十話
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十話
早朝のため人気のない街に入ると、小さな診療所見つけた尾形は勢いよく建物の扉を叩いた。やがて締め切られていた扉がゆっくりと開くと、寝ぼけた顔の中年男が浴衣姿で顔を出す。恐らくこの診療所の医者で、騒音によって叩き起こされたのだろう。
「怪我人だ。今すぐ診ろ」
尾形が凄むようにして言うと、その迫力に医者は一瞬で眠気が覚めた様子で、二人を中へと招き入れた。ナマエは室内に入ると安堵して、勧められた椅子によろよろと腰をかける。傷口を見せると、医者は棚から茶色い瓶を取り出して消毒をした。薬がしみて、鋭く痛みが走り顔をしかめる。
「そんなに大きな傷ではないし、処置も適切だったので問題ないでしょう。自然に塞がりますが、消毒だけは忘れないように。ただ、痕は残るでしょうな」
そう言いながら医者はナマエの腕に新しい包帯を巻き直すと、着物の袖を元に戻す。ナマエはお礼を言うと、二人は再び街中へ出た。人出もぱらぱらと増えてきて、尾形は周囲を警戒するように歩いている。ナマエはクタクタだった。足は棒のようだし、黒い影のような追っ手に追われる恐怖は、未だかつて経験した事がないようなものだった。尾形はそんなナマエをちらりと見やってから、手近な宿へ入っていく。
「さっさと寝ろ」
尾形は宿の女中に布団を敷くように言ったようで、階段を上がって二階の和室の客室には、二枚の布団が並べてある。尾形はぶっきらぼうに一言言うと、自身は窓辺に身を寄せて、警戒するように外へ視線を向けた。ナマエはほぼ言葉も発さずに布団へ潜り込むと、緊張と疲労から泥のような眠りへ落ちていった。
ナマエが目を開けた頃には、窓の外から夕日が差し込んで、畳に窓枠の影が伸びている。急いで身を起こすと、左腕がずきんと痛んだ。銃弾がかすって傷が出来ていたことを思い出すと、恐る恐る着物の袖をまくって包帯が巻かれている腕を見る。真白いそれには血の気配は見えず、取り敢えずは安心した。
「やっと起きたか。寝すぎだ」
みし、と畳を踏む音と、素っ気ない声に顔を上げると、尾形の黒い瞳がナマエを眺めていた。彼はそのまますっと腰を下ろすと、無表情のまま口を開いた。
「傷は痛むか」
「少しズキズキしますけど…大丈夫です。あの、ありがとうございました。尾形さんがいなかったら、死んでたかもしれないです」
ナマエの頬は普段より青ざめていて不安げだったが、それでも尾形を見上げると弱々しく笑った。彼は ふ、と息を吐くと髪をかきあげるようにして口を開く。
「俺について着たから死にかけたんだろ」
そう言うと、ナマエは意外そうな顔をして彼を見返した。
「…そういう見方もありますね。でも私は、最初に尾形さんが見つけてくれたからこうしていられるんですよ。つまりこの先何があっても、私が生きてるのは尾形さんのお陰ということになるんです」
やや強引な理屈を、尤もらしい顔で告げるナマエを見ていると、なんだかむず痒いような気になってくる。普段鬱々とした思考に覆われがちな尾形の精神にとって、温もりのあるナマエの言葉は異質だったが、けして嫌ではなかった。ただ自分の中で、そうした好意や情をどのように受け取るべきなのかについては、結論が出なかったが。
「いつまでそんな呑気な事を言ってられるか見ものだな。……この宿は風呂もあるらしい。その酷い顔をさっさと洗ってこい」
ナマエは えっと言うと、恐る恐る顔に触れてみる。逃げている時についたのだろう、土汚れのじゃりじゃりとした感触や、全身が汗で不快な感じがする。
「ドロドロですね…洗ってきます」
そう言いながらゆっくりと布団から出て尾形を見やると、彼もなかなかの汚れ具合だった。慎重な尾形のことだから、ナマエが目を覚ますまで辺りを警戒していたに違いなく、申し訳ない気持ちになる。さっさと行けよ、という言葉に押されて、ナマエは襖を開けると部屋を後にした。
♢
風呂から上がり、宿の浴衣に着替えて部屋に戻ると、同じく小ざっぱりとした尾形が窓際で頬杖をついて外を見ていた。外は日が暮れて、すっかり夜になっている。襖の開く音にナマエへ視線を向けたとき、洗われた髪がさらりと目元にかかった。
「尾形さんも入ってきたんですね。戻るの早いですね」
ナマエは着替えをいそいそと部屋の片隅に置いてから、座布団に正座する。
「お前が長風呂なだけだろ」
尾形はそう言いながら立ち上がると、部屋の隅に行って背嚢に手を突っ込んだ。中から小さな茶色い瓶を取り出すと、ナマエの隣へ来てどさりと腰を下ろす。
「待たせやがって。消毒してやるから腕を出せ」
そう言われて、ナマエはそっと袖をたくし上げた。不恰好に巻きついた包帯を、尾形は無言で取り去っていく。やがて今朝病院で感じた鋭い痛みがして、ナマエは思わず目を瞑った。
「ありがとうございます、尾形さん。……痕になるって、お医者さん言ってましたね」
尾形の指が、手際よく包帯を巻いていく様子を眺めながらナマエが言うと、彼は一瞬視線をナマエに向けてから、また手元を見た。
「……傷があったら困るのか」
え?と聞き直すと、尾形の黒い髪と伏せた目、形の良い鼻先が見える。
「俺は構わんぞ」
彼の少しささくれた指先がすっと離れていって、きちんと巻かれた白い包帯が目に入る。そのまま尾形は立ち上がると、洋燈の火を消した。途端に部屋は暗くなって、硝子障子から漏れてくる月明かりがぼんやりと畳を照らした。
尾形は二つ並べられた布団に入ると、来いよ、と言うようにナマエを見たので、そろりと立ち上がって彼の隣へ身を横たえると、目を閉じた尾形の横顔が間近にあった。ナマエが日中眠っている間も番をしていたようなので、疲れが出ているのだろう。ナマエは怪我をかばいながらも、そっと尾形の方へ体を向けると手を伸ばして彼の頬にほんの少し触れてみた。青白く見える肌は温かく、縫合跡がでこぼこと指先に当たる。
「おやすみなさい、尾形さん」
そう言いながら指先を離そうとしたら、尾形の目がパッと開いた。ナマエが驚いて固まると、彼は寝返りを打ってナマエを腕に包むようにした。薄い浴衣がはだけて、鎖骨と胸板がのぞく。ナマエは心臓の鼓動が早まるのを感じて黙っていると、尾形は鼻先を彼女の耳朶に寄せて、眠気からか少し掠れた声で言った。
「早く寝ろよ。それとも誘ってるのか」
ふ、と微かに笑ったような気配がして、ナマエは抗議しようと彼の顔を見たが、眠ってしまったようだ。尾形はナマエに顔を寄せたまま瞼を閉じている。少しその寝顔を見つめたあと、ナマエも布団に潜り込んで目を閉じた。このひとと、離れたくない。本当なら望んではいけないのかも知れないけれど。そんな事を考えながら、ナマエは尾形の指先にほんの少しだけ触れた。
早朝のため人気のない街に入ると、小さな診療所見つけた尾形は勢いよく建物の扉を叩いた。やがて締め切られていた扉がゆっくりと開くと、寝ぼけた顔の中年男が浴衣姿で顔を出す。恐らくこの診療所の医者で、騒音によって叩き起こされたのだろう。
「怪我人だ。今すぐ診ろ」
尾形が凄むようにして言うと、その迫力に医者は一瞬で眠気が覚めた様子で、二人を中へと招き入れた。ナマエは室内に入ると安堵して、勧められた椅子によろよろと腰をかける。傷口を見せると、医者は棚から茶色い瓶を取り出して消毒をした。薬がしみて、鋭く痛みが走り顔をしかめる。
「そんなに大きな傷ではないし、処置も適切だったので問題ないでしょう。自然に塞がりますが、消毒だけは忘れないように。ただ、痕は残るでしょうな」
そう言いながら医者はナマエの腕に新しい包帯を巻き直すと、着物の袖を元に戻す。ナマエはお礼を言うと、二人は再び街中へ出た。人出もぱらぱらと増えてきて、尾形は周囲を警戒するように歩いている。ナマエはクタクタだった。足は棒のようだし、黒い影のような追っ手に追われる恐怖は、未だかつて経験した事がないようなものだった。尾形はそんなナマエをちらりと見やってから、手近な宿へ入っていく。
「さっさと寝ろ」
尾形は宿の女中に布団を敷くように言ったようで、階段を上がって二階の和室の客室には、二枚の布団が並べてある。尾形はぶっきらぼうに一言言うと、自身は窓辺に身を寄せて、警戒するように外へ視線を向けた。ナマエはほぼ言葉も発さずに布団へ潜り込むと、緊張と疲労から泥のような眠りへ落ちていった。
ナマエが目を開けた頃には、窓の外から夕日が差し込んで、畳に窓枠の影が伸びている。急いで身を起こすと、左腕がずきんと痛んだ。銃弾がかすって傷が出来ていたことを思い出すと、恐る恐る着物の袖をまくって包帯が巻かれている腕を見る。真白いそれには血の気配は見えず、取り敢えずは安心した。
「やっと起きたか。寝すぎだ」
みし、と畳を踏む音と、素っ気ない声に顔を上げると、尾形の黒い瞳がナマエを眺めていた。彼はそのまますっと腰を下ろすと、無表情のまま口を開いた。
「傷は痛むか」
「少しズキズキしますけど…大丈夫です。あの、ありがとうございました。尾形さんがいなかったら、死んでたかもしれないです」
ナマエの頬は普段より青ざめていて不安げだったが、それでも尾形を見上げると弱々しく笑った。彼は ふ、と息を吐くと髪をかきあげるようにして口を開く。
「俺について着たから死にかけたんだろ」
そう言うと、ナマエは意外そうな顔をして彼を見返した。
「…そういう見方もありますね。でも私は、最初に尾形さんが見つけてくれたからこうしていられるんですよ。つまりこの先何があっても、私が生きてるのは尾形さんのお陰ということになるんです」
やや強引な理屈を、尤もらしい顔で告げるナマエを見ていると、なんだかむず痒いような気になってくる。普段鬱々とした思考に覆われがちな尾形の精神にとって、温もりのあるナマエの言葉は異質だったが、けして嫌ではなかった。ただ自分の中で、そうした好意や情をどのように受け取るべきなのかについては、結論が出なかったが。
「いつまでそんな呑気な事を言ってられるか見ものだな。……この宿は風呂もあるらしい。その酷い顔をさっさと洗ってこい」
ナマエは えっと言うと、恐る恐る顔に触れてみる。逃げている時についたのだろう、土汚れのじゃりじゃりとした感触や、全身が汗で不快な感じがする。
「ドロドロですね…洗ってきます」
そう言いながらゆっくりと布団から出て尾形を見やると、彼もなかなかの汚れ具合だった。慎重な尾形のことだから、ナマエが目を覚ますまで辺りを警戒していたに違いなく、申し訳ない気持ちになる。さっさと行けよ、という言葉に押されて、ナマエは襖を開けると部屋を後にした。
♢
風呂から上がり、宿の浴衣に着替えて部屋に戻ると、同じく小ざっぱりとした尾形が窓際で頬杖をついて外を見ていた。外は日が暮れて、すっかり夜になっている。襖の開く音にナマエへ視線を向けたとき、洗われた髪がさらりと目元にかかった。
「尾形さんも入ってきたんですね。戻るの早いですね」
ナマエは着替えをいそいそと部屋の片隅に置いてから、座布団に正座する。
「お前が長風呂なだけだろ」
尾形はそう言いながら立ち上がると、部屋の隅に行って背嚢に手を突っ込んだ。中から小さな茶色い瓶を取り出すと、ナマエの隣へ来てどさりと腰を下ろす。
「待たせやがって。消毒してやるから腕を出せ」
そう言われて、ナマエはそっと袖をたくし上げた。不恰好に巻きついた包帯を、尾形は無言で取り去っていく。やがて今朝病院で感じた鋭い痛みがして、ナマエは思わず目を瞑った。
「ありがとうございます、尾形さん。……痕になるって、お医者さん言ってましたね」
尾形の指が、手際よく包帯を巻いていく様子を眺めながらナマエが言うと、彼は一瞬視線をナマエに向けてから、また手元を見た。
「……傷があったら困るのか」
え?と聞き直すと、尾形の黒い髪と伏せた目、形の良い鼻先が見える。
「俺は構わんぞ」
彼の少しささくれた指先がすっと離れていって、きちんと巻かれた白い包帯が目に入る。そのまま尾形は立ち上がると、洋燈の火を消した。途端に部屋は暗くなって、硝子障子から漏れてくる月明かりがぼんやりと畳を照らした。
尾形は二つ並べられた布団に入ると、来いよ、と言うようにナマエを見たので、そろりと立ち上がって彼の隣へ身を横たえると、目を閉じた尾形の横顔が間近にあった。ナマエが日中眠っている間も番をしていたようなので、疲れが出ているのだろう。ナマエは怪我をかばいながらも、そっと尾形の方へ体を向けると手を伸ばして彼の頬にほんの少し触れてみた。青白く見える肌は温かく、縫合跡がでこぼこと指先に当たる。
「おやすみなさい、尾形さん」
そう言いながら指先を離そうとしたら、尾形の目がパッと開いた。ナマエが驚いて固まると、彼は寝返りを打ってナマエを腕に包むようにした。薄い浴衣がはだけて、鎖骨と胸板がのぞく。ナマエは心臓の鼓動が早まるのを感じて黙っていると、尾形は鼻先を彼女の耳朶に寄せて、眠気からか少し掠れた声で言った。
「早く寝ろよ。それとも誘ってるのか」
ふ、と微かに笑ったような気配がして、ナマエは抗議しようと彼の顔を見たが、眠ってしまったようだ。尾形はナマエに顔を寄せたまま瞼を閉じている。少しその寝顔を見つめたあと、ナマエも布団に潜り込んで目を閉じた。このひとと、離れたくない。本当なら望んではいけないのかも知れないけれど。そんな事を考えながら、ナマエは尾形の指先にほんの少しだけ触れた。