で店主の言葉について考えている様子だったが、きっとその 何か、と言うのが噂に聞いた刺青人皮なのだろう。すると突然、 腕の立つお侍さんってのはどこにいる?と無遠慮な声がしてナマエが振り向くと、洋装の偉そうな男が入ってくるのが見えた。後ろに従えている部下の帽子は警官のものだったので、恐らく彼が例の署長なのだろう。署長は尾形を見やるとチンピラ呼ばわりして、馬吉につけと指図した。この辺りからナマエは尾形の不穏な気配を察知してハラハラしていると、彼はにっこりと嘘くさい笑顔を浮かべる。次の瞬間には床屋のハサミで署長の顎を刺していたので、ナマエは呆然と事の成り行きを見るばかりだった。尾形は数発殴ったあとに署長の髪を掴むと、乱暴に表へ連れて行く。騒ぎを聞きつけた街の人が見守る中、彼は小銃を構えると遥か彼方にある櫓の鐘に銃弾を命中させた。得意げに ははッと笑う尾形はなんだか大きい子供のようだ。
「先生!!と、姐さん!!こちらです」
居合わせた馬吉がヘコヘコしながら言うので、ナマエはなんだか気の毒になりながらも頷くと男達と共に歩き始めた。道すがら、尾形は相変わらず署長の髪を掴んで刺青の情報を聞き出している。全身ケツにしてやる、という訳のわからない脅し言葉に、署長と馬吉は弱々しく口を開いた。日泥は刺青人皮を鰊番屋に隠している事、皮を引っ張り出すため日泥の妾をさらう計画などが語られ、妾の家に移動する運びとなる。
「尾形さん、見つかりそうで良かったですね」
「……喜ぶのは早いだろうな。俺たちの他にもこの噂を嗅ぎつけてる連中がいるようだ」
そうしているうちに妾の家に着いたのだが、中では日泥の手下が無残に銃殺されている。ナマエは撃たれた人間を見たのは三島以来だったので、恐ろしさに手が震え出すのを感じる。尾形は眉ひとつ動かさずに当たりを観察すると、屈んで落ちていた薬莢を拾い上げる。そのあとにナマエに視線を動かして、小さく震える手元を見やった。
「おい、ナマエ。出るぞ」
そう言うと、手でナマエの肩に軽く触れた。その感触にほっとすると、足早に家を後にする。
もしや、元の場所に戻るために、わざと死を選ぶような事をするのではあるまいか……
尾形はじっと火を見ながら、それは避けたい、と考える。嫁いで二度と会えなかった柊子、自分を見てくれなかった母、正妻との息子ばかりに愛情をかけた父、そして残酷なほど清廉潔白な弟。彼の清らかさに、尾形自身の欠陥を見せつけられているような気がした。両親から愛を受け取れなかった故の、癒えない欠陥を。もっと悪いのは、勇作殿にはそんな悪意が一切ない事だった。兄様、と屈託無く微笑む口元を、今でも思い出す。
そんな欠陥を、ナマエは埋めてくれるかもしれない。存在があやふやな愛の輪郭に、自分も触れる事ができるかもしれない。尾形はそんな事を考えながら、手を静かに伸ばして角巻を掛け布団がわりにしているナマエに手を乗せてみた。規則正しい呼吸を感じる。
「……俺はお前を帰す気なんてねぇんだぜ」
そう呟くと、尾形もごろりと横になる。小銃の負い革を手に持ったまま、静かに目を閉じた。
♢
翌朝、早くから出発した二人は昼頃に、河港の街である茨戸へ到着した。以前より慣れたとはいえ、やはりナマエは山より街が好きだった。人の生活感に心が安らかになる。馬は目立つからと、街に降りる前に放してしまった。
「疲れましたね、尾形さん。……ところで、結構髭が伸びてますね」
ナマエに言われて、あ?と返事をしながら尾形は手を顎へと持っていくと、確かに伸びた髭の感触がある。通りを見ると、ちょうど山本理髪店、と看板が見えたので彼らはそこに入る事にした。
「じゃあ私は、前みたいに表で待ってましょうか?」
「ダメだ。お前また豆菓子買って無駄遣いするつもりだろ」
そんなつもりは無かったが、尾形に急かされてナマエも彼に続いて店に入った。坊主頭にマスク姿の店主が二人を迎え入れて、早速尾形の顔に剃刀を滑らせる。
「あんたらこの町の人間じゃないね。兵隊さんは用心棒でもして稼ぎに来たのかい。どっちに売り込む気だ?」
「用心棒?」
ナマエは尾形の隣の座席に座って、店主の言葉を聞き返した。すると、茨戸で起こっている諍いの経緯を説明してくれる。日泥と馬吉が賭場の縄張り問題で小競り合いをし、最近では殺し合っている上に、警察所が馬吉に肩入れしているので、ここいらは無法地帯だという話だった。
「…署長は馬吉に、この宿場町の賭博の縄張りを奪わせて賄賂をいただこうって話かい?」
髭を整えた尾形が店主に尋ねると、彼は首を振った。
「狙いはそれだけじゃなさそうなんだよ。署長は日泥一味が持っている何かが欲しいんだとか…」
尾形は無言で店主の言葉について考えている様子だったが、きっとその 何か、と言うのが噂に聞いた刺青人皮なのだろう。すると突然、 腕の立つお侍さんってのはどこにいる?と無遠慮な声がしてナマエが振り向くと、洋装の偉そうな男が入ってくるのが見えた。後ろに従えている部下の帽子は警官のものだったので、恐らく彼が例の署長なのだろう。署長は尾形を見やるとチンピラ呼ばわりして、馬吉につけと指図した。この辺りからナマエは尾形の不穏な気配を察知してハラハラしていると、彼はにっこりと嘘くさい笑顔を浮かべる。次の瞬間には床屋のハサミで署長の顎を刺していたので、ナマエは呆然と事の成り行きを見るばかりだった。尾形は数発殴ったあとに署長の髪を掴むと、乱暴に表へ連れて行く。騒ぎを聞きつけた街の人が見守る中、彼は小銃を構えると遥か彼方にある櫓の鐘に銃弾を命中させた。得意げに ははッと笑う尾形はなんだか大きい子供のようだ。
「先生!!と、姐さん!!こちらです」
居合わせた馬吉がヘコヘコしながら言うので、ナマエはなんだか気の毒になりながらも頷くと男達と共に歩き始めた。道すがら、尾形は相変わらず署長の髪を掴んで刺青の情報を聞き出している。全身ケツにしてやる、という訳のわからない脅し言葉に、署長と馬吉は弱々しく口を開いた。日泥は刺青人皮を鰊番屋に隠している事、皮を引っ張り出すため日泥の妾をさらう計画などが語られ、妾の家に移動する運びとなる。
「尾形さん、見つかりそうで良かったですね」
「……喜ぶのは早いだろうな。俺たちの他にもこの噂を嗅ぎつけてる連中がいるようだ」
そうしているうちに妾の家に着いたのだが、中では日泥の手下が無残に銃殺されている。ナマエは撃たれた人間を見たのは三島以来だったので、恐ろしさに手が震え出すのを感じる。尾形は眉ひとつ動かさずに当たりを観察すると、屈んで落ちていた薬莢を拾い上げる。そのあとにナマエに視線を動かして、小さく震える手元を見やった。
「おい、ナマエ。出るぞ」
そう言うと、手でナマエの肩に軽く触れた。その感触にほっとすると、足早に家を後にする。