雪が降る
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休日の午前10時。私は時計を見やったあと、リビングを出て寝室へ向かう。廊下は真冬らしく冷え冷えとしていて、思わず小さく さむ、と呟いた。ニュースで言っていたが、夕方から雪が降るらしい。ガチャリと扉を開けると、カーテンを閉め切った薄暗い部屋のベッドの中で、うずくまっている恋人、尾形百之助の姿が見えた。布団にすっぽりくるまっているので、枕の上にかかる黒髪がのぞくばかりだ。私はベッドサイドへ近寄ると、羽毛布団の上に手を添える。
「……ナマエ」
「もう10時過ぎてるよ」
尾形は眠たそうな目を、布団から覗かせてこちらをしばらく見つめていたが、寝返りをうつと再び羽毛布団を引き上げる。
「……まだ眠い。寒い」
「リビング温めてあるよ」
休日の尾形はいつもこうで、冬になると寒さを理由にますます起きて来なくなる。私と付き合う前に一人だった頃は、昼過ぎまで眠り食事も気が向いた時にしか摂らないような生活をしていたらしい。なんというか、人間らしい生活というものに興味が薄く、そうした能力が希薄な男なのだ。そんな尾形が関心を持って取り組んでいるのは仕事で、それに纏わることには神経質なまでに気を配っている。スーツや靴に始まり、使う小物ひとつとっても機能性や耐久性を追求して選び抜いたものだし、日々の仕事ぶりも一切の無駄がない。人間関係も非常にドライで敵も多いが、鶴見部長には目をかけられているので、要領良く立ち回っているのだった。(尤も、そんな所が気に食わないと鯉登くんや宇佐美からは嫌われているのだが)
尾形は、社内で女性から人気があった。プライドの高さは滲み出ているものの、それに見合う能力があったし、他人を褒めない分悪口も言わなかった。無愛想だけれどごく稀に笑うときもあって、そのギャップに心を掴まれる女子社員は結構いたのだ。各部署に一人は尾形の女がいる、とまことしやかに噂されるくらいで、私は正直、彼のことが少し苦手だった。いつも不機嫌そうで少し怖かったし、なんとなく私のような女は好まないイメージがあった。特にミスを指摘する時は嫌味ったらしいので、私は細心の注意を払って業務にあたるようになったが、お陰で社内の評価も上がったのでそこは感謝しなくてはなるまい。
そんな尾形に対し恋愛感情を持つきっかけになったのは、去年のある冬の日、開催された職場の飲み会で鍋を食べたときだった。尾形を飲み会で見かけても親しく話したことはなかったのだが、その日彼は偶然私の隣へ座った。私は逃げたくなった。尾形を狙っている先輩から嫌味を言われるのも面倒だし、なによりこの男と用事がある時以外に会話したことがなかった。遠くの席にいる三島くんや谷垣たちのテーブルを羨ましく思いながらも、私は目の前のグツグツと煮える鍋を見やった。
「……最近冷えてきましたね。鍋が美味しいですよね」
沈黙に耐えかねてそう言うと、尾形は私の方を向いて そうだな、と答えた。黒い瞳にじっと見つめられて、私は思わず目を逸らす。
「……もう煮えてきましたね。取ります」
たまたま私の近くに取り皿とお玉が配置してあったので、それらを手に取ると湯気が立つ鍋をよそう。白菜、鶏肉、大根……と溢れないように気をつけながら作業していると、「ちょっと待て」と止められた。
「それは入れなくていい」
不思議に思って鍋に入れたお玉見ると、椎茸がぷかぷかと浮いている。肉厚で美味しそうなそれを、尾形は入れるなと言っているらしい。
「え?椎茸……嫌いなんですか?」
尾形は無言で頷いて答えた。なんだか幼く見える振る舞いに、少し笑ってしまいそうになったが堪えると、彼の希望通りに椎茸抜きの小皿を渡す。熱いのかハフハフと鍋を食べている尾形の横顔を、私はこっそりと眺めた。この人はこんなふうにご飯を食べるのか。お箸の持ち方、綺麗だな。嫌いな食べ物があるなんて意外。じゃあ、好物は何だろう。普段は何を食べているのかな。……………
私はあの鍋の一件から、尾形という人物に興味を持つようになっていた。彼がフロアに入って来れば気がつくようになったし、話す機会があると気持ちが浮き立つ。そのうち朝に実は眠たげにしていることや、木曜日は水色のシャツを着ていることなんかを知った。なにより一番の発見だったのは、彼が飲み会に参加するのは私がいるときだけだと言うことだった。最初は気のせいかと思ったが、どう考えても私の出席率と被っている。しかしそれを面と向かって聞く勇気は無かったし、私たちは特に仲が縮まると言った事もなかった。ただ、私は尾形の姿を発見するとちらりと見ずにはいられなくなっていて、それが恋愛感情だと自覚したときは思わずため息が出た。あの男はこうやって、周りの女性を惹きつけているのだろう。私もその一部になっただけの事だ。
そんな悶々とした日々を過ごすうち、寒さが厳しくなってマフラーや手袋が手放せない気候が続く。今日は一段と冷え込んで、朝のニュースで雪になるかもしれないとアナウンサーが言っていたのを思い出した。夕方のオフィスの窓から外を見ると、葉を落とした街路樹が寒々と立っている。こんな日に限って残業になりそうで、私は気が滅入るのを感じながらPCのモニターを見た。やがて一人また一人と退社していき、オフィスには私一人が残される。ああ、早く帰りたい。早くオフィスを出たい一心で作業をし、その甲斐あって終わりが見えてきた頃、足音が近づいたので顔を上げると、思いがけない人物がこちらを無表情に眺めていた。気がつけば窓の外は夜になっている。
「尾形さん」
「まだかかってんのか」
尾形さんはそう言いながら、缶に入ったドリンクを私のデスクに置いた。廊下にある自販機の、私が好んで飲んでいる商品だ。
「もう終わります。あの、頂いていいんですか?……これ、よく飲むんです」
「知ってる」
尾形はボソッと言うと、自身はブラックの缶コーヒーを空けて一口飲んだ。なんだか顔が火照るのを感じて、尾形の方をまともに見ることが出来ない。私は 頂きます、と言ってからプルトップを開けて、一口飲み込む。お気に入りのドリンクの味が疲れた脳に嬉しい。頑張ろう、と活力が湧いたような気がして、静かなオフィスにタイピングの音が響いた。尾形は私の横の椅子に腰掛けると、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。
「……終わったか」
「はい、ようやく。あの、飲み物ありがとうございます」
「別に良い」
尾形はそう言うと椅子から立ち上がり、コートやマフラーを身につけてから私を見た。その様子で私の支度が終わるのを待っているのだと分かり、急いで荷物を仕舞ったりマフラーを巻いたりする。なぜ彼がここにいて、私と会社を出ようとしているのかよく分からないが、先程までの憂鬱は何処へやら、残業して良かったと感じる。
「雪だな」
外に出てから、尾形の声で空を見上げると、ひらひらと雪が舞い降りていた。道路は薄らと白くなり、空気は冷蔵庫の中のように冷たい。
「やっぱり降りましたね。早く帰らないと」
「予定でもあるのか」
「いえ違いますけど、積もると帰るの大変ですし」
「……一杯飲みに行こう」
脈絡のない言葉に、私は 今からですか?と聞き返した。この会話の流れでなぜそうなるのか不思議だったが、尾形は本気で言っているらしい。彼の黒い瞳は、有無を言わさないような雰囲気があった。
「タクシー乗れば良いだろ」
いやいやタクシーって……、と私の頭は判断したが、心はそれを無視するとすでに動き出していた。いいですよ、行きましょう。私がそう答えると、尾形はしんしんとした雪の中を歩き始める。私はその少し後ろから、黒いコートを着込んだ背中や鞄を持つ手なんかを眺めた。
「……ナマエ」
「もう10時過ぎてるよ」
尾形は眠たそうな目を、布団から覗かせてこちらをしばらく見つめていたが、寝返りをうつと再び羽毛布団を引き上げる。
「……まだ眠い。寒い」
「リビング温めてあるよ」
休日の尾形はいつもこうで、冬になると寒さを理由にますます起きて来なくなる。私と付き合う前に一人だった頃は、昼過ぎまで眠り食事も気が向いた時にしか摂らないような生活をしていたらしい。なんというか、人間らしい生活というものに興味が薄く、そうした能力が希薄な男なのだ。そんな尾形が関心を持って取り組んでいるのは仕事で、それに纏わることには神経質なまでに気を配っている。スーツや靴に始まり、使う小物ひとつとっても機能性や耐久性を追求して選び抜いたものだし、日々の仕事ぶりも一切の無駄がない。人間関係も非常にドライで敵も多いが、鶴見部長には目をかけられているので、要領良く立ち回っているのだった。(尤も、そんな所が気に食わないと鯉登くんや宇佐美からは嫌われているのだが)
尾形は、社内で女性から人気があった。プライドの高さは滲み出ているものの、それに見合う能力があったし、他人を褒めない分悪口も言わなかった。無愛想だけれどごく稀に笑うときもあって、そのギャップに心を掴まれる女子社員は結構いたのだ。各部署に一人は尾形の女がいる、とまことしやかに噂されるくらいで、私は正直、彼のことが少し苦手だった。いつも不機嫌そうで少し怖かったし、なんとなく私のような女は好まないイメージがあった。特にミスを指摘する時は嫌味ったらしいので、私は細心の注意を払って業務にあたるようになったが、お陰で社内の評価も上がったのでそこは感謝しなくてはなるまい。
そんな尾形に対し恋愛感情を持つきっかけになったのは、去年のある冬の日、開催された職場の飲み会で鍋を食べたときだった。尾形を飲み会で見かけても親しく話したことはなかったのだが、その日彼は偶然私の隣へ座った。私は逃げたくなった。尾形を狙っている先輩から嫌味を言われるのも面倒だし、なによりこの男と用事がある時以外に会話したことがなかった。遠くの席にいる三島くんや谷垣たちのテーブルを羨ましく思いながらも、私は目の前のグツグツと煮える鍋を見やった。
「……最近冷えてきましたね。鍋が美味しいですよね」
沈黙に耐えかねてそう言うと、尾形は私の方を向いて そうだな、と答えた。黒い瞳にじっと見つめられて、私は思わず目を逸らす。
「……もう煮えてきましたね。取ります」
たまたま私の近くに取り皿とお玉が配置してあったので、それらを手に取ると湯気が立つ鍋をよそう。白菜、鶏肉、大根……と溢れないように気をつけながら作業していると、「ちょっと待て」と止められた。
「それは入れなくていい」
不思議に思って鍋に入れたお玉見ると、椎茸がぷかぷかと浮いている。肉厚で美味しそうなそれを、尾形は入れるなと言っているらしい。
「え?椎茸……嫌いなんですか?」
尾形は無言で頷いて答えた。なんだか幼く見える振る舞いに、少し笑ってしまいそうになったが堪えると、彼の希望通りに椎茸抜きの小皿を渡す。熱いのかハフハフと鍋を食べている尾形の横顔を、私はこっそりと眺めた。この人はこんなふうにご飯を食べるのか。お箸の持ち方、綺麗だな。嫌いな食べ物があるなんて意外。じゃあ、好物は何だろう。普段は何を食べているのかな。……………
私はあの鍋の一件から、尾形という人物に興味を持つようになっていた。彼がフロアに入って来れば気がつくようになったし、話す機会があると気持ちが浮き立つ。そのうち朝に実は眠たげにしていることや、木曜日は水色のシャツを着ていることなんかを知った。なにより一番の発見だったのは、彼が飲み会に参加するのは私がいるときだけだと言うことだった。最初は気のせいかと思ったが、どう考えても私の出席率と被っている。しかしそれを面と向かって聞く勇気は無かったし、私たちは特に仲が縮まると言った事もなかった。ただ、私は尾形の姿を発見するとちらりと見ずにはいられなくなっていて、それが恋愛感情だと自覚したときは思わずため息が出た。あの男はこうやって、周りの女性を惹きつけているのだろう。私もその一部になっただけの事だ。
そんな悶々とした日々を過ごすうち、寒さが厳しくなってマフラーや手袋が手放せない気候が続く。今日は一段と冷え込んで、朝のニュースで雪になるかもしれないとアナウンサーが言っていたのを思い出した。夕方のオフィスの窓から外を見ると、葉を落とした街路樹が寒々と立っている。こんな日に限って残業になりそうで、私は気が滅入るのを感じながらPCのモニターを見た。やがて一人また一人と退社していき、オフィスには私一人が残される。ああ、早く帰りたい。早くオフィスを出たい一心で作業をし、その甲斐あって終わりが見えてきた頃、足音が近づいたので顔を上げると、思いがけない人物がこちらを無表情に眺めていた。気がつけば窓の外は夜になっている。
「尾形さん」
「まだかかってんのか」
尾形さんはそう言いながら、缶に入ったドリンクを私のデスクに置いた。廊下にある自販機の、私が好んで飲んでいる商品だ。
「もう終わります。あの、頂いていいんですか?……これ、よく飲むんです」
「知ってる」
尾形はボソッと言うと、自身はブラックの缶コーヒーを空けて一口飲んだ。なんだか顔が火照るのを感じて、尾形の方をまともに見ることが出来ない。私は 頂きます、と言ってからプルトップを開けて、一口飲み込む。お気に入りのドリンクの味が疲れた脳に嬉しい。頑張ろう、と活力が湧いたような気がして、静かなオフィスにタイピングの音が響いた。尾形は私の横の椅子に腰掛けると、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる。
「……終わったか」
「はい、ようやく。あの、飲み物ありがとうございます」
「別に良い」
尾形はそう言うと椅子から立ち上がり、コートやマフラーを身につけてから私を見た。その様子で私の支度が終わるのを待っているのだと分かり、急いで荷物を仕舞ったりマフラーを巻いたりする。なぜ彼がここにいて、私と会社を出ようとしているのかよく分からないが、先程までの憂鬱は何処へやら、残業して良かったと感じる。
「雪だな」
外に出てから、尾形の声で空を見上げると、ひらひらと雪が舞い降りていた。道路は薄らと白くなり、空気は冷蔵庫の中のように冷たい。
「やっぱり降りましたね。早く帰らないと」
「予定でもあるのか」
「いえ違いますけど、積もると帰るの大変ですし」
「……一杯飲みに行こう」
脈絡のない言葉に、私は 今からですか?と聞き返した。この会話の流れでなぜそうなるのか不思議だったが、尾形は本気で言っているらしい。彼の黒い瞳は、有無を言わさないような雰囲気があった。
「タクシー乗れば良いだろ」
いやいやタクシーって……、と私の頭は判断したが、心はそれを無視するとすでに動き出していた。いいですよ、行きましょう。私がそう答えると、尾形はしんしんとした雪の中を歩き始める。私はその少し後ろから、黒いコートを着込んだ背中や鞄を持つ手なんかを眺めた。
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