四話
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昼食は、ナマエの希望で西洋料理店でカレーライスを食べた。
尾形は黙々と食べていたが、ナマエはひさしぶりの洋食に舌鼓を打つ。
美味しい美味しい、と言って食べる彼女を見ていると、鳥を撃って喜ぶ柊子を思い出す。
すると女がまごまごし始めたかと思うと、口を開いた。
「……あの。さっき言ってた、娶るっていうのは…」
ナマエが言い終わらないうちに、尾形は氷柱のように冷たい目で彼女を見る。
「あ?方便に決まってんだろ」
ですよね…とナマエは愛想笑いをすると、食事に戻った。
尾形は基本的に黙ったままなので、自分の失言の後では気まずい。
「……あの、私、あれからどうやったら元の時代に戻れるかについて考えたんですけど」
そのままの空気の中、食事が終わってからナマエが切り出すと、尾形は おい、と言って彼女の言葉を遮った。
「そういう話をペラペラ喋るんじゃねえ。人気のないところでにしろ」
「すいません…」
「……この後に茶屋にでも行くか」
茶屋、と聞いて、ナマエは今で言うカフェのようなところを想像した。
確かに甘いものも食べたいし、名案だと思ったのですぐに頷いた。
「いいですね!私も行きたいです」
その言葉に尾形は変なものでも見るような顔をした後、にやにやと笑う。
その顔が気になったが、二人は店を後にした。
「待合茶屋?って、ずいぶんひっそりとした感じなんですね」
「そりゃあな」
大通りから外れて、なんだか少し暗い雰囲気の狭い路地の方に入る。
ナマエはキョロキョロしながら歩いていると、尾形にたしなめられる。
「もっとしおらしくできんのか。服装だけ取り繕ってもそれじゃあな」
しおらしくしろ、なんて現代で言う人はなかなかいないだろう。
やっぱりこの人は明治の男なんだなぁと、ナマエは妙なところで感慨深くなった。
「返事しろ」
「あっ、はい」
「全くお前は……それでよく宿でもやってけてるな」
「まあ、確かに変わり者扱いされてるような感じはしますけど、なんとかなってます」
尾形は へえ、と相槌を打つと立ち止まった。
普通の日本家屋で、特に看板やメニューなどは出されていない。
ナマエは不思議に思ったが、尾形はさっさと入っていったのでそれに続くと、二階に通されて小さな部屋に案内される。
尾形は外套を脱ぐと衣紋掛けにかけた。
布団やら、鏡台やらが一通り揃っていて、ナマエは徐々にこの場所の用途を理解し始めた。
障子越しに日光が入ってくるが、外よりも薄暗い。
その中で見る尾形は、青白い肌が妙に際立って見えた。
軍服の袖から覗く手の甲や、詰襟から見える首筋は、なんだか扇情的なものがあるように思われて、ナマエは目を逸らした。
「あの……尾形さん、茶屋ってもしかして」
男女が密室で会う為のアレですよね?とは言えなかった。
尾形はものすごく楽しげににやにやしながら、ナマエを見る。
「ようやくわかったか?早くこっちに座れよ」
随分積極的だったもんなあ?と、軍帽をとった尾形は意地悪い笑顔を浮かべて言うので、ナマエは離れたところにそろりと座った。
古く、湿った畳の感触。
「待合茶屋がこういうところだって知らなかったんですよ。知ってたらさすがに行きたいなんて言いません」
戦争帰りの屈強な男に組み伏せられたらひとたまりもないので距離をとってみるが、あまり意味はなかった。
尾形は手を伸ばすとナマエを引っ張って隣に座らせる。
普段武器を扱っている彼の掌は力強かった。
「それは残念だな。そろそろ俺に抱かれる気になったかと思ったが」
黒い瞳でじっと見つめながら言う。
そう言われて先日のやり取りを思い出すと、ナマエは顔が赤らむのを感じて目を逸らした。
そんな彼女をちらりと見やると、尾形はふっと息を吐くようにして笑う。
「安心しろよ。お前みたいなガサツな女は勘弁だ。……で、さっき言ってた戻る方法ってのを話してみろよ」
ナマエは彼がこの場所を選択した理由に合点がいった。
男女二人、密室で不自然ではない場所というと、確かにこのような施設は便利だ。
それならそうと言えばいいのに、口下手というか回りくどい。
配慮を素直に表現できないのだろう、損をするタイプだなぁとナマエは思った。
「ええと、思い返してみたんですが、小樽の森の中でこの時代に迷い込んでしまったんです。だから迷ってしまった辺りにもう一度行ってみる価値はあると思うんです。だから尾形さん、今度一緒に来てもらってもいいですか」
「……あの山の中か。あの辺りには、俺も用事がある。……俺の言う事に必ず従うなら、連れて行ってやらんこともない」
何の用ですか、とは聞けなかった。
この人に深入りするのは危険だと、ナマエの勘は言っていた。
「そうなんですか。分かりました。私はこんなですし、尾形さんに従うしかないですから安心して下さい」
そう返事をすると、尾形はククッと喉の奥で笑ってナマエを見る。
「必ず従う、だぞ。そんな安請け合いをしていいのか」
彼は暗い目をして言ったので、ナマエはなんだか背中がすっと冷たくなるような気がしたが、頷いてみせた。
「……いいですよ。私は尾形さんのこと、結構いい人だと思ってますから」
尾形はおずおずと答えたナマエをじっと眺める。
この女は、きっと人を殺したこともなければ、人が死ぬ場面すら見たことがないのだろう。
祝福され、望まれた人生を送ってきたのだろう。
でなければ、こんな風に笑ったり、言葉をかけたり出来ないはずだ。
彼の脳裏には、白い歯を覗かせて陽だまりのように笑う弟が蘇った。
それは残酷な微笑みで、その屈託のない明るさに、自分が責められているような気さえしたのだった。
俺がこういう人間だと知ったら、この女は同じ言葉を吐けるのだろうか。
今までの人生ですれ違って来た人間と同じように、俺を拒否するのだろうか。
あるいは、違う結果をもたらすのか。
この女を試したい。俺をどう受け止めるのか知りたい。
この女がどうなるのか見てみたい。
だから尾形は、ナマエの「元いた場所に戻りたい」という希望に添うつもりは更々無いのだった。
「その言葉、忘れるなよ」
尾形が呟くように言うと、ナマエは再び頷く。
二人はしばらく黙っていたので部屋の中はしんとしていたが、その静寂を破ったのはナマエのひっそりとした声だった。
「……尾形さん、来てくれて良かった」
彼はちらりとナマエを見やった。
畳に視線を落とし、一点を見つめるようにしている。
「……宿でも上手くやってるみたいじゃねぇか。別に俺が来なくても、どうと言うことはないだろ」
言いながら尾形は、なんとなくつまらない気持ちになった。
「…そんな訳ないです。ずっと不安でした。このまま尾形さんに会えなくて、本当の私を知る人が誰もいなくなったらどうしようと思って。すごく怖かった。尾形さんは、私の灯台みたいなものです。どんなに真っ暗でも、尾形さんがいれば、私は自分を見失わなくて済む」
最後の方は、少し声が震えた。
ナマエは堪えていたが、やがて涙の雫がぼたっと彼女の膝に落ちた。
関わった女が泣くところは何度も見たことがあるが、こんなにも切々とした涙は見たことがなかった。
……いや、過去に一度だけある。
柊子だ。柊子も確か、こんな風に泣いていた。
尾形はゆっくりと腕を上げた。
軍服の衣擦れの音が響いて、皮が厚くざらついた指がナマエの頬に触れた。
涙に濡れた彼女の頬は、何が異物のように柔らかだった。
「泣くな」
この俺が灯台とはな。お前にとって真逆の存在かもしれないのに、馬鹿な女だ。
そんな言葉は飲み込んで、彼は親指でナマエの涙を拭った。
何か言葉を発しようと、息を吸い込んだ彼女の唇を尾形は塞いだ。
ナマエは身を硬くして、彫刻のように動かない。
離れぎわに、彼女の唇を舌でなぞるようにする。
ナマエは硬い表情で尾形を見返していたが、やがて口を開いた。
「柊子さんのことを考えてますか」
さぁな、と尾形は答えると、冷たさを感じる笑みを口元に浮かべた。
尾形は黙々と食べていたが、ナマエはひさしぶりの洋食に舌鼓を打つ。
美味しい美味しい、と言って食べる彼女を見ていると、鳥を撃って喜ぶ柊子を思い出す。
すると女がまごまごし始めたかと思うと、口を開いた。
「……あの。さっき言ってた、娶るっていうのは…」
ナマエが言い終わらないうちに、尾形は氷柱のように冷たい目で彼女を見る。
「あ?方便に決まってんだろ」
ですよね…とナマエは愛想笑いをすると、食事に戻った。
尾形は基本的に黙ったままなので、自分の失言の後では気まずい。
「……あの、私、あれからどうやったら元の時代に戻れるかについて考えたんですけど」
そのままの空気の中、食事が終わってからナマエが切り出すと、尾形は おい、と言って彼女の言葉を遮った。
「そういう話をペラペラ喋るんじゃねえ。人気のないところでにしろ」
「すいません…」
「……この後に茶屋にでも行くか」
茶屋、と聞いて、ナマエは今で言うカフェのようなところを想像した。
確かに甘いものも食べたいし、名案だと思ったのですぐに頷いた。
「いいですね!私も行きたいです」
その言葉に尾形は変なものでも見るような顔をした後、にやにやと笑う。
その顔が気になったが、二人は店を後にした。
「待合茶屋?って、ずいぶんひっそりとした感じなんですね」
「そりゃあな」
大通りから外れて、なんだか少し暗い雰囲気の狭い路地の方に入る。
ナマエはキョロキョロしながら歩いていると、尾形にたしなめられる。
「もっとしおらしくできんのか。服装だけ取り繕ってもそれじゃあな」
しおらしくしろ、なんて現代で言う人はなかなかいないだろう。
やっぱりこの人は明治の男なんだなぁと、ナマエは妙なところで感慨深くなった。
「返事しろ」
「あっ、はい」
「全くお前は……それでよく宿でもやってけてるな」
「まあ、確かに変わり者扱いされてるような感じはしますけど、なんとかなってます」
尾形は へえ、と相槌を打つと立ち止まった。
普通の日本家屋で、特に看板やメニューなどは出されていない。
ナマエは不思議に思ったが、尾形はさっさと入っていったのでそれに続くと、二階に通されて小さな部屋に案内される。
尾形は外套を脱ぐと衣紋掛けにかけた。
布団やら、鏡台やらが一通り揃っていて、ナマエは徐々にこの場所の用途を理解し始めた。
障子越しに日光が入ってくるが、外よりも薄暗い。
その中で見る尾形は、青白い肌が妙に際立って見えた。
軍服の袖から覗く手の甲や、詰襟から見える首筋は、なんだか扇情的なものがあるように思われて、ナマエは目を逸らした。
「あの……尾形さん、茶屋ってもしかして」
男女が密室で会う為のアレですよね?とは言えなかった。
尾形はものすごく楽しげににやにやしながら、ナマエを見る。
「ようやくわかったか?早くこっちに座れよ」
随分積極的だったもんなあ?と、軍帽をとった尾形は意地悪い笑顔を浮かべて言うので、ナマエは離れたところにそろりと座った。
古く、湿った畳の感触。
「待合茶屋がこういうところだって知らなかったんですよ。知ってたらさすがに行きたいなんて言いません」
戦争帰りの屈強な男に組み伏せられたらひとたまりもないので距離をとってみるが、あまり意味はなかった。
尾形は手を伸ばすとナマエを引っ張って隣に座らせる。
普段武器を扱っている彼の掌は力強かった。
「それは残念だな。そろそろ俺に抱かれる気になったかと思ったが」
黒い瞳でじっと見つめながら言う。
そう言われて先日のやり取りを思い出すと、ナマエは顔が赤らむのを感じて目を逸らした。
そんな彼女をちらりと見やると、尾形はふっと息を吐くようにして笑う。
「安心しろよ。お前みたいなガサツな女は勘弁だ。……で、さっき言ってた戻る方法ってのを話してみろよ」
ナマエは彼がこの場所を選択した理由に合点がいった。
男女二人、密室で不自然ではない場所というと、確かにこのような施設は便利だ。
それならそうと言えばいいのに、口下手というか回りくどい。
配慮を素直に表現できないのだろう、損をするタイプだなぁとナマエは思った。
「ええと、思い返してみたんですが、小樽の森の中でこの時代に迷い込んでしまったんです。だから迷ってしまった辺りにもう一度行ってみる価値はあると思うんです。だから尾形さん、今度一緒に来てもらってもいいですか」
「……あの山の中か。あの辺りには、俺も用事がある。……俺の言う事に必ず従うなら、連れて行ってやらんこともない」
何の用ですか、とは聞けなかった。
この人に深入りするのは危険だと、ナマエの勘は言っていた。
「そうなんですか。分かりました。私はこんなですし、尾形さんに従うしかないですから安心して下さい」
そう返事をすると、尾形はククッと喉の奥で笑ってナマエを見る。
「必ず従う、だぞ。そんな安請け合いをしていいのか」
彼は暗い目をして言ったので、ナマエはなんだか背中がすっと冷たくなるような気がしたが、頷いてみせた。
「……いいですよ。私は尾形さんのこと、結構いい人だと思ってますから」
尾形はおずおずと答えたナマエをじっと眺める。
この女は、きっと人を殺したこともなければ、人が死ぬ場面すら見たことがないのだろう。
祝福され、望まれた人生を送ってきたのだろう。
でなければ、こんな風に笑ったり、言葉をかけたり出来ないはずだ。
彼の脳裏には、白い歯を覗かせて陽だまりのように笑う弟が蘇った。
それは残酷な微笑みで、その屈託のない明るさに、自分が責められているような気さえしたのだった。
俺がこういう人間だと知ったら、この女は同じ言葉を吐けるのだろうか。
今までの人生ですれ違って来た人間と同じように、俺を拒否するのだろうか。
あるいは、違う結果をもたらすのか。
この女を試したい。俺をどう受け止めるのか知りたい。
この女がどうなるのか見てみたい。
だから尾形は、ナマエの「元いた場所に戻りたい」という希望に添うつもりは更々無いのだった。
「その言葉、忘れるなよ」
尾形が呟くように言うと、ナマエは再び頷く。
二人はしばらく黙っていたので部屋の中はしんとしていたが、その静寂を破ったのはナマエのひっそりとした声だった。
「……尾形さん、来てくれて良かった」
彼はちらりとナマエを見やった。
畳に視線を落とし、一点を見つめるようにしている。
「……宿でも上手くやってるみたいじゃねぇか。別に俺が来なくても、どうと言うことはないだろ」
言いながら尾形は、なんとなくつまらない気持ちになった。
「…そんな訳ないです。ずっと不安でした。このまま尾形さんに会えなくて、本当の私を知る人が誰もいなくなったらどうしようと思って。すごく怖かった。尾形さんは、私の灯台みたいなものです。どんなに真っ暗でも、尾形さんがいれば、私は自分を見失わなくて済む」
最後の方は、少し声が震えた。
ナマエは堪えていたが、やがて涙の雫がぼたっと彼女の膝に落ちた。
関わった女が泣くところは何度も見たことがあるが、こんなにも切々とした涙は見たことがなかった。
……いや、過去に一度だけある。
柊子だ。柊子も確か、こんな風に泣いていた。
尾形はゆっくりと腕を上げた。
軍服の衣擦れの音が響いて、皮が厚くざらついた指がナマエの頬に触れた。
涙に濡れた彼女の頬は、何が異物のように柔らかだった。
「泣くな」
この俺が灯台とはな。お前にとって真逆の存在かもしれないのに、馬鹿な女だ。
そんな言葉は飲み込んで、彼は親指でナマエの涙を拭った。
何か言葉を発しようと、息を吸い込んだ彼女の唇を尾形は塞いだ。
ナマエは身を硬くして、彫刻のように動かない。
離れぎわに、彼女の唇を舌でなぞるようにする。
ナマエは硬い表情で尾形を見返していたが、やがて口を開いた。
「柊子さんのことを考えてますか」
さぁな、と尾形は答えると、冷たさを感じる笑みを口元に浮かべた。