九話
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二階堂の食事が済むと、二人は先ほど話していた村へと出発して行った。今日は一人で夜を過ごさなくてはならない。恐ろしいが、尾形について行くとはこういう事なのだと思う。ここから先、安定した生活を送ることは難しいだろう。
尾形は去り際に、二階堂を先に表に出すとナマエの目を見た。
「いいか。一人で山をうろつくな。誰もこの家に入れるなよ。分かったな」
ナマエは頷いたが、忽ち不安が襲って来る。しかしせめて邪魔にはなりたくなかったので、腹をくくる事にした。尾形はそんな彼女を黙って見ていたが、やがて口を開く。
「……何日かかるかは約束できねぇが、必ず戻るから辛抱しろ」
俯きがちに はい、と返事をすると、少しの沈黙の後に彼の溜息が聞こえる。顔を上げてみると、しょうがねぇな、というような顔で両腕を広げる尾形が見えた。
「ほら、来いよ」
おずおずと近寄ると、尾形はナマエの肩の辺りを掴んで抱き寄せる。躰を重ねた時に感じた匂いが鼻をかすめて、ナマエは目を閉じた。
「ちゃんと待てるな」
尾形はナマエの耳元で囁くように問いかけながら、耳朶に唇をつけた。彼女が頷くのを確認すると、尾形は腕を離して銃を手に取る。
ナマエが 行ってらっしゃい、と言うと、彼は微かに頷いてみせた。思えばこのように見送られた経験は久しく無かった。徴兵検査で甲種合格になり入営する時も、出征する時も、家族が来て別れを惜しむという事は自分の身には起こらなかった。出征列車に乗っていた時などは、多くの兵士が見送りに来た家族の激励を受けたり、涙まで見せながら別れる雑踏の中で、彼は一人発車時刻を待っていた。
尾形はそんな事を思い返しながら、二階堂と共に地表の雪を踏みしめた。
♢
ナマエは明るいうちに薪を集めると、囲炉裏の側に座って暖を取る。そして家の中を物色して見つけた新聞を、何部か手元に置くと読み始めた。あまりにもやる事がないので、こうして活字を追うのは良い暇つぶしになりそうだった。日付を見てみると、明治三十七年三月とあり、一面には 旅順港口閉塞作戦実行せらるる、とあった。尾形の言葉を思い出すと、日露戦争が始まった辺りの新聞のようだ。他の新聞も見てみると、陸軍大勝 九連城占領、旅順の強行偵察、旅順総突撃など日露戦争の模様を逐一報道する記事が目立つ。将校の戦死や小隊全滅など苦しい状況を伝える文もあり、ナマエは文字を追いながら、数年前に本当に日露戦争があったのだとようやく実感が湧くような気がして来た。そしてこの戦争を戦った尾形の事を想った。戦争から帰ってきて、まだこんな不安定で物騒な生活を続けるあの男は、一体何を考えているのだろう。
握っておいたおにぎりで腹ごしらえしたり、火が絶えないよう薪をくべているうちに、日は傾き始めて小屋も暗くなってくる。風が枝を揺らす音や、遠くの方からの動物の鳴き声がいちいち大きく聞こえた。冷静になってみると、旧日本軍の第七師団から逃げてきて、北海道の山の中でほぼ野宿をしている今の状況は、つくづく奇妙だった。どうして自分はここに居るのだろう。パチパチと燃える囲炉裏の火を見て居ると、昨日尾形とともに手を温めた事を思い出す。ナマエは尾形に惹かれていた。彼の事を理解したいと思うし、それに何より、何故か放って置けないような脆さや危うさを彼から感じるのだった。こんな事を言ったら、恐らく数時間は存在を無視されるだろうが、そう思わせる何かを尾形は持っていた。
ナマエは角巻にすっぽり包まると、彼の事を考えながら囲炉裏の側に横たわった。
肩を揺すられて、ナマエはゆっくりと目を開けた。見慣れた軍服がうっすらと見えて、尾形が帰ってきたのだと思う。目をこすって彼の顔をみてみると、ナマエは息が止まりそうな程驚いた。全く別人の男が、観察するような視線を向けている。
「起きたか。君がミョウジだな」
はぁ、と間抜けな返事をすると、 へぇ…と言いながら、改めてナマエを見返している。外からはうっすらと明かりが入ってきていて、日が昇り始めているようだ。
「鶴見中尉殿から、君を見つけ次第確保と言われている。悪いが一緒に来てもらおう」
「え?ということは、あなたは第七師団…」
状況が飲み込めて来て、ナマエの顔は次第に青ざめていった。このまま連れ去られたら、尾形とはぐれてしまうかもしれない。なんとか切り抜けられないだろうか。しかし男はそんなナマエの心の動きを呼んだかのように、拳銃を取り出すと銃口を向けた。
「変な気は起こさないでくれ。殺すなと言われているが、怪我をさせるなとは言われていないからな」
男は長い睫毛の目元で、じっとナマエを眺めている。それは彼の発言がハッタリではない事を物語っていて、ナマエは冷汗を感じながら微かに頷くと、男に促されるまま外へ出た。
男は三島と名乗った。彼は何のために歩き回っているのかについては説明しなかったので、ナマエは訳も分からず足を進める。やがて彼は足を止めると、物陰に隠れて双眼鏡を覗き込んだ。何かを探しているような素振りに嫌な予感がしたが、それは遠くの方に見えた尾形と二階堂の姿で現実となってしまった。この三島という兵士は、脱走した兵士二人を見張っていたのだ。尾形も二階堂も気づいている素振りを見せなかったので、今すぐ叫び出したい衝動に駆られる。大きく息を吸い込んだ瞬間、三島の手が勢いよくナマエの口元を塞いだ。余計な事をするな、というような目でナマエを見ると、再び監視の目を尾形に戻す。
目を凝らすと、二階堂は開けた場所の薪に手をかざし、尾形は少し離れた物陰から銃を構えている。しんと静かだった。しかし、突如空気を裂くような叫び声が上がって、ナマエは息を飲む。とてつもなく大きな生き物が、二階堂に襲いかかっている。
「羆だ……」
三島も驚いたように呟くと、その様子を凝視している。ナマエは生きた心地がしなかったが、尾形が撃ったらしい銃声が響き、羆は熊笹の向こうへ退散して行った。しかしほっと胸をなでおろしたのも束の間、もう一発の銃弾が尾形に当たったのが見えて、ナマエは頭が真っ白になった。
来い、と三島に引っ張られるように移動すると、汚れた毛布を肩にかけた体格の良い兵士が立っている。谷垣、と呼ばれたその男と三島は何か会話しているが、ナマエは水に包まれているかのように、彼らの言葉がぼんやりとしか聞こえなかった。
「ナマエッ!走れッ」
尾形の声に名前を呼ばれて顔を上げるのと、横に立っていた三島から鮮血が噴き出したのとは、ほぼ同時であった。ナマエは絶句したが、走らなければ、と本能に訴えるように強烈な危機感が体を突き動かして、転がるように声のした方へと向かう。銃を構えた尾形の懐へ飛び込むようにすると、彼の腕がナマエを支えた。
「留守番もできんのか、お前は」
尾形はそう言うと、谷垣を撃つべく銃を構えたが、パァンと木が弾けるような音がして視線を素早く動かす。その先には鶴見中尉率いる数名の兵士達が見え、ナマエは絶望したくなった。尾形は勢いよくナマエを地面に伏せさせると、自らも這うようにして銃弾を避ける。
「早いな、勘が良すぎる……さっさとずらかるぞ」
あっという間に追っ手の兵士が追いつき、発砲音が何度も響き渡る。その時、突き飛ばされたような衝撃があってよろめくが、なりふり構わず足を動かす。尾形も応戦して彼らの足を止めると、ナマエの右腕を掴むようにして走った。息が切れ、呼吸が苦しい。ふと鋭い痛みを左腕に感じて視線を落とすと、着物に赤いしみが滲んでる。ナマエは咄嗟に尾形の手を振りほどいてそこを抑えたが、生暖かい血が流れ出るのを感じた。
「弾がかすったか……そのまま抑えてろ。もう少し距離を稼いだら止血する」
尾形は慌ただしく視線を後方にやってから言った。足止めが功を奏して、誰も追ってくる気配はない。頭が朦朧とするし、足がもつれそうだ。それでもナマエは走った。肩に腕を回し、ナマエを庇うようにしながら走る尾形の体温だけを頼りに、必死に足を進めた。
♢
尾形は背後を警戒するようにしながら立ち止まると、岩場の陰を見つけてナマエを座らせた。彼は素早くナマエの左腕の着物をたくし上げると、傷を確認する。そして軍服の上衣左側にある内ポケットに手を入れると、小さな茶色い包みを取り出して開封した。中には白いガーゼや包帯が入っていて、簡易的な医療セットのような物なのだろう。尾形は傷口にガーゼを何枚か乗せると、入っていた三角巾できつく縛ってから着物の袖を元通りにした。
「これで良いだろ。出血はしていたが死ぬ程じゃない。少し休んだら出るぞ。少しでも距離を稼いだ方がいい」
手当を受けたことで、少し気持ちがおちつく。ナマエは尾形から水筒の水を一口もらうと、ふらりと立ち上がった。
「逃げましょう、尾形さん。ここでじっとしている方が、恐ろしいので」
ナマエが青ざめた顔で言うと、尾形は黙って頷いた。行くぞ、と言うとナマエの右腕を引っ張るようにして足を進める。どれくらい歩いたのだろう。時間や距離感がもうよく分からない。歩く事だけを考えて、ひたすら大地を踏みしめていると、尾形が立ち止まった。
顔を上げてみると、まばらになってきた木々の間から街らしきものが見えた。
「街だ。まずは医者に行って、そのあと宿を探すぞ」
ナマエは街の気配に心から安堵して、再び歩き始めた。
尾形は去り際に、二階堂を先に表に出すとナマエの目を見た。
「いいか。一人で山をうろつくな。誰もこの家に入れるなよ。分かったな」
ナマエは頷いたが、忽ち不安が襲って来る。しかしせめて邪魔にはなりたくなかったので、腹をくくる事にした。尾形はそんな彼女を黙って見ていたが、やがて口を開く。
「……何日かかるかは約束できねぇが、必ず戻るから辛抱しろ」
俯きがちに はい、と返事をすると、少しの沈黙の後に彼の溜息が聞こえる。顔を上げてみると、しょうがねぇな、というような顔で両腕を広げる尾形が見えた。
「ほら、来いよ」
おずおずと近寄ると、尾形はナマエの肩の辺りを掴んで抱き寄せる。躰を重ねた時に感じた匂いが鼻をかすめて、ナマエは目を閉じた。
「ちゃんと待てるな」
尾形はナマエの耳元で囁くように問いかけながら、耳朶に唇をつけた。彼女が頷くのを確認すると、尾形は腕を離して銃を手に取る。
ナマエが 行ってらっしゃい、と言うと、彼は微かに頷いてみせた。思えばこのように見送られた経験は久しく無かった。徴兵検査で甲種合格になり入営する時も、出征する時も、家族が来て別れを惜しむという事は自分の身には起こらなかった。出征列車に乗っていた時などは、多くの兵士が見送りに来た家族の激励を受けたり、涙まで見せながら別れる雑踏の中で、彼は一人発車時刻を待っていた。
尾形はそんな事を思い返しながら、二階堂と共に地表の雪を踏みしめた。
♢
ナマエは明るいうちに薪を集めると、囲炉裏の側に座って暖を取る。そして家の中を物色して見つけた新聞を、何部か手元に置くと読み始めた。あまりにもやる事がないので、こうして活字を追うのは良い暇つぶしになりそうだった。日付を見てみると、明治三十七年三月とあり、一面には 旅順港口閉塞作戦実行せらるる、とあった。尾形の言葉を思い出すと、日露戦争が始まった辺りの新聞のようだ。他の新聞も見てみると、陸軍大勝 九連城占領、旅順の強行偵察、旅順総突撃など日露戦争の模様を逐一報道する記事が目立つ。将校の戦死や小隊全滅など苦しい状況を伝える文もあり、ナマエは文字を追いながら、数年前に本当に日露戦争があったのだとようやく実感が湧くような気がして来た。そしてこの戦争を戦った尾形の事を想った。戦争から帰ってきて、まだこんな不安定で物騒な生活を続けるあの男は、一体何を考えているのだろう。
握っておいたおにぎりで腹ごしらえしたり、火が絶えないよう薪をくべているうちに、日は傾き始めて小屋も暗くなってくる。風が枝を揺らす音や、遠くの方からの動物の鳴き声がいちいち大きく聞こえた。冷静になってみると、旧日本軍の第七師団から逃げてきて、北海道の山の中でほぼ野宿をしている今の状況は、つくづく奇妙だった。どうして自分はここに居るのだろう。パチパチと燃える囲炉裏の火を見て居ると、昨日尾形とともに手を温めた事を思い出す。ナマエは尾形に惹かれていた。彼の事を理解したいと思うし、それに何より、何故か放って置けないような脆さや危うさを彼から感じるのだった。こんな事を言ったら、恐らく数時間は存在を無視されるだろうが、そう思わせる何かを尾形は持っていた。
ナマエは角巻にすっぽり包まると、彼の事を考えながら囲炉裏の側に横たわった。
肩を揺すられて、ナマエはゆっくりと目を開けた。見慣れた軍服がうっすらと見えて、尾形が帰ってきたのだと思う。目をこすって彼の顔をみてみると、ナマエは息が止まりそうな程驚いた。全く別人の男が、観察するような視線を向けている。
「起きたか。君がミョウジだな」
はぁ、と間抜けな返事をすると、 へぇ…と言いながら、改めてナマエを見返している。外からはうっすらと明かりが入ってきていて、日が昇り始めているようだ。
「鶴見中尉殿から、君を見つけ次第確保と言われている。悪いが一緒に来てもらおう」
「え?ということは、あなたは第七師団…」
状況が飲み込めて来て、ナマエの顔は次第に青ざめていった。このまま連れ去られたら、尾形とはぐれてしまうかもしれない。なんとか切り抜けられないだろうか。しかし男はそんなナマエの心の動きを呼んだかのように、拳銃を取り出すと銃口を向けた。
「変な気は起こさないでくれ。殺すなと言われているが、怪我をさせるなとは言われていないからな」
男は長い睫毛の目元で、じっとナマエを眺めている。それは彼の発言がハッタリではない事を物語っていて、ナマエは冷汗を感じながら微かに頷くと、男に促されるまま外へ出た。
男は三島と名乗った。彼は何のために歩き回っているのかについては説明しなかったので、ナマエは訳も分からず足を進める。やがて彼は足を止めると、物陰に隠れて双眼鏡を覗き込んだ。何かを探しているような素振りに嫌な予感がしたが、それは遠くの方に見えた尾形と二階堂の姿で現実となってしまった。この三島という兵士は、脱走した兵士二人を見張っていたのだ。尾形も二階堂も気づいている素振りを見せなかったので、今すぐ叫び出したい衝動に駆られる。大きく息を吸い込んだ瞬間、三島の手が勢いよくナマエの口元を塞いだ。余計な事をするな、というような目でナマエを見ると、再び監視の目を尾形に戻す。
目を凝らすと、二階堂は開けた場所の薪に手をかざし、尾形は少し離れた物陰から銃を構えている。しんと静かだった。しかし、突如空気を裂くような叫び声が上がって、ナマエは息を飲む。とてつもなく大きな生き物が、二階堂に襲いかかっている。
「羆だ……」
三島も驚いたように呟くと、その様子を凝視している。ナマエは生きた心地がしなかったが、尾形が撃ったらしい銃声が響き、羆は熊笹の向こうへ退散して行った。しかしほっと胸をなでおろしたのも束の間、もう一発の銃弾が尾形に当たったのが見えて、ナマエは頭が真っ白になった。
来い、と三島に引っ張られるように移動すると、汚れた毛布を肩にかけた体格の良い兵士が立っている。谷垣、と呼ばれたその男と三島は何か会話しているが、ナマエは水に包まれているかのように、彼らの言葉がぼんやりとしか聞こえなかった。
「ナマエッ!走れッ」
尾形の声に名前を呼ばれて顔を上げるのと、横に立っていた三島から鮮血が噴き出したのとは、ほぼ同時であった。ナマエは絶句したが、走らなければ、と本能に訴えるように強烈な危機感が体を突き動かして、転がるように声のした方へと向かう。銃を構えた尾形の懐へ飛び込むようにすると、彼の腕がナマエを支えた。
「留守番もできんのか、お前は」
尾形はそう言うと、谷垣を撃つべく銃を構えたが、パァンと木が弾けるような音がして視線を素早く動かす。その先には鶴見中尉率いる数名の兵士達が見え、ナマエは絶望したくなった。尾形は勢いよくナマエを地面に伏せさせると、自らも這うようにして銃弾を避ける。
「早いな、勘が良すぎる……さっさとずらかるぞ」
あっという間に追っ手の兵士が追いつき、発砲音が何度も響き渡る。その時、突き飛ばされたような衝撃があってよろめくが、なりふり構わず足を動かす。尾形も応戦して彼らの足を止めると、ナマエの右腕を掴むようにして走った。息が切れ、呼吸が苦しい。ふと鋭い痛みを左腕に感じて視線を落とすと、着物に赤いしみが滲んでる。ナマエは咄嗟に尾形の手を振りほどいてそこを抑えたが、生暖かい血が流れ出るのを感じた。
「弾がかすったか……そのまま抑えてろ。もう少し距離を稼いだら止血する」
尾形は慌ただしく視線を後方にやってから言った。足止めが功を奏して、誰も追ってくる気配はない。頭が朦朧とするし、足がもつれそうだ。それでもナマエは走った。肩に腕を回し、ナマエを庇うようにしながら走る尾形の体温だけを頼りに、必死に足を進めた。
♢
尾形は背後を警戒するようにしながら立ち止まると、岩場の陰を見つけてナマエを座らせた。彼は素早くナマエの左腕の着物をたくし上げると、傷を確認する。そして軍服の上衣左側にある内ポケットに手を入れると、小さな茶色い包みを取り出して開封した。中には白いガーゼや包帯が入っていて、簡易的な医療セットのような物なのだろう。尾形は傷口にガーゼを何枚か乗せると、入っていた三角巾できつく縛ってから着物の袖を元通りにした。
「これで良いだろ。出血はしていたが死ぬ程じゃない。少し休んだら出るぞ。少しでも距離を稼いだ方がいい」
手当を受けたことで、少し気持ちがおちつく。ナマエは尾形から水筒の水を一口もらうと、ふらりと立ち上がった。
「逃げましょう、尾形さん。ここでじっとしている方が、恐ろしいので」
ナマエが青ざめた顔で言うと、尾形は黙って頷いた。行くぞ、と言うとナマエの右腕を引っ張るようにして足を進める。どれくらい歩いたのだろう。時間や距離感がもうよく分からない。歩く事だけを考えて、ひたすら大地を踏みしめていると、尾形が立ち止まった。
顔を上げてみると、まばらになってきた木々の間から街らしきものが見えた。
「街だ。まずは医者に行って、そのあと宿を探すぞ」
ナマエは街の気配に心から安堵して、再び歩き始めた。